欠点を直す

誰にでも欠点ってあると思うんです。で、やっぱ心ある人だったら自分の欠点を直したい、直そうって考えるじゃないですか。スピリチュアル云々に関係なくそういう話は出るし、依存症とか深刻な問題もいろいろあると思うんです。そこにどう向き合うかで精神世界の真価が問われると言っても過言ではないでしょう。まず、そもそも問題というものはない、進歩や成長を目指す意味もない、ただあるがままで完璧なんだとする哲学があります。これは極端に自己否定的な人には(暫定的に)有効である可能性があります。ただ、あるがままを認めれば人生すべて思い通りに行くというような、要するに人間の願望を投影した形に捩じ曲げている教えが多いようです。自分の実際生活において極めて都合の悪いことが起きても心を乱されない、というのが本来のあるがままの教えであります。で次に、自分の性格の歪みを矯正するためのアプローチが各種あるわけですが、実際問題自分の性格を変えるというのはとても難しいことであります。自分に欠点があることに気づくというのが第一歩ですが、気づけたということ自体とても素晴らしいことです。他人に指摘されて「ああそうかね」と思っているのは気づけた状態ではなく、その欠点が人生すべてに影響して来たのがハッキリ見えるという状態が、ほんとに気づけたということであります。で、自分はこんなに悪い人間だったんだということが一旦分かったら、いつまでもクヨクヨ考えずに、意志の強い人だったら自分で直す努力をする、自分にそこまでの力はないと思えば神様に委ねる、という二通りの方法があります。意志の力で直せるのはかなりの少数派と言えましょうが、自己分析が充分に深い人だったら可能であります。そこまで出来ない私たちは、自分を責めずに気づきを深めて行くことで、自然に直って行くんだと信じるのが一番の近道だと思います。

楽しいだけじゃ物足りない

風に飛ばされるちり紙をひたすら追い掛けているというのが、これまでの私の人生の要約であります。追い掛けるそばからどんどん飛ばされるちり紙ですが、仮に捕まえられたとしても、そこに何かいいことが書かれているなんてことはあり得ません。そんなこと分かり切っているはずなのに、まだ追い掛けているわけです。人生のスピリチュアルな意義を追っているつもりなんですが、実のところ何をどうすればいいのかまるで分かっていないんです。突き詰めますと、自分は人とは違って特別だと思いたい性格が原因であったと思います。天界だの神界だのと呼ばれる別世界に自分の言動が影響を与えているみたいな、ニューエイジの大げさなコスモロジーに惹かれたのはそういう訳だったと思います。大げさであればあるほど、自分が特別になったような気分に浸れるからであります。自分が特別な役割を果たしていると真剣に思い込んで生きている(私のような)人が、実際にはまったく誰の役にも立っていないことはあり得ます。スピリチュアルなんてまったく考えもしないような人が明るく楽しく生きている方が、よっぽど多くの人に良い影響を与えているというのが事実ではないでしょうか。自分がスピリチュアルな世界に貢献していると思えないと物足りない理由は何ですか? ただ単に明るく楽しく生きているだけではダメですか? ちり紙を追いかけるのをやめて立ち止まったらどうなるのか、と考えたらやめられません。「12ステップのプログラム」じゃないんですが、人間の知性では前もって何も分からないと理解する必要があります。後は野となれ山となれです。スピリチュアルな世界観に頼らずに明るく楽しく生きていられるとしたら、実際とても素晴らしいことではないでしょうか。

縦と横

縦横の調和という話は、エソテリックな教えの中には必ず出て来る概念です。縦と言うのは、動物としての人間が生存競争をしているという個別意識を下位としますと、その生存を正に可能ならしめている形而上的な霊意識が上位にあるという考え方です。横と言うのは、私たちの現実生活をより良く豊かなものにして行こうという考え方です。言葉による創造の言い伝えの通り、言葉による表現というのは基本的に横方向の働きであり、それゆえ学問というのは基本的に現実生活をより良く豊かにする目的に結び付いていると思います。縦方向というのは意識の焦点が上に移動することであり、人間の言葉では表現し難いものだと言えます。伝統的には問答無用の瞑想の技法が縦の教えです。理想を言えば、意識の焦点が上昇すると、私たちがここで何をしようとしているのか分かるようになるのです。で、縦方向の教えと横方向の教えが調和するのが望ましいという理念は昔からあったのですが、実際にはどちらかに偏った教えが多く、本当に両者が調和した教えが具体化したのはかなり最近のことだと思います。縦に偏ると人間生活を否定する形となり、横に偏ると自分で創造するのではなく他人から奪い取る魔術の形となったのであります。その結果、縦方向で行っても横方向で行っても人間性はほとんど向上しなかったように思われます。家庭や仕事を通じて自ら美の世界を想い描き創造しつつ、神様に心を向けることが縦横の調和する具体的な生き方です。私自身は極端に縦方向の教えと極端に横方向の教えを両方学んだんですが、あいのほしでは縦横の調和する教え、少なくとも一方に極端に偏っていない教えのみをお勧めしております。人間性が磨き出され輝いて行くことが、私たちが生きている目的だと信じるからなんであります。

気持ちを切り換える

上手に気持ちの切り換えが出来るようになったら、精神世界において大事な技術が身に付いたと言って差し支えないでしょう。難しい話は抜きにして、常に爽快かつ気楽な気持ちでいられたらとても素晴らしいと思います。スピリチュアルを仕事にしている人でも、もし人生がどん詰まった場合には暗い気持ちになる、というのが正直なところではないでしょうか。一つには、視野が狭くなるほど気持ちの切り換えがしづらくなるというのが事実であります。ただでさえ狭いスピリチュアル業界の中で、しかも特定の分野にこだわっていたら、そこに解決策を見出せなければ人生終わりになってしまいます。逆に、視野が広がれば広がるほど気持ちを切り換え易くなるんであります。もちろん、人のあんまりいない自然の良い所へ旅行したりするのもいい方法です。もう一つ、自分が全然知らない業界の人に触れるというのが有効です。ただ闇雲に触れるということじゃなくて、どんな業界にも必ず、人として向上しよう、成長しようという気概を持って仕事をしている人がいます。ほとんどの場合、その業界で一流と呼ばれていると思います。そういう人の話は勉強になるし、与えられた環境の中でベストを尽くすという共通点が見えて来ると思います。広く浅く幅広い知識を身に付けるのは大事なことです。それも百科事典みたいにいろんなことを暗記してるという風ではなくて、実地に触れて経験して行くことが必要です。そして知ったことをすべて生かす方向に持って行かなければ意味がありません。いろんな知識があればあるほど、いろんな人の気持ちを理解できることになり、そうなって初めて「生きた知識」になるのです。スピリチュアル業界で仕事をする人にとって大切な姿勢だと思います。

こだわりすぎ

スピリチュアリティの本質は言葉や概念では表現できない、とはよく言われる話です。だからスピリチュアルティーチャーは自身の生き方でそれを示す必要がある、というのは考えてみれば当たり前の話ではないでしょうか。しかしながらみなさんもご存じの通り、あんまりそうなっていないのが現実でありましょう。人として尊敬できるとか、ああいう人になりたいと思わせてくれる存在こそ、本来のスピリチュアルティーチャーであるはずです。言葉にすることで初めて理解できるんですから、その点で言葉というのも大事なんですが、概念そのものに囚われてしまった時の狂信性がいかに恐ろしいものであるか、歴史が証明しております。元来スピリチュアルはあんまり軽々しく扱ってはいけないもので、私も含めて素人がすぐに教師まがいの発信をしてしまう風潮はけっこう危険だと思います(私はスピリチュアル教育を語る素人といったところです)。スピリチュアルは証明できないから言ったもん勝ちという考えがありますが、間違っていると思います。周囲の人たちの人生を現実的に好転できるという事実をもって、教師の資格をおのずから証明すべきです。それが出来ないのなら、スピリチュアル評論家とかスピリチュアル解説者とかの肩書きを使った方が誠実ではないでしょうか。逆に言えば、自分を評論家とか解説者と割り切って活動している人が、スピリチュアル業界にはほとんどいないのを不思議に思います。

うまく行かない人生の意義

何をやってもうまく行かない人というのはいるものですが、うまく行かないの意味は「お金にならないことをやっている」のとほぼ同義なのではないでしょうか。一般的には、お金にならなければどんなことも成功とは見做されません。「昔自分を虐待した人を許す気持ちになれました」とか「依存症を乗り越えられました」とか「孤独を克服できました」とか言っても、変な人と思われるのが関の山です。それよかSNSでフォロワーが何万人いるとかの方が評価されると思います。だけど、スピリチュアルな観点からすると、誰からもまったく評価されない人が、実は集合意識に革命的な影響を及ぼしている場合もあるのです。いわゆる業が浄まって行く方向に使われるなら、ある種の心理療法やヒーリングはすごく重要だと言えます。集合的な業を消す役割を与えられている人生というのがありますが、世間からはまったく評価されないそうした功績を正当に評価してあげるのも、スピリチュアルティーチャーの本来の役割の一つだと考えます。誰かに掛けてもらった一言で人生の見方がガラッと変わることはあるものです。評価されるべきことが評価されることは大事なんじゃないかと思うんであります。そういう意味でニューエイジの甘言もいいこと言ってると思える部分があるのです。そういう言葉がいわゆる幼児的万能感や自己愛性のプライドを助長するんじゃなくて、勇気を奮い立たせる方に働いたら素晴らしいと思います。

理屈じゃない

言葉にすることで初めて理解できる、言葉にすることができれば理解できている証拠である、というのは人間の知性の枠内での話です。人間社会のすべての問題の根本原因は、自分のお金、自分の力、自分の実績などなどと言う所有感覚であるという洞察は、それこそ何千年も前から為されております。それなのに一向に問題が解決しないのは、言葉にしたことで分かったつもりになっているからだと言えましょう。そもそもこういう洞察が為されるには、人間の集合意識という重力の圏外に出ることが必要です。集合意識の外側に出るにはとても勇気が必要で、それを為し得た覚者さんは常に、理論よりも実践を中心に説いたものです。原因の洞察とその解決策が同時に与えられていたわけで、実践してこそ本物の理解が得られるものです。だけど理屈の部分だけを聞いて分かったつもりになる傾向が私たちにはあります。理屈よりも行動を重視した覚者さんはいつも人気がありません。所有感覚が強くなると人間社会はどんどん凶悪化して来るし、所有感覚が薄くなればなるほど楽園化して行く、言葉にすればとても簡単ではないでしょうか。でも、分かったつもりで全然分かっていないのが怖いところなのです。「自分さえ良ければいい」という考えは勘違いであることが本当に痛感されれば、それ以降の生き方が変わって来るのが当然ではないでしょうか。生き方が変わったという事実だけが、本当に理解したことの証拠になるのです。

一人じゃない

人間は誰でも実は一人じゃない、つまり守護霊や守護天使と呼ばれる存在がいつも傍にいる、という考えがありまして、あいのほしはもちろん肯定派なんであります。そのことが本当に分かれば、私たちは二度と孤独というものを感じないで済むはずなのです。私自身がさんざん苦労して来たポイントなので、あまり厳しいことを言いたくはありません。一生一人を運命づけられていることを現実的に悟ってから、かなり寂しく思った時期もあったことを、言いたくはありませんが認めます。人間同士の愛というのはどんなに高く見積もっても子供の(未熟な)恋愛であって、決して(完全に)満たされるということはありません。それなのに、スピリチュアルティーチャーさんを含め、パートナー探しをやめられないのが実際ではないでしょうか。ご守護様がいるいないがただの哲学的議論になっており、いると思っていてもそう感じられないのが問題なのです。人間は一人じゃないのは本当なのですが、そう感じられなければ何の役にも立たない一つのアイデアに過ぎません。じゃどうすればいいのでしょうか。小さい子供が言われたことを何でも信じるみたいに、ご守護様はいると信じないといけません。するといつかはご守護様の方から手を延ばしてくれることは確実です。想像の産物と言う人もいるでしょうが、もしそれで孤独と永久にオサラバできるんであれば安いもんじゃないでしょうか。根本的に孤独を感じない二人が一緒になれば、明らかに関係の質が別次元のものになるんであります。それこそが大人の恋愛と言わねばなりません。

現実を見る

精神世界では、最終的に成功や完成に至るのは多くて百万人に一人くらいです、というような話が大真面目になされます。百万分の一以下と言ったら、科学的には偶然とか無関係と結論されてもおかしくない確率ではないかと思うんですが、それを誰もオカシイと言わないんであります。方法論を提唱するなら、少なくとも二割以上の成功率を実証して頂きたいものです。スピリチュアルに限らず、あまりに遠くにある目標を見ていますと、目の前にある現実が目に入らなくなってしまい、何も手に付かなくなってしまう傾向が私たちにはあります。ましてや雲を掴むようなスピリチュアルな話は、現実から目を背ける理由になるというのは、昔からよく言われていることであります。まったく実績のない新しい方法論や、最後どうなるのかよく分からない哲学が、この業界には溢れております。人生どうなったって構わないという人が、そうしたものに賭けてみるというのもアリですが、もちろんそれを説いているティーチャーさんが責任を取ってくれることはありません。選んだ責任は全部自分という覚悟が必要であります。無駄に終わってもそれはそれで面白いと、それくらい軽い気持ちでいられるならいいだろうと思います。実際、精神世界というのは一種の賭けというのが事実なんだろうと思うんであります。命のすべてを賭けなければ成功は難しい。現実を見るというのは難しいことです。そんなワケであいのほしでは、一気に高みを目指すよりも一歩一歩着実に積み重ねて行くような方針に、ある種の転向をしたんであります。

工夫

私がまだ二十代の頃に「人生の目的は、愛がないように見えるこの世界に愛を見つけることだ」とどっかで読んだと記憶しているんですが、今もってまったく正しいと思います。どこに見つけるって自分の中に見つけるんだと思うんです。お金や恋愛は幸せとは全然関係ないというのが事実なんですが、それを本当に理解すると言うか納得しない限り、自分の外側に愛を探すことを止められません。外側を探すのを止めましょうと言っているのではなく、外側に探すのが一番目に来るのが人間として当たり前だ、というのが事実です。もちろんパートナーや家庭に恵まれるのが幸せだ、というのは人間として当たり前の事実です。だけど、それと同時に幸せは外側の境涯に関わらず心が決めることだ、というのがもう一段高いところにある事実なのであります。そういう意味で、いくら努力しても経済にも愛情にも恵まれなかった人はチャンスです。何もないのにお腹の底から暖かい気持ち、「ありがたい」という気持ちを持っていられるようになったら、この世で一番得難い宝を得られたと言っていいでしょう。要するに幸せということです。何もなくても心が満たされて行く方法を、自分自身の心の性質に照らし合わせて工夫してやって行く必要があります。待っていても誰かがやってくれることはありません。他の誰かが説いている方法が自分にも合うとは限りません。ある方法が自分に合っているなら、半年も経てば見る見る成果が上がって来るのが当たり前で、そうじゃないならその方法は自分に合っていないということになるでしょう。その方法で効果があったという実証者が沢山いて、今も増え続けているというのなら、自分の実践に真剣味が足りないとか、そもそもやり方を間違って理解している場合もあり得ます。

どうしたらいいんだろう

スピリチュアル業界の門を叩くことになる人には、何かしら具体的な理由があるのが普通だろうと思います。この病気をどうやったら治せるだろうとか、親子関係で悩んでいるとか、「どうしたらいいんだろう」というところから入るのではないでしょうか。御多分に洩れず私自身もそうでした。で、もちろんあらゆる問題を解決してあげますよ、というサービスがこの業界には溢れているわけです。ヒーラーさんなりティーチャーさんなりにお金を払って、小一時間お話しすればすべて解決するんであれば、こんなに楽なことはありません。始めは誰でもそういう期待を持つのが当たり前であります。あいのほしでは問題が解決するしないに関わらず、自分ができると思うことはすべてやるといい、という方針でお話ししています。するとやがて「どうしたらいいんだろう」という気持ちは消えて行くんであります。そこまではともかく自分で努力するということです。理想を言えば、そうこうするうちに基本が身に付いて来るからなんであります。科学の世界と一緒で、応用分野というのは何も知らなくてもとりあえず入っては行き易いんですが、不測の事態には手も足も出ないということがあります。基礎がある人は、何をどうすればいいのか考えるためのツールを持っていることになります。子供の頃にヴィヴェーカーナンダさんの全集とかハズラト・イナーヤト・ハーンさんの全集とかを読まされたら、その時にはそれが何の役に立つのかまったく分かりゃしません。だけど大人になる頃には、知らず知らずのうちにこれ以上ない基礎が出来上がっていて、何が起きてもどう対処したらいいのか自分で分かるようになっているものです。どうせなら、面倒臭くて時間が掛かるように見える基礎を積むことが、実は一番無駄のない行き方だと思うんですがいかがでしょうか。兎と亀じゃないんですが、私の経験から言えば、簡単最新を謳う行き方が一番遠回りになる場合もあるかも知れません。

捧げる

よく「悟り澄ましたような顔して」なんていう表現が使われますが、実際精神世界には、乾いた表情で人生を傍観するような向きもあるわけです。ある種のティーチャーさんにとってはそれで構わないんですが、もし何かが欠けていると言うならば、情熱が欠けていると言えるのではないでしょうか。好きな仕事とか好きな人に身も心も魂もすべて捧げたいと思うのは、人間のほんとの心情だと思うんです。自分の人生すべてを捧げる対象を見つけられた人は幸せだ、と一般的にも言われていますが、私もそう思うんであります。なぜ何かに自分を捧げなければいけないのか、と問われれば哲学的な議論になってしまいますが、本来の「捧げる」の意味は、捧げたいから捧げるんだとしか言いようがありません。情熱というのはそういうもんではないでしょうか。極めれば自己利益とか自己保存の本能というのが消えて行く方向にあるわけです。ところが何かいいことを期待して捧げるフリをすることが往往にしてあります。好きな人にすべてを捧げ尽くして何も見返りを求めない、決して後悔しないという生き方は、よっぽど相手を好きじゃないと出来ないのかも知れません。でも、出来たらすごいのです。策略や計算を心が完全に捨てることができるなら、それ自体が本来のスピリチュアルな道に適います。難しい経典をいちいち読まなくてもいいくらいの境地です。

得られない

物質至上主義が行き過ぎてしまっているということは、この文化の特徴として言われ続けているのではないでしょうか。物質を蓄積して行くだけでは本当の幸せは得られない、ということに気づく機会は誰にでも必ず与えられます。ところが当の私たち自身が、そんな風に考えないように努力しているのです。メディアのせいとか誰のせいということじゃありません。私たちは五官に感じられる人生を楽しんでいたいのです。それじゃ本当の幸せは得られないなんてことは、実のところ誰もが心のどこかで分かっているんであります。救われたいなどと全然思っちゃいない人を、救おうと考えたり助けようとしたりするのは、たとえ純粋な善意からだったとしても、おせっかいどころか良くない行為ということになるのです。人類が救われるために覚者の方々が残した痕跡は十二分に保存されております。今さら何かを付け加える必要はありません。まして私ごときが誰かを救おうなどと考えるとしたら、傲慢を通り越して笑止という話になるのです。人類の集合意識が救われることを選ぶなら、それはすぐに与えられるほどに道は整っております。なので何か問題があるように考えない方がいいし、現に問題はないのであります。私個人のことを言えば、世の中のためになると自分で思うことを、結果を期待せずにやることがすべてで、何かを伝えようとか難しいことを考えるのは無駄なことです。一般の私たちにとってスピリチュアリティで大切なことは、語るのではなく行動で見せて行くことだと思います。

過去と未来

癒しやヒーリングに興味がある人というのは、ややもすれば過去の解釈・再解釈に囚われがちになって、文字通り後ろ向きな人生になってしまう傾向が、私の経験から言えばあるように思われます。究極的に言えば過去を癒すことがそのまま未来になる訳なのですが、実質的には何の変化もしない頭の体操になってしまうんであります。未来に飛び込んで行くというのは、まったく経験したことがない故に想像したり予め感じたりできないということであって、科学的に言えば今まで全然使ったことのない脳の領域を使って行くことです。口で言うとそういう言葉になりますが、実際どうやるのかと言いますと、いわゆるクンダリーニを活性化することによってのみ、私たちは未知の世界に飛び込んで行けるのであります。いくら考えたって仕方がありません。今までやったことのないことをやればいいという単純な話でもなく、過去を癒しつつ与えられた天命を果たすべく未来に進んで行く、という生き方になります。今ということを強調する教えがありますが、私が思うに、大概は今と言いつつ後ろ向きになっているようです。未知に直面しているという事実が、本来の今の意味するところです。想像することすらできないのが未来だとしたら、じゃあ一体どうすれば行けるのかというのはすごく難しく思えるわけですが、心をきれいに磨いておけば直接知として勝手に入って来るということなんであります。そういう仕組みになっているとしか言いようがありません。

信念体系のワーク

自分が事実として受け入れている内的現実の総体のことを、精神世界では信念体系と呼んだりしています。自分が信じていることを変えれば現実を変えられるんだ、という考え方が生まれており、その具体的な方法については諸説あるわけです。自分が何を信じているのか自分で認識する必要がある、というのが最初のステップになります。信念体系というのは基本的に潜んでいて、全体像をいきなり掴むことは難しいんですが、常日頃ちょくちょく思う思い方の癖、何かの出来事への感情的な反応、慢性的な体の症状などとして表に現れているものなのです。そっから糸を手繰って自分はこんな風に信じているんだなと認識するに至れば、それを変えるという選択肢が出来るわけなのです。表面的にまったく現れていない思いというものもあり、特定の出来事をきっかけに、自分の中にあるとも思っていなかった感情が出て驚くということもあります。出て来たときが浄化のチャンス、と有り難く思えたら素晴らしいのであります。では自分が固く信じて来た思いの内容を変えたいと決めた場合、どうしたらいいのでしょうか。世界平和の祈り安定打坐の中に消して行くことや、熱を育てる方法の熱の中に投げ入れることをお勧めしています。心理分析的な手法や催眠的な手法は今現在のあいのほしではお勧めしていません。なぜかと言いますと、複雑なものより単純なものの方が良いと思うからであります。心をきれいに磨いて行くことが現時点で一番重要と考えておりまして、それは普通一夜にして起こるものではなく、こつこつ地道に成し遂げて行くものであると感じております。

軽い気持ち

どの道を行くにしても、成功の秘訣は何ですかと聞かれたら「軽い気持ちで取り組むのがいいんですよ」という答えになるでしょう。言葉にすると簡単に聞こえるものの、やってみたら難しいということがよくありますが、これもその一つだと思います。それはあたかもボクシングを真剣にやる人が、小さい子供が遊びに興じるような気持ちで自分の限界に挑戦して行くようなものです。人生という戦いの中で、結果を期待せずそれ自体のために楽しんで行けたら、何をするんであれ必ず成功できると思います。スピリチュアルだってまったく同じです。人生どんなことがあっても常に軽い気持ちでいられたら、それ自体がすごい達成だと言えるでしょう。重大だと思っている教えや哲学へのこだわりや、ナニナニの探究をしていますというような深刻さを落とすことが、確かに第一歩だと言えると思います。ましてや自分の物になってもいないような段階で(間違った使命感から)教えを広めようとすることは良くありません。だけど私も含めてそういうことがよくあります。みんな先生になりたがり、生徒にはなりたがらないとよく言われます。生徒のイメージが悪いからですが、軽い気持ちでいられる人は生徒の立場に甘んじていられるという言い方もできます。何を聞いても新鮮に聞こえるからなんであります。毎日同じ行をしていても、退屈知らずで毎回新鮮に感じられるようなら、とてもうまくできていると言っていいでしょう。

瞑想の道

どの道を行っても最終的には瞑想に集約されるという訳で、王道というような意味でラージャ・ヨーガと呼ばれているそうです。瞑想のようなものが自然に起こるようになる、という言い方がより正確かも知れません。心というものは何かを強く求めているうちは自制することが出来ません。抑圧して潜在意識内に封じ込めようとしても、別な経路で爆発してしまうわけです。なのでやりたいことは気が済むまでやり抜くという一応の方法を採るわけであります。で、飽きてしまうかより良い何かを見つけたりすると、心は掴んでいるものを放すということが自然に起こります。心の停止とまでは行きませんが、静かになるとか落ち着くという瞑想状態が期せずして起きるんであります。感覚を断ち切るということは文字通り絶命を意味していて、普通そこまで行くことありませんが、感覚に心を捕らわれなくさせるというのが、瞑想が深くなって行くプロセスであります。特別な才能がなくても誰でもここまでは来られるのです。誰でも心の平安を得られるのであります。ただ、潜在意識に溜まっているものの大小は個人によりますので、そこの難しさだけがあるのです。七〜八時間平気で瞑想していられる、それが苦になるどころか楽しくて仕方がないという人は、他の道には脇目も振らずに瞑想の道を行くのが合っています。で、悟りや光明というのは私たちの努力で到達できる境地の遥か彼方にあるものであり、人間の側に選択肢がある訳でもありません。基本的に望んで得られるようなシロモノではないので、心に興味を持たせないようにするのが良いと、あいのほしではおすすめしています。

仕事の道

行動や行為を通じて神に至る仕事の道というのがありまして、インドではカルマ・ヨーガと呼ばれています。成功や報酬を期待することなく、世のため人のためになる仕事を全力でやる態度というのは、実は神様の気持ちとまったく一緒なので、知らず知らずのうちに神様と一体になってしまうという方法なのであります。自分を犠牲にしろという意味に聞こえてしまい兼ねないんですが、そうではなく、自分も他人も同じように大切にするのが神様の気持ちなので、自己犠牲的な態度というのはカルマ・ヨーガからはやや離れてしまいます。ここで、例えば年収が一千万円あったとして、それをどう配分して使うのが正しいのか、という実際的な問題が持ち上がります。自分と家族のためにそこから三百万円使うのは多いのでのでしょうか、少ないのでしょうか。一千万円をまるまる放棄するという考えもありますが、そうすると今度は自分が誰かに養ってもらわない限り生きていられないことになり、仕事の道としては正しくありません(出家している場合は別)。では、自分の生活費を差し引いた残りのお金をどう使ったらいいのでしょうか。困っている親戚を助けるのがいいでしょうか。慈善団体に寄付するのがいいでしょうか。それともどこかの事業に投資するのがいいでしょうか。神様の視点を持ち合わせていない限り、何が正しくて何が正しくないのか判断するのが難しいのではないでしょうか。ですがそこは常識的な判断でいいんであります。家族を助けるのはいいことですが、いくら家族を喜ばせるためであっても、宝石をやたらに集めたり別荘をいくつも持ったりするのは、カルマ・ヨーガの観点ではよくありません。自分の知り合いや地域のために、できる範囲でお金を使うのはいいことです。自分が好きで得意なことを、一番世の中のためになると思う方向で生かして行くのはいいことです。で、その結果を期待しちゃいけないということなんですが、そこが一番難しいところで、私たちは大概どんなに頑張っても、ちょっとは期待してしまう気持ちを消せません。それができる人だけが仕事の道で完成するわけでありまして、他の道を行った人と比べて、人々を感化し育てる力がとても強いのが特徴です。世の中を変えて行く力になるわけです。

知識の道

若いうちにしか出来ない、と言うと異論が出るかも知れませんが、やる気とエネルギーが必要だからこそ、若い頃に取り組むべきなのが知識の道、インド哲学で言うジニャーナ・ヨーガであります。これは私が思うに、どうしても知りたいと思うことを研究し尽くし、どうしてもやりたいと思うことを気が済むまでやり尽くすことによって、結果的に神に至る方法であります。「私とは何か」というのが有名な問いですが、これを公案のように考え続ければいいわけじゃなく(それが唯一知りたいことである場合は別)、私が思うに、自分の中にある疑問を虱潰しに解いて行く必要があります。疑問が多ければ多いほど一生懸命学問しないといけませんが、その度合いは人によります。気力がなくなって中途半端で終わってしまうのを、こだわりが取れたからだと言い訳してはいけません。知的な探究だけじゃなくて、海外旅行のようなことも含めて経験してみたいと強く思ったことは実際にやらないといけません。気力がなくなって何となく満足した気持ちになれば終わりということではないのです。なので十代二十代、せいぜい三十代までに集中して行う必要があるわけです。四十代以降になると、社会的な条件や個人的な理由で実行が困難になるのは明らかなことだからです。知識の道は、いわゆる知的好奇心、知りたいという気持ちが人一倍強い人に向いています。もともと知的な関心が薄い人、ものごとを知りたいとあんまり思わない人には合いません。ただ、教養としてジニャーナ・ヨーガがどういうものなのかを知っておくことは誰にでもお勧めできます。教養があるのとないのとでは、長い目で見るとやっぱり差が出て来ます。カジュアル過ぎる本だと全然違う方向に誤解してしまう可能性があるので、ここはヴィヴェーカーナンダさんがお書きになったものを読むのが一番適切だろうと思います。すらすら読める類いの本ではありませんが、読んだら読んだだけのものが必ずあります。

信愛の道

インドに信愛の道と言うかバクティ・ヨーガというのがあって、これは神の属性を多く顕している人を信仰することによって神に至る方法のことを言います。キリスト教では本質的にこの道を辿ります。ヒンドゥー教は信仰の対象になっている神様がいっぱいいるので、日本人は八百万の神と同じような意味での多神教なんだろうと誤解してしまいがちなんですが、ヒンドゥー教では神の化身をバクティ(信愛)の対象にしていると理解するのが正しいと思います。カトリックでお気に入りの守護聖人を信仰したりするのは、日本人としてはご利益目的のお守りとまったく同じか似たようなもんだろうと解釈しているフシがありますが、守護聖人もまたバクティを捧げる対象として置かれていると理解するのが正しいでしょう(私たちとは歴史が違っており、それゆえ遺伝が違います)。何も知らない私ですから間違っているかも知れないですが、歴史的に見て日本にバクティが現れたことはなかったように思います。少なくとも大きな流れになったことはなかったようです。だからこそ、インド・ヨーロッパ語族の宗教文化の中にある信仰を、日本人は一種の思想や哲学と捉えてしまうのであります。信仰というのは考えではなく生き方であって、バクティとは命を捧げることです。この経験が欠如しているために、日本人はこの分野で大いに遅れを取っているのです。神の化身を信仰するのと、ロックスターや映画俳優を熱烈に信奉するのと、どこが違うのかと言いますと、大衆文化的なアイコンは楽しさや狭い意味での自由を象徴しているのに対し、化身というのは誠実さ、美しさ、調和というような性質を顕現する完全な人間であると言えます。神に心を向けることが目的のすべてなので、信仰の対象が例えば、歴史的事実がはっきりしない伝説的な人物のイメージであっても構わないんであります。手掛かりの多い最近の人物である方がやり易いと言えますが、自分が心の底から尊敬し信頼できる人を選ぶ必要があります(信仰は自発的なものであって、押し付けたり押し付けられたりするものであってはいけません)。いろいろ調べてほんのちょっとでも疑いが残る人物は、バクティの対象として無論ふさわしくありません。そのような人を誰も見つけられないなら、信愛の道は自分に合っていないと結論して良いでしょう。他にもいくつか道はあり、特に有名なものでは知識の道(ジニャーナ・ヨーガ)があります。

広い世界

若い頃にある先生から「広い世界がある」と教わったんです。ブルジョワ的な世界を毛嫌いする人が案外多いようですが、邸宅の内装に使われる調度品とか一流の宝飾品などを、変な先入観なしになるべく多く見るようにして、美的感覚を養うのがいいのです。卵が先か鶏が先か、富裕層には心の豊かな人が多いというのは一つの事実であります。教養が幅広いほど楽しみも増えるからであります。それと同じように、精神世界にも広い世界、もっと言えばより良い世界が確実に存在しています。ある一つの分野を究極とし、他のことはよく知りもしないのに全否定するスピリチュアルティーチャーさんがたまにいらっしゃいますが、知らないとは恐ろしいことだと思います。心が成長し、より繊細で美しいものに触れられるようになると、その分だけより崇高な教えがあることに気が付くようになります。で、それまで学んで来た教えを全部手放すということも起こり得ます。より良いものを認識したがために、それまでのものに取って代わるわけです。心が純化されて行くのが正しい方向だと思います。よその組織がいいとか悪いとか、否定性や競争意識のようなものは自然に落ちて行くんであります。一つの見方にこだわらず、いろんな本を読んで学ぼうという姿勢が大事なんじゃないかと思うんです。それで最終的に、自分に一番合っていると感じるものを選ぶといいと思います。

修行の必要性

修行とか修養とかいった考え方は、何でも簡単に手に入ることが求められる今現在のスピリチュアリティの中では、何だか厳しく古臭いものと捉えられがちだと思います。確かに、あくまで私個人の意見ですが、ある種の伝統的な苦行というのは、心身を痛めつけることによって幻覚を見ることが目的であった、と今となっては言えるものです。神秘体験と霊性の自覚というのは多くの場合似て非なるものであって、それはその修行をやっている人を見れば区別が付くものです。神秘体験や霊能力を興味の対象にしている場合、一般常識からかけ離れた言動をして、どことなく品がない印象を与える人になるものです(そんなようなティーチャーさんや団体は要注意です)。伝統的に「魔境」と呼ばれている状態です。じゃ正しい修行とは何なのかと言いますと、私が思うに、心をきれいにすることがすべてです。離欲と言うと哲学的に聞こえてしまいますが、要するに五歳くらいの子供の純粋さということです。すべてを捨てるとなるともちろん人間は生きて行けませんが、そうではなくて、大人のような欲望や策略が心から離れている状態を言うんであります。修行の方向性を間違えてしまうなら、いろんな努力は無駄に終わってしまうので、よくよく気を付けなければいけません。で、子供のように素直で純粋な心になれたらそれが悟りなのかと言ったら、もちろんそうではありません。そこまでが準備段階であって、最後の橋渡しのようなものが必要になります。でも、準備が出来ていない限り橋渡しをすることは無理なのです。なので、人それぞれ心をきれいにするための色々な修行が必要になるというわけです。

お手本

本で読んだり話を聞いたりするのと、実際に経験するのとでは、大きな隔たりがある場合があります。スピリチュアル業界では、いわゆる悟りや光明といったものを「何でもない普通のもの」と表現するティーチャーさんもいらっしゃるように聞きますが、私が思うにどうってことないどころか、それがどういうものかもし事前に知ることができたとしたら、すべてを犠牲にしてでも得たいと自然に思えるほどの宝なのであります。私たちが見て知っているものからでは想像もつかないようなシロモノであり、事実想像できないわけです。だから何でもないものという話になってしまうんだと思います。私が思うに、生身のお手本が絶対に必要だと思います。本物の覚者というのは想像を遥かに超えるような素晴らしい存在である、とそのような人物に出会えた人は口を揃えて言うでしょう。せっかく出会えても覚者と気づかず、くだらない人物と思って通り過ぎてしまう人も多くいます。ちょっと関われるだけでも大チャンスなのに、まして直接指導を受けられる機会はまさに千載一遇と言えるものでしょう。だけど、それで悟りが開けるわけでもないのです。多くの場合、疑いの気持ちや古い信念が覆いとなり、それを取り除かない限り進展がありません。せっかくの覚者とのご縁を無駄にしてしまうのは往往にしてあることです。疑うことを知らない子供のような気持ちにならない限りダメなんであります。これは始めから疑うなという意味ではなくて、まったくその反対に、自分の中にある疑いに一つ一つぶつかって解決して行かなくてはならないという意味です。ですから多くの場合長い時間がかかって当然であります。覚者とのご縁があってこれなんですから、何もない私たちはどうすればいいんでしょうか。今の時代、覚者を探して歩くのは危険なことでもあります。やはり、精神世界云々に関わらず、心のきれいな人や正しく生きようと努力している人と交流することから始めるのが良いだろうと思います。

居場所

自分の居場所を見つけるとか探すといったことは、日常会話でよく聞かれる話です。家を買うとか建てるとかいった時に、終の棲家という表現もよく聞かれます。そんな風に私たちはいつも落ち着く先を探してるようなとこがありますが、驚いたことにスピリチュアル的に言うと、物質世界に私たちの居場所はないということなのです。ここは行動し完成するための通過点であって、そもそも落ち着くべき場所ではない、という身も蓋もない話になってしまいます。もちろん思考を止めるとか自我を消すといった教えは良い伝統なんですが、あくまで完成のための方法であり、完成そのものの姿ではないのであります。そこそのままが居場所であり、誰の所有いかんにこだわらないのが、完成した姿に近いということかも知れません。先祖代々の土地を奪われたとか、仕事のポストを奪われたとか、人間の闘争には居場所に関する事柄が多く含まれています。居場所にこだわらなければこんなに楽なことはないはずなのに、なぜかこだわって苦しんでしまうわけではないでしょうか。すべては法律上の話でしかないのに、土地や建物の所有権を持つことで物質生活が盤石になる、と私たちは真顔で信じ続けているのです。愛があるところが自分の居場所である、と気づけた人はいい線行ってると思います。それを一歩進めて、その愛を神様の方に向けられれば完璧だと思います。

孤独

一人は寂しいものだというのが、ごく一般の社会通念ではないでしょうか。友達は多い方が幸せだというのは、本当にその通りだと思います。ですが、孤独は不幸なものだとか、どのようなことであれ、決め付けてしまうことはスピリチュアル的に見てよくないことであります。ご存知の通り、社会通念的な決め付けによって心を縛られ、苦しんでいる人が多いんであります。そう思わなきゃいいと聞かされたって、どうしてもそう思えてしまうから苦しいんであります。では一体どうすればいいと言うんでしょうか? 中村天風さんの「孤ならず」という言葉がありますが、これは「宇宙の根本造化力は常にあなたの味方なんだから、決して自分は一人だと思っちゃいけないよ」というような意味であります。実際そういう信念が出来た人は自由自在に生きていられると思います。とても難しいことのように聞こえるんですが、人間こう思おうと自分で決心すれば、本当にそう思えるという原理が働くことを、まず理解しなければなりません。すると、そうなれるのです。何がどうであれ、明るく楽しい気持ちで生きて行くことが幸せであり、そのように命を生かし切ることが私たちの義務である、これは理屈ではありません。人間の幸せを大切に考える場合、それが真理であります。幸せなど関係ないと考えるならその限りではありません。持って生まれた条件が違うので、いわゆる運命がどれだけ拓けるかは人それぞれ違いがあります。死んだらおしまいと思うなら、早いこと諦めてしまった方が、無駄な努力をしないで済むから得だ、という結論になるでしょう。だけど、永遠の命ということを信じられるなら、石ころに生まれたらどんなに頑張ってもルビーやエメラルドにはなれないと分かっていても、磨けば綺麗な石ころにはなれる、ということに意味が出て来るんであります。

感謝

痩せ我慢を強要するかのように聞こえることを最終的に言わなきゃならないのが、スピリチュアリティの泣きどころであります。とんでもなく辛い人生を歩んで来たのに感謝とか、仕事がなく、お金もなく、恋人もいないのに心が満たされているとか、一般常識的に見たらオイオイと言われるような、絶対不可能と思われるようなことが実は可能だし、もっと言えばそれしかない、それが精神世界の本質であるということなのです。何だかんだで人生がうまく行っている間はそれが見えないし、また見える必要もありません。人生躓いた時に、ある人にとっては「それでも感謝ですよ」という教えが宝のように光り輝いて来るものなのです。世間では、結婚に失敗し会社をクビになり、鬱になり引き籠もりになりというシナリオが、人間の当たり前の反応として語られるのではないでしょうか。そういう時こそ本当の命を得るチャンスです、なんていう話をメディアで聞いたことはありません。だけれども、メディアの論調は残念ながら正しくありません。仕事で成功し、最高の条件の結婚をし、何一つ不自由なく暮らせることが幸せと信じて来た私たちに、実はそうではないという事実を次々に見せられる時代に入って来ています。メディアも少しずつ変わって行くと思います。どんなことがあっても「まだ生きていることに感謝しよう」と思おうとする努力は決して無駄になりません。実際とんでもなく素晴らしい結果に繋がって行くと私は断言いたします。瞑想とかマントラもいいですが、私が精神世界で何か一つだけ選ぶとしたら、生きていることに感謝するという感謝行をおすすめしたいんであります。

希望

夢や希望を持ちなさい、と子供の頃から聞かされて来た気がするんですが、今一つピンと来なかった私なんであります。世間で言う夢や希望の中身は、理想の恋人に出会うとか、裕福になって遊び暮らすとか、社会的に認められてチヤホヤされるとかいうようなことではないかと思います。この社会は、そういったものが多くの人の手に入らない仕組みになっている以上、夢や希望を持ちなさいという言葉は私には残酷に聞こえたからであります。この言葉通りに七十歳、八十歳になっても白馬に乗った王子様が迎えに来るという希望を持ち続けたとしたら、それは現実と言うよりも自分で作り上げた想像の世界に住むことになってしまいます。そしてスピリチュアル業界も、想像の世界に住めと言わんばかりの浮遊感のある教えが広まっているのではないでしょうか。希望というのは現実のものでなければならないはずであります。スピリチュアル的に言いますと、今現在どんなにひどい境遇にいても、いつかきっと良くなると信じるのはいいことであります。それも自分一人が抜け駆け的に良くなるということではなく、みんなが良くなるんだと思えれば最高です。何が起きても変化があるのは生きてる証拠、生きてるからこそ向上できると思えれば最高です。それこそほんとに我のない生き方ができてるということです。もちろん口で言うより難しいことですが、かと言って難しく考える必要もないかと思います。

常識

若い頃は常識に囚われないのと常識外れなのを一緒くたに考えていて、単にやんちゃで大胆な人をかっこいいと思ったりする、まさに若気の至りといった感じです。かといって世間で常識とされるのは、社会人になったら新聞を読むべきだ、遺伝子解析の分野が有望だ、やれ人工知能だ、火星移住計画だと、要するに最新情報に目を光らせて流れに乗れば成功できる、というような話ばかりではないでしょうか。常識外れであろうとしても、一般常識的であろうとしても、スピリチュアルな道からは遠のいてしまいます。スピリチュアル業界の中ですら、霊性と性格の良し悪しは全然無関係であるとする教えが昔からあるのですから、個人的にはどうしたものかと思っています。もちろん正しい人間の生き方というのはあるんであります。それが分からないままスピリチュアルな道に入ると、結果的にやっぱり誤った方向に行ってしまうように見受けられます。自分さえ良ければいいという人間感覚は根深いんであります。人に感銘を与えるどころか、一般人よりも自分勝手な印象を与える人間になってしまったりします。やっぱり若い頃に正しい生き方をしている人に出会えることが決定的に重要なんじゃないかなあと思うんです。そうでないと、よっぽどの上根でもない限り、人生どういうことなのか分かるはずもありません。スピリチュアルな常識というようなものはあり、人間社会の観点からすると損をするように見えるのです。霊的な生き方こそが一番得な生き方なのですが、私たちはそれが分からずにいるのです。見返りを求めずに世のため人のために最善を尽くす、というのが入り口になりますが、見本を見せてくれる人がいない限り一人でやるのはとても難しいことだと思います。

やるべきこと

人生でやるべきことは何だろう? というのはスピリチュアル業界でもよく議論される話題の一つであります。まず、やるべきことなど別にありはしない、と考える人たちがいます。虚無主義と言ってよいものでしょう。次に、人の迷惑など構うものか、やりたいことを好きにやってこそ我が人生、と考える人たちがいます。これは昔から、反抗期の若者にアピールするんであります。次に、人の迷惑にならない限りにおいて、人生やりたいことをやればよいと考える人たちがいます。言い換えれば、人に迷惑をかけない範囲内で楽しみを見つけて行くことが人生でやるべきことというわけで、これが一般人における自由の概念と言えるのではないでしょうか。最後に、世のため人のためになると思う仕事を、見返りを求めずに神様に捧げるべきだ、と考える人たちがいます。なぜ仕事を神様に捧げるのかと言いますと、何が本当に世のため人のためになる行為なのか人間の頭では分からないので、その結果は神様にお任せしますよ、という意味なのであります。その人のためを思ってしたことが、結果的にその人をダメにしてしまうこともあるのが、人間の愛情というものなのです。なので、見返りを期待しちゃいけないよと言われるわけです。もちろんスピリチュアルなのはこの最後のカテゴリーだけです。私たち一般人の目には、自由のない生き方のように見えるのです。その理由が実は、私たちが本当の自由を理解していないからに他なりません。有名な自己啓発の本にはたいてい、「誠実になる」ことより、「どうやれば誠実そうに見せられるか」という、表面的なイメージを操作する方法が説かれていたりします。そのものズバリを掴むより、「なんちゃって」みたいなのが商売としては一番うまく行くと信じて疑わないからではないでしょうか。スピリチュアル業界がそれとまったく同じような状況にあるのは、ある意味当然といえば当然のことであります。多くのティーチャーさんが戦略やテクニックは必要だと考えており、そのものズバリをやると損をすると思い込んでいるようなフシがあります。

上根下根

仏教界では持って生まれた資質を表す上根・中根・下根という仕分けがあるそうです。私が思うに上根というのは要するに、子供の頃から神仏を敬う気持ちのある人のことです。宗教的家庭環境で育ったから習慣的にそうなった、というんではなく、誰に教えられたわけでもないのに妙に信心深い場合、上根と言うわけです。上根の人はちょっとしかいなくて、その他大勢の私たちは単純に下根と言ってよかろうと思います。ここで問題なのは、インド哲学というのはほぼすべて、何がどうであれ信心深いことが大前提で、人物的にも抜群に優れた上根の人向けに説かれているということです。下根の私たちが一生をかけて実践してもまったく成果が得られず、箸にも棒にも引っ掛からないまま終わる可能性が高いのであります。ヴェーダーンタのような哲学の道は昔からとても難しいと言われていて、「私とは何か? 私はあれではない、私はこれでもない」と突き詰めて行って、最後に残るものがあるかどうか考える、というのが有名な方法です。フランスのように国民性自体が哲学に向いている国であれば、哲学の道が実際に合っている可能性があります。デカルトの哲学を足掛かりにして辿り着いたステファン・ジュルダンさんのような覚者を現に輩出しております。ところが日本では、哲学の道を辿る資質があるとは到底考えられない現状にあると思われます。日本人が辿り易い道があるはずなのであります。未だ私の中で結論は出ていませんが、世のため人のためになると思われる行為を、見返りを求めずに淡々とやるカルマ・ヨーガの道が、本当は日本人の心情に一番ピッタリ来るんじゃなかろうかと思ったりします。そこに現世的な報いがあんまりなかったとしても、神仏は悪いようにはしないという確信が伴えば完璧だと思います。日本人には地味なのが合ってると言わんばかりなんですが、実際そんな感じがしないでもありません。「私悟っちゃいました」とか、そんなような人に誇れる要素が何にもないわけなのです。それでいてちゃんと辿り着いているのです。

心の豊かさ

物質的に豊かな世界になったら、今度は心の豊かさが求められる時代になる、と再三言われております。ここで言う心の豊かさの意味するところを推察するに、世界一周旅行や、美術館巡り、オペラ鑑賞というような、大都市に住む最富裕層が実際に享受している楽しい暮らしに行き当たります。これは私が思うに、心の豊かさと言うよりも、経済の豊かさがもたらす心の余裕と言うべきものではないでしょうか。そして五感を楽しませてくれる外側の何かに依存するものでもあります。お金が尽きればそれと同時になくなってしまうという関係にあるわけです。スピリチュアル的に言えば、物質世界にほとんど関係なく存在すればこそ、本当の心の豊かさであると言えます。もちろん世捨て人にならない限り分からない、語れないという考えは極端過ぎます。神様は物心両面に働いているからです。大安心の境涯と世俗的安泰のバランスというのは常に微妙な問題であり、多くのスピリチュアルティーチャーを脱落させる(金儲けとか権力闘争に走るということ)原因になって来ました。本質的なものとそうでないものの区別がついていないために、一緒くたに説いている教えが多いからとでも言えましょうか。私たちには手も足も出せないような理由なんであります。私たちの目にはすべてを持っているように見えていた人が実は不幸だった、という事実をニュースで見せられる昨今です。心は豊かだけど生活は不幸、などということはあり得ません。今ある生活の中に幸せを見つけ出すためには、自分が理想とする生活を手に入れたつもりで、そこに当然伴っているべき感謝を前もってする、という方法から入るといいと思います。それで実際に生活がよくなる、というオマケが付いて来ればそれに越したことありませんが、そういうのを釣り文句にするのはよくないんじゃないかと思うんであります。

宿縁と浄化

もしもこの世が愛と調和の美しい世界だったら、スピリチュアリティというものは必要ないのだろうと思います。だけど、そのような世界になりつつあるのです。若い時に耐え難いような苦しみに直面させられる人というのはあります。若ければ若いほど、何かよくない行いをした結果だとは考えられず、これといった理由を見つけることができないわけです。そこで先祖や過去世からの宿縁が原因であるとするカルマ論を説かれれば、若い心にはそれが真実であると思えるものです。それ以外に考えようがないわけですからね。そこへ来てさらに、カルマを解消する方法があると聞かされれば、誰だって飛び付きたくなるのは当たり前でしょう。ニューエイジにはカルマを解消できるとする考えがあり、私もいろんな方法を試してみたものです。ところが、宿縁というものが形となって現れるのを未然に防ぐ手段はそんなにない、というのが残念ながら現実なのであります。よく考えてみれば、行為の結果が簡単に消せるなら、世の中何をやっても同じということになってしまい、そんなことがあろうはずもありません。だけど、そんなような虫のいい考えが後を絶たない業界なのであります。七つの体で言うところの四番目の体にアクセスすることができれば、ほとんどの宿縁は消すことが可能であると言うこともできるのですが、そんなものあるとも思ってない私たちが、具体的に何をどうすればできるのか分かる道理もありません。ですので、五井先生のおっしゃる通り、不本意なものは神様が人を彫刻する過程に出る削りかすなのだから、本来の自分とは無関係のものと見て心を捉われさせないことが重要と言うべきだと思います。どんな困難な状況も、それを自分と同化して見なければ睡眠中に浄化されて行く、というのは私の経験から言えば本当です。気持ちを離せば離すほどいいのです。現象として出切ったら必ずよくなるのだ、という希望というか信仰を持てるかどうかに掛かっております。もちろん、将来的に高次元の体にアクセスするという可能性を捨てる必要はありません。

雲を掴むような話

何となく漠然とした話が多いというのが、一般人のスピリチュアルへの評価なのかも知れません。「目覚め」や「悟り」や「光明」といった用語の定義がはっきりしない以上、雲を掴むような話にしか聞こえない、というのが正直と言うか当然の判断だろうと思います。ややもすれば実体のない業界だと言われても仕方がありません。かと言って、趣味のカルチャースクールと同好会を合わせたような、真剣に道を求めているようには見えない生ぬるい雰囲気の中で、それなりに満足している人が多いという業界の実情なのであります。また、真剣にならなければいけないという決まりもありません。だけど、最終的にそれでどうなったかという問いを避けて通ることはできないように思います。一つには、スピリチュアルは心の問題なので、具体的に何がどうなったとか話題にするべきではない、という考え方があり、一理あるなと思います。他方、スピリチュアルなのに結局は楽して儲かるとか、恋愛成就とかいうことだけを重要視する考え方もあります。当たり前の話とも言えるのですが、あいのほしとしては、巨万の富とは言えないまでも人並みの生活ができるようになることを大切と考えますし、なおかつ個人的な信仰を持つに至ることが最も望ましいと考えています。ここで言う信仰とは絶対の信頼とか安心立命のことです。それを観念の上で分かるのではなく実際に生きて行くことによって実体のある教えになるのです。この世ならぬ法力や神通力を発揮してこそ本物と言うべきか、過去の覚者さんはそういう方ばかりだったので、あんまり普通っぽいとスピリチュアルに見えないという面があり、当たり前のことを言っているようにしか聞こえないティーチャーさんには人気が集まりません。昔のようなカリスマがいない時代ですが、雲を掴むような悟りとか解脱とかについて思いを巡らすよりも、心身の事情が良くなって生活が楽しくなり、目に見えない存在の加護を信じ切る気持ちが出ればそれで十分と思いますが、如何でしょうか。私はあまり高い所を目指しておりません。

推薦図書

あんまり知的なタイプとは言えない私なんですが、子供の頃からあんまり本を読まない割には大きな本屋さんが好きだったんです。今にして思えば、心のどこかでいつも何かを探していて、その糸口を本屋さんに求めていたんだなあということが分かります。下根の人間なので長い時間が掛かりましたが、スピリチュアリティの基本をどこに求めたらいいのか、どうにか分かるようになった、とみなさんにお話しできる準備が整ったと思います。それがあいのほしの本の紹介欄なんですが、多くの本を紹介するよりは敢えて数を絞っています。なので若い人にはとりあえず一通り読んで欲しいと思って、一部を除いてわりかし図書館で入手し易いものを選んであります。このためにわざわざ買って読んで欲しいという意図はありません。精神世界というのは純粋な哲学とは違って、それでよりよく生きられるようになるかが最終的に問われることになるので、早い段階から一つの教義にこだわってしまうと、年取ってから失われた部分を取り戻すのは大変だ、という実質的な理由が背景にあるんであります。スピリチュアリティはそもそも、何かが変わるとか良くなるとかいうものではない、とおっしゃるティーチャーさんもいますが、私はそう思わないです。スピリチュアルな伝統をすべて見渡した場合、そういう結論にはならない、というのが私の意見です。私たちはただ存在しているだけではなく、大調和の方向に導かれてもいると見るべきです。スピリチュアルを長年やっても立派な人格にならないし、分かるようで分からない専門用語で若い人をからかうような大人になったら大変です。それもこれも、真の自由を体現し、思わず手を合わせたくなるようなスピリチュアルティーチャーさんが少ないことが原因だとも言えます。実際に見せてくれる人がいなければ、本に書いてあることが本当は何を意味するのか分かるはずがありません。だけど、ある種の境地に辿り着いた人の言葉には特殊な力があることは確かです。

心の拠りどころ

生きて行くためには誰しも心の拠りどころが必要だと私は思うんであります。みなさんはそう思わないかも知れないですが、あいのほしはそういう方向性でやっています。誰かとか何かに頼って生きているのは心が弱いからと言われればそうでしょうし、自分でできることは自分でやる必要はあると思います。哲学を専門にやる人は宗教を一段低く見ているきらいがあるのではないでしょうか。哲学は強い人のためのもので、宗教は弱い人のためのものであると言えるかも知れません。つまり、人生がそれなりにうまく行っているうちは哲学で満足できますが、そうでないなら宗教にまで踏み込んで行く必要が出て来る、という意味です。安心立命とか言いますが本当にその通りで、宗教の本質は結局、人生の状況が何がどうであれ、心の底から安心していられる拠りどころを見つけるところにあるのであります。納得できる答えを見つける不二一元論的な教えは強い人のためのものであり、あまり多くの人を救えないだろう、と私は思います。病気や貧困から抜け出したい、愛情を得たいというのが、ほとんどの私たちの当然の願いであり、そこからでないと入って行けないというのが事実です。そこで昔から、神様の人間を救い上げようとする心の働きとして、覚者と呼ばれる方々がこの世に現れ続けているのであります。人の運命を好転し、なおかつ神性へと導いて行くにはとてつもない力量が求められます。だけど、現実にいるのです。私たちは抽象的な神を始めから信じることができにくいので、そういう先生とのご縁でやって行くことができれば非常な幸運だと思います。そういう先生を心の拠りどころにすれば、その先生は神様の心と直通しているわけですので、そのまま(知らぬ間に)引っ張り上げてもらえます。いつの時代も中途半端なティーチャーさんが多く、存命中の覚者に出会える人は稀です。思慮深く、かつ素直でないと、せっかく出会えてもそれと気づかないこともあり得ます。ご縁を投げ捨ててしまわないように注意しないといけません。

世を去る

余命の宣告を受けて初めて、自分がやり残していることがあるのに気づく、というのはよく聞く話なのですが、精神世界を学んでいながらそれじゃ、ちょっと残念な気がいたします。とはいえ、ある種のスピリチュアルティーチャーさんは死後に自我や個性というようなのは消滅すると説いていて、いわゆる肉体が人間のすべてだと信じ、無神論的な考えが主流になっている国でブームになっております(既成宗教が退廃していることへの反作用)。消滅するのであれば人生何をやっても変わらないわけで、私から見ると困ったブームだなあと思うわけです。ところで、神秘学では私たちはみんな七つの体を持っていると言われています。つまり、肉体の他に微細な体を六つも同時に持っているというんです。私たち一般人にとっては、病気や事故などでたまたま体外離脱でもしない限り、肉体以外にも体があるということは知識として知るだけで、それを裏づける体験が全然ないということになってしまいます。危険を伴う特別な修行(クンダリーニ・ヨーガ)をしない限り、体験としてハッキリ分かる可能性がほとんどないので、死んだら終わりと思うのは当然と言えば当然です。引き寄せの法則や思考の現実化というのは本来、微細な体を使えるということが前提条件であって、自分が肉体だと信じている状態でいくら想念を集中したところで、結果は肉体次元の法則に限定されてしまいます。類い稀な集中力を持つ優れた人がいても、それだけでは奇跡的な現象は出て来ないというのは、現実が証明している通りであります。ないと信じている限り、微細な体にアクセスすることは難しいと思います。ある種のスピリチュアルティーチャーさんは、あなたは大宇宙の中で塵にも満たない小さな存在であり、そんな小さなものに価値はなく、さらに大宇宙そのものもいつか終わりを迎えるのだから、消え去るものに意味などあるものかとおっしゃいますが、本当にそうでしょうか? 確かに多くの場合に私たちは非力な存在ですが、親孝行したり、子供の心の支えになったりできる人というのは、世界を変えられると妄想する人よりも偉大ではないでしょうか。私個人の考えでしかありませんけど、それは小さくて何も残らない行為ではあり得ないのであります。

夢の解釈

眠っている間に見る夢をどう解釈するかにはいくつもの説があって、実際にいくつかの種類に分類できるように思います。今回お話しすることはすべて仮説ですので、本当のところはみなさん自身の体験から確かめて行って欲しいと思います。まずはその日に見たり聞いたりしたものごとと、そこから連想されるものごとを、脳が記憶を整理する過程で夢に見る、という説明です。これはだいたい誰でも経験していて納得できると思います。また、子供の頃など昔の出来事を解釈し直すために夢に見る、というのもだいたい誰でも経験していると思います。明らかに今の人生で経験した出来事ではないけれど、極めて明確なストーリー性のある夢を見た場合は、いわゆる過去世の記憶を再解釈している可能性は充分にあると思います。次に、例えば同じ運動を繰り返している夢は筋肉を修復するために見ている夢、通路を通っていたり上下に移動したりする夢は血管や神経の調整(霊的なエネルギーも含む)のために見ている夢、というような説があります。これもかなりの可能性でその通りだと思います。では、あらゆる解釈を拒むような、脈絡のないデタラメな夢はどうでしょうか。ある覚者(五井昌久先生)の説によりますと、潜在意識に蓄積された過去世をも含む過去のよくない想いが、現実に現れる前に夢の中に現れることによって、浄められ消えて行く働きであるということです。つまり、人生上の困難な出来事として現実化する前にご守護様に消してもらっている、というありがたい働きなのであります。例えば自分だけが楽して儲かり、恋愛も思いのまま、というのはスピリチュアル的に見れば、自分も他人も害するよくない想いということになります。夢占いからするともの凄い吉兆と言われるようなシンボルを夢で見ても、たいがいの場合は本当によいこと起きるわけではない理由の一つかも知れません。儲かったらみんなが良くなる目的に使おう、恋愛はお互いに心が浄まり高まって行く相手を選ぼう、と本心から思っているような人は、それが現実になってもらわなきゃ神様も困るわけですから、夢の中に現れて消えて行くということは絶対にないと思います。夢占いというのは基本的に、これから起こるものごとを夢から判断するという主旨ではないでしょうか。私の経験では、もし予知夢というものがあるとしても、それを見られる人はかなり限られているのではないでしょうか。最後に、ご守護様が人生のヒントというか教訓として見せてくれる夢というのが実際にあります。このカテゴリーの夢だけが、唯一解釈のしがいのある夢ということになって参ります。自分ではまったく思いも寄らぬアイデアを受け取ることができるからです。

信仰への問題点

現代人にとって信仰を取り戻すのはもはや無理であろう、とはよく言われることです。それもそのはず、知性が発達すればするほど、信仰というのは一番理屈に合わないものに見えます。実際、何らかの神格を信じるのは非論理的なことであります。でも、人間が救われるのは結局は信仰を通してでしかあり得ない、とあいのほしは敢えて断言いたします。ではどうすればいいのでしょうか。政治哲学や宗教哲学といったものを極めることをおすすめしています。これは学位を取るとかいうことではなくて、自分で納得するまでという基準で極めるという意味です。極めればだいたい無神論的な考えになりますが、それでいいのです。人生はもともと理屈に合わないので、信仰への最後の一歩は人生そのものが導いてくれることになっています。スピリチュアルなことを何も知らないのに、真の自己と呼べるようなものを垣間見る体験をする人がかなりいらっしゃいます。で、そのあとニューエイジの(こうやればこうなる式の)理路整然とした教えに出会い、それが見たことも聞いたこともない話であるために、思わずパッと掴むということが起こりがちなんであります。岩波文庫とか『世界の名著』シリーズ(中央公論社)とかを読んで古典の教養があれば、ニューエイジの教えにはまったくと言っていいほど新しい要素はない、ということがハッキリと分かります(哲学は同じような概念が現れては消えるということを歴史的に繰り返しています、頭で考えるだけで行じないからいつまで経っても本当の理解に達しないのです)。だけど、それが分からないから掴んでしまいます(私自身の体験です)。魅力的に見える教えの中身は、突き詰めればご利益があり、楽して人生万々歳になることを理想とする内容だったりします。これが世に言う唯物論的スピリチュアルであります。せっかく本当のスピリチュアルを垣間見たのに、かえって信仰から遠ざけられることが起こりがちなんです。自分なりに人生を哲学したあとなら、脇目も振らずに信仰に飛び込んで行けます。何かに惑わされるということがないのです。これはもちろん、何らかの宗教的組織に入るという意味ではありません。あくまで自分一人の信仰のあり方であります。

信仰の復活

科学的な物質文化が栄えるに従って、私たちの信仰心が相対的に薄くなっていることは言えるんじゃないでしょうか。それにはもちろん良い面もあって、中世の頃は人間の力ではどうにもならないと諦めていた病気が、実は医学の力でどうにかなると分かった、というような事実があります。一方で、中世の人間は人知を超えた力に心が向いており、いつかは罪穢れのない清浄な世界に戻って行くんだ、という漠然とした目標というか信仰をどこかに抱いていたようなところがあります。現代の私たちは、物質が豊かで人生を楽しめればいいし、それ以上のことは考えたくない、というような傾向にあります。「神は死んだ」と言った哲学者さん(ニーチェ)がありましたが、死んだと言うよりも人間の側が神に背を向けたのだと言えるかも知れません。なまじ科学の力に頼ることを覚えてしまったがために、大きな戦争で「神も仏もあるものか」という無神論的な考えが主流になったようであります。その裏で集合的に累積した罪の意識は凄まじい破壊力を持つまでに膨れ上がっておりますが、私たちの側がそれを掴んで放そうとしないのが現状であります。断定的に言うようで申し訳ないんですが、これから私たちの中に信仰心が復活するというルートはすでに決まっているのであります。神も仏もないと思って生きて来た人が、何か超常的な力が働いているとしか考えようがない困難に直面したときに、神はどうして人間をこんな風に作ったのだろうか、人間の力ではどうにもならないではないか、こんな風にした神が責任を取るべきだ、と神様に心を向けることになるのです。責任を問うという形であっても、神様の方に心が向くわけです。全身全霊で生きて来た人ほど、期せずして神様に全託する気持ち(祈り)に唐突に入ってしまうことになります。信仰心のなかった人が自ずから信仰を持つようになったら、それ以上に生きて来たことが価値になる出来事は他にないと断言できます。生まれつき神仏を信じる気持ちのある人は、相当な上根の人なのであります。

使命

この世に生まれて来たからには、果たすべき役割があるという考え方は、精神世界に限らずポピュラーだと思います。確かにあると思うんです。それは意識的に役割を果たそうとか考えたことがなくても果たしている人がいるし、大げさな理念を抱きつつも本来の役割は果たせていない人もいる、という風でしょう。年齢を重ねるごとに浄まって行くとか、いい顔になって来る人は、順調に役割を果たせていると言っていいと思います。だけど、使命という考え方に、これまたこの世的な成功失敗という尺度が加えられることで、本来の意味から遠ざかってしまうことが起こるんであります。多くのスピリチュアルティーチャーさんが、自分の使命を見つけることの先に、人生の成功があることを仄めかします。その通りになれば、それはそれでいいんです。だけど、使命を果たすことで社会的に成功するはずだ、そうに違いない、という条件づけが刷り込まれてしまうようです。「神様、どうか人を本当に幸せにする仕事のために私をお使いください」と常日頃祈るような人、あるいはきっかけさえ与えられればそういう気持ちになり得る人の数は、決して少なくないように思います。かく言う私自身が、その時々で使命と思ったことをやって来たつもりですが、全然成果が上がりませんでした。けれども、失敗というわけではないのです。物質を光明化する(ラビ・イツハク・ルリアによるティクンの概念)とか、使命というものを大げさに考え過ぎてしまっただけで、そもそも与えられた役割がそんなに大きくない人が大多数であるということなのです。若くて覇気がある人ほど、自分の使命を大きく考え、この道に賭けてみようという生き方に魅力を感じるかも知れません。仕事のことならそれでいいのですが、スピリチュアリティに関しては成功失敗の尺度で見ない方がいい、というのが私の観点です。インド哲学で言うように、行為の結果に執着しない態度を身に付けるといいと思います。つまりスピリチュアリティにおいては、見に見える結果が出なくても気にしないのが一番いいのではないでしょうか。最終的に何がよくて何が悪いのか、人間の頭では分かりにくいからです。

生かし切る

与えられた命を生かし切りたいという願望を、誰でも自然に持っているものです。意識しようがしまいが、そういう風に出来ているんです。そうじゃなかったら宗教やスピリチュアリティが生まれる道理がありません。でもどうすれば、私たち一人一人に与えられた役割を果たすことになるのか、哲学的に考えたらとても難しいわけです。まず、自分の一番好きなことを仕事にして生きて行くのがいいんだ、という考え方があります。好きなことがハッキリしていて、なおかつ才能にも恵まれていればそれでいいんですが、やりたいことがハッキリせず、これといって才能もない場合はどうすればいいんでしょうか。次に、カルマや因縁と呼ばれるようなものから自由になればいいんだ、という考え方があります。そうして初めて本当に人の役に立てるという訳ですが、かと言って、親とかしがらみとかみんな捨てて、どっか外国にでも行って好きに暮らすのがいいのでしょうか。結局、発想が豊かな人ほどいろんな選択肢を思い付くし、行動力もあれば思い切った決断もできますが、何が本当に自分を生かすことなのか、最後まで分からないのではないでしょうか。頭で考えている限り分かるというものではないのです。スピリチュアルな知識をいろいろ蓄えても分かるもんじゃありません。古い話に聞こえるかも知れませんが、信仰心があるかないかの問題なんであります。やれ現実の創造だやれノンデュアリティだと言って、それで表面上の人生が順調に行っているうちは、自他共にこれぞスピリチュアルだと信じていられます。だけど、全力を尽くしたにも関わらず、人生がうまく行かなくなり、恩を仇で返されるようなことをも起きて来ると、人に道を説くのが仕事のスピリチュアルティーチャーでさえも、神の存在を疑うようになるものです。そういう場合、最初から現象面のよし悪しですべてを判断する唯物論者、無神論者であったということなのです。言いたくはありませんが、他でもない私自身が無神論的であったことを認めます。誰からも感謝されなくても「自分が親切にしたくてしたんだから構わない」と言い切れる人、さらに「神様は見てるんだからいずれ必ずよくなる」と信じ切れる人は二重マルです。そういう風な本心で生きて行く人は、何をしていても自分の命を生かし切っているのであります。

謙虚さ

人間世界のゲームとか利益競争というようなのに誰しも巻き込まれるものですが、より深く巻き込まれがちなのは能力の高い人たちなんであります。強い人ほどゲームに勝つ楽しさを味わえますから、どんどん嵌まって行くわけです。で、勝ち組と言われるような人ほど、礼儀正しさや謙虚な態度を身に付けているものではないでしょうか。こういうところに、人間社会の複雑な機微があるなと感じます。ここで、草野球ならぬ草サッカーをしようという人たちがいて、サッカーの上手いキャプテンが、純然たる数合わせのために、サッカーのルールすら知らない人を一人、無理矢理チームに加えたとしましょう。まったくの戦力外で、ピッチの中にいるだけで何もしてくれなくていい人が一人いるわけです。ところが、試合の重大局面で、どういう訳かその人のところにボールが飛んで行ってしまいます。キャプテンは「こっちにパスしろ」と叫びますが、その人はルールを知らないのでボールを手で触ってしまいました。当然反則となり、結果的にチームは負けてしまいます。そこでキャプテンがその人に、「お前を入れたのは俺の責任なんだからお前は悪くない」と直接謝ったとしましょう。すると社会的には、キャプテンは礼儀正しい人だ、謙虚な人だと評価されるに違いありません。ですが、神様の目からこのキャプテンさんの心の動きを見ると、とてもじゃないけど謙虚とは言えない、ということになるんであります。人間世界のゲームに夢中になっている人にとっては、礼儀正しさや謙虚さは、どこまで行っても他人に見せるための表面上のフリでしかないんであります。社会生活を営んでいる以上、そういう偽善を避ける方法もありません。仕方がないと言う他ないのです。本当に謙虚な人(ラーマクリシュナみたいな)というのは、巣から落ちてしまった雛鳥のようなもので、その存在に気が付く人は多くありません。気が付いたということ自体、その人がすでにゲームや利益競争の外に出始めていることを示しています。本当に謙虚な人は自分を謙虚だと思うことがありません。

人それぞれ

あいのほしのブログでは、各分野から私がベストだと思う本を一冊ずつ紹介したりしてるんですが(本の紹介を参照)、その中にまったく正反対なようなのが含まれているのはなぜだろう、と疑問に思う方もおられるかも知れません。それは人それぞれ、その時々に適合する教えが違うからです。あいのほしはバランスの立場を取っています。いい悪いはみなさんが判断するものとして、「すべてを捨てて永遠の命を得べし!」という物質否定型の考えと、「創造者として好きなことをして楽しむべし!」という物質肯定型の考えのバランスに配慮しているつもりです。人生楽しんでなんぼという人には厳格で規律的な教えが合っていたりするし、暗くて孤独がちな人には「人類みな兄妹」みたいな家族的な教えが合っていたりするのは、その時はそれでバランスが取れるからです。今は一つの宗教とか一つの教義に固執するのがいい時代ではないので、理想を言えば、いろんな教えを満遍なく理解するように努めるのがいいと思います。私としては、地球全体の調和に連なる個々人の本当の幸せを重要と思ってやってます。で、あいのほしはフランスとちょっと関わりがあるものの、基本的に日本人のための活動ですので、日本人向けという意味で中村天風さんをまずはおすすめしています。天風哲学は幅広い分野をカバーしている上に深さも深く、日本人の精神的土壌によく合うのが特徴です。外国の方にも勧めるかと言うとちょっと違います。最近は五井昌久さんの世界平和の祈りもおすすめしているのは、五井先生を話題にする方がけっこういらっしゃるので私も便乗したかたちです。心身統一法を自力としますと世界平和の祈りは他力というわけで、一見正反対のものをなぜ両方おすすめするかと言いますと、それでバランスが取れるからなんであります。人生の師と呼べるような先生を見つけるなら、相手の話をろくに聞かずに繰り返し同じことを断言する、要するにひとりよがりになっているように見えるティーチャーさんは、とりあえず避けた方がいいのではないでしょうか。そのティーチャーさんが哲学的には真理を説いていても、あまり得るところはないように思います。相手の話をよく聞き、話してないようなことまで分かってしまうように見える優しいティーチャーさんは、哲学的には大したことを言ってないように思えても、いい先生である可能性があります。

因縁

原因があって結果が起こる、というのは当たり前なような話なんですが、精神世界では当たり前じゃないんであります。ものごとには実は原因と結果という関係性はなく、理由もなくただ起こり、それゆえ人生何やっても誰にも責任はない、というような哲学は大昔からあるんであります。で、本当は何も起きていないようなもんなんだから、人生何が起きても心がそれを相手にしなければあなたは自由である、というようなティーチャーさんが多くいらっしゃるわけです。心が関わり合いをつけなければ因果の渦はやがて消えて行く、というのがこの教えの肝です。だけど、因縁やカルマと呼ばれるようなのは、ないと思えばないんだ、自分で認めなければいい、そうすればすべて思い通りになるんだ、というところまで進んでしまうと、少なくともインド哲学の文脈では間違っていることになってしまいます。それは『マハーバーラタ』の中で、クリシュナが猟師に誤って殺されてしまうくだりに、明確に示されているように思います。クリシュナでさえも運命の支配者にはなれなかったわけです。「カルマの法則はない」の本来の意味は、あなたは因果の渦に左右されない実在なんだということで、過去の行為がただちに清算されるという意味ではなかったはずです。なのに、「引き寄せの法則」が楽して儲かる方法と解釈されたのと同じ延長線上で、「何も起きていない」を責任を取らなくてもいい、と表面的に解釈する人を多数輩出してしまったのは事実だと思います。努力しないで結果を得られると言っているようなもので、努力なんて馬鹿馬鹿しい思ってる人が真に受けるんじゃないでしょうか。それはそれでいいですが、現世の幸せを大切に考えるなら、人の幸せのために尽くす行為の中に自分を失って行く、それが本当に自分の幸せでもあるという生き方が、よい因縁を作り結果的によい人生を作る王道だと思うんです。それも漠然と他人ということではなく、パートナーや家族のために尽くすことから始めるのが理想で、それが私たちが家庭を持つ必要がある理由だと思います。

資本主義のゲーム

みんな自分の利益だけを考えて生きて行くのは当たり前だし、その何がいけないの? という世の中なわけです。哲学的にはプロテスタンティズムが産業革命や資本主義の起動力になったというような話(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)もありますが、たぶんその通りなんだろうと思います。基本的にお金を持てば持つほど、さらに儲かる仕組みが作られたわけです。お金を稼げる人になることが社会的に正しいとされます。だけど、社会的に立派とされるステータスの高い職業に就いている人や、便利な発明品の特許料で巨額の収入を得ている人に限って、大概は厭世的になったり自己嫌悪に陥ると相場が決まっているというのはどういう訳か、考えたことがあるでしょうか。資本主義のゲームというのは当然、能力の高い人ほど有利にプレイできるものです。勝ち組になれてかなりのお金が取れるようになる過程は、すごく面白いわけです。これは酔っぱらって麻雀をしているようなもので、冷静な判断はついてないけど楽しむことは楽しめている、という状態です。酔いが醒めて正気に返ってみると、方々に敵が出来ていたりして、のっぴきならない状況にはまり込んでしまっていることに気づいたりします。すると、そこから先は楽しいどころか苦しみの連続になるわけです。そういう人生はひどくむなしいものです。プロテスタンティズムが奨励した勤労や貯蓄が、神への奉仕という当初の理念をさっさと失って、功利そのものが目的にすり替わってしまったのと同じように、ステータスの高い仕事や科学的発明から理想が失われて、お金になることは何でも正しいと考えられるようになったことが、現代の不幸の一因になっているのではないでしょうか。便利だけれども最終的には人を不幸にする発明品というものがあります。儲かるけれども人を不幸にする仕事をする人はあまり幸せにはなれない、というのはまぎれもない事実です。かと言って、自分だけの利益を求めることに何の興味もなくなってしまうと、世の中ひどく生きづらいものです。でも、理想を言えばそこがスピリチュアルの出発点であるべきだと思います。功利を捨てて世間からは落伍者と呼ばれながらも、どうにか生きて人の幸せのために尽くそうと奮闘するみなさんに、心から拍手を送りたいと思います。生きているためには功利を完全に捨てることはできない、そこがジレンマですね。昔の覚者もみんな悩んだところだと思います。

成長する

魂の成長という表現は、精神世界では何気によく使われますが、それが本当は何を意味するのかは結構謎だったりします。具体的に何をどうすれば魂の成長に繋がるのでしょう。魂が成長したことを示す兆候はあるのでしょうか。超常的な能力が出て来たり、ものごとが急にうまく行くようになれば、魂が成長した証拠だと言えるでしょうか。一つには、成長というものを認めないというか、全否定する考え方もあります(現世否定的な伝統)。そういう感じの教えをするティーチャーさんご自身が、新しい知識や経験を拒否する生き方をされているのなら、言っていることとやっていることが一致しているので、問題はありません。そうでないのなら、その考え方は間違っていると言わざるを得ないでしょう。子供を見ていれば一目瞭然ですが、私たちには新しい知識や経験を積極的に獲得して行こうとする自然的傾向があります。「何も足さない、何も引かない。ゼロのままがいい」なんて言う子供を見たことはありません。そういうことを言うのは哲学者か宗教家だけではないでしょうか。だけど、成長するということを哲学的に言い表そうとするとひどく難しいわけです。神様の方向に行く、とか全体が調和する方向に働く、とか言葉にするとすごく簡単なんですが、分かるようで全然分からないわけです。かく言うあいのほしそのものが、今思い返せば笑ってしまうような、訳の分からない大げさな概念で世の中に貢献しようと頑張っていたんです。結局のところ、本当に人に喜んでもらえる、いやすべての存在物に喜んでもらえるような生き方を具体的にできなきゃ、スピリチュアルな概念は何の意味もありません。別の言い方をすれば、自分の幸せがすべての人の幸せに繋がって行くような立派な生き方ができるようになることが成長だ、と言えると思います。そこに結び付いて行かないものは、すべてこだわりということになります。スピリチュアルが意味のないこだわりになってしまっている場合が多いように思います。成長したいと願うなら、余計なこだわりをすべて手放すことが必要なように思います。

口伝と書伝

昔から、大覚者と呼ばれるような先生に限って、直接書き残した本がない場合が多いわけです。その理由を察するに、やはり文字だけではその真意が伝わりづらいからだったんだろうと思います。厳密な定義とは違うかも知れませんが、ここで仮に、口頭や直接指導で伝達することを口伝、教典を残して伝達することを書伝という風に言ってみましょう。口伝と書伝はそれぞれ性質が異なり、よい面と悪い面があります。口伝は以心伝心という訳で、師匠が弟子の状態を見ながら、ここはいい、そこは違うとやれるので、一番適確な方法だと言えると思います。一方で、師匠の側から見れば伝達が途絶えてしまうリスクがあり、弟子の側から見れば本物の先生を見分けられるのかというリスクがあります。最悪、カルトに引っ掛かって人生を棒に振る可能性もあるわけです。それに対し書伝は、あくまで文字を頼りに自分で進んで行くことになるので、理想を追い求めるのに上限がないというメリットがあります。一方で、教典に書かれた本来の意図とは全然違う方向に進んでしまっても、自分では全然それと気が付かないという問題があるのです。違ってますよと指摘してくれる人が誰もいないので、そのまま「辿り着いた」と思っている人も出るかも知れません。だから歴史的に見て、書伝は分派が出来やすいんであります。いずれにせよ、何か外側に権威や規準が置かれており、そこを通過しなければダメだという話になった場合、一体誰が何のためにこんなことをしてるんだろうという疑問に、最後は収束するのではないでしょうか。私はそう思います。結局、弟子として極めて優秀で、これ以上ないくらい真剣に修行しても、自分はそもそも何を求めているんだろうという疑問にケリをつけない限りはダメなのだろうと思います。よく言われている通り、軸とか信念といった部分です。私もこの年になって、自分は信念がないからダメなんだなと思うんであります。幸せを大切に考えるんであれば、自分で方法を工夫してやってかなきゃいけないし、成功したいんであれば信念を持たなければダメ、実は悟りに時間はかからないと言うけど本当だな、と思います。自分で信念して疑わなければ、何事もその通りに行くに違いありません。

懐に入る

精神世界に限らず「心を開く」というのはいいこととして語られます。実際、多くの人が心を開き出したなら、この世界はまったく違った場所になることでしょう。今ある問題はあらかたなくなり、スピリチュアリティについての考え方もまったく変わるでしょう。心が閉じているというのは、個の意識になっているということで、自分のことしか考えられないという状態です。だからこそ、自分が得するにはどう動いたらいいだろうかと策謀を企てるわけです。よく考えてみればどうでもいいような、小さなものごとを巡って人々が闘争する世界になるわけです。で、昔から身を持ち崩したりして、半ば強制的にすべてをさらけ出して生きて行かなきゃいけない境遇というものがあるということを、みなさんどこかで知っています。そこに、理由がどうであれ、心を全開にして人々と関わって行く魅力があるのを、誰しもどこかで気づいているのではないでしょうか。カップルや夫婦の間で、お互いに心を開いて交流できたという瞬間が持てただけでも、もう何とも言えません。まして、常に心を開いて生きて行けたらどんなにすごいことでしょう。平穏無事で、相当恵まれた人生を生きた人も、もし心が閉じていたのであれば、本当に生きたとは言えないと言っても言い過ぎではないのではないでしょうか。それくらい違うものです。「あなたも私もない」という世界を地で行くんであります。あなたも私もいないという悟りの哲学を説いていらっしゃる先生が、教師という立場にこだわるせいなのか、個の状態にあり、心を開いていないという可能性もあり得ます。ただ言うのではなく、地で行くところに本当の幸せがあるはずです。英語であけっぴろげな性格のことをオープンブック(an open book)と言うそうですが、まずは包み隠さない態度が糸口になると思います。スピリチュアルティーチャーならなおさら、都合の悪い過去の事実を言わないだけでも、嘘をついているのと同じになってしまいます。自分の評価を下げるようなマイナスな話でも、事実なら率先して言うくらいでちょうどいいと思います。隠そうとするのは我があるからです。だからこそ心を開くのがこれほど難しいわけですが、いったん開けたら間違いなく世界が変わることでしょう。

人を助けるには何が必要か

人助けという言葉はよく使われますし、誰かの助けになりたいと願うきれいな心の持ち主には拍手を送りたいと思います。助けたいという純粋な気持ちが相手に伝わることで何かが変わる、という心の交流の可能性を否定したくはありません。が、実際問題として、病気や借金や依存症に苦しむ人を、思いやりの気持ちだけでは助けられないことも事実ではないでしょうか。人を助けたい気持ちから何かを始めても、自分の中に持つべきもの持たないと、挫折する結果になります。それは残念なことだと思います。一つには、お金や物資で援助するという方法がまず考えられます。何もないよりはマシです。でも、スピリチュアルティーチャーとして人を幸せにすることを目指すのなら、持つべきものが他にもたくさんあります。まず第一に、自分自身が、それが何を意味するのであれ、大きな変化を経過しているということが前提になります。科学的な根拠が全然ないんですが、変化を経過した人というのはある種の磁場を発生していて、それが周りに寄って来る人に変化を誘発するんだろうと思います。パワースポットみたくなっているわけです。頭が良くて情報処理能力が高ければ、自分が変化を経過してなくても道を説くことはできますが、それで救われる人がいるとすれば、始めから大した問題のなかった人なんだろうと思います。スピリチュアルを言うなら、不幸な人を幸せにするくらいじゃなきゃいけません。で、スピリチュアルティーチャーと言うからには、何が本当の幸せなのかという定義について、一本筋の通った哲学を持たなければなりません。相手が欲しいと思うものを何でも与えてあげれば、その人を幸せにできるでしょうか? そういう問題について何であれ結論を出せていなければ、人を助けることはできません。次に、一つの病気に対して複数の治療法があるのと同じように、できる限り多くの技術や方法を心得ていることが望ましいんであります。人を助けたいと本当に思うなら、できるだけ多くの人を助けたいと望むのではないでしょうか。もし一つの方便が究極だとか唯一の道だとか主張する人がいるとしたら、それはこだわりであり、あまり多くの人の心に触れることはないでしょう。だからスピリチュアルティーチャーになってからも勉強を続けるべきです。身体的アプローチは何か一つ習得していることが望ましいように思います。ジャン・クラインさんのカシミール・ヨーガ、アレクサンダー・テクニーク、フェルデンクライス・メソッド、太極拳など、まあどれも難しいものばかりですけれども、私たちは日本人なんですから、野口晴哉先生の「活元運動」ができると特にいいんじゃないかと思います(ちくま文庫から出ている『整体入門』を参照のこと)。呼吸法の指導ができることは言うまでもなく重要で、必須の能力だと言えます。臨床心理学のテクニック、フォーカシングハコミセラピープロセスワークの基本を習得しておくと役に立ちます。医師免許や公認心理師の資格を取れるようであれば当然ベストだと思います。スピリチュアルティーチャーになるというのはもともとハードルの高いものですし、そうあるべきであります。だからこそ、思春期から準備を始めることが必要だと思います。

思春期の教育

英語でティーンエイジと言いますけど、13歳から19歳までですか、いい悪いは別として、その年代に受けた教育がその人の人生を決めると言っても言い過ぎではないと思います。というのは、その年代でその人の人間性がほぼ決定されるためで、その方向で行けば大体こうなる、というのはかなりの程度予測できるからであります。これはもちろん、社会的に成功できるか否かが決定されるという意味ではありませんので、注意してください。ですから最終的に幸せになれるかどうかは、思春期の教育的影響でほぼ決定される、と言っておきましょう。社会的に成功しても不幸な人がいっぱいいるわけですから、この番組で扱っているのはそういう話です。たびたびお話ししていますが、私の場合ちょうどその年代に出会えた先生がいたんです。今にして思えば、スピリチュアルな方向性が出来たのもその先生の直接的な影響だったし、これまで何とか人の道を大きく外れずに済んだのもその先生のおかげだと確信します。でも、私は社会的な成功というものを全然経験していないから何とか保っているものの、もし何らかの段階でスピリチュアル業界で成功していたとしたら、私は容易に人の道を踏み外していたに違いない、と言いたくはありませんが認めます。ましてその先生に出会えていなかったら、私は社会に大きく害をなす人間になっていたに違いないと思います。心理学的に思春期は極めて示唆を受けやすい年代ということが分かっているそうですが、悪く言えばどのようにでも洗脳できてしまうということで、歴史的にも悪用された例があります(ヒトラーユーゲントなど)。人の幸不幸を大切に考える場合、この時期を善用することが鍵になるに違いありません。遺伝的によくない種子を持っている人でも、教育次第でよい方向に持って行ける可能性があり、実際に伝説として語り継がれている覚者が、若い頃は悪党だったという話もあります(スーフィーの言い伝え)。異常と言えるような強欲な人ほど、何かをきっかけにそれが反転すれば、伝説の覚者に生まれ変わる可能性を秘めている、というのは歴史的に見て本当です。結局、大きな情熱とかエネルギーというのは、その向け方によって善にも悪にもなり、その方向性を決めるものは教育だ、とかなりの程度言えると思います。それがたとえ思春期の一瞬の出会いだったとしても、一生を決定づけるほどのインパクトを持ち得るということは、私の経験から言えばあると思います。

苦痛

すべての生き物は時々苦しむし、最後は死んでしまいます。もしも始めに創造主がいたのなら、なぜ彼/彼女は生と死の仕組みを作ったのでしょう? 苦痛は何のためにあるのでしょうか? これは哲学的な疑問であると同時に、経験上の疑問でもありますね。

苦痛は生体に埋め込まれています。一番原始的な生き物として、微生物を例に取り上げてみましょう。微生物が生命を維持するためには、食べなくてはなりません。空腹は一種の苦痛ではありませんか? 私はそう思います。空腹は苦しくて、食べるのは気持ちいい、そうじゃありませんか? 空腹が微生物を運動に駆り立てて、食べる物を探させます。ですから、苦痛が運動を作り出すと言えるでしょう。もし苦痛が存在しなかったら、あらゆるものは停止するはずです。これが苦痛の根本的な理解だと思います。

さらに、私たち人間には、「退屈」というもっと微妙な形態の苦痛があります。私たちは退屈すると、何かを知ったり、感情的・知的な刺激を得ることに駆り立てられます。それで最終的に、私たちは緊張だらけの文明を作ってしまいました。

ほとんどの私たちは、苦痛が好きではないと言えると思います。誰も苦しみたくはありません。そこで何人かの科学者が、私たちの遺伝子から苦痛を除去することに着手するかも知れません。もしその試みが成功したら、次に何が起こるでしょうか? 私たちは死ぬほど退屈してしまうのかも知れません。

ある人たちは、この世には快楽と苦痛しか存在しないと考えています。悲しいですが現実的な発想ですね。人間社会では、快楽と苦痛の間を行ったり来たりする力学が、権力意識を生み出します。私たちは、興奮した時に力の感覚を感じるでしょう? 苦痛によって興奮を得る人たちがいます。薬物を使うことで興奮を得る人たちもいます。秘教的に言えば、これらはすべて下位の三つのチャクラに対応しています。私たちはある種みんな、動物的性質や生存本能を備えています。歴史的に見れば、私たちはとても長い間、主従関係というものに執着して来ました。

この哀れな世界観の中には、もちろん、愛の入り込む隙間はありません。無条件の愛に触れたことがなければ、快楽と苦痛以外のものが存在するように思えないのは当たり前のことです。神聖なものという概念は、愛を知らない人たちにとっては大嘘でしかありません。そういう人たちを非難するつもりはありません。愛は言葉では説明できないのですから、難しい状況なわけです。

ごく自然な成り行きですが、愛の欠如は、不毛さ、心理的な葛藤、抑うつという結末に至ります。私たちは絶望的なのでしょうか? そうとも言えるし、そうではないとも言えます。ある人たちには馬鹿馬鹿しく聞こえるでしょうが、慈善の気持ちがとても大事だと思います。見せかけを越えて与えるという行為が、私たちの本当の性質である愛に再び結び付けてくれます。慈善は段階的なプロセスです。家族や人間関係を通して、与えたり受け取ったりする練習を積むことができます。ごくシンプルで当たり前のことですね?

欲しいものは何ですか?

今回は、人生に何を望むかについて、お話ししてみようと思います。ここでもまた、哲学的疑問にするのはやめましょう。何か欲しいものってあるでしょ? それこそ、あなたが人生に望むものです。欲望は良いか悪いか、それは哲学的疑問です。でも、そこには触れません。

たくさんの人たちが、望みを引き寄せる方法について話しています。確かに、もしそれが可能なら、誰でも知りたいと思います。鍵は想像力にあるようです。想像力が物質的に欲しいものを届けてくれる、とみなさんに約束することはできません。でも、想像力がみなさんの中に特定の感覚を作り出してくれることは約束できます。何よりもまず、あなたが欲しいものが、それが何であれ、既に手に入ったところを想像してください。情熱を込めて想像し、強く感じて、それから、その感覚に付随するすべての条件を落としてください。これを何度も繰り返しやってみてください。すると、何の条件もないのに、その感覚そのものを楽に感じることができるようになるはずです。とってもシンプルでしょ? この方法は大いに役立つはずです。

たぶん、金持ちな人たちなら、物質的にもすべてを持てるでしょう。彼らは最高級の別荘に住み、最高級の食事をし、最高級の服を身につけ、最高級の男女を買い、最高級のドラッグで年中ハイになっていられますが、ほとんどの場合、それでも幸せを感じられません。彼らは満たされてはいるものの、不幸です。

欲しいものが手に入らないなら、満たされませんよね? でも、満足と幸せを混同しないようにしてください。満たされないのに幸せでいることは可能です。なぜなら、想像力の助けを借りれば、今ここで幸せを感じることができるからです。そういうものです! もしあなたが完全に満足しているなら、二度とベッドから起き上がることはなく、要するに、あなたは死んでいるということです。欲望とは、単純に人間の心の新陳代謝機能です。

私たちには選択があります。たとえば、私はこんな風に考えるかも知れません。「これまでに一度もデートしたことがない。でも恋人が欲しい。だから、私は不幸だ。」気をつけてください。これは一つの考え方であって、唯一無二の事実ではないでしょ? まったく反対に、こういう風にも言えます。「これまでに一度もデートしたことがない。だから、私は幸せだ。」まるで今の状況が、本当に欲しいものだったかのように言ってみるわけです。すると、今の状況のいいところが見えて来ます。たとえば、誰からも指図されなくて済むとか、自由だとか、自分だけのために、すべての時間とお金を使いたい放題だとか。発想の転換ですよね。ガールフレンドやボーイフレンドがいたことがなくても、もちろん、あなたは幸せでいられます。誰からも仕事を評価されなくても、もちろん、あなたは幸せでいられます。

諦めることを説いているわけじゃありません。もし恋人がたくさんいて、それでいろいろと問題があっても、なおまた、あなたは幸せでいられます。もしお金がたくさんあって、それでいろいろと問題があっても、なおまた、あなたは幸せでいられます。今の現状からスタートできるわけです。これは難しいことでしょうか? とんでもありません! これは馬鹿げた考えなんかじゃなくて、リラックスして、人生を楽しみ始める具体的な方法の一つです。実際、今すぐ幸せになりたいなら、これが最も簡単な方法かも知れません。ただし、身体の痛みがある場合は除きます。

幸せですか?

あなたは幸せですか? これを哲学的疑問にするのはやめましょう。幸せってどんな感じか、私たちはみんな知っているはずです。幸せは概念じゃなくて、感覚でしょう? もしあなたが不幸せなら、すべての哲学的探究は失敗でしかありません。それは分かり切ったことです。スピリチュアルな先生たちは、「私は探求を終えました」と言います。おそらく、真理を見つけたので、探すのをやめたという意味なのでしょう。実に形而上学的ですね。でも私としては、私たちが実際に幸せなとき、幸せを感じていると想像する必要がなくなったとき、私たちは幸せを探すのをやめる、と言っておきます。結局、精神世界では、あなたが本当に幸せかどうか以外に、大切なことは何もありません。

でも、どうすればいいのでしょう? この最初の回では、方法を三つ提示したいと思います。これらの方法が、私が今後お話しすることの基礎になります。

一つ目。朝起きて一番に、幸せでいることを決心します。こんな風に言ってください。「私は、何がどうであれ、幸せでいることを決心します。」自分で決心する、それだけです。とっても簡単でしょう?

二つ目。これは重要な方法で、何千年も前からあるものです。私は「熱を育てる方法」と呼んでいます。はじめに、自分が一番好きなことを思い浮かべてみてください。野球をするのでも、お菓子を食べるのでも、買い物に行くのでも、友達と話すのでも、恋人とデートするのでも、何でもいいんです。情熱を感じるでしょう? シャクティとかクンダリーニと呼ばれることもあります。私は単に、熱と呼んでいます。今ここで、この熱を見つけてください。心配いりませんよ、誰にでもできますからね。次に、この情熱、あなたの中に熱を感じさせてくれるあらゆる状況から、熱そのものを切り離して、あなたの中にある熱だけを感じてみてください。何か条件がなくても、熱そのものに集中することができますよね? そしたら、毎日、この熱がどんどん強まるようにしてください。あたかも、昨日よりも今日、熱がますます強くなっているかのようにです。それが「熱を育てる」の意味です。大丈夫ですね? もしその方が簡単なら、火の祭壇と炎を心の中に思い描いてみてください。必ずしも体の中にというわけではありませんが、とにかくあなたの中にです。この祭壇の「イメージ」を強くしてくださいということではありません。これはいわゆる「視覚化」の練習ではないんです。そうではなくて、あなたの「感覚」を育てるということです。

三つ目。これは補助的と言えるかも知れません。目を閉じて、何もない空間を想像してください。まるで、あなたさえも存在していないかのようです。一日に一回、だいたい30秒、長くても2分の間、茫然自失してください。

これらの方法は、幸せとは何の関係もないように見えるかも知れませんね。でも、私の見方からすれば、あるんです。