成長する

魂の成長という表現は、精神世界では何気によく使われますが、それが本当は何を意味するのかは結構謎だったりします。具体的に何をどうすれば魂の成長に繋がるのでしょう。魂が成長したことを示す兆候はあるのでしょうか。超常的な能力が出て来たり、ものごとが急にうまく行くようになれば、魂が成長した証拠だと言えるでしょうか。一つには、成長というものを認めないというか、全否定する考え方もあります(現世否定的な伝統)。そういう感じの教えをするティーチャーさんご自身が、新しい知識や経験を拒否する生き方をされているのなら、言っていることとやっていることが一致しているので、問題はありません。そうでないのなら、その考え方は間違っていると言わざるを得ないでしょう。子供を見ていれば一目瞭然ですが、私たちには新しい知識や経験を積極的に獲得して行こうとする自然的傾向があります。「何も足さない、何も引かない。ゼロのままがいい」なんて言う子供を見たことはありません。そういうことを言うのは哲学者か宗教家だけではないでしょうか。だけど、成長するということを哲学的に言い表そうとするとひどく難しいわけです。神様の方向に行く、とか全体が調和する方向に働く、とか言葉にするとすごく簡単なんですが、分かるようで全然分からないわけです。かく言う「友の会」そのものが、今思い返せば笑ってしまうような、訳の分からない大げさな概念で世の中に貢献しようと頑張っていたんです。結局のところ、本当に人に喜んでもらえる、いやすべての存在物に喜んでもらえるような生き方を具体的にできなきゃ、スピリチュアルな概念は何の意味もありません。別の言い方をすれば、自分の幸せがすべての人の幸せに繋がって行くような立派な生き方ができるようになることが成長だ、と言えると思います。そこに結び付いて行かないものは、すべてこだわりということになります。スピリチュアルが意味のないこだわりになってしまっている場合が多いように思います。成長したいと願うなら、余計なこだわりをすべて手放すことが必要なように思います。

口伝と書伝

昔から、大覚者と呼ばれるような先生に限って、直接書き残した本がない場合が多いわけです。その理由を察するに、やはり文字だけではその真意が伝わりづらいからだったんだろうと思います。厳密な定義とは違うかも知れませんが、ここで仮に、口頭や直接指導で伝達することを口伝、教典を残して伝達することを書伝という風に言ってみましょう。口伝と書伝はそれぞれ性質が異なり、よい面と悪い面があります。口伝は以心伝心という訳で、師匠が弟子の状態を見ながら、ここはいい、そこは違うとやれるので、一番適確な方法だと言えると思います。一方で、師匠の側から見れば伝達が途絶えてしまうリスクがあり、弟子の側から見れば本物の先生を見分けられるのかというリスクがあります。最悪、カルトに引っ掛かって人生を棒に振る可能性もあるわけです。それに対し書伝は、あくまで文字を頼りに自分で進んで行くことになるので、理想を追い求めるのに上限がないというメリットがあります。一方で、教典に書かれた本来の意図とは全然違う方向に進んでしまっても、自分では全然それと気が付かないという問題があるのです。違ってますよと指摘してくれる人が誰もいないので、そのまま「辿り着いた」と思っている人も出るかも知れません。だから歴史的に見て、書伝は分派が出来やすいんであります。いずれにせよ、何か外側に権威や規準が置かれており、そこを通過しなければダメだという話になった場合、一体誰が何のためにこんなことをしてるんだろうという疑問に、最後は収束するのではないでしょうか。私はそう思います。結局、弟子として極めて優秀で、これ以上ないくらい真剣に修行しても、自分はそもそも何を求めているんだろうという疑問にケリをつけない限りはダメなのだろうと思います。よく言われている通り、軸とか信念といった部分です。私もこの年になって、自分は信念がないからダメなんだなと思うんであります。幸せを大切に考えるんであれば、自分で方法を工夫してやってかなきゃいけないし、成功したいんであれば信念を持たなければダメ、実は悟りに時間はかからないと言うけど本当だな、と思います。自分で信念して疑わなければ、何事もその通りに行くに違いありません。

懐に入る

精神世界に限らず「心を開く」というのはいいこととして語られます。実際、多くの人が心を開き出したなら、この世界はまったく違った場所になることでしょう。今ある問題はあらかたなくなり、スピリチュアリティについての考え方もまったく変わるでしょう。心が閉じているというのは、個の意識になっているということで、自分のことしか考えられないという状態です。だからこそ、自分が得するにはどう動いたらいいだろうかと策謀を企てるわけです。よく考えてみればどうでもいいような、小さなものごとを巡って人々が闘争する世界になるわけです。で、昔から身を持ち崩したりして、半ば強制的にすべてをさらけ出して生きて行かなきゃいけない境遇というものがあるということを、みなさんどこかで知っています。そこに、理由がどうであれ、心を全開にして人々と関わって行く魅力があるのを、誰しもどこかで気づいているのではないでしょうか。カップルや夫婦の間で、お互いに心を開いて交流できたという瞬間が持てただけでも、もう何とも言えません。まして、常に心を開いて生きて行けたらどんなにすごいことでしょう。平穏無事で、相当恵まれた人生を生きた人も、もし心が閉じていたのであれば、本当に生きたとは言えないと言っても言い過ぎではないのではないでしょうか。それくらい違うものです。「あなたも私もない」という世界を地で行くんであります。あなたも私もいないという悟りの哲学を説いていらっしゃる先生が、教師という立場にこだわるせいなのか、個の状態にあり、心を開いていないという可能性もあり得ます。ただ言うのではなく、地で行くところに本当の幸せがあるはずです。英語であけっぴろげな性格のことをオープンブック(an open book)と言うそうですが、まずは包み隠さない態度が糸口になると思います。スピリチュアルティーチャーならなおさら、都合の悪い過去の事実を言わないだけでも、嘘をついているのと同じになってしまいます。自分の評価を下げるようなマイナスな話でも、事実なら率先して言うくらいでちょうどいいと思います。隠そうとするのは我があるからです。だからこそ心を開くのがこれほど難しいわけですが、いったん開けたら間違いなく世界が変わることでしょう。

人を助けるには何が必要か

人助けという言葉はよく使われますし、誰かの助けになりたいと願うきれいな心の持ち主には拍手を送りたいと思います。助けたいという純粋な気持ちが相手に伝わることで何かが変わる、という心の交流の可能性を否定したくはありません。が、実際問題として、病気や借金や依存症に苦しむ人を、思いやりの気持ちだけでは助けられないことも事実ではないでしょうか。人を助けたい気持ちから何かを始めても、自分の中に持つべきもの持たないと、挫折する結果になります。それは残念なことだと思います。一つには、お金や物資で援助するという方法がまず考えられます。何もないよりはマシです。でも、スピリチュアルティーチャーとして人を幸せにすることを目指すのなら、持つべきものが他にもたくさんあります。まず第一に、自分自身が、それが何を意味するのであれ、大きな変化を経過しているということが前提になります。科学的な根拠が全然ないんですが、変化を経過した人というのはある種の磁場を発生していて、それが周りに寄って来る人に変化を誘発するんだろうと思います。パワースポットみたくなっているわけです。頭が良くて情報処理能力が高ければ、自分が変化を経過してなくても道を説くことはできますが、それで救われる人がいるとすれば、始めから大した問題のなかった人なんだろうと思います。スピリチュアルを言うなら、不幸な人を幸せにするくらいじゃなきゃいけません。で、スピリチュアルティーチャーと言うからには、何が本当の幸せなのかという定義について、一本筋の通った哲学を持たなければなりません。相手が欲しいと思うものを何でも与えてあげれば、その人を幸せにできるでしょうか? そういう問題について何であれ結論を出せていなければ、人を助けることはできません。次に、一つの病気に対して複数の治療法があるのと同じように、できる限り多くの技術や方法を心得ていることが望ましいんであります。人を助けたいと本当に思うなら、できるだけ多くの人を助けたいと望むのではないでしょうか。もし一つの方便が究極だとか唯一の道だとか主張する人がいるとしたら、それはこだわりであり、あまり多くの人の心に触れることはないでしょう。だからスピリチュアルティーチャーになってからも勉強を続けるべきです。身体的アプローチは何か一つ習得していることが望ましいように思います。ジャン・クラインさんのカシミール・ヨーガ、アレクサンダー・テクニーク、フェルデンクライス・メソッド、太極拳など、まあどれも難しいものばかりですけれども、私たちは日本人なんですから、野口晴哉先生の「活元運動」ができると特にいいんじゃないかと思います(ちくま文庫から出ている『整体入門』を参照のこと)。呼吸法の指導ができることは言うまでもなく重要で、必須の能力だと言えます。臨床心理学のテクニック、フォーカシングやハコミセラピーやプロセスワークの基本を習得しておくと役に立ちます。医師免許や公認心理師の資格を取れるようであれば当然ベストだと思います。スピリチュアルティーチャーになるというのはもともとハードルの高いものですし、そうあるべきであります。だからこそ、思春期から準備を始めることが必要だと思います。

思春期の教育

英語でティーンエイジと言いますけど、13歳から19歳までですか、いい悪いは別として、その年代に受けた教育がその人の人生を決めると言っても言い過ぎではないと思います。というのは、その年代でその人の人間性がほぼ決定されるためで、その方向で行けば大体こうなる、というのはかなりの程度予測できるからであります。これはもちろん、社会的に成功できるか否かが決定されるという意味ではありませんので、注意してください。ですから最終的に幸せになれるかどうかは、思春期の教育的影響でほぼ決定される、と言っておきましょう。社会的に成功しても不幸な人がいっぱいいるわけですから、この番組で扱っているのはそういう話です。たびたびお話ししていますが、私の場合ちょうどその年代に出会えた先生がいたんです(八島義郎先生のこと)。今にして思えば、スピリチュアルな方向性が出来たのもその先生の直接的な影響だったし、これまで何とか人の道を大きく外れずに済んだのもその先生のおかげだと確信します。でも、私は社会的な成功というものを全然経験していないから何とか保っているものの、もし何らかの段階でスピリチュアル業界で成功していたとしたら、私は容易に人の道を踏み外していたに違いない、と言いたくはありませんが認めます。ましてその先生に出会えていなかったら、私は社会に大きく害をなす人間になっていたに違いないと思います。心理学的に思春期は極めて示唆を受けやすい年代ということが分かっているそうですが、悪く言えばどのようにでも洗脳できてしまうということで、歴史的にも悪用された例があります(ヒトラーユーゲントなど)。人の幸不幸を大切に考える場合、この時期を善用することが鍵になるに違いありません。遺伝的によくない種子を持っている人でも、教育次第でよい方向に持って行ける可能性があり、実際に伝説として語り継がれている覚者が、若い頃は悪党だったという話もあります(スーフィーの言い伝え)。異常と言えるような強欲な人ほど、何かをきっかけにそれが反転すれば、伝説の覚者に生まれ変わる可能性を秘めている、というのは歴史的に見て本当です。結局、大きな情熱とかエネルギーというのは、その向け方によって善にも悪にもなり、その方向性を決めるものは教育だ、とかなりの程度言えると思います。それがたとえ思春期の一瞬の出会いだったとしても、一生を決定づけるほどのインパクトを持ち得るということは、私の経験から言えばあると思います。