中村天風の心身統一法

『幸福なる人生』

現在、目の前に立って教えを授けている人間に対しても、自分の心の中でもって、壁をつくっちまうからいけないんだ。私とあなた方と大した差はありゃしないぜ。ただ、ここに立っているか、そっちに座っているかだけなの。

天風会(初期の名称は統一哲医学会)は1919年に成立しているが、本書に収められている講演はすべて戦後のもので、中村天風(1876-1968)が命を賭けて作り上げた「心身統一法」の基本原理が読みやすくまとめられている。人間は誰でも、「病」「煩悶」「貧乏」と自ら縁を切り、幸せになる力を与えられていると言う。ただし、ただ期待して待っているだけでは誰も物にはならない。「観念要素の更改」「積極精神の養成」「神経反射の調節」と言い方はやや古めかしいが、極めて具体的な方法論があり、各方面に実際に物になった人を多数輩出して来た事実こそが、これらの方法に妥当性があることを証明している。敢えて分類するとすれば、伝統的なラージャ・ヨーガから形式的な部分を取り除き、日本人向けに組み立て直した内容と言えるだろう。しかもそれで完成としないで、医学的発見を取り入れつつさらに前進しようとしていた点は特筆に値する。心身統一法は、これからの日本のスピリチュアリティの叩き台であると言いたい。


『真人生の探究』

これを分り易く要約すれば、霊性の満足を目標とする創造の生活とは、常に「人の世のためになることをする」ということを目標とする生活なのである。(中略)そしてこれをたやすく実現せしめるためには、出来る限り、人のため、世の中のためになることを言い且つ行うということを、自己人生のたのしみとするという気分になることである。

未だに精神世界では、自説を装飾するために都合の良い学説のみを援用するのが悪しき慣例になっているが、天風は医学・栄養学・哲学・心理学・心霊学など、一つだけ取っても極めるのが困難な学問をいくつも基礎から勉強している。「人間とは何か」「いかに生きるべきか」という根本問題への一つの答えとして総合的に組み立てられた「心身統一法」の基本原則が、百年も前に既に成立していたのには驚くほかない。天風が自ら著した数少ない著作の中で、最も基本と言われているのが本書である。天才の思考プロセスを是非味わってみて欲しい。


『盛大な人生』

どんな場合でも感謝にふりかえてごらん。すると、この心のもつ歓喜の力は、これはもう何とも形容のできない人生のエクスタシーを感じる事実となってあらわれてくる。また、それを求める必要もない。報いを求めちゃいけない。自分の生きてるあいだ、何ともいえない楽しさ、朗らかさ、おもしろさの絶えざる連続だというような生き方にしなきゃあ。それがとりもなおさず、人の生命と宇宙本体の生命との調子を合わせるダイヤルになるんだよ。

心身統一法の高度な段階として天風会員に贈られた講話をまとめた一冊。天風は禅門の人ではなかったが、禅で言うところの悟りに直入するためのいわゆるダイレクトパスをも説いていた。「安定打坐(あんじょうだざ)」と呼ばれる瞑想法がそれである。宇宙の進歩的方向に貢献しないなら意味がないと考え、悟り(有意実我の境)そのものを目的にしなかったところはいかにも天風会らしい。ならば、なぜ瞑想する必要があるのか。それは、純一無雑な意識の大元に立ち返り、心を休ませてあげることで、命の本然の力が湧き出るためだと言う。ここまで噛んで含めて説明してくれる指導書は、私が知る限りでは他にない。


『力の結晶』

準備中 誦句とは、天風教義で言うところの霊性心から出て来た言葉をそのまま書き留めたもの。意味も分からず呪文のように繰り返し唱えていればいい事が起こるということではなく、言葉が示している中身を確実に自分のものにすることが本来の意図である。

アレクサンドル・ジョリアン『人間という仕事』

哲学はたしかに、苦痛が最後の言葉とはならず、苦痛から生の蔑視が生み出されないために、複数の地平線を開くことを可能にしてくれます。

多くの人にとっては当たり前のことが当たり前でない人にとっては、ものごとはまったく違って見える、ということは忘れられがちな事実である。スイス生まれのアレクサンドル・ジョリアンは、脳性運動機能障害というハンデを負いながら、ヨーロッパの伝統的な教育課程において哲学の学士号を取得した正統派である。ヨーロッパの一般的な若者の間では、哲学とは基本的に生活とは無関係であり、上流階級や中高年層が余暇に楽しむものと考えられているらしい。しかし意外と言うべきか、著者にとっての哲学はあくまで実際的な学問なのである。常日頃苦痛を伴うリハビリをすることを余儀なくされ、リハビリを諦めるという選択は半ば自殺と同じ意味を持つという条件の中で、彼にとって生きることは(家族の協力なしでは成り立たない)継続中の闘いであり、自閉し孤立したくなる誘惑に抗って人間に「なる」とは、常に前進し心を高めることである。当然、共感し喜びを見つけることが一番大事な仕事であり、プラトンやスピノザやニーチェは、そのために前に進むことを可能にしてくれる武器や道具を提供してくれる先人である。本書以降の著者は三児の父親になり、西洋哲学の範疇を出て(スワミ・プラジニャーンパッドによる)不二一元論や禅にも出会い、ますます思索を深めている模様である。今現在フランス語圏における気鋭の思想家と言ってよいだろう。

ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』

プラグマティズムで知られるアメリカの心理学者、ウィリアム・ジェームズ(1842-1910)の主著の一つであり、1901年と1902年に分けてエディンバラ大学で行なった講義をまとめたものである。「スピリチュアルな価値」などというものはない、あるいは分からないという前提から始めて、当然否定的な結論に至るのが、普通の科学者というものかも知れない。心霊現象を研究したことでも知られるジェームズであるから、本書でも霊的価値というものに肯定的な立場をとっている。まずテーマを「個人的宗教」、すなわち組織宗教の枠組みの中ではなく、個人が経験し得たことの中で、強烈な宗教性を放っているとしか表現しようのない事例のみに限定している。アフマド・ガザーリー、ハインリヒ・ゾイゼ、イグナチオ・デ・ロヨラ、アビラの聖テレサ、十字架の聖ヨハネ、ヤーコプ・ベーメ、ジョージ・フォックス、ホイットマン、トルストイなど、有名無名の事例が多数取り上げられ、この分野でどんな一次資料があるのかを把握することができる。「神の顕現」としか呼べないような神秘体験をしたことがある人は、そのような一般人の実例も紹介されているので、勇気づけられることになろう。宗教的経験を、生まれつき世界の善性を楽観的に信じる「一度生まれ型」と、極度の鬱や絶望の後にすべてが反転するという、死と再生の「二度生まれ型」の二つに分けた上で、二度生まれ型がより深い宗教性を持つと言う。ちょうどこの頃アメリカで花開きつつあった新思想運動(ニューソート・ムーブメント)さえも、一度生まれ型の宗教として好意的に取り上げている。また、当時は虚無主義と解釈されることの多かった仏教を、キリスト教と同等に評価している点にも感心させられる。とはいえ、神経過敏や強迫観念と聖者との関係、催眠や暗示への感受性と神秘体験の関係、自己侮蔑と犠牲的態度の関係といった、科学者としての精神病理学的な考察を加味することも怠らない。ジェームズの講義の進め方からは、二十世紀初頭で、既に学際的であったハーバード大学の校風を窺い知ることができる。欧米の一流大学への留学を目指す若い人は、このような多面的な議論ができるように、早い段階からトレーニングを積むとよいだろう。演繹的な抽象化を良しとしない、学者としての理想的態度を示してくれる本でもある。

(なお、哲学的興味が薄く、難解な本書を通読する自信がない人は、下巻の「神秘主義」の章のみを読めばそれで十分だと思う。)