ジャン・クライン『われ在り』

準備中 二十世紀フランスの二大霊的指導者の一人、ジャン・クライン(1912-1998)。(もう一人はアルノー・デジャルダンである。)妻子のある医師であり音楽家でもあったが、思うところがあり1950年代に一人インドを旅し、奇跡的な経緯で伝統的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)と、カシミール地方に古代から連綿と伝わるシヴァ派(ヒンドゥー教の宗派の一つ)のヨーガを会得した。帰国後は広く欧米にその教えをもたらし、パリ五月革命に代表される価値観の転換にも寄与したと言え、後継者としてフランシス・ルシールエリック・バレを残した。

(まだ日本語に翻訳されていないが、ギリシャで行われた講演の記録である Open to the Unknown もよい。)

中村天風の心身統一法

『幸福なる人生』

現在、目の前に立って教えを授けている人間に対しても、自分の心の中でもって、壁をつくっちまうからいけないんだ。私とあなた方と大した差はありゃしないぜ。ただ、ここに立っているか、そっちに座っているかだけなの。

天風会(初期の名称は統一哲医学会)は1919年に成立しているが、本書に収められている講演はすべて戦後のもので、中村天風(1876-1968)が命を捧げて作り上げた「心身統一法」の基本原理が読みやすくまとめられている。人間は誰でも、「病」「煩悶」「貧乏」と自ら縁を切り、幸せになる力を与えられていると言う。ただし、ただ期待して待っているだけでは誰も物にはならない。「観念要素の更改」「積極精神の養成」「神経反射の調節」と言い方はやや古めかしいが、極めて具体的な方法論があり、各方面に実際に物になった人を多数輩出して来た事実こそが、これらの方法に妥当性があることを証明している。敢えて分類するとすれば、伝統的なラージャ・ヨーガから形式的な部分を取り除き、日本人向けに組み立て直した内容と言えるだろう。しかもそれで完成としないで、医学的発見を取り入れつつさらに前進しようとしていた点は特筆に値する。心身統一法は、これからの日本のスピリチュアリティの叩き台であると言いたい。


『真人生の探究』

未だに精神世界では、自説を装飾するために都合の良い学説のみを援用するのが悪しき慣例になっているが、天風は医学・栄養学・哲学・心理学・心霊学など、一つだけ取っても極めるのが困難な学問をいくつも基礎から勉強している。「人間とは何か」「いかに生きるべきか」という根本問題への一つの答えとして総合的に組み立てられた「心身統一法」の基本原則が、百年も前に既に成立していたのには驚くほかない。天風が自ら著した数少ない著作の中で、最も基本と言われているのが本書である。天才の思考プロセスを是非味わってみて欲しい。


『盛大な人生』

天風は禅門の人ではなかったが、禅で言うところの悟りに直入するためのいわゆるダイレクトパスをも説いていた。「安定打坐(あんじょうだざ)」と呼ばれる瞑想法がそれである。宇宙の進歩的方向に貢献しないなら意味がないと考え、悟りそのものをあまり重要視しなかったところはいかにも天風会らしい。ならば、なぜ瞑想する必要があるのか。それは、純一無雑な意識の大元に立ち返り、心を休ませてあげることで、命の本然の力が湧き出るためだと言う。ここまで噛んで含めて説明してくれる指導書は、私が知る限りでは他にない。

森本貴義、近藤拓人『新しい呼吸の教科書』

心身の悩みやトラブルがきっかけとなり精神世界に入門する人の数は多いに違いない。だが、瞑想だとか潜在意識を変えるとか、やたらと(心の操作ですべてを解決できるという)精神論を強調する教えに従って努力したものの、これといった成果を出せないまま何十年も苦しい思いをしている人もありはしないだろうか。それはスポーツの世界で、かつての(服従と忍耐を強要する)根性論が今ではあまり正しくないとされているのと似て、手段がきちんと目的に結び付いていないからという可能性も考え得る。まずは呼吸を改善してみるのはどうだろうか。ストレスの多い現代人は、多くの場合呼吸が乱れているらしい。誰でも最初は(自然な)正しい呼吸をしているが、それを取り戻す必要があるということである。本書は、細胞に届けられる酸素の量を増やすことによって心身の状態を改善できるという事実を、最新の知見を交えて教えてくれる。楽な呼吸をするための姿勢や筋肉を取り戻すエクササイズも紹介されており、基本的に実践中心の内容である。インストラクションをよく読む必要があるが、写真入りなのでイメージはしやすい。ほとんど誰にでもできる基本的な方法から始めて、かなりスポーツをしている人にとってもやり甲斐のあるレベルにまで進んで行く。

バーバラ・マーシニアック『プレアデス+ 地球をひらく鍵』

プレアデス星団からの反逆者集団がチャネラーを通じてメッセージを伝えるという、いわゆるトンデモ本の類いではある。彼らによれば、自分たちの祖先が過去に人類に対して行ったDNA操作の結果、生命の本質が冒涜され、最終的に人間がサイボーグ化された未来の時間軸が存在しているのだと言う。地球はあらゆる生物の設計図のようなものが貯蔵されている12ある図書館のうちの一つで、人間はその情報にアクセスするためのIDカードのようなものであり、それゆえ重要であると言うが、それが具体的に何を意味するのか詳細は語られていない。プレアデス人自身をも含めて、外部からのメッセージを簡単に信用してはいけないとする。なぜなら必要な情報は既に人体に記録されているからとし、それゆえ私たちが自身の中にある情報にアクセスする方法はしっかり語られている。問題は「地球を所有していると思っている」アヌンナキなる高次元の存在たちとゲームをプレイすることによって、私たちが心の内部を覗き込み、すべての本質が愛であることに気付けるかどうかであり、図書館を開く鍵は、地球を我が家として大切に思う気持ちであると言う。古代史からセクシュアリティに至るまで話題は多岐に及び、内容の質は他の追随を許さない。変なことを言うようだが、まずは完全なフィクションとして読むのがいいと思う。それでも、普段のものの考え方にいかに想像力が足りていないかを痛感させられるだろう。歴史学や考古学をやる人には特におすすめ。

ハズラト・イナーヤト・ハーン『音の神秘』

音楽は神への最短かつ最も直接的な道です。しかし人は、音楽とはいかなるものであり、それをどう用いればよいのかを知らなければなりません。

ヴァドーダラー(インド)出身のイスラム教神秘主義(スーフィズム)の大家であるハズラト・イナーヤト・ハーン(1882-1927)の著作集の中で、一番有名な第二巻を全訳したもの。主要テーマは音楽であるが、音楽家のために書かれたわけではなく、一般の人をスーフィズムの世界に招待するといった内容である。著者は主要な宗教すべて(特にヒンドゥー教)に精通しており、これから神秘の道に入って行く人に盤石な基礎を与えてくれる(逆に、イスラム教の歴史や哲学を知りたい人には向いていないと言える)。すべては一つのものから発せられる音色、高さ、長さ、強さ、リズムといった特徴を備えた音(波動)であり、五大元素(地、水、火、空気、エーテル)によって表現され、内的な感覚によって聴かれる現象であると説く。そこから規則正しいリズムの効果や、音と音との協調関係(ハーモニー)という考えが導かれる。文章そのものに調和が取れており美しく、かつ経験に裏打ちされていることが感じられ、大師が(何を意味するのであれ)確かに「完成」の域に到達していたことを窺わせる。一見すると、具体的なメソッドは何も書かれていないようであるが、大師の言葉もまた音楽であり、それを本当に「聴く」努力をし、スーフィーたちの気息に同調するつもりで読んでみると、実はいろいろ方法が指し示されていることが理解される。感受性が磨かれれば、その分だけさらに多くの実りを得られる読書体験になるだろう。

アーノルド・ミンデル『自分さがしの瞑想』

西洋と東洋をどちらもよく理解している人はあまりいない。たまにいても評価されない。正しく評価できる人がいないからである。アーノルド・ミンデル博士の提唱するプロセス指向心理学が、しかるべき評価を受けているとは言い難い理由は、そんなところかも知れない。「動いているスピリット」とも言うべき「プロセス」を信頼することが鍵になるが、このプロセス自体を科学的に定義することがまず困難ではないかと思う。私たちの現在の人格である「一次プロセス」は、未来からのメッセージである「二次プロセス」に常に脅かされているが、多元的な意識の構造とか、プロセス自体が私たちをどこに導こうとしているのかといった難問に、容易に答えは与えられない。そうした基礎理論上の性格はあるものの、この本で明らかにされる瞑想法は、(静座して心の動きを観察するといった)基本をかじったことさえあれば、誰でも十分に理解し実践することができるものである。逆に、瞑想中に(繰り返し)浮上する雑念や妄想を無視することなく、メッセージとして受け取るべし(瞑想したい私が一次プロセスで、入って来る邪魔が二次プロセスで、両者間の葛藤を眺めているのがプロセス自体と言える)と書いてあるので、仏教やヒンドゥー教の瞑想を極めた上級者にはおすすめしづらい。しかし、ここからスタートする恵まれた初心者だけでなく、すでに瞑想に親しんでいる人も、道しるべになり得るヒントを本書の中にたくさん発見できるはずである。

※本書だけではプロセスワークの瞑想法が具体的にイメージできない場合、同著者の『うしろ向きに馬に乗る』(春秋社、1999年)を副読本にするとよい。

アレクサンドル・ジョリアン『人間という仕事』

哲学はたしかに、苦痛が最後の言葉とはならず、苦痛から生の蔑視が生み出されないために、複数の地平線を開くことを可能にしてくれます。

多くの人にとっては当たり前のことが当たり前でない人にとっては、ものごとはまったく違って見える、ということは忘れられがちな事実である。スイス生まれのアレクサンドル・ジョリアンは、脳性運動機能障害というハンデを負いながら、ヨーロッパの伝統的な教育課程において哲学の学士号を取得した正統派である。ヨーロッパの一般的な若者の間では、哲学とは基本的に生活とは無関係であり、上流階級や中高年層が余暇に楽しむものと考えられているらしい。しかし意外と言うべきか、著者にとっての哲学はあくまで実際的な学問なのである。常日頃苦痛を伴うリハビリをすることを余儀なくされ、リハビリを諦めるという選択は半ば自殺と同じ意味を持つという条件の中で、彼にとって生きることは(家族の協力なしでは成り立たない)継続中の闘いであり、自閉し孤立したくなる誘惑に抗って人間に「なる」とは、常に前進し心を高めることである。当然、共感し喜びを見つけることが一番大事な仕事であり、プラトンやスピノザやニーチェは、そのために前に進むことを可能にしてくれる武器や道具を提供してくれる先人である。本書以降の著者は三児の父親になり、西洋哲学の範疇を出て(スワミ・プラジニャーンパッドによる)不二一元論や禅にも出会い、ますます思索を深めている模様である。今現在フランス語圏における気鋭の思想家と言ってよいだろう。

マヘンドラ・グプタ『大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉』

熱心に、真心こめて神に祈りなさい。そうすれば、あの御方は必ずききとどけて下さる。

十九世紀インドの聖人、ラーマクリシュナ(1836-1886)の言行録である。その教えの内容は、ヨーガの四区分(ラージャ、カルマ、バクティ、ジニャーナ)で言えば、バクティ・ヨーガに分類されると思われる。バラモン階級の生まれでありながら、イスラム教にもキリスト教にも自ら入信し、どの道も同じ目的地に到達すると喝破した、目の覚めるような先覚者であった。愛弟子のヴィヴェーカーナンダが、ヨーガ哲学の真髄を初めて欧米に伝えた事実も有名である。「熱心に求めさえすれば、誰でも神を見られる」と、ラーマクリシュナはいとも簡単そうに言う。ほとんどの人は五官の歓びを幻であると観じて捨て去ることができない。しかしラーマクリシュナは、「俗世に染まってしまえば神を見ることはできない」どころか「世間で暮らしていても神を見ることは可能」だとする。ヒンドゥー教の解釈でありがちな、「世を捨てて修行せよ」とか「この世には何の意味も価値もない」などとはまったく言っていない。絶対不動の実在(神)と、多種多様な現象世界の働き(俗世)は、天秤の重さの同じ二つの皿であり、必要なのは(神を恋い慕う)ひたむきな気持ちだけだ言うのである。ラーマクリシュナには、難しい概念を子供でも理解できる譬え話で表現する才能があり、大人は非常に理解し易い。とはいえ、聖人の言葉を無分別に取り入れるのは望ましくない—神にすがれと言うが、実際には人の情けにすがって生きていただけではないか? 聖人ならばどうして病死したのか? 精神文化はともかくとして、インド社会に具体的にどんな貢献をしたのか? もっともな批評である。だが結論を下す前に、まずは本書を一読して欲しい。あらゆる意味で、すべての宗教の本質がここに要約されている。

(この文庫版はベンガル語原典からの抄訳である。全五巻の完訳はブイツーソリューションから刊行されている。)

パラマハンサ・ヨガナンダ『あるヨギの自叙伝』

古来、インド文化の特徴は、究極の真理の探究と、それにともなう霊的師弟関係にある。

アメリカに渡ったインドの聖人、パラマハンサ・ヨガナンダ(1893-1952)の自伝である。すでに名著の誉れ高い本書の内容は説明しないでおこう。師匠であるラヒリ・マハサヤとスリ・ユクテスワに加えて、アーナンダマイー・マー、ラマナ・マハルシ、タゴール、ガンディーといった有名人も登場する。インド哲学は、その歴史的背景から切り離しては理解できないし、切り離そうとするべきでもない。文字通りに受け取れば極端な思想も含まれる『バガヴァッド・ギーター』、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』、シャンカラの『ウパデーシャ・サーハスリー』といった古典に親しむ前に、その実際の適用がどんな風であるかをよく知っておく必要がある。この本には奇跡や超常現象の話が頻出するが、それがインド哲学の本来の姿なのである。ヨガナンダの歩んだ道、すなわち、愛情に恵まれた家庭環境で育ち、神への熱望から道を志し、親切で卓越した霊的教師たちの指導を受け、遂には神人合一を達成する、というのがスピリチュアリティの王道であるべきだと思う。言い換えれば、トラウマを生み出す劣悪な家庭環境で育ち、恐怖や不安から逃れるための方法を探し求め、ニセモノの自称教師たちの悪影響のもと、遂には自らもスピリチュアル詐欺師に成り果てる、というシナリオが世の常であってはならない。精神世界では、まだ自分の経験になっていないことに関しては中庸を貫くという態度を身に付けることが非常に大事なので、分からないことに対して判断を保留できるかどうか自分を試して欲しい。何かいいこと(現世利益)を期待して大師にすがりつくのも、不完全な科学理論を振りかざしてイカサマと決めつけるのもよくない。クリヤ・ヨガを践行しない限り分からない、というわけでもない。姿勢を正される一冊である。

ベッセル・ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する』

高等教育では、心理学は基礎から始めて臨床に進むという順番になっている。だが、心理学に興味を持った一般人は、長い時間をかけて基礎から積み上げるのではなく、心理学が実際どのように役に立つのかを一番先に知る必要がある。そこで手引き書を探すわけだが、あまりに選択肢が多く、なかなか困難である。精神病理学は荷が重すぎるし、かと言って、科学的な根拠が明確でないカジュアルな流行本も好ましくはない。一般人にとって心理学はやはり臨床が肝であり、具体的にどんな可能性があるのかを分かりやすく教えてくれる本が必要であろう。PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されるかどうかは別として、人は誰でも、大なり小なりトラウマを抱えて生きているものである。この本のテーマはトラウマであり、それゆえ絵空事のような学問としてではなく、自分自身や身近にいる人に引きつけて理解することができる。専門知識がない読者を想定して説明してくれるので、視床、扁桃体、前頭葉、ミラーニューロン、エピジェネティクス、脱感作といった用語を初めて聞く場合でも有用な知識を得ることができる。多くの臨床例が取り上げられるが、当然気楽に読める内容ではない。臨床心理学に進もうかどうか漠然と考えている若い人にとっては、この本を読むことが、自分に向いているか否かを判断するための格好の試金石にもなる。セルフヘルプ本ではないので、読者が自分で実践する目的には書かれておらず、あくまで臨床家の存在を前提にしているが、トラウマの治療法としては、断片化した感覚や感情を認識し、解離した経験を統合するトップダウン型の方法と、リズミカルな動きやツボのタッピングといった経路で、脳幹の警報システムを解除するボトムアップ型の方法とがあり、両方を併用することで一層効果が上がるという。もちろん投薬治療の可能性も否定されてはいない。幼少期の虐待やネグレクトが人生を大きく狂わせ、ひいては多くの社会問題の根本要因になっているという研究が示され、支援のための仕組み作りを著者は訴えている。

ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』

プラグマティズムで知られるアメリカの心理学者、ウィリアム・ジェームズ(1842-1910)の主著の一つであり、1901年と1902年に分けてエディンバラ大学で行なった講義をまとめたものである。「スピリチュアルな価値」などというものはない、あるいは分からないという前提から始めて、当然否定的な結論に至るのが、普通の科学者というものかも知れない。心霊現象を研究したことでも知られるジェームズであるから、本書でも霊的価値というものに肯定的な立場をとっている。まずテーマを「個人的宗教」、すなわち組織宗教の枠組みの中ではなく、個人が経験し得たことの中で、強烈な宗教性を放っているとしか表現しようのない事例のみに限定している。アフマド・ガザーリー、ハインリヒ・ゾイゼ、イグナチオ・デ・ロヨラ、アビラの聖テレサ、十字架の聖ヨハネ、ヤーコプ・ベーメ、ジョージ・フォックス、ホイットマン、トルストイなど、有名無名の事例が多数取り上げられ、この分野でどんな一次資料があるのかを把握することができる。「神の顕現」としか呼べないような神秘体験をしたことがある人は、そのような一般人の実例も紹介されているので、勇気づけられることになろう。宗教的経験を、生まれつき世界の善性を楽観的に信じる「一度生まれ型」と、極度の鬱や絶望の後にすべてが反転するという、死と再生の「二度生まれ型」の二つに分けた上で、二度生まれ型がより深い宗教性を持つと言う。ちょうどこの頃アメリカで花開きつつあった新思想運動(ニューソート・ムーブメント)さえも、一度生まれ型の宗教として好意的に取り上げている。また、当時は虚無主義と解釈されることの多かった仏教を、キリスト教と同等に評価している点にも感心させられる。とはいえ、神経過敏や強迫観念と聖者との関係、催眠や暗示への感受性と神秘体験の関係、自己侮蔑と犠牲的態度の関係といった、科学者としての精神病理学的な考察を加味することも怠らない。ジェームズの講義の進め方からは、二十世紀初頭で、既に学際的であったハーバード大学の校風を窺い知ることができる。欧米の一流大学への留学を目指す若い人は、このような多面的な議論ができるように、早い段階からトレーニングを積むとよいだろう。演繹的な抽象化を良しとしない、学者としての理想的態度を示してくれる本でもある。

(なお、哲学的興味が薄く、難解な本書を通読する自信がない人は、下巻の「神秘主義」の章のみを読めばそれで十分だと思う。)

夢窓疎石『夢中問答集』

仏教の入門書は数あれど、仏教の本質を捉えるのは難しいと思う。そもそも釈迦本人の説法の中には、当時のバラモン教やアージーヴィカ教の教義に反論する形で説いた相対的な教えが含まれているし、さまざまな哲学を取り込みながら発展して来たという歴史もある。苦諦(生きることは苦しみであるという考え)を根本とするのかと言えば、現世を完全否定するわけでもない。足利直義の質問に、臨済宗の高僧である夢窓疎石(1275-1351)が答えるという形式で書かれているこの本の内容を一言で要約すれば、坐禅とその工夫用心に猪突猛進すべし、ということになろうか。ただし、禅の入門書ではない(教外別伝)。三十一歳で印可を受けてから、悟りの伝達を求めて押し寄せる修行僧たちを避けるために各地を転々としつつ大悟徹底に努め、指導的立場に転じたのは五十歳を過ぎてからと伝えられるから、並大抵の心根ではないだろう。足利直義もまた頭の良い人で、一般人が疑問に思いそうなことを虱潰しに質問しているので、夢窓疎石の答えも包括的な内容になっている。直義の素朴な問い掛けに、「なるほど私も若い頃、同じように考えたことがあった」とその考えの妥当性を認めた上で、「しかし実は、こういうことだ」と続け、分かり易い実例を挙げる。仏法はこうなんだからとにかく信じなさい、とは決して言わないのである。本分の田地、離欲、理入と行入、魔境、菩提心などの重要な概念に、明快かつ徹底的な説明がなされ、レトリックによるごまかしがない。ニューエイジのようにも、ネオ・アドヴァイタのようにも読めてしまうところに、時代を超越する覚者の凄みを感じる。さらっと読むのではなく、よく考えながら読まなければ、仏教のエッセンスを汲むことは難しい。だが、努力するだけの価値はある。

ウォレス・ワトルズ『確実に金持ちになる引き寄せの法則』

この本は1910年にマサチューセッツ州で出版されたものだという。まずタイトルが怪しい。「この本に書かれていることはすべて真実」、「他の本を読むのをやめなさい」など、考えようによっては大問題になる表現も多い。しかし、さすがは古典、的確にポイントが押さえてある。神は、あなたが—あなたを通して—欲しいものをすべて手に入れ、繁栄することを望んでいること・・・あなた一人ではなく、すべての人が繁栄することを望んでいるということ。あなたが望むものはすでに用意され、現実になるのを待っていると信じ、感謝すること。莫大な富を受け取るには、あらかじめそれにふさわしい価値を創造し、差し出す必要があること。「引き寄せの法則」を一番早く正確に知りたい人に、この本をお薦めしたい。すでに積極的な態度が身に付いているなら、この本を読めば確実に、豊かさへの道を見つけることができるだろう。

アウグスティヌス『告白』

ローマ帝政期のタガステ(現アルジェリア)の生まれで、ヒッポ・レギウス(現チュニジア)の司教になったアウグスティヌス(354-430)が、自身の半生を告白するという内容である。神の前で告白すると同時に、人に読んでもらうためにも書いているという、二重の構造になっており、後の時代の「告白文学」とは若干性質を異にしている。若き日のアウグスティヌスは、(当時のアフリカ的気質を思えば奔放とまでは言えないものの)情熱的な青春、マニ教や星占いへの傾倒、親友との死別など、さまざまな経験を積んで行く。どうすれば立身出世できるだろうか、結婚はどうしたらよいのかといったことで、普通に思い悩みながらも、類い稀な知性に恵まれていたために、ミラノで今で言う国立大学教授のような要職に就くことに成功する。しかし、「真実」への渇きは尋常ではなかった。スピリチュアルな「探究者」が誰でも通り抜けるであろう典型が、そこには見出せる。彼は自分自身に問いかける。そこには、生きている限りいつかは問わざるを得なくなるすべての問い—自分はどこから来たのか、どう生きればよいのか、何のために生きるのか、神とは、そして悪とは何か—が含まれている。結局、生きているという事実と何の関わりもない哲学に、何の意味があろうか。それから、かの有名な目覚めが起こり・・・単に罰を恐れるがゆえに品行方正な人と、非行も含めて、ありとあらゆることをやり尽くした後に改心(キリスト教の文脈では回心)した人とでは、理解の深さが全然違うのは、いつの時代も共通なことかも知れない。アウグスティヌスが、神の光—それは比喩であって可視光線のことではないと彼は書いている—を、理知的な次元ではなく、「体験した」あるいは「見た」ことは確実である。今やさまざまな資料を比較検討することが可能な私たちは、それは例えば、禅で言うところの「一瞥」や「見性」と本質的に同じであったことを、容易に読み取ることさえできる。この本には、自らの魂と対話しながら読み進める(もともとの意図はこれである)のと、字面通りに受け取るのと、二通りの読み方がある。事実、カール大帝の時代には、アウグスティヌスの著作は「法律的」に解釈されたらしい。キリスト教の前提知識は必要ない(むしろない方がよい)ので、ぜひ心で読んで欲しい。この本を読めば立派な哲学者になれるとは思わない。しかし、西洋文化を本気で理解したいと思ったら、一番最初に精読すべきと言い得るほどの名著である。

苦痛

みなさん元気ですか? 今回は、苦痛についてお話しします。重い話題ですね?

すべての生き物は時々苦しむし、最後は死んでしまいます。もしも始めに創造主がいたのなら、なぜ彼/彼女は生と死の仕組みを作ったのでしょう? 苦痛は何のためにあるのでしょうか? これは哲学的な疑問であると同時に、経験上の疑問でもありますね。

苦痛は生体に埋め込まれています。一番原始的な生き物として、微生物を例に取り上げてみましょう。微生物が生命を維持するためには、食べなくてはなりません。空腹は一種の苦痛ではありませんか? 私はそう思います。空腹は苦しくて、食べるのは気持ちいい、そうじゃありませんか? 空腹が微生物を運動に駆り立てて、食べる物を探させます。ですから、苦痛が運動を作り出すと言えるでしょう。もし苦痛が存在しなかったら、あらゆるものは停止するはずです。これが苦痛の根本的な理解だと思います。

さらに、私たち人間には、「退屈」というもっと微妙な形態の苦痛があります。私たちは退屈すると、何かを知ったり、感情的・知的な刺激を得ることに駆り立てられます。それで最終的に、私たちは緊張だらけの文明を作ってしまいました。

ほとんどの私たちは、苦痛が好きではないと言えると思います。誰も苦しみたくはありません。そこで何人かの科学者が、私たちの遺伝子から苦痛を除去することに着手するかも知れません。もしその試みが成功したら、次に何が起こるでしょうか? 私たちは死ぬほど退屈してしまうのかも知れません。

ある人たちは、この世には快楽と苦痛しか存在しないと考えています。悲しいですが現実的な発想ですね。人間社会では、快楽と苦痛の間を行ったり来たりする力学が、権力意識を生み出します。私たちは、興奮した時に力の感覚を感じるでしょう? 苦痛によって興奮を得る人たちがいます。薬物を使うことで興奮を得る人たちもいます。秘教的に言えば、これらはすべて下位の三つのチャクラに対応しています。私たちはある種みんな、動物的性質や生存本能を備えています。歴史的に見れば、私たちはとても長い間、主従関係というものに執着して来ました。

この哀れな世界観の中には、もちろん、愛の入り込む隙間はありません。無条件の愛に触れたことがなければ、快楽と苦痛以外のものが存在するように思えないのは当たり前のことです。神聖なものという概念は、愛を知らない人たちにとっては大嘘でしかありません。そういう人たちを非難するつもりはありません。愛は言葉では説明できないのですから、難しい状況なわけです。

ごく自然な成り行きですが、愛の欠如は、不毛さ、心理的な葛藤、抑うつという結末に至ります。私たちは絶望的なのでしょうか? そうとも言えるし、そうではないとも言えます。ある人たちには馬鹿馬鹿しく聞こえるでしょうが、慈善の気持ちがとても大事だと思います。見せかけを越えて与えるという行為が、私たちの本当の性質である愛に再び結び付けてくれます。慈善は段階的なプロセスです。家族や人間関係を通して、与えたり受け取ったりする練習を積むことができます。ごくシンプルで当たり前のことですね?

さあ、今日はこれでおしまいです。聞いてくれてどうもありがとう。

Pain

Transcript

How are you doing, my friends? This time, I’m going to talk about pain. A heavy one, isn’t it?

Every creature seems to have pain from time to time and eventually dies. If the Creator existed in the first place, why did He or She create this mechanism of life and death? What purpose does pain serve? This is not only a philosophic question but also an empirical question.

Pain is ingrained in biology. As the most primitive form of biology, let’s take a microbe for example. A microbe has to eat to sustain its life. Hunger is a kind of pain, isn’t it? I suppose so. Hunger is painful and eating is pleasurable, right? Hunger motivates a microbe to move and find something to eat. So let’s say that pain creates movement. If pain doesn’t exist, everything will come to a halt. I think this is a fundamental understanding of pain.

Furthermore, as human beings, we have a subtler form of pain: boredom. When we are bored, we are motivated to know something, get emotional or intellectual stimulation. So eventually, we created highly charged civilizations.

We could say that most of us don’t like pain. We don’t like to suffer. So some scientists may look into eliminating pain from our DNA. If this attempt succeeded, what would happen next? We would get bored to death.

Some people think that there are only pleasure and pain in this world. An unhappy but realistic idea. The dynamic between pleasure and pain creates a sense of power in human society. We feel a sense of power when we get excited, right? In fact, some people get excited from pain. Some people use chemicals to get excited. Esoterically this is all about the first three chakras. We all have the animal nature or the survival instinct in a sense. Historically, we have been obsessed with the relation between master and servant for a very long time.

In this pitiful worldview, there’s no room for love, of course. Without any trace of unconditional love, we don’t think there is more than pleasure and pain, indeed. Concepts of the divine are bullshit for those who don’t know love. I don’t blame them. It is a difficult situation because love isn’t explainable in word.

Quite naturally, the lack of love leads to meaninglessness, psychological suffering and depression. Are we hopeless? Yes and no. This may sound ridiculous for some people, but I think that charity is very important. Beyond hypocrisy, the act of giving brings us back to our true nature that is love. Charity is a gradual process. We can practice giving and also receiving in families and relationships. So simple and obvious, yes?

OK, that’s all for today. Thank you for listening.

欲しいものは何ですか?

みなさんこんにちは。調子はどうですか? 今回は、人生に何を望むかについて、お話ししてみようと思います。ここでもまた、哲学的疑問にするのはやめましょう。何か欲しいものってあるでしょ? それこそ、あなたが人生に望むものです。欲望は良いか悪いか、それは哲学的疑問です。でも、そこには触れません。

たくさんの人たちが、望みを引き寄せる方法について話しています。確かに、もしそれが可能なら、誰でも知りたいと思います。鍵は想像力にあるようです。想像力が物質的に欲しいものを届けてくれる、とみなさんに約束することはできません。でも、想像力がみなさんの中に特定の感覚を作り出してくれることは約束できます。何よりもまず、あなたが欲しいものが、それが何であれ、既に手に入ったところを想像してください。情熱を込めて想像し、強く感じて、それから、その感覚に付随するすべての条件を落としてください。これを何度も繰り返しやってみてください。すると、何の条件もないのに、その感覚そのものを楽に感じることができるようになるはずです。とってもシンプルでしょ? この方法は大いに役立つはずです。

たぶん、金持ちな人たちなら、物質的にもすべてを持てるでしょう。彼らは最高級の別荘に住み、最高級の食事をし、最高級の服を身につけ、最高級の男女を買い、最高級のドラッグで年中ハイになっていられますが、ほとんどの場合、それでも幸せを感じられません。彼らは満たされてはいるものの、不幸です。

欲しいものが手に入らないなら、満たされませんよね? でも、満足と幸せを混同しないようにしてください。満たされないのに幸せでいることは可能です。なぜなら、想像力の助けを借りれば、今ここで幸せを感じることができるからです。そういうものです! もしあなたが完全に満足しているなら、二度とベッドから起き上がることはなく、要するに、あなたは死んでいるということです。欲望とは、単純に人間の心の新陳代謝機能です。

私たちには選択があります。たとえば、私はこんな風に考えるかも知れません。「これまでに一度もデートしたことがない。でも恋人が欲しい。だから、私は不幸だ。」気をつけてください。これは一つの考え方であって、唯一無二の事実ではないでしょ? まったく反対に、こういう風にも言えます。「これまでに一度もデートしたことがない。だから、私は幸せだ。」まるで今の状況が、本当に欲しいものだったかのように言ってみるわけです。すると、今の状況のいいところが見えて来ます。たとえば、誰からも指図されなくて済むとか、自由だとか、自分だけのために、すべての時間とお金を使いたい放題だとか。発想の転換ですよね。ガールフレンドやボーイフレンドがいたことがなくても、もちろん、あなたは幸せでいられます。誰からも仕事を評価されなくても、もちろん、あなたは幸せでいられます。

諦めることを説いているわけじゃありません。もし恋人がたくさんいて、それでいろいろと問題があっても、なおまた、あなたは幸せでいられます。もしお金がたくさんあって、それでいろいろと問題があっても、なおまた、あなたは幸せでいられます。今の現状からスタートできるわけです。これは難しいことでしょうか? とんでもありません! これは馬鹿げた考えなんかじゃなくて、リラックスして、人生を楽しみ始める具体的な方法の一つです。実際、今すぐ幸せになりたいなら、これが最も簡単な方法かも知れません。ただし、身体の痛みがある場合は除きます。

私に賛同する必要はありませんが、このアイデアについてよく考えてみてください。いいですか? 今回はこれでおしまいです。聞いてくれてどうもありがとう。

幸せですか?

みなさんこんにちは、はじめまして。私の名前は発音しづらいですので、もしよかったらメネットと呼んでください。私は日本人です。ネイディブスピーカーではありませんので、英語の間違いがあっても気にしないでください。実は、英語は話せません。この番組では、まず原稿を書いて、それを読み上げています。私は先生じゃありませんし、学者でもヒーラーでもありません。結婚していないし、子供もいないし、働いてすらいません。たぶんみなさんから見れば、ろくでもない人間です。ですから私に注目するんじゃなくて、番組の中身についてだけ、よく考えてみるようにしてください。そうすれば、必ずや糧となることがあるでしょう。いいですか?

この番組のテーマは、幸せについて、あなた自身の幸せについてです。「非個人の目覚め」については話しませんし、将来話すつもりもありません。正直に言えば、「不二一元(ノンデュアリティ)」の教えも、「現実の創造」の教えも、私はまったく理解できません。

あなたは幸せですか? これを哲学的疑問にするのはやめましょう。幸せってどんな感じか、私たちはみんな知っているはずです。幸せは概念じゃなくて、感覚でしょう? もしあなたが不幸せなら、すべての哲学的探究は失敗でしかありません。それは分かり切ったことです。スピリチュアルな先生たちは、「私は探求を終えました」と言います。おそらく、真理を見つけたので、探すのをやめたという意味なのでしょう。実に形而上学的ですね。でも私としては、私たちが実際に幸せなとき、幸せを感じていると想像する必要がなくなったとき、私たちは幸せを探すのをやめる、と言っておきます。結局、精神世界では、あなたが本当に幸せかどうか以外に、大切なことは何もありません。

でも、どうすればいいのでしょう? この最初の回では、方法を三つ提示したいと思います。これらの方法が、私が今後お話しすることの基礎になります。

一つ目。朝起きて一番に、幸せでいることを決心します。こんな風に言ってください。「私は、何がどうであれ、幸せでいることを決心します。」自分で決心する、それだけです。とっても簡単でしょう?

二つ目。これは重要な方法で、何千年も前からあるものです。私は「熱を育てる方法」と呼んでいます。はじめに、自分が一番好きなことを思い浮かべてみてください。野球をするのでも、お菓子を食べるのでも、買い物に行くのでも、友達と話すのでも、恋人とデートするのでも、何でもいいんです。情熱を感じるでしょう? シャクティとかクンダリーニと呼ばれることもあります。私は単に、熱と呼んでいます。今ここで、この熱を見つけてください。心配いりませんよ、誰にでもできますからね。次に、この情熱、あなたの中に熱を感じさせてくれるあらゆる状況から、熱そのものを切り離して、あなたの中にある熱だけを感じてみてください。何か条件がなくても、熱そのものに集中することができますよね? そしたら、毎日、この熱がどんどん強まるようにしてください。あたかも、昨日よりも今日、熱がますます強くなっているかのようにです。それが「熱を育てる」の意味です。大丈夫ですね? もしその方が簡単なら、火の祭壇と炎を心の中に思い描いてみてください。必ずしも体の中にというわけではありませんが、とにかくあなたの中にです。この祭壇の「イメージ」を強くしてくださいということではありません。これはいわゆる「視覚化」の練習ではないんです。そうではなくて、あなたの「感覚」を育てるということです。

三つ目。これは補助的と言えるかも知れません。目を閉じて、何もない空間を想像してください。まるで、あなたさえも存在していないかのようです。一日に一回、だいたい30秒、長くても2分の間、茫然自失してください。

これらの方法は、幸せとは何の関係もないように見えるかも知れませんね。でも、私の見方からすれば、あるんです。もし、この番組にいくらか対応する教科書みたいな本が必要だとしたら、H. E. Davey さんの書いた The Teachings of Tempu をお薦めします。日本文化を広めようという意図はないんですけどね。今回はここまでです。何かあったら、どうぞ遠慮なくメールを送って来てください。聞いてくれてどうもありがとう。

What Do You Want?

Transcript

Hi guys. What’s up? This time, I’m going to talk about what we want in life. Again, let’s not make it a philosophic question. You desire something, right? That’s what you want in life. Whether desire is good or bad, that’s a philosophic question. But I don’t go there.

Many people talk about how to attract what we desire. Indeed, if it’s possible, we all want to know how. The key seems to be imagination. I don’t assure you that imagination brings you what you want materially. Instead, I can assure you that imagination creates specific feelings in you. First off, let’s imagine that you already have what you want, whatever it is. Imagine with passion, feel it, and then drop all the conditions around this feeling. Do this over and over again. Then you can feel the feeling itself without any conditions, at ease. Very simple, right? This method would help a lot.

Maybe rich people can have it all materially. They can live in the best villas in the world, they can eat the best foods in the world, they can wear the best clothes in the world, they can have the best prostitutes in the world, they can take the best drugs in the world and get high all the time, but in most cases, still they don’t feel happy. They are satisfied AND unhappy.

When you can’t get what you want, you are unsatisfied, right? But don’t confuse satisfaction with happiness. You can be unsatisfied AND happy, because it is possible to feel happy immediately with the help of imagination. That’s what it is! If you are completely satisfied, you won’t get out of bed, meaning you’re dead. Desire is simply a metabolic function of human mind.

We have a choice to make. For example, I would think like this: I haven’t dated anyone, but I want someone, so I’m unhappy. Careful, this is a thinking process, not THE fact, right? On the contrary, I can say, I am happy because I haven’t dated anyone, as if the current situations were what I really wanted. Then I can think of merits of the circumstance, such as that no one tells me what I should do, I am free, I can spend all the time and money only for myself, et cetera, et cetera. A quick turn of thinking mind. Even if you have never had a girlfriend or a boyfriend, yes, you can be happy anyways. Even if no one appreciates your work, yes, you can be happy anyways.

I don’t talk about renunciation here. If you have many lovers and problems with that, so be it, you can be happy anyways. If you have plenty of money and problems with that, so be it, you can be happy anyways. You can start with the status quo. Is this difficult? No way! This is not a crazy idea but a solid way to relax and start enjoying life. In fact, if you want to be happy right away, this would be the easiest way, except when you are in physical pain.

You don’t have to agree with me, but please reflect on this idea. All right? That’s it for now. Thank you for listening.

Are You Happy?

Transcript

Hi guys, nice to see you. My name, you can’t pronounce it. Call me Menet if you will. I am Japanese. I’m not a native speaker of English, so please be generous in my errors. In fact, I don’t speak English. In this program, I write a script and then read it. I’m not a teacher, nor a scholar, nor a healer. I’m not married. I don’t have children. And I don’t work at all. I am nothing, in your view perhaps. So please don’t follow me, but just reflect on the contents of this program, so that they will nourish you. All right?

This program is concerned with happiness, your personal happiness. I don’t talk about impersonal awakening, and I never will. To be honest, I don’t understand anything about Non-duality teachings or creating reality teachings.

Are you happy? Let’s not make it a philosophic question here. We all know how happiness feels like, don’t we? Happiness is not a concept but a feeling, right? If you’re unhappy, all the philosophical pursuits are but a failure. We all know that. Spiritual teachers say they finished searching. They mean they ended the search for Truth, because they found it, probably. Very metaphysical indeed. But I would say, we will end the search for happiness when we are actually happy, when we no longer have to imagine feeling happy. After all, in spirituality nothing matters except whether of not you are truly happy.

But how de we get there? In this first episode, I propose three methods. These are the basis of what I will talk about in the future.

One. You decide to feel happy first thing in the morning. You say like this: “I decide to feel happy no matter what.” You make the decision, that’s all. Very simple, right?

Two. This is a fundamental method which dates back thousands of years. I call this method “nurturing heat”. First, think about what you love to do the most. Playing baseball, eating candies, going shopping, talking with your friends, dating with your partner, anything will do. You feel passionate, right? Some people call it Shakti or Kundalini. I simply call it heat. Please find this heat, right now. Don’t worry, everyone can do it. Second, separate all the situations that provoke this passion, the heat in you from the heat itself, and feel only the heat inside you. Without any conditions, you can concentrate on the heat itself, right? Third, make the heat growing and growing, everyday. Each day, it feels as if the heat were stronger than the day before, more and more. That’s what I mean by “nurturing heat”, OK? If it’s easier for you, picture in your mind a fire altar and a flame, not necessarily in your body, but inside. I don’t say intensify the image of this altar. This is not an exercise for the so-called visualization. I say nurture your feeling.

Three. This is rather supplementary. Close your eyes and imagine a space where nothing exists, as if even you didn’t exist. Be vacant or dumbfounded for about 30 seconds, 2 minutes at the most, once a day.

You would think these methods have nothing to do with happiness, but they sure do from my perspective. If you need a sort of textbook somewhat corresponding to this program, I would recommend The Teachings of Tempu by H. E. Davey, although I don’t intend to disseminate the Japanese culture. That’s it for now. Don’t hesitate to contact me by email! Thank you for listening.