あなたと私

個別の自分というものは本当はなくて、私が私と思っている私と、あなたが私と思っている私は同じ私、実は人類全体いや宇宙全体で一つの私であるとしたら衝撃的ではないでしょうか。しかし、そのまさかが真実という訳です。「私はあなた、あなたは私」という考え方はそれこそ大昔からあって、二人でペアを作り、お互いに目を見つめ合いながら「私はあなた、あなたは私」と言うといったワークをやらせるティーチャーさんもいたりしますが、それを裏付ける理由と言うか証拠がなければ、ただの哲学で終わってしまいます。金属元素が光を吸収し、その後だんだん放出するのと同じ原理で、魂が肉体に宿るというのは霊の光を体が蓄えて、だんだん光が放出されると体としては死を迎えると理解することも出来ます。光が一時的に閉じ込められることで、個別の知覚が発生するという驚きの仕組みです。もちろん人間としての私たちが、あなたと私が同じであると悟るための順路は用意されてまして、第一段階はパートナーや親子の愛情を通して与えられるのであります。自分の命よりも誰かが大事だと本当に思う真の愛情というのは、人間が利己的な個人だとすると論理的にあり得ないことなので、私とあなたが同じであることの間接的な証拠になるわけです。次の段階は、誰かが考えたり記憶したりしていることを、完全ではないにしろ分かるようになる能力の発現として与えられます。もちろん簡単に与えられることはありませんが、過去の覚者を調べれば、こういうことは本当に起こることが分かります。それはあなたと私が同じである本格的な証拠になる訳です。

青写真

私たちは生まれて来る前に人生の計画をあらかじめ立てている、お互いに人生テーマが似通った魂が同じ時期に同じ国へグループで転生する、といった話が精神世界にはありまして、そういう見方をすればかなりの程度事実なんだろうと思います。が、そういう話を聞かされたところで人生は何一つ変わらないとすれば、ただのおとぎ話に過ぎなくなるのではないでしょうか。スピリチュアルとは何の関係もない一般の人が見ても、「この人はこれをやるために生まれて来たのかも知れないな」という風に納得させてしまう天才的な人というのがいます。だいたいその通りだと思うんです。青写真がすごくハッキリしていて分かりやすいわけです。なのですが、まずまず平凡というカテゴリーに入る多くの私たちの青写真というのは、具体的にこれこれをやりに来たという種類のものではないのです。ほぼすべての私たちの青写真というのは魂を磨き神性を現すということであって、特定の天職に就かなければそれを実現できないというようなことはないのであります。あいのほしの意見を押し付けるつもりはないんですが、これを理解することはとても重要です。なぜなら、特定の何かをしなければならないはずだと想像して生きていたら、結果的に要領を得ない人生になってしまう危険性があるからです。心を浄め人間性を高めることを人生の目的に定めることは、私が思うにとても意義のあることです。人生の目的として定めていることが真実に近づけば近づくほど、私たちは揺るぎない信念と心の平安とを持って人生を生きて行くことができるからです。別にこれが唯一の答えだという訳じゃないので、最期に本当に有意義だったと確信できそうな内容を、人生の目的として自分で定めるといいと思います。

娯楽と実力

自己本位という欠点のある私たちにとって、自分に向き合い人生に立ち向かうのは難しいことです。今考えれば精神世界には娯楽に類するものが多くあり、楽しませてもらっているうちにだんだん現実と向き合えなくなり、行動する気力を削がれてしまったりします。理想を言えば、多少厳しくとも、知らず知らずのうちに何であれ生きる力が身に付き、勇気を持てるようになる教えがいいと思います。楽しむためという考え方もありますが、私が思うに、人生というのは人間性を磨き出し、いわゆる神性を輝かせるためにあり、その過程には苦痛が付き物です。苦痛を避けて通ることは出来ませんが、喩えて言うならば緩和ケアのようなものは実際にございます。これは私個人の意見ですが、瞑想というのは目的を達するための手段ではなく、実は人生の苦痛を和らげる緩和ケアに相当するものだと思います。人生に立ち向かうことこそが、常に道であり方法であるわけです。過去を癒す、悪い癖を直す、誤った世界観を正すといったことが具体的な方法だと言えると思います。人生は最終的に自己の本質を悟り人として完成するためにあり、その過程は基本的に大変であることを重々承知の上で、だからこそ楽しんでやる必要があると身をもって示してくれるティーチャーさんがいたら最高です。大変だからこそ、苦痛を適度に緩和しながら楽しんで生きるというのが、それこそ人生の極意だと思います。進めば進むほど楽になる、要するにエゴの欲望に振り回されなくなる、そういう態度を早い段階で身に付けることが大事だと思います。

イメージと本物

天命を全うすると言うけど、具体的に何をどうすれば自分の命を生かし切ることになるんだろうか? とこういうことが真剣な疑問になって来なきゃいけないのではないでしょうか。何がイメージと言うか幻を追い掛けている生き方で、何が魂にとって本物の価値がある生き方なのか、エソテリックな議論をしようとしたらとても難しい話になり得ます。私たちは誰でも、程度の差こそあれいい格好したいという願望を持っていると思います。単純に言えば、人に褒められたい、評価されてなんぼ、「わーすごいですねー」と言ってもらえるように伝え方を工夫する、都合の悪い要素は排除して完璧な物語を作り上げる、とこういうような態度がイメージの中で生きているということだと思います。良い悪いの判断をせず、包み隠さずそのまんま表現する態度が本物だと言えます。人生でこれだと思ってやっている活動が、もし誰からもまったく評価されないとしたら、それでもそのまま続けますか? その活動への情熱よりも人に認められたい願望の方が勝っているとしたら、人に認められさえすれば何の活動でも構わないということになってしまいます。それがイメージに生きるということです。人に認められなくてもやりたい、それでも続けます! と思うなら本物です。世の中どこに住んでいるとかどんな仕事をしてるとかすべてにおいて、まともな人間であると他人に思ってもらえるという基準で生きている人が多くいます。そんな環境の中で本質的な生き方を目指すのは大変なことですが、私が思うに、後悔することはないと思います。でも、本質的に生きなきゃいけないとは思わないです。あくまでイメージで生きて行きたい場合はそれはそれで構いません。

行程表

人間機械論というのは未だに根強い人気があって、人間は自由意志を持たない機械だという前提の下に話をするスピリチュアルティーチャーさんが少なからずいらっしゃいます。確かに、心にメカニズムのようなものがあり、心を物として扱うことができるなら、あーやってこーやって式の悟りへの行程表を作り易くなります。しかしながら、その線で行けば人生そのものには大して意味がないという結論になるのは当然と言えば当然です。私たちは本当の自分を見つけるために生きている、というのはまったくその通りだと思います。ただ、あいのほしが付け加えたいのは、全員が全員そうだと言う訳ではないのですが、地球に生きている私たちのほとんどは、過去の生き方の誤りを修正するチャンスを与えられてここに来ている、という考えです。そこの理解がないなら、人生に意味があるように見えないのは当たり前のことです。世のため人のためになることをする、というのも他でもない修正のための具体的な方法なわけです。ほんとの真心を世の中に現す必要があるのは、それによって本当の自分が見つかるからに他なりません。考えに考え抜いた大掛かりな慈善計画よりも、純粋で素朴な善意の方が人の心を打つことがあるという事実からも、真心というのは人間の論理を超えたところから来ていることが分かります。それと同じように、社会を変革しようとする活動よりも、自分を癒せたという内面の変化の方が、実は世の中に大きく貢献しているということもあるのです。スピリチュアル業界も何だかんだ言って外面的な現象ばかりが評価される傾向にあるので、気をつけて行きたい点だと思います。

性的な自分

性をどう扱うかというのが人類の歴史を通して最も難しい問題であった、と個人的には思います。究極的には性的指向云々ではなくて、自分を自由に表現するということだと思うんです。ところがあらゆる宗教では、禁欲であったり自分そのものを否定する考えが常にあったわけです。もちろん元々は明確な目的があってそういう教えが説かれたのですが、それは特定の段階に来ている修行者に向けた言葉であって、誰にでも適用するべき話ではなかったように思います。変な話になりますが、準備の出来ていない人が性を抑圧したり、(恥ずかしさや罪悪感から)性的な自分を表現することを恐れたりすることによって、チャクラで言えば二番目のチャクラを明け渡す格好になり、そこから漏れ出す性的なエネルギーを、いわゆる幽界の生物たちが組織的に採取しているという現状になったのです。性的に問題のない人もいますが、性的な自分を受け入れ、健全に表現することが人生最大の課題である人もいます。そういう人にとっては「自分はいない」というような自己否定的な教えは大きな害をなす危険性があることを、スピリチュアル業界はよくよく認識する必要があるように思います。自己表現がテーマの人に、そもそも自分というものはないと教えたら、壊滅的な結果にしかならないでしょう。二番目のチャクラが課題になっている人はどうしたらいいのかと言いますと、どれだけ長い時間が掛かろうが必ず性的な恐れを克服する、とまずは覚悟を決めないといけません。

人間にできること

すごく変な話になりますが、人間というのは生まれて来た時点で満願成就と言いますか、望みをすべて手に入れていると見ることもできます。それに気づくかどうかは自分次第ということでございます。で、それと同じように、人にもよりますが、私たちはここへ生まれて来たという事実をもって、やるべき仕事の九割は既に果たしたと見ることもできます。人間として生まれて来ることが決してない天使と言うか守護神様から見れば、ここへ来ること自体が大きな貢献であり犠牲です。私たち人間が苦難を強いられていることなんざ御守護様は百も承知で、逆に言えば、始めからそんなに多くを期待していないということなんであります。思えば人間性の成長ということについては私たちは五十歩百歩、何をどう頑張っても一度の人生ではほんのちょっとしか成長できない、というのが大方の事実ではないでしょうか。貧乏出身から社会的に成功したという意味での成長なら割とあったりしますが、もともとモラルの低い人が素晴らしい人格者に成長したという話はほとんど聞きません。だけど、ただ生まれて来ただけで九割は役割を果たせたと考えると、けっこう安心する人もいるんじゃないでしょうか。理想社会の実現という理念を持ち、奉仕活動に身を投じるような生き方は、極めて強い意志の力がある人向けの道であって、ほとんどの私たちには向きません。過去の感情を癒し、潜在意識を浄化することによって、素直な気持ちで正しく生きることが、私たちにとっての王道であると考えます。それが、私たちを通して知らず知らずのうちに仕事が為される具体的な方法なんであります。難しいことをいろいろ考えていると、その分御守護様が援助し難くなってしまいます。

人生の意味

人生の意味とは何ぞや、とは伝統的な質問ではあるんですが、結論から言ってしまえば、考えていても分からない、ということだろうと思います。とんでもなく頭の良い人たちが寄って集って考え出した哲学が、世界平和の実現にはほとんどまったく役に立たなかったと言えるでしょう。有名な心理学者(フランクル)さんが、私たちが生きる意味を問うのではなく、人生が私たちに何を求めているのかという問いに答えるべきだ(『夜と霧』)、というようなことをおっしゃいましたが、あいのほしもまったく同じ意見であります。どういう訳かあらゆる経験に意味を見出そうとする精神的傾向を持っている私たちですが、私が思うに、実際に意味を汲み取ろうとしているのは神様の方です。新しい理解が生まれるのは必ず新しい経験をした後です。言葉を駆使して巧みに哲学しても、経験の裏打ちがなければ新しい意味は形成されません。堂々巡りの議論になってしまっているわけです。人生の意味とは何かと問いかけて来るスピリチュアルティーチャーさんがいたら慎重になるべきです。あるいは人生の意味はこうですとか、意味はないですといった哲学には慎重になるべきだと思います。そうじゃなくて、人生からの問いに生き方で答えている人たちが清々しいな、と勝手ながら思ってます。

縦と横

縦横の調和という話は、エソテリックな教えの中には必ず出て来る概念です。縦と言うのは、動物としての人間が生存競争をしているという個別意識を下位としますと、その生存を正に可能ならしめている形而上的な霊意識が上位にあるという考え方です。横と言うのは、私たちの現実生活をより良く豊かなものにして行こうという考え方です。言葉による創造の言い伝えの通り、言葉による表現というのは基本的に横方向の働きであり、それゆえ学問というのは基本的に現実生活をより良く豊かにする目的に結び付いていると思います。縦方向というのは意識の焦点が上に移動することであり、人間の言葉では表現し難いものだと言えます。伝統的には問答無用の瞑想の技法が縦の教えです。理想を言えば、意識の焦点が上昇すると、私たちがここで何をしようとしているのか分かるようになるのです。で、縦方向の教えと横方向の教えが調和するのが望ましいという理念は昔からあったのですが、実際にはどちらかに偏った教えが多く、本当に両者が調和した教えが具体化したのはかなり最近のことだと思います。縦に偏ると人間生活を否定する形となり、横に偏ると自分で創造するのではなく他人から奪い取る魔術の形となったのであります。その結果、縦方向で行っても横方向で行っても人間性はほとんど向上しなかったように思われます。家庭や仕事を通じて自ら美の世界を想い描き創造しつつ、神様に心を向けることが縦横の調和する具体的な生き方です。私自身は極端に縦方向の教えと極端に横方向の教えを両方学んだんですが、あいのほしでは縦横の調和する教え、少なくとも一方に極端に偏っていない教えのみをお勧めしております。人間性が磨き出され輝いて行くことが、私たちが生きている目的だと信じるからなんであります。

どうしたらいいんだろう

スピリチュアル業界の門を叩くことになる人には、何かしら具体的な理由があるのが普通だろうと思います。この病気をどうやったら治せるだろうとか、親子関係で悩んでいるとか、「どうしたらいいんだろう」というところから入るのではないでしょうか。御多分に洩れず私自身もそうでした。で、もちろんあらゆる問題を解決してあげますよ、というサービスがこの業界には溢れているわけです。ヒーラーさんなりティーチャーさんなりにお金を払って、小一時間お話しすればすべて解決するんであれば、こんなに楽なことはありません。始めは誰でもそういう期待を持つのが当たり前であります。あいのほしでは問題が解決するしないに関わらず、自分ができると思うことはすべてやるといい、という方針でお話ししています。するとやがて「どうしたらいいんだろう」という気持ちは消えて行くんであります。そこまではともかく自分で努力するということです。理想を言えば、そうこうするうちに基本が身に付いて来るからなんであります。科学の世界と一緒で、応用分野というのは何も知らなくてもとりあえず入っては行き易いんですが、不測の事態には手も足も出ないということがあります。基礎がある人は、何をどうすればいいのか考えるためのツールを持っていることになります。子供の頃にヴィヴェーカーナンダさんの全集とかハズラト・イナーヤト・ハーンさんの全集とかを読まされたら、その時にはそれが何の役に立つのかまったく分かりゃしません。だけど大人になる頃には、知らず知らずのうちにこれ以上ない基礎が出来上がっていて、何が起きてもどう対処したらいいのか自分で分かるようになっているものです。どうせなら、面倒臭くて時間が掛かるように見える基礎を積むことが、実は一番無駄のない行き方だと思うんですがいかがでしょうか。兎と亀じゃないんですが、私の経験から言えば、簡単最新を謳う行き方が一番遠回りになる場合もあるかも知れません。

信念体系のワーク

自分が事実として受け入れている内的現実の総体のことを、精神世界では信念体系と呼んだりしています。自分が信じていることを変えれば現実を変えられるんだ、という考え方が生まれており、その具体的な方法については諸説あるわけです。自分が何を信じているのか自分で認識する必要がある、というのが最初のステップになります。信念体系というのは基本的に潜んでいて、全体像をいきなり掴むことは難しいんですが、常日頃ちょくちょく思う思い方の癖、何かの出来事への感情的な反応、慢性的な体の症状などとして表に現れているものなのです。そっから糸を手繰って自分はこんな風に信じているんだなと認識するに至れば、それを変えるという選択肢が出来るわけなのです。表面的にまったく現れていない思いというものもあり、特定の出来事をきっかけに、自分の中にあるとも思っていなかった感情が出て驚くということもあります。出て来たときが浄化のチャンス、と有り難く思えたら素晴らしいのであります。では自分が固く信じて来た思いの内容を変えたいと決めた場合、どうしたらいいのでしょうか。世界平和の祈り安定打坐の中に消して行くことや、熱を育てる方法の熱の中に投げ入れることをお勧めしています。心理分析的な手法や催眠的な手法は今現在のあいのほしではお勧めしていません。なぜかと言いますと、複雑なものより単純なものの方が良いと思うからであります。心をきれいに磨いて行くことが現時点で一番重要と考えておりまして、それは普通一夜にして起こるものではなく、こつこつ地道に成し遂げて行くものであると感じております。

瞑想の道

どの道を行っても最終的には瞑想に集約されるという訳で、王道というような意味でラージャ・ヨーガと呼ばれているそうです。瞑想のようなものが自然に起こるようになる、という言い方がより正確かも知れません。心というものは何かを強く求めているうちは自制することが出来ません。抑圧して潜在意識内に封じ込めようとしても、別な経路で爆発してしまうわけです。なのでやりたいことは気が済むまでやり抜くという一応の方法を採るわけであります。で、飽きてしまうかより良い何かを見つけたりすると、心は掴んでいるものを放すということが自然に起こります。心の停止とまでは行きませんが、静かになるとか落ち着くという瞑想状態が期せずして起きるんであります。感覚を断ち切るということは文字通り絶命を意味していて、普通そこまで行くことありませんが、感覚に心を捕らわれなくさせるというのが、瞑想が深くなって行くプロセスであります。特別な才能がなくても誰でもここまでは来られるのです。誰でも心の平安を得られるのであります。ただ、潜在意識に溜まっているものの大小は個人によりますので、そこの難しさだけがあるのです。七〜八時間平気で瞑想していられる、それが苦になるどころか楽しくて仕方がないという人は、他の道には脇目も振らずに瞑想の道を行くのが合っています。で、悟りや光明というのは私たちの努力で到達できる境地の遥か彼方にあるものであり、人間の側に選択肢がある訳でもありません。基本的に望んで得られるようなシロモノではないので、心に興味を持たせないようにするのが良いと、あいのほしではおすすめしています。

仕事の道

行動や行為を通じて神に至る仕事の道というのがありまして、インドではカルマ・ヨーガと呼ばれています。成功や報酬を期待することなく、世のため人のためになる仕事を全力でやる態度というのは、実は神様の気持ちとまったく一緒なので、知らず知らずのうちに神様と一体になってしまうという方法なのであります。自分を犠牲にしろという意味に聞こえてしまい兼ねないんですが、そうではなく、自分も他人も同じように大切にするのが神様の気持ちなので、自己犠牲的な態度というのはカルマ・ヨーガからはやや離れてしまいます。ここで、例えば年収が一千万円あったとして、それをどう配分して使うのが正しいのか、という実際的な問題が持ち上がります。自分と家族のためにそこから三百万円使うのは多いのでのでしょうか、少ないのでしょうか。一千万円をまるまる放棄するという考えもありますが、そうすると今度は自分が誰かに養ってもらわない限り生きていられないことになり、仕事の道としては正しくありません(出家している場合は別)。では、自分の生活費を差し引いた残りのお金をどう使ったらいいのでしょうか。困っている親戚を助けるのがいいでしょうか。慈善団体に寄付するのがいいでしょうか。それともどこかの事業に投資するのがいいでしょうか。神様の視点を持ち合わせていない限り、何が正しくて何が正しくないのか判断するのが難しいのではないでしょうか。ですがそこは常識的な判断でいいんであります。家族を助けるのはいいことですが、いくら家族を喜ばせるためであっても、宝石をやたらに集めたり別荘をいくつも持ったりするのは、カルマ・ヨーガの観点ではよくありません。自分の知り合いや地域のために、できる範囲でお金を使うのはいいことです。自分が好きで得意なことを、一番世の中のためになると思う方向で生かして行くのはいいことです。で、その結果を期待しちゃいけないということなんですが、そこが一番難しいところで、私たちは大概どんなに頑張っても、ちょっとは期待してしまう気持ちを消せません。それができる人だけが仕事の道で完成するわけでありまして、他の道を行った人と比べて、人々を感化し育てる力がとても強いのが特徴です。世の中を変えて行く力になるわけです。

知識の道

若いうちにしか出来ない、と言うと異論が出るかも知れませんが、やる気とエネルギーが必要だからこそ、若い頃に取り組むべきなのが知識の道、インド哲学で言うジニャーナ・ヨーガであります。これは私が思うに、どうしても知りたいと思うことを研究し尽くし、どうしてもやりたいと思うことを気が済むまでやり尽くすことによって、結果的に神に至る方法であります。「私とは何か」というのが有名な問いですが、これを公案のように考え続ければいいわけじゃなく(それが唯一知りたいことである場合は別)、私が思うに、自分の中にある疑問を虱潰しに解いて行く必要があります。疑問が多ければ多いほど一生懸命学問しないといけませんが、その度合いは人によります。気力がなくなって中途半端で終わってしまうのを、こだわりが取れたからだと言い訳してはいけません。知的な探究だけじゃなくて、海外旅行のようなことも含めて経験してみたいと強く思ったことは実際にやらないといけません。気力がなくなって何となく満足した気持ちになれば終わりということではないのです。なので十代二十代、せいぜい三十代までに集中して行う必要があるわけです。四十代以降になると、社会的な条件や個人的な理由で実行が困難になるのは明らかなことだからです。知識の道は、いわゆる知的好奇心、知りたいという気持ちが人一倍強い人に向いています。もともと知的な関心が薄い人、ものごとを知りたいとあんまり思わない人には合いません。ただ、教養としてジニャーナ・ヨーガがどういうものなのかを知っておくことは誰にでもお勧めできます。教養があるのとないのとでは、長い目で見るとやっぱり差が出て来ます。カジュアル過ぎる本だと全然違う方向に誤解してしまう可能性があるので、ここはヴィヴェーカーナンダさんがお書きになったものを読むのが一番適切だろうと思います。すらすら読める類いの本ではありませんが、読んだら読んだだけのものが必ずあります。

信愛の道

インドに信愛の道と言うかバクティ・ヨーガというのがあって、これは神の属性を多く顕している人を信仰することによって神に至る方法のことを言います。キリスト教では本質的にこの道を辿ります。ヒンドゥー教は信仰の対象になっている神様がいっぱいいるので、日本人は八百万の神と同じような意味での多神教なんだろうと誤解してしまいがちなんですが、ヒンドゥー教では神の化身をバクティ(信愛)の対象にしていると理解するのが正しいと思います。カトリックでお気に入りの守護聖人を信仰したりするのは、日本人としてはご利益目的のお守りとまったく同じか似たようなもんだろうと解釈しているフシがありますが、守護聖人もまたバクティを捧げる対象として置かれていると理解するのが正しいでしょう(私たちとは歴史が違っており、それゆえ遺伝が違います)。何も知らない私ですから間違っているかも知れないですが、歴史的に見て日本にバクティが現れたことはなかったように思います。少なくとも大きな流れになったことはなかったようです。だからこそ、インド・ヨーロッパ語族の宗教文化の中にある信仰を、日本人は一種の思想や哲学と捉えてしまうのであります。信仰というのは考えではなく生き方であって、バクティとは命を捧げることです。この経験が欠如しているために、日本人はこの分野で大いに遅れを取っているのです。神の化身を信仰するのと、ロックスターや映画俳優を熱烈に信奉するのと、どこが違うのかと言いますと、大衆文化的なアイコンは楽しさや狭い意味での自由を象徴しているのに対し、化身というのは誠実さ、美しさ、調和というような性質を顕現する完全な人間であると言えます。神に心を向けることが目的のすべてなので、信仰の対象が例えば、歴史的事実がはっきりしない伝説的な人物のイメージであっても構わないんであります。手掛かりの多い最近の人物である方がやり易いと言えますが、自分が心の底から尊敬し信頼できる人を選ぶ必要があります(信仰は自発的なものであって、押し付けたり押し付けられたりするものであってはいけません)。いろいろ調べてほんのちょっとでも疑いが残る人物は、バクティの対象として無論ふさわしくありません。そのような人を誰も見つけられないなら、信愛の道は自分に合っていないと結論して良いでしょう。他にもいくつか道はあり、特に有名なものでは知識の道(ジニャーナ・ヨーガ)があります。

お手本

本で読んだり話を聞いたりするのと、実際に経験するのとでは、大きな隔たりがある場合があります。スピリチュアル業界では、いわゆる悟りや光明といったものを「何でもない普通のもの」と表現するティーチャーさんもいらっしゃるように聞きますが、私が思うにどうってことないどころか、それがどういうものかもし事前に知ることができたとしたら、すべてを犠牲にしてでも得たいと自然に思えるほどの宝なのであります。私たちが見て知っているものからでは想像もつかないようなシロモノであり、事実想像できないわけです。だから何でもないものという話になってしまうんだと思います。私が思うに、生身のお手本が絶対に必要だと思います。本物の覚者というのは想像を遥かに超えるような素晴らしい存在である、とそのような人物に出会えた人は口を揃えて言うでしょう。せっかく出会えても覚者と気づかず、くだらない人物と思って通り過ぎてしまう人も多くいます。ちょっと関われるだけでも大チャンスなのに、まして直接指導を受けられる機会はまさに千載一遇と言えるものでしょう。だけど、それで悟りが開けるわけでもないのです。多くの場合、疑いの気持ちや古い信念が覆いとなり、それを取り除かない限り進展がありません。せっかくの覚者とのご縁を無駄にしてしまうのは往往にしてあることです。疑うことを知らない子供のような気持ちにならない限りダメなんであります。これは始めから疑うなという意味ではなくて、まったくその反対に、自分の中にある疑いに一つ一つぶつかって解決して行かなくてはならないという意味です。ですから多くの場合長い時間がかかって当然であります。覚者とのご縁があってこれなんですから、何もない私たちはどうすればいいんでしょうか。今の時代、覚者を探して歩くのは危険なことでもあります。やはり、精神世界云々に関わらず、心のきれいな人や正しく生きようと努力している人と交流することから始めるのが良いだろうと思います。

成長する

魂の成長という表現は、精神世界では何気によく使われますが、それが本当は何を意味するのかは結構謎だったりします。具体的に何をどうすれば魂の成長に繋がるのでしょう。魂が成長したことを示す兆候はあるのでしょうか。超常的な能力が出て来たり、ものごとが急にうまく行くようになれば、魂が成長した証拠だと言えるでしょうか。一つには、成長というものを認めないというか、全否定する考え方もあります(現世否定的な伝統)。そういう感じの教えをするティーチャーさんご自身が、新しい知識や経験を拒否する生き方をされているのなら、言っていることとやっていることが一致しているので、問題はありません。そうでないのなら、その考え方は間違っていると言わざるを得ないでしょう。子供を見ていれば一目瞭然ですが、私たちには新しい知識や経験を積極的に獲得して行こうとする自然的傾向があります。「何も足さない、何も引かない。ゼロのままがいい」なんて言う子供を見たことはありません。そういうことを言うのは哲学者か宗教家だけではないでしょうか。だけど、成長するということを哲学的に言い表そうとするとひどく難しいわけです。神様の方向に行く、とか全体が調和する方向に働く、とか言葉にするとすごく簡単なんですが、分かるようで全然分からないわけです。かく言うあいのほしそのものが、今思い返せば笑ってしまうような、訳の分からない大げさな概念で世の中に貢献しようと頑張っていたんです。結局のところ、本当に人に喜んでもらえる、いやすべての存在物に喜んでもらえるような生き方を具体的にできなきゃ、スピリチュアルな概念は何の意味もありません。別の言い方をすれば、自分の幸せがすべての人の幸せに繋がって行くような立派な生き方ができるようになることが成長だ、と言えると思います。そこに結び付いて行かないものは、すべてこだわりということになります。スピリチュアルが意味のないこだわりになってしまっている場合が多いように思います。成長したいと願うなら、余計なこだわりをすべて手放すことが必要なように思います。

人を助けるには何が必要か

人助けという言葉はよく使われますし、誰かの助けになりたいと願うきれいな心の持ち主には拍手を送りたいと思います。助けたいという純粋な気持ちが相手に伝わることで何かが変わる、という心の交流の可能性を否定したくはありません。が、実際問題として、病気や借金や依存症に苦しむ人を、思いやりの気持ちだけでは助けられないことも事実ではないでしょうか。人を助けたい気持ちから何かを始めても、自分の中に持つべきもの持たないと、挫折する結果になります。それは残念なことだと思います。一つには、お金や物資で援助するという方法がまず考えられます。何もないよりはマシです。でも、スピリチュアルティーチャーとして人を幸せにすることを目指すのなら、持つべきものが他にもたくさんあります。まず第一に、自分自身が、それが何を意味するのであれ、大きな変化を経過しているということが前提になります。科学的な根拠が全然ないんですが、変化を経過した人というのはある種の磁場を発生していて、それが周りに寄って来る人に変化を誘発するんだろうと思います。パワースポットみたくなっているわけです。頭が良くて情報処理能力が高ければ、自分が変化を経過してなくても道を説くことはできますが、それで救われる人がいるとすれば、始めから大した問題のなかった人なんだろうと思います。スピリチュアルを言うなら、不幸な人を幸せにするくらいじゃなきゃいけません。で、スピリチュアルティーチャーと言うからには、何が本当の幸せなのかという定義について、一本筋の通った哲学を持たなければなりません。相手が欲しいと思うものを何でも与えてあげれば、その人を幸せにできるでしょうか? そういう問題について何であれ結論を出せていなければ、人を助けることはできません。次に、一つの病気に対して複数の治療法があるのと同じように、できる限り多くの技術や方法を心得ていることが望ましいんであります。人を助けたいと本当に思うなら、できるだけ多くの人を助けたいと望むのではないでしょうか。もし一つの方便が究極だとか唯一の道だとか主張する人がいるとしたら、それはこだわりであり、あまり多くの人の心に触れることはないでしょう。だからスピリチュアルティーチャーになってからも勉強を続けるべきです。身体的アプローチは何か一つ習得していることが望ましいように思います。ジャン・クラインさんのカシミール・ヨーガ、アレクサンダー・テクニーク、フェルデンクライス・メソッド、太極拳など、まあどれも難しいものばかりですけれども、私たちは日本人なんですから、野口晴哉先生の「活元運動」ができると特にいいんじゃないかと思います(ちくま文庫から出ている『整体入門』を参照のこと)。呼吸法の指導ができることは言うまでもなく重要で、必須の能力だと言えます。臨床心理学のテクニック、フォーカシングハコミセラピープロセスワークの基本を習得しておくと役に立ちます。医師免許や公認心理師の資格を取れるようであれば当然ベストだと思います。スピリチュアルティーチャーになるというのはもともとハードルの高いものですし、そうあるべきであります。だからこそ、思春期から準備を始めることが必要だと思います。

幸せですか?

あなたは幸せですか? これを哲学的疑問にするのはやめましょう。幸せってどんな感じか、私たちはみんな知っているはずです。幸せは概念じゃなくて、感覚でしょう? もしあなたが不幸せなら、すべての哲学的探究は失敗でしかありません。それは分かり切ったことです。スピリチュアルな先生たちは、「私は探求を終えました」と言います。おそらく、真理を見つけたので、探すのをやめたという意味なのでしょう。実に形而上学的ですね。でも私としては、私たちが実際に幸せなとき、幸せを感じていると想像する必要がなくなったとき、私たちは幸せを探すのをやめる、と言っておきます。結局、精神世界では、あなたが本当に幸せかどうか以外に、大切なことは何もありません。

でも、どうすればいいのでしょう? この最初の回では、方法を三つ提示したいと思います。これらの方法が、私が今後お話しすることの基礎になります。

一つ目。朝起きて一番に、幸せでいることを決心します。こんな風に言ってください。「私は、何がどうであれ、幸せでいることを決心します。」自分で決心する、それだけです。とっても簡単でしょう?

二つ目。これは重要な方法で、何千年も前からあるものです。私は「熱を育てる方法」と呼んでいます。はじめに、自分が一番好きなことを思い浮かべてみてください。野球をするのでも、お菓子を食べるのでも、買い物に行くのでも、友達と話すのでも、恋人とデートするのでも、何でもいいんです。情熱を感じるでしょう? シャクティとかクンダリーニと呼ばれることもあります。私は単に、熱と呼んでいます。今ここで、この熱を見つけてください。心配いりませんよ、誰にでもできますからね。次に、この情熱、あなたの中に熱を感じさせてくれるあらゆる状況から、熱そのものを切り離して、あなたの中にある熱だけを感じてみてください。何か条件がなくても、熱そのものに集中することができますよね? そしたら、毎日、この熱がどんどん強まるようにしてください。あたかも、昨日よりも今日、熱がますます強くなっているかのようにです。それが「熱を育てる」の意味です。大丈夫ですね? もしその方が簡単なら、火の祭壇と炎を心の中に思い描いてみてください。必ずしも体の中にというわけではありませんが、とにかくあなたの中にです。この祭壇の「イメージ」を強くしてくださいということではありません。これはいわゆる「視覚化」の練習ではないんです。そうではなくて、あなたの「感覚」を育てるということです。

三つ目。これは補助的と言えるかも知れません。目を閉じて、何もない空間を想像してください。まるで、あなたさえも存在していないかのようです。一日に一回、だいたい30秒、長くても2分の間、茫然自失してください。

これらの方法は、幸せとは何の関係もないように見えるかも知れませんね。でも、私の見方からすれば、あるんです。