心の拠りどころ

生きて行くためには誰しも心の拠りどころが必要だと私は思うんであります。みなさんはそう思わないかも知れないですが、あいのほしはそういう方向性でやっています。誰かとか何かに頼って生きているのは心が弱いからと言われればそうでしょうし、自分でできることは自分でやる必要はあると思います。哲学を専門にやる人は宗教を一段低く見ているきらいがあるのではないでしょうか。哲学は強い人のためのもので、宗教は弱い人のためのものであると言えるかも知れません。つまり、人生がそれなりにうまく行っているうちは哲学で満足できますが、そうでないなら宗教にまで踏み込んで行く必要が出て来る、という意味です。安心立命とか言いますが本当にその通りで、宗教の本質は結局、人生の状況が何がどうであれ、心の底から安心していられる拠りどころを見つけるところにあるのであります。納得できる答えを見つける不二一元論的な教えは強い人のためのものであり、あまり多くの人を救えないだろう、と私は思います。病気や貧困から抜け出したい、愛情を得たいというのが、ほとんどの私たちの当然の願いであり、そこからでないと入って行けないというのが事実です。そこで昔から、神様の人間を救い上げようとする心の働きとして、覚者と呼ばれる方々がこの世に現れ続けているのであります。人の運命を好転し、なおかつ神性へと導いて行くにはとてつもない力量が求められます。だけど、現実にいるのです。私たちは抽象的な神を始めから信じることができにくいので、そういう先生とのご縁でやって行くことができれば非常な幸運だと思います。そういう先生を心の拠りどころにすれば、その先生は神様の心と直通しているわけですので、そのまま(知らぬ間に)引っ張り上げてもらえます。いつの時代も中途半端なティーチャーさんが多く、存命中の覚者に出会える人は稀です。思慮深く、かつ素直でないと、せっかく出会えてもそれと気づかないこともあり得ます。ご縁を投げ捨ててしまわないように注意しないといけません。