どこに住むかというのは非常に現実的な問題ではないかと思います。家を買うとか建てるというのは人生の一大イベントとされています。ところが、理由が何であれ、どこの地域のどんな家に住んでみたい気持ちになるかというのは、最初から運命的に決まっていると言えるのです。私たちは生まれた時に、ある地域のある家、基本的には両親の家に置かれるわけです。理想を言えば、置かれた環境で努力して自分を乗り越え、これ以上成長できないとなった時点で次の環境に移る、そこでまた最大限に成長して次の環境に移る、という形がいいに決まってます。ところが心を変えるとか感情を変えるということは、実際にはかなり難しいのではないでしょうか。自分を乗り越えるどころか、生まれ付いた性格のままに生きてるだけ、というのが人間社会の実態であります。目先を変えるために引っ越しをしても、私の意見ですが、あまり運命路線は変わらないだろうと思います。家の中を整理したりするといい(もちろんいいことです)という教えもありますが、それだと話半分なんだろうと思います。自分の中で取り組んで来たことが一つの区切りを迎え、心が明るくなったとか楽しくなったタイミングで新しい家を探すと、自然にいい方向に行けると思います。なお、これも私の意見ですが、「ここが終の住処」という感覚を持つとそこで成長が止まってしまうようですので、参考にしてみてください。

楽しんで生きる

何事も楽しんで生きるのがいいですよ、と若い頃に教えられたんですが、言われた傍から出来るのは相当筋の良い人なんだろうと思います。私みたいに「なるほど」と思うようになるまでに何十年と掛かる筋の悪い人もいますが、今思い返してみれば、確かに「楽しんで生きよう」と自分で決めた瞬間からプロセスがスタートしたんだろうと思います。最初は「何をどうやって」ということはまるで分からないわけです。だけど、楽しんで生きよう、といつかの時点で決心することがなかったとしたら、自然の成り行きでいつの間にか人生を楽しめるようになることはないかも知れません。多くの人が「楽しいことが起これば人生楽しくなる」と考えて、何かとか誰かに楽しませてもらうことを期待していますが、スピリチュアルな観点からすると、そのような生き方は望みが薄いのです。他方、生まれつき楽しむことを知っている素晴らしい人も存在します。いわゆる個人差がとてもありますが、たとえ筋が悪くても諦める必要はないと思います。いつの日にか、人生に何があろうとなかろうと、何事も楽しんで生きている自分の姿を想像するんであります。すると直ちにそうなります・・・とは行かないかも知れませんが、いつの日にか必ずなるんであります。人間の心の凄さだと思います。

疑問

私たちは結局何も知ることは出来ないんだから、何かに疑問を持つこと自体が良くない、と教えるティーチャさんもいらっしゃいますが、疑問というのは私たちを前進させてくれるものだし、人生に対する疑問の多くは、いわゆる過去世やご先祖様の思いの中から出て来ているものだと思われます。自分の人生の幸不幸に直結する真摯な疑問というのは、果てしない知的好奇心とは違って、答えが見つかることによって必ず解消されます。よって人生に対する疑問が雲散霧消して、もう心に疑問が一つも浮かばないという状態になれるんであります。折しも今という時代は、少なくとも過去数千年の歴史の中で一番、人生に対する疑問を解消し易い時代だと思います。ちょっと調べさえすれば最良の情報にすぐ出会えるし、知識のある人に聞けば手っ取り早く答えを教えてもらえます。本当に有り難いことだと思います。と言うことは、もし人生に対する真摯な疑問があったら、今の内に情報を求めるべきだし、それによってご先祖様も浮かばれることになる、と私は感じています。すべての疑問が解消と言っても、それで人生が解決するわけでも終わるわけでもありませんが、いわゆる心の余裕が持てるようになることは確かです。そのうち人生が次の段階へ運んでくれるんだろうと信じますが、それは確かに、これまでにあんまりなかったような展開になることでしょう。そこでまた、新しい経験をしたり新しい知識を勉強したりする必要があることでしょう。

再出発

一度も人生に躓くことなく、ずっと順調に行く人もありますが、多くの人は一度や二度は気を取り直して再出発という場面を経験するかと思います。出直すことで大成功する人もいれば、残念ながら何回やってもうまく行かない人もいますが、この違いはどう理解すればいいのでしょうか。気持ちの切り替えが鍵になりますが、人間関係をリセットしたり、引越しして環境を変えたりしても、過去に未練があったりして、肝心の気持ちの切り替えはうまく行かなかったりします。かと言って、断固たる態度で過去を切り離そうと思っても、人間の心というのはそんなに簡単なもんじゃありません。タイミングというのもありますし、要するに、過去を振り返ってどうのこうの思うよりも、平凡な言い方になりますが、未来に向かって夢を描くのが楽しいという気分になって来た時が、再出発の絶好のタイミングだと言えるでしょう。結局、それまでの自分の考え方の中に確固たる理想を持っていたかどうかであって、それがなければ、未来に向かって歩いて行こうという明るい気分は勝手に出て来るもんじゃないです。理想を思い描くと言っても一朝一夕じゃ出来ないから、平素何事もない内にやっておかなきゃいけないと思うんです。このポッドキャストはそういう理由で、みなさんそれぞれが人生の理想を思い描いて行く助けになるような思考の種を蒔いているつもりなので、どうぞご利用ください。

教える

一般的に学校の先生と言ったら、学習指導要領に従って、一つ一つ順番に教えるのが役割と言えるでしょう。そこで、教師用のマニュアルといったものが一切なく、例えば音楽を教えるとして、あるのは一台のピアノのみで、超初心者に「音楽の本質」を伝えるとしたらどうやるでしょうか。記憶の中から、何年に誰それが何々という作品を作曲したという知識を披露したところで、あんまり意味を成さないでしょう。ピアノを弾いて、例えばベートーヴェンはこう、ショパンはこう、と実演する必要があります。楽譜を読めない相手にハーモニーやリズムといった基本概念をうまく説明できないといけません。要するに、身に付いたもの板に付いたものが相当なければ出来ないはずです。スピリチュアル業界では、本に書かれていることをそのまま話し、素性がばれないように一対一の関係を避けるような形式でも、もちろん教師は務まります。お金が目的なら、自分を実際以上に見せるためのマーケティング、ブランディング、パッケージングといったビジネスの手法がそのまま有効です。目に見えないし証明も出来ないこと教えるんですから、ビジネスモデルが破綻するまでにヘタすりゃ何十年もあるので、長い間儲けが見込めるわけです。でも、それではちと寂しい気がしますがいかがでしょうか。生き方を教えるんですから、一対一で伝えるのがやっぱり理想です。昔の覚者さんは偉かったなんて言うと、教師のハードルを上げようとしているように聞こえてしまいますが、あいのほしの意図はそうではありません。むしろこのレベルに達してないと教えてはいけないというような基準はない方がいいと思うんです。レベルが高い低いではなく、身に付いたものを人格から人格へありのままに伝えることを基本とすべきで、そこにイメージの偽装があってはならないと考えます。

疑い

宗教の教えというのは、そういう哲学として頭で理解するだけでなく、生き方で示して行かないといけないと思うんです。ところがこれが実に難しいものなんであります。言ってることとやってることが全然違うティーチャーさんは問題外として、本質的にとてもいい線行ってる覚者さんでさえも、細かい粗探しをすれば、ごく普通の意味で、あまり尊敬できるとは言えない言動の一つや二つは必ず出て来るものなのです。大覚者と言えども人間でもありますから、時代背景や環境による制約を受けているので、すべてが完璧という風には行かないようです。その一つや二つの事実を取り上げて、その先生の教えを全否定するのは勿体ないと思います。本質に響いて来るものがあるなら、小さな欠点から全部を疑ってかかるよりも、素晴らしい面を見て吸収するようにするのが正しいやり方だと思います。そもそもスピリチュアリティにおいては、あるティーチャーさんの人間としての現れに愛着を持って拝むというのが良くありません。その現れの源に目を向けるのが本来のやり方です。よく考えてみれば、精神世界には常識外れな考えや、自分が絶対正しいとする態度が横行する中で、実は常識的なものの見方が大事だというのはあべこべな話なのかもしれません。でもそうなのです。真心があり、素直で嘘をつかない先生かどうかが、私たちが本物を見分けるための基軸だと思います。

影響力

スピリチュアルに興味を持つのは自尊心の低い人が多い、と指摘されることがよくあります。ある程度そういう面もあるかと思います。「私なんかダメ」という思いは、良く取れば謙虚さに繋がるものの、大概は何をやっても世の中に対して全然影響力がないという感覚に繋がり、結局は自分だけの楽しみを求めて生きて行けばいいやという生き方に結実してしまいます。すると、当然人間性は磨かれません。「何も起きていない」と教えるティーチャさんがいらっしゃいますが、その真意がどこにあるかは別にして、その線で行けば普通は同じ結果になり、やはり人間性は磨かれません。ところで、自然界の仕組みを見ますと、どれだけちっぽけに見える存在物であっても、何の影響もないものはありません。それどころか、例えば人間の血液中に0.000001パーセントしか含有されていない微量な化学物質が、それなしでは生きていられないというようなことがあり得ます。一億二千万人中の一人が何をやったってどうせ何も変わりゃしないという感覚で、怒ってみたり怨んでみたり悲しんでみたりしていたら、実際にはどれだけ大きく全体を害しているか知れません。自分が何を言おうが行おうが、否応なしに常に全体に影響を及ぼし続けているという自覚が、人間性を磨いて行くためには必要だと考えます。で、何のために人間性を磨くのかと言ったら、今は「世界平和」の一念で構わないのではないでしょうか。「人類は存続すべきかどうか」(反出生主義)とかの難しい哲学問題はとりあえず後回しにして、世界平和が実現してからゆっくり議論すればいいと思います。

努力

努力することの大切さというのは、スピリチュアリティでも同じことが言えると思います。しかし、努力の矛先を間違えると詰まらない結果に終わってしまいます。体操の初心者がいきなり一番難しい技をやろうとして、死ぬ気で練習しても出来るようにはならないのではないでしょうか。基礎から一歩一歩積み上げて行く必要があるかと思います。瞑想をやるにしても、目をつぶって心を静める練習に始まって、次は体をリラックスさせる練習、それが出来たらヒプナゴジアと呼ばれる体は眠っていて心は目覚めている状態に止まる練習、それが出来たら今度は体の自発的な呼吸のリズムに統一する練習というように、一つ一つの段階に分けて理解する方が確実です。いきなりやれと言われて出来る人はほとんどいないのではないでしょうか。その瞑想も自分の実相が体ではないことを悟り切るための準備体操であって、その悟りも最終的に本心そのものを生きるための準備体操です。見当外れな努力だったらしない方がマシという訳で、指導者はその人その人の段階に合った手順を指し示せなければいけません。かと言って、段階を踏んで瞑想の道を進まなければいけないという決まりもないんですが、その人に合った契機というものがあることは確かです。教えであれ方法であれ、自分に合ったものにどうしたら出会えるのかと言ったら、結局、自分が人生で何を達成したいのかという意図がどこまで純粋であるかに懸かっていると思います。人によっては避けられない事情で遠回りする場合もありますが、そんなことは大した問題ではありません。

感受性

これまでのスピリチュアリティでは、「悟り澄ましたような顔」と言われるように、何やら高い境地にいる人は何があっても心が動揺しないという印象が昂じて、何も感じないとか感情がないことがその証であると考えられるきらいがあるようですが、これは誤解だと思います。事実はその逆で、感情を避けて通れば目的地に辿り着くことは出来ません。男性は特に感じることを恐れる傾向がありますが、その線で行くと、分かるようで全然分からない観念的な悟りに辿り着くだけだと思います。現代のスピリチュアルティーチャーさんはクールであったりドライであったりするのが流行っているのかも知れないですが、昔の時代のティーチャーさんと言えば、宗教者であると同時に優れた詩人であり画家であり歌い手であり踊り手であるという人が少なからずいたものであります。何を隠そう私の最初(で最後)の先生がそういう感じで、感受性を育てることが大事と教えられましたが、今はそういうケースが珍し過ぎて誰も変だと思わない現状です。私自身かなり筋が悪い方なので、正しいことを教えられてもその時はピンと来ないことが多々あるんですが、今振り返って見れば、なぜそう指導されたのかは理解できます。いわゆる喜怒哀楽を包み隠さず感じることは自分の考え方を知る上で大切ですし、美しさを感じ取る感受性は本当の自分を見つける鍵になるとさえ言えるでしょう。いい音楽を聴いたりいい演劇を見たりすることは、私たちが考える以上に重要なことです。ただ、それ自体を目的にするんじゃなく、それを乗り物にして上に登って行く必要があるということです。

道徳教育

いわゆる思春期が終わるまでの教育環境が一生に渡って影響するというのは、まあ一般的に同意される見方だろうと思います。だからこそ、家庭によっては学校選びを真剣にやるのではないでしょうか。で、とりわけ何が大事かと言ったら、どんなに優秀でも倫理観に欠ける人間になったらすべてが台なしという訳で、いわゆる道徳教育が一番だと結論されるのではないでしょうか。小中学校には道徳の時間がありますけど、ないよりはましという程度で、あまり力を入れていないのではないかと思います。巷には注目を集めることで若くして成功者になり、お金の力で好きなことだけをする自由と楽しい生活を手に入れた、というような論調の発信で溢れております。そういう発信があまりに多いので、若い人たちがそういう価値観を刷り込まれてしまいます。最近のスピリチュアル業界も、これがまた同じような論調の発信で溢れております。いわゆる過去世やご先祖様の「自分さえよければいい」という思いがどれくらい溜まっているかは人に依ります。だけど多くの場合、自由に好きなことをやればいいと教わったら、まずは業の思いから来る自分だけの楽しみを求めようとするに決まってます。すると中年になって本心が目覚めて来たとしても、例えて言えば若い頃の好き放題の後始末で一生終わってしまう感じになりかねません。伝統的に霊的な知識は四十歳を過ぎてからという考え方があったのは、昔の人は思慮深かったからだろうなと思います。業の思いと本心の区別が付かなければ、人生はあらぬ方向に行ってしまいます。若い頃にいい本を読むことももちろん必要ですが、一番いいのは本心そのままを生きている人に出会うことです。もしそういうチャンスを与えられたなら一生大切にしないといけません。

死生観

死生観が人生を生きている間の生き方に決定的な影響を及ぼす、というのは言われてみれば当たり前のようですが、自分がどんな死生観を持っているんだろうとは滅多に自問しないし、また考えてもよく分からないという感じではないでしょうか。西洋と東洋の違いは死生観にある、とよく言われます。西洋人は生きている間をいかに豊かで楽しく充実させるかを考えて生きるのに対し、東洋人は死ぬ時にどういう気持ちで死にたいかという観点から逆算して生き方を考える、と言うのです。私たち日本人は東洋の文化の中にいるので、言われるまではあんまり意識したことがなかったという感じではないでしょうか。葉隠的な観念が私たちの根底にあるとまでは思いませんが、そういう違いがあることが分からないなら、西洋の人たちの考え方をいつまで経っても理解できないことは確かです。逆に言えば、そこの部分さえ分かれば西洋の人たちの言動の理由を理解できるようになり、うまくコミュニケーションが出来るようになると思います。どっちがどうということは言えません。死に偏れば肉体生活を軽視したいわゆる進歩のない文化になったし、生に偏れば経済重視で精神性の薄い文化になったのです。このバランスが図られない限りは、地球人類に本当の幸せは来ないのではないでしょうか。そのためにはバランスの取れた死生観が不可欠という訳で、それに気づいた人たちから何かが変わって行くだろうと思います。

恐怖との闘い

満ち足りた子供時代というものがあったとすれば、ある時点で恐怖との出会いがあり、そこから本当の人生が始まったと言うことが出来ます。脳にいわゆる障害があって、恐怖も苦痛も感じない人生というのもあるそうですが、それが人間の理想の状態かと言うとそうでもないのではないでしょうか。普通の人も脳を手術して同じ状態にしてしまおうという議論には決してならないわけです。それは恐怖には役割があることを私たちは直観的に知っていることを意味しています(前に失敗したことがあったからです)。実際、恐怖にどう向き合うかが、人生を生きて行く上で最も大事なことと言っても過言ではない気がしますが(恐怖の状態にいると、人間本来の力というのは全然発揮されません)、実生活でそのことが語られなさ過ぎます。一方で悟りを自称する人が、ある素晴らしい瞬間以来何かを恐れるということが一切ないと語ったりして、スピリチュアル業界に極端な印象を与えている現状があります。私が思うに、潜在意識に恐怖がうんと溜まっているんだから、それを少しずつでも着実にきれいにして行ければそれでいいんじゃないかな、と思います。でもどうやって? 専門家の助けを借りるというのも一つの手段ですが、自分でやれる方法が一つでも見つかればそれがベストではないでしょうか。どんなにちょこっとずつでも確実に減って行けばそれでいいわけです。と言う訳で、基本は呼吸法だと思います。無理のない範囲で体の特定の部位にある恐怖をしっかり感じながら、呼吸によってそこに気を送るイメージをします。それを「ご先祖様もさぞ辛かったろうな」と思いながらやるといいのです。

正解

人生の答えと言いますか、正解を常に探しているようなところが私たちにはあります。それはやっぱり学校の試験問題で、一問一答には必ず正解があり、記述式には必ず模範解答なるものがあって、問題にはあらかじめ答えが用意されているはずだという風に、言い方は悪いですが条件づけられてしまったからだと思います。この傾向は日本だけに限りませんが、日本では特に、あらかじめ用意されているレールの上で品行方正でいられれば、社会生活の安定が保障されるかのような仕組みで動いているので、期待されている答えを見つけようとする誘因はなおさら強いように思われます。で、それがスピリチュアルな世界でも同じような感じになってしまうわけです。心の世界には感情があるので、簡単に割り切れるものでもなく答えが決まっているわけでもありません。正しい教えというのは必ず道徳的であって、表面上はそれに従って行かれればいいように見えます。だけど、人によっては正しい生き方に納得しない業の思いが潜在意識の中に溜まっていて、本心からではなく嫌々ながら従っているだけというケースも出て来ます。顕在意識と潜在意識に矛盾が生じているので、当然いわゆる「効果」が出ないということになり、結果的に正しい教えに出会っているにも関わらず「詐欺に遭った」という風に結論してしまったりします。正しい道というのがあるにしても、人それぞれ順序やアプローチの方法は違っていて然る可きです。これが正解のはずだと頭で考えていると、却って道の妨げになる場合があるので注意が必要だと思います。

自分を知る

どういう訳か持って生まれた性格というものがある私たちですが、性格というのはご先祖様やいわゆる過去世の思いから多くが構成されていると言っていいでしょう。いつか浄められ叡智というようなものに昇華されるのを待っている思いがありますが、埋もれたまま知覚されることがなければ、私たちはそもそもそれが存在するということに気づきません。体との繋がりの中で感覚されて初めて、私たちはそこに何かがあることに気が付くことが出来ます。意識の上に表面化する必要があるわけなのです。体の感覚や症状あるいは感情が混沌としていて、それを意識の上でしっかり捕らえ切れない場合に有効なテクニックがいくつかあります。フォーカシングやプロセスワークの「チャンネルを切り替える」動作は画期的な発見だったと言えるでしょう。調べてみたい感覚や感情があったら、まずそこに気持ちを向けることで、自動的に気が流れて行くという理解が基本になります。次に使える手は、精神世界ではよく「呼吸を通す」と言ったりしますが、そこの部分に息を吸い込むイメージをすることです。あるいは、そこの部分で息を吸ったり吐いたりするイメージをします。もちろん実際にそんなことは出来ないので、ただのイメージなんですが、気が流れることでその感覚や感情がより鮮明になることを企図しているわけです。よくよく感じるということが一番大事です。その次に出来るのは、チャンネルを切り替えてさらに調べることです。それに味があったらどんな味だろう? どんな匂いがするだろう? 触ったらどんな感触だろう? どんな音がする? 色や形は? という風に内なる五官を開いて調べます。想像すると言ってもいいでしょう。充分に鮮明に捕らえることが出来たと思ったら、その次に出来るのは、その感覚や感情に一番ぴったりな言葉を探すことです。自分の中で本当にしっくり来る単語やフレーズを見つけます。こういう一連の動作は多くの場合、自分を知るために必要ですし役に立ちます。ただ、それによって特定の結果を期待したり、心理分析的に原因や理由を探ろうとしたりしない方が望ましいです。自分を知ろうとするのが本来の動機であって、その中に何らかの利益を求める心を入り込ませないのがベストだと思います。

受容

願望実現についての教えは本来のスピリチュアリティには含まれているものでして、その鍵は「受け入れる」ことであると言われます。言葉にすればこの上なくシンプルなんですが、そのの意味が分からないからみんな苦労するのではないでしょうか。そのコツさえ掴めれば、言ってしまえば何もかも思い通りに実現できるはずです。が、みなさんも知っての通りそういう人は実在しないと言っていいような状況です。結果が出ないということは受け入れていないからだとするならば、どうすれば受け入れられるのかが問題です。まず、「私はナニナニを受け入れます」と口に出して言うとか紙に書くというのが、誰でも最初に思い付く方法ではないでしょうか。それでダメなら、神社仏閣に詣でてお願いをします。家相やラッキーアイテムが役に立つかも知れません。それでもダメなら、自分が欲しいものを既に持っている誰かから奪い取るための戦略を立てます。結局、お金がすべてだという結論に到達するかも知れません。いわゆる顕在意識の思いの力で願望を実現しようとしたら、こんな風に邪道に入り易いと言えるでしょう。いろんな方法があるんでしょうが、昔からそれで結果が出る人もいるからあるわけです。「形から入る」方法と言えるわけですが、そこから先は二通りに分かれます。一つは、真似しているうちにだんだん自分のものになり、最後は本物になるパターン。もう一つは、詐欺や泥棒のようにいつまで経っても自分のものにならないパターンです。詰まるところ、微妙な態度の違いが大きな差になると言えます。受け入れるか受け入れないかというのは態度の違いです。自分が実際どんな音を出しているのか知らないといけませんが、そのためにはいわゆる潜在意識まで掘り下げる必要があるかも知れません。結果が出ないということは、往往にして顕在意識と潜在意識が食い違っているからなのです。

あいのほしの瞑想

これからお話しすることは、数多ある瞑想についての考え方の一つに過ぎないことを、まず最初に言い添えておきます。で、あいのほしが考える瞑想というのは、何か特定の結果が期待できるものではなく、強いて言えば、単に「休む」ことであります。神秘体験とか、こういう体験が出来るはずだ期待して瞑想するとなると、それだけで本来の瞑想からは離れてしまうように思います。方法としては、理想を言えば背筋を伸ばし、足を組んでただ座るということになります。機能的な障害があったりして体の痛みに気を取られてしまうようなら、別にどんな姿勢でも構いません。で、何も考えないでそのまま座っていられるんであれば、それだけで完璧な瞑想です。難しい理屈を付け足す必要はありません。次に、何も考えない状態にはならなくても、座ってるうちに心が静かになるという人は、心を集中する訓練をします。ヴィヴェーカーナンダさんの『ラージャ・ヨーガ』という本に書いてある方法を参考にしているんですが、心を集中すべき場所は二つありまして、一つ目は頭のてっぺんから15センチくらい茎が伸びて黄金の蓮の花が咲いているイメージで、その蓮の花になっている感じで集中します。二つ目は胸の中心に炎が燃えているイメージで、その炎になっている感じで集中します。炎の色は何でもいいんですが、青がおすすめです。一度の瞑想で蓮の花と炎を同時にイメージするんじゃなくて、蓮の花なら蓮の花、炎なら炎のどちらか一つに集中します。イメージを使うんですが、映像をイメージする訓練じゃなくてあくまで心を集中する訓練なので、そのものに成り切るのがポイントであります。最後に、座っているといつの間にかくだらないことをあれこれ考えているという人は、その考えを紙に書く練習をします。「またくだらないことを考えてしまった」と書くという意味じゃなくて、具体的に何を考えていたか思い出して書くということです。すべての思考には理由がありますが、いい悪いを判断するためとか、心理を分析するためとかいうんじゃなくて、何の期待もせずにただ書き留めます。自分が何を考えているのか自分で認識することの意義を甘く見てはいけません。頭を休ませることが目的だとすれば、漫然と考えごとをしながら座ってるくらいなら昼寝でもする方がいいのです。自分の考えを認識することによって、理想を言えば心の中身が自然と整理されて、だんだん静かに座れるようになって来ると思います。

学びの手順

スピリチュアリティについて誰もが押さえて置くべき基本というのがあるんでしょうが、それを言い出すとすぐに宗教的なドグマが出来上がってしまうのが難しいところです。良かれと思って作った規則が精神の自由を束縛し始めると、人間社会はあらぬ方向に行ってしまいます。私たちが生きているのには目的があるということを理解することが重要です。だけど、あなたの役割はこれです、と他人に教えられるのではなく、自分でこうだと分からなければ何の意味もありません。一人一人に割り当てられた固有の役割があり、スタート地点からしてそれぞれ違っているので、全員一律に同じ人生哲学を押し付けられるのではなく、自分の道を自分で見つけられる教育環境を、チャンスとして与えられるのが理想なんだろうと思います。勉強であれスポーツであれ芸術であれ、あるいは伝統宗教であれ、何でも一通りやってみることが出来る環境があれば、自分のやりたいことを自分で見つけることが出来ます。一方、身体的にであれ精神的にであれ、あるいは家庭環境であれ、自分で選ぶ余地があんまりない束縛の中に生まれついている人もいます。そんな中で自分がやるべき義務を果たしながら、精神の自由を得るためにスピリチュアルな道に置かれていると言っていいでしょう。普通は、人間やりたいことを自由にやるのがいいに決まってます。実はそれが、「自分がやった」という自意識を満足させるためではなく、完全調和のために誰もが自分の仕事を捧げているんだということに、今この人生を生きている間に気づけたら最高だと思います。

逆境

逆境に立たされた時に初めてその人のスピリチュアリティの真価が試される、それまでの人生すべては本番前のリハーサル、というのが最終的に私たちの共通認識になるのだろうと思います。そのくらい口で言うのと実際にやるのとは違うと痛感いたします。「人生こう生きるべきだ」というようなことを教える先生方に従って何年も真剣に実践しても、うまく行かないことの方が多いように思いますが、その結果に対するフォローが多くの場合何もないのではないでしょうか。「無責任な人たちだな」という不満があって、そんなようなことを口に出して言ってもいた時期がありましたが、よく考えてみれば当たり前の話でもあり、もうそんな風に考えないようにしよう、というのが私の正直な現状であります。フォローするというのはお弟子さんの人生を引き受けるのに等しいことですから、そこまでの度量のある先生が少ないことは理解できます。なぜ悪いことや困難なことが起こるのかと言ったら、昔ながらの説明の通り、それがないと私たちは成長しないからです。いつの間にか人生に立ち向かう勇気が身に付いている、というのが本物のスピリチュアリティの醍醐味だと思います。いざという時に役に立たなければそれは本物じゃない、というのは誰もがいつかは直面しなければならない大問題であります。

理解

人間にはものごとの仕組みを理解したいという願望があり、また理解できる能力を与えられている以上、私たちが人生をより深く知ろうとするのは自然なことに思われます。実際、未来の世界では私たちがここ(地球)で何をしようとしているのかが理解されるようになるのです。そうなったらもう占めたものでしょう。ただ、難しい哲学を理解できるならそれはそれですごいことなのですが、哲学の大部分はどちらかと言うと解説とか背景知識に属するものであって、愛の道を行じる霊止(ひと)になるのに背景知識は全然必要ありません。言葉にするから変に聞こえてしまうんですが、まず知識から入って、それを行じて行くうちに自分のものになり、最終的にいちいち頭で確認する必要がなくなるという訳なのです。私個人の勝手な意見なんですが、一人一人が別々に修行してという今までのスピリチュアリティのあり方は終わりつつあるように思います。私たちは集合的な理解に到達しつつあると見るべきです。それはもちろん言葉が一人歩きして行くからではなく、黙々と行じる人が増えて行くからこそ達成されるのです。

知識

知識を得ることは大事だとあいのほしでは考えております。「何も知る必要はない」とする哲学もありまして、極論すれば言語も使わない原始生活が理想ということになるんでしょうが、本気でそれを実行する人はいないのが現実ではないでしょうか。で、私自身好奇心が人一倍強かったので、(最初から最良の先生に出会えていたにも関わらず)マイルドな知識に飽き足らず、最新と言われている知識や、あまり知られていない秘教的な知識を追い求めたりもしました。でも、デッサンや楽器の練習と同じで、基本を踏まえずに応用から始めると、ある程度のところまでは行けるものの、いわゆる自己流の癖が身に付いてしまったがために必ず行き詰まる時が来るんであります。限界に直面して「なぜ基本が大事だと教えてくれる人が誰もいなかったんだろう」とその時になって思うものです。では精神世界の基本とは何ぞやと言いますと、結局、伝統宗教の顕教では必ず一番最初に教えられる、日本では道徳や倫理に分類される部分の教えがそれなんであります。人を傷つけてはいけないとか、貪ってはいけないといった基本的態度を一切踏まえないで、いきなり悟りとか究極が分かったとしても、結局性格のいびつな人間が出来上がるばかりで霊性の花は開きません。分かるのと実践するのとが全然別物になってしまうわけです。最近のスピリチュアル業界はモラルに関する教えを軽視する傾向にあるように思うので、そこがあんまりいい結果が出て来ない原因なんじゃないかなと考えたりします。

説明

スピリチュアルティーチャーさんにぶつけてみたい質問の代表格として、自分が人生で体験して来たこと—大体はよくない体験だと思うんですが—の説明を求めるというのがあります。で、その体験の意味はこうですと言われるのであれ、意味なんかないですと言われるのであれ、その回答に心から納得できることはまずないだろうと思います。言葉で説明しようとしたら、何であれそれは知的な解釈の一つに過ぎません。何かについて意見を言うということは、基本的には潜在意識の中にあるすべての経験から自動的に導き出される情動的な反応であるか、あるいは言葉の上で論理的に導き出される結論のどちらかでしょう。これではどこまで行ってもものごとの本質を捉えることは出来ません。哲学用語で観るという漢字を使って直観と言うそうですが、愛の目で見ることによってものごとと一体になり、直接知る・分かるという作用が、いわゆる人間の知性や論理の上位レベルにあるのです。これだとものごとの本質を知覚していることになり、解釈を差し挟む余地がなく間違いということがありません。事実確認をすれば100パーセント正しい、というのが直観であることの証明になります。私たちが本来スピリチュアルティーチャーさんに期待する答えはこれなのであります。小さい子供が何でも分かるわけではないのと一緒で、心を空っぽにすれば直ちに直観できて答えを得られるわけではないのは、みなさんも既にご存じの通りです。潜在意識の中身は一瞬ではきれいにならないですし、段階は人それぞれです。パッと何かを感じるというのは、たいてい感じるという漢字を使う方の直感で、過去の経験から来ます(いわゆる女の勘や野生の勘というのは、稀に直観である可能性もありますが、ほとんどは直感であると言えるでしょう)。観る方の直観には情動が伴いません。より繊細な知覚であって言葉で来るわけではないので、何か素晴らしいものを観てもそれを正確な言葉で表現できるようになるまで二十年三十年かかるのが普通だと思います。

美しい暮らし

日本の住環境が美しさの面で諸外国から大幅に後れを取っている、とよく言われます。昔の建物は一般的に火事や地震に弱かったという点は否めないので、特に戦後はとにかく火事や地震に強く、価格的に安く作れるという技術面が優先されたのも無理はありません。だけど、あまり美しくはありません。卵が先か鶏が先かじゃありませんが、美しい家に住んでさえいれば心も清くなるということはないものの、心が美しい人は必ず住環境も美しく調和しているものなので、変な話ですが商業ベースの建築様式をより美しいものに改善して行く仕事は今後有望である可能性があります。よく考えてみれば当たり前のことなんですが、日本のいわゆる伝統的な色や形の中には普遍的に美しいものが幾らもあるので、まずはそれを徹底的に学んだ上で、そこをベースに現代の建築技術や加工技術を加味すればいいと思います。ヨーロッパみたいに普遍的に美しい色や形を繰り返し使って行くことが様式美になるので、同じように日本の様式美を生み出して行けると思います。侘び寂びというのは禅の考え方が入って来るので、侘び寂びを生活様式に取り入れることによって人間性が向上するという確証がない以上そこに戻る必要はないかも知れませんが、今の建築は写真写りを気にするあまり、自然光の明暗を考慮に入れなさ過ぎる傾向があるように思われます。日本人的な感性に響くような住まい作りを、現実的にあまりお金がかかり過ぎないようにポイントを押さえてやって行く必要があるかと思います。

言葉と本物

一般的に言ってものごとをあまり深く考えない私たち日本人にとっては、哲学から始めるのはいいことだと思うんです。中等教育で、哲学者の難しい概念を教えるんじゃなく、人生をどう生きるかということを、正解はないという前提で自分の頭で考えさせる(つまり自分で考えるやり方を教える)授業をやったらいいと思います。で、いろんな哲学を頭で理解できたということは第一歩としていいんですが、それを言葉で語ることで満足してしまう傾向がこれまではあったわけです。言葉で説明できるのと、実際にそれを生かすのは全然別物だ、という実感が切実になって来ない限り、私たちは向上しないのではないでしょうか。クンダリニーが目覚めて権能獲得と言ってみたり、ワンネスを悟って全託と言ってみたり、結局はまったく同じ大安心の境涯のことを、一方は現象面から、一方は精神面から表現しているだけだろうと思うんですが、知的に考えたらどこをどうやっても矛盾しているようにしか聞こえないので、全然違う二つの道なんだろうと結論してしまうかも知れません。もしも間違ったことを教えられても、間違いに気づかないまま終わってしまうという状態です。覚者と一般人との大きな隔たりを埋める中間層を育てて行かないといけないと考えます。究極意識とか神通力までは分からなくても、人生は心の置きどころ言いますか、心的態度がすべてだと分かっているというのが、ここで言う中間層の人であります。雲を掴むような目覚めや悟りで人生大逆転を狙う人を増やすよりは、平凡であっても何はともあれ安心していられる人を増やす方がいい、というのがあいのほしの考え方であります。

故郷

「誰か故郷を想わざる」という歌詞の通り、生まれ故郷というのはほとんど誰にとっても特別なものではないでしょうか。それには純粋に心情的なものだけではない理由があるような気がいたします。私たちは生まれた時点でクンダリニーとは繋がっていないのですが、その代わり産土神の言い伝えの通りに、生まれた土地のエネルギーと繋がっていると言えると思います。この繋がりはほとんどの場合一生涯切れることがないようです。人生で何をやりたいかとか、誰と出会うかというような要素は、この土地のエネルギーから割り振られて与えられていると考えることも出来ます。地球に意識があるとすれば、全体のバランスを調整しながら人間一人一人に役割を与えているわけです。ところが、何らかのきっかけで土地のエネルギーとの繋がりが突然切れてしまう人がいます。人間社会の中での役割から解放され、故郷のない自由人になるわけです。タロットで言えば愚者のカード、トランプで言えばジョーカーがあるということは、大昔からそういう役目を与えられる人が一定数いたことを示唆しているようです。土地のエネルギーから切り離されるところからクンダリニーの目覚めがスタートして、クンダリニー・ヨーガのゴールはその遥か先にあります。最初のステップの衝撃で正気を失ってしまう人もあり(いわゆるクンダリニー症候群)、クンダリニー・ヨーガは狂気を孕んだ危うい道であると言われる所以です。土地のエネルギーというのは、私たちが生きているという実感を持って正気でいられる基盤になっているんであります。それを失うということは、そういうことです。私が思うに、クンダリニー・ヨーガは真面目な修行というよりか、強烈なメッセージ性を携えて危なっかしい人生を駆け抜けたロックスターの生き様に近いものがあり、実際にいわゆる悟りに近い状態まで行った人もいます(例えばボガンボスのどんとさんやフィッシュマンズの佐藤伸治さん)。ジョーカーとして生きるのは楽な道ではなく、大きく言えばそのような役割もまた、神様に与えられるものだと思います。

オイル治療の可能性

禊と言いますか体を清めることは、霊性の道において人によっては大事になって来ると思います。で植物から抽出するいわゆるエッセンシャルオイルに、気と言うかエネルギーの詰まりを解消する効果があると個人的に感じています。エッセンシャルオイルにはたくさん種類があって、足の裏など直接肌に塗れるオイルと、オリーブオイルなどに少量溶けば肌に塗ることができるオイルと、どんな場合でも肌に塗るべきでなく香りだけを利用するオイルとあるわけです。気と言うかエネルギーの流れは人それぞれ全然違うので、どういう場合にどのオイルが効果があるのか見極めるのは至難の技と言えましょうが、国や文化によっては代替医療として使われる場合もあると聞きます。私自身の経験から言いますと、特定の植物に含まれる特定の成分に薬効があるという解釈よりは、エッセンシャルオイルに含まれる多次元の光が体のいわゆる自然治癒力を引き出すという解釈の方がいいんだろうと思います。好転反応(瞑眩)と言うんでしょうか、病気が進行するのと逆の順番に症状が出て来るというのも私の経験ではある程度本当で、治療と言うよりも治癒という表現の方がしっくり来ます。治癒に向かう時の症状はとても辛いものになり得るので、この分野を日本ではほとんど誰も探究していないのも頷けます。他人の体で試すわけに行かないので、自分の体で実験するしかなく、現時点では結果どうなろうが完全に自分の責任でしかありません。ある人には劇的に効果の出るオイルが、別の人にはまったく何の反応も出ないか、強過ぎてアレルギー反応が出る場合もあり、まずは体力を回復するための別の方法が必要であるとか、いわゆる好転反応の症状を緩和してあげるために別のオイルをブレンドして使うとか、専門家になろうとしたら学ぶことがたくさんあるでしょうが、将来的には素晴らしい成果が期待できると思います。

クンダリニー

クンダリニーとはサンスクリット語で創造エネルギーというような意味で、インド哲学はこのクンダリニーを如何にして目覚めさせるかという問題を中心に成り立っていると言っても過言ではないでしょう。私たちはなぜか生まれた時点ではクンダリニーと繋がっていなくて、根源の生命エネルギーと繋がっていない状態でどうやって生きていられるのか逆に疑問に思いますが、水や空気や食べ物に蓄えられている光を代謝することによって何とか生きられているということだろうと思います。インド哲学では気と言いますかエネルギーの性質を三つに分類しておりまして、サットヴァというのは精神を高める性質、ラジャスというのは物質生活を豊かにする性質、タマスというのは流れを遅くする性質と説明できると思います。専門家ではないので間違っていたらごめんなさい。で、クンダリニーを目覚めさせるためには、どういう訳かサットヴァ性を重んじなきゃいけないということなのであります。そのためには泌尿器、消化器、循環器をみんなきれいにしなきゃいけないので、アーユルヴェーダというのは医療目的であったと同時に、クンダリニーを目覚めさせるという最終目的のために組み立てられたのかも知れません。私が思うに、ある種の植物にはサットヴァ性があり、自然な方法で抽出したエッセンシャルオイルはそのために必要な浄化に利用できます。植物が蓄える光が重要であり、あくまで仮定の話ですが、ある植物から水蒸気蒸留法で抽出した(新鮮な)オイルにはサットヴァ性の働きがあり、化学的に混ぜ物して抽出したオイルにはラジャス性の働きがあり、それをさらに加工して粉にしたものにはタマス性の働きがあるというような可能性があり、この植物はこういう効能という単純な分類はしない方がいいかも知れません。むしろ特定の鉱物の結晶が特定の周波数の光を吸収する性質を利用するクリスタルヒーリングの方が、今の科学では取っ付き易いのではないでしょうか。今まで全然やったことないことを直感的にやってみたくなり、それが思いも寄らないタイミングと方法としてクンダリニーを目覚めさせるための準備になった、というようなことが本来の道筋で、それを本や論文に書こうと思ったら大変なことになりますが、実際問題としては誰もが導かれていることを信じるのが一番と言えると思います。

二種類の見方

スピリチュアルに興味を持つのにも二パターンありまして、一つは自分が得する情報を求めて入るパターンと、もう一つは世のため人のためになりたくて入るパターンです。すべてを損得で考える人というのは多数派でして、自分が損させられるように思える教えは受け入れません。逆に、自分を犠牲にしてでも人の役に立ちたいと心から願う人というのはかなりの少数派ですが、自分だけが得するように思える教えを受け入れられない場合もあるのです。昔の覚者さん(例えばヴィヴェーカーナンダ師)はそこら辺のとこを弁えていたので、どっちから入っても対応できるように教えを説いていたわけですが、そうとは知らずに正反対の目的を持った人が同じ教典を読んでいるというのが一般的に起きていることです。意識は一つですべてが繋がっているという教えと、現実生活を豊かにするための教えと、一つの教典の中に両方含まれていますが、人それぞれどちらか一方が重要だと捉えていると思います。だけど、あくまであいのほしの考え方でしかありませんが、最終的には両方受け入れないと完成しません。今も昔も基本は変わりないのですが、人生どうなったって構わないとか、すべてを思い通りに実現したいとか、スピリチュアルティーチャーさんが両極端に偏らないように指導できるのが理想です。もっと言えば、国や文化によって特有のエゴの構造があって、まったく同じ教え方をしても、ところ変われば全然違う解釈をされる場合もあるので、その辺りの的確な理解と細やかな心配りが必要だと思います。相手が誰であろうがお構いなしに同じ言葉を繰り返すというのは、今となってはあまりにも古い方法になっていると申せましょう。

集合意識

自然界の例えば蟻の巣とか魚の群れを観察していると、たくさんの個体の集合が一つの生き物のような行動をするので、超常的なコミュニケーション形態が存在しているらしいという意味で、集合意識という仮定がなされることがあります。集合意識というのは今のところ想像上の理論でしかないのかも知れませんが、脳科学の観点から今後数十年の間に証明されると予想されます。人間も動物であるという面があり、普通私たちはそういう風に考えませんが、一人一人にやりたい仕事があるということは、全体から見ると一人一人に役割が与えられているからだとも言えます。ただその役割が多種多様であり創造的であるという点では動物とは異なっております。じゃあ悪いことをする人はその役割を与えられているからかという疑問は、それこそ何千年も前から哲学の最大の争点であったと言えます。ただ考えているだけでは決して解決のつかない問題ですが、私の勝手な意見では、私たちが生きているこの宇宙にはテーマ性があり、それは自由意志の体験を通して慈悲の心を体得するという計画なのであります。それも他にいくつかある宇宙の一つであり、さらに遠大な神様の全体計画の構成要素であると考えられるものです。だからと言って大げさに空想するべきじゃなく、私たちの人生というのはただ単にそういう意義を持つものだということだと思います。

新しい経済学

お金になるかならないかが分かり易い価値の基準になっている昨今ですが、経済学で言う価値の定義って何でしょう? 素人なので間違っていたら申し訳ないんですが、銀行の金利とか利子というのは永遠の経済成長という想定と言いますか、世の中に付加価値が生まれ続けない限り成り立たないのではないでしょうか。農業・漁業・林業・採掘業・工業・小売業といった私たちの生活を支える基本的な仕事の他に、いろんな種類のサービス業が占める割合が多くなっている現在ですが、サービス業が生み出す付加価値を計量することが今の経済学では難しいんじゃないかと思います。知的生産という言葉がありますが、例えば娯楽産業はお金になる限り付加価値と認められていると思います。人の気持ちを暗くし恐怖を与えるのであれ、人の気持ちを明るくし勇気を与えるのであれ、今の経済学で見るのは売上だけで、内容はまったく問わないのではないでしょうか。また、医療産業の規模はかなり大きいのでしょうが、人類の成長という観点からしたら、私たちが健康になり産業規模が小さくなるのが付加価値だと言えるのに、今の経済学では医療産業が拡大することも経済成長に入れるのではないでしょうか。動植物の生態の研究のような、それ自体ではまったくお金にならないような学問がいくらもありますが、そういった要素は知的生産としてカウントされていないように思います。結局、世の中を動かす大きな力を持つと見做されない要素は相手にしないという訳で、私たちの実際生活を価値の基準から正確に計量しようという気がないのではないでしょうか。そんなような議論をあまり聞いたことがないのを寂しく思います。

基本姿勢

信じる者は救われるという言葉はあんまりいい文脈で使われないみたいですが、もし信じられるならもう救われている、というのは本当の話です。すごく難しい哲学的なことを考えて「これも幸せと言えるのではあるまいか」と自分を納得させるのもアリですが、何がどうであれ心がぽかぽか、気楽な気持ちで人生を楽しんでいる人には敵わないのではないでしょうか。そりゃ仕事も家庭も順調で、お金がいくらでもあれば誰だって気楽に人生楽しめるでしょうよ、と一般の人は想像したりするかも知れませんが、精神世界で言っているのはそういう意味じゃありません。少なくとも私たちはそういう意味で言っておりません。仕事も家庭も順調からはほど遠く、健康を害してしまっても、正しい生き方を貫けばいつかは必ず良くなると信じることが出来るなら、たとえ生きている間に夢のような境涯にはならなくても、何の不安もない幸せな気持ちだけ先取りすることは現実に可能なのであります。そういう心の態度を基本にして、何であれ自分が置かれた境遇に即応してやるべきことを淡々となせば、どんな人でも必ず人生に成功できると信じます。秘教的な教えに導かれる人がいるとすれば、そこから先の話です。

共感

この会社に就職したらどうなるんだろうとか、この人と結婚したらどうだろうとか、人生の岐路にあって結果を先に知れたらいいのに、という思いは誰しも持つのではないでしょうか。スピリチュアルに片足突っ込んでるならなおさら、未来を当ててみたいと思うでしょう。で、まずは人間の思いの世界であれこれ予想するわけです。イメージがチラッと見えるとかそういうことも起こりますが、あくまで想像の世界ですから、希望的観測が入れば入るほどまったく見当外れになり、少し客観的になれているなら偶然当たる時もある、といった程度でしょう。次に、知識と経験から勘が働くという場合があります。潜在意識にある程度のデータがあり、そこから導き出される答えなので、頭で考えて予想するよりは当たると言えるでしょう。次に、響き合うという言い方をしたりしますが、愛や慈しみの気持ちが出ている時に突然起きる共感というのがあります。これは普通の人でも一生に一度くらいは限定的に経験し得るものですが、心が空っぽになると全面的に起きるようになるんだと思います。ここで言う心が空になるとは、何も考えてない瞬間があるという意味じゃなくて、人間の業想念を浄めて心が生存本能を超越した状態という意味です。ものごとそのものを見ていることになるので、共感によって得られた情報は、客観的に検証しても100パーセント合っていることになります。精神世界をやっている私たちは、この三つが入り混じった形で未来を予感していると言えるでしょう。本物の共感というのは不可抗力というのが適切な表現であって、そういう能力を得たいと思うのは本質的に的外れだと言えると思います。

波及効果

すべては繋がっている、とまともなスピリチュアルは説きますが、実際自分が関わるすべての人が幸せになるというのが、理想中の理想だし王道であります。ある教師や団体と関わって行く中で、理由が何であれ自分の家族が離散して行くようなら、その教えは本物でない可能性が高く、疑い始めるのがいいような気がします。ヒーリングやセラピーのようなものを習っても、自分の親兄妹が病気になった時にその方法で治らなければ、一番大事な時に何の役にも立たなかったことになるのではないでしょうか。ガッカリなんてもんじゃありません。誰かを癒したいと思う気持ちは尊いものですが、願うだけではどうにもならないこともまた事実です。自分が何か一つ乗り越えたとき、こだわりが取れたとき、愛の気持ちが出たとき、最初に血の繋がりのある家族や一番身近にいる人たちに嬉しい波及効果があるのは本当です。すべては繋がっているとは具体的にそういうことなのであります。何の変化も出ないようなら、自分が独り善がりになっている可能性を疑った方がいいと思います。家族に良い影響を与えるという事実を知ることが、心の浄化に取り組むためのモチベーションになる人もいると思うので、こんな話をしています。自分の心が軽くなることで、世界のどこかにいる知らない誰かの心も期せずして軽くなるというのも本当です。逆に言えば、自分が知らない誰かの恩恵に浴していることもあるのです。いずれにしろ、心の世界の取り組みが無駄になることはありません。

あなたと私

個別の自分というものは本当はなくて、私が私と思っている私と、あなたが私と思っている私は同じ私、実は人類全体いや宇宙全体で一つの私であるとしたら衝撃的ではないでしょうか。しかし、そのまさかが真実という訳です。「私はあなた、あなたは私」という考え方はそれこそ大昔からあって、二人でペアを作り、お互いに目を見つめ合いながら「私はあなた、あなたは私」と言うといったワークをやらせるティーチャーさんもいたりしますが、それを裏付ける理由と言うか証拠がなければ、ただの哲学で終わってしまいます。金属元素が光を吸収し、その後だんだん放出するのと同じ原理で、魂が肉体に宿るというのは霊の光を体が蓄えて、だんだん光が放出されると体としては死を迎えると理解することも出来ます。光が一時的に閉じ込められることで、個別の知覚が発生するという驚きの仕組みです。もちろん人間としての私たちが、あなたと私が同じであると悟るための順路は用意されてまして、第一段階はパートナーや親子の愛情を通して与えられるのであります。自分の命よりも誰かが大事だと本当に思う真の愛情というのは、人間が利己的な個人だとすると論理的にあり得ないことなので、私とあなたが同じであることの間接的な証拠になるわけです。次の段階は、誰かが考えたり記憶したりしていることを、完全ではないにしろ分かるようになる能力の発現として与えられます。もちろん簡単に与えられることはありませんが、過去の覚者を調べれば、こういうことは本当に起こることが分かります。それはあなたと私が同じである本格的な証拠になる訳です。

青写真

私たちは生まれて来る前に人生の計画をあらかじめ立てている、お互いに人生テーマが似通った魂が同じ時期に同じ国へグループで転生する、といった話が精神世界にはありまして、そういう見方をすればかなりの程度事実なんだろうと思います。が、そういう話を聞かされたところで人生は何一つ変わらないとすれば、ただのおとぎ話に過ぎなくなるのではないでしょうか。スピリチュアルとは何の関係もない一般の人が見ても、「この人はこれをやるために生まれて来たのかも知れないな」という風に納得させてしまう天才的な人というのがいます。だいたいその通りだと思うんです。青写真がすごくハッキリしていて分かりやすいわけです。なのですが、まずまず平凡というカテゴリーに入る多くの私たちの青写真というのは、具体的にこれこれをやりに来たという種類のものではないのです。ほぼすべての私たちの青写真というのは魂を磨き神性を現すということであって、特定の天職に就かなければそれを実現できないというようなことはないのであります。あいのほしの意見を押し付けるつもりはないんですが、これを理解することはとても重要です。なぜなら、特定の何かをしなければならないはずだと想像して生きていたら、結果的に要領を得ない人生になってしまう危険性があるからです。心を浄め人間性を高めることを人生の目的に定めることは、私が思うにとても意義のあることです。人生の目的として定めていることが真実に近づけば近づくほど、私たちは揺るぎない信念と心の平安とを持って人生を生きて行くことができるからです。別にこれが唯一の答えだという訳じゃないので、最期に本当に有意義だったと確信できそうな内容を、人生の目的として自分で定めるといいと思います。

経験と学び

一般的に経験はたくさん積んだ方が良いとされますが、新しい体験にどんどん飛び込んで行く冒険的な人は必ず人間性が磨かれるという訳でもなさそうだし、どこへも行かずに一つ事をやり続ける職人的な人は全然成長がないという訳でもなさそうです。これはどう考えたらいいんでしょうか? 何も考えないで次から次へと新たな経験を重ねても成長は出来ないし、体験がなく頭の中で哲学するばかりでも成長は出来ないようです。何も理解する必要はないという哲学もありますが、成長したいと思うなら理解というのは重要です。モコモコした泡の中に宝物が埋もれているとして、別に探そうとしなくても宝物はあるにはあるわけです。泡の中に手を突っ込んで宝物を見つけ出して初めてそれが何か分かる、というのが理解するということだと思います。そういう意味で熟考するとか熟慮するといった態度は大事だと思うんです。で、一口に理解と言っても二通りあり、頭で理解するのと心の底から理解するのと違いがあります。精神世界の話を聞くチャンスがなければ人間は成長できないということでもありませんが、既に聞けたということは取り敢えず頭では理解できたことになります。で、その理解が実際に体験として分かるようになるまでに何十年と掛かるのが普通と言えるでしょう。何十年で分かったら優秀と言えるのかも知れません。で、心の底から理解したことを生き方を通して証明するという段階がそっから始まるわけです。生き方として見せることがなければ、誰もその理解が本物であるかどうか判断することが出来ません。人として完成するというのは、その人のやること為すことすべてが愛と調和を生み出して行く姿を見せるということではないでしょうか。

娯楽と実力

自己本位という欠点のある私たちにとって、自分に向き合い人生に立ち向かうのは難しいことです。今考えれば精神世界には娯楽に類するものが多くあり、楽しませてもらっているうちにだんだん現実と向き合えなくなり、行動する気力を削がれてしまったりします。理想を言えば、多少厳しくとも、知らず知らずのうちに何であれ生きる力が身に付き、勇気を持てるようになる教えがいいと思います。楽しむためという考え方もありますが、私が思うに、人生というのは人間性を磨き出し、いわゆる神性を輝かせるためにあり、その過程には苦痛が付き物です。苦痛を避けて通ることは出来ませんが、喩えて言うならば緩和ケアのようなものは実際にございます。これは私個人の意見ですが、瞑想というのは目的を達するための手段ではなく、実は人生の苦痛を和らげる緩和ケアに相当するものだと思います。人生に立ち向かうことこそが、常に道であり方法であるわけです。過去を癒す、悪い癖を直す、誤った世界観を正すといったことが具体的な方法だと言えると思います。人生は最終的に自己の本質を悟り人として完成するためにあり、その過程は基本的に大変であることを重々承知の上で、だからこそ楽しんでやる必要があると身をもって示してくれるティーチャーさんがいたら最高です。大変だからこそ、苦痛を適度に緩和しながら楽しんで生きるというのが、それこそ人生の極意だと思います。進めば進むほど楽になる、要するにエゴの欲望に振り回されなくなる、そういう態度を早い段階で身に付けることが大事だと思います。

イメージと本物

天命を全うすると言うけど、具体的に何をどうすれば自分の命を生かし切ることになるんだろうか? とこういうことが真剣な疑問になって来なきゃいけないのではないでしょうか。何がイメージと言うか幻を追い掛けている生き方で、何が魂にとって本物の価値がある生き方なのか、エソテリックな議論をしようとしたらとても難しい話になり得ます。私たちは誰でも、程度の差こそあれいい格好したいという願望を持っていると思います。単純に言えば、人に褒められたい、評価されてなんぼ、「わーすごいですねー」と言ってもらえるように伝え方を工夫する、都合の悪い要素は排除して完璧な物語を作り上げる、とこういうような態度がイメージの中で生きているということだと思います。良い悪いの判断をせず、包み隠さずそのまんま表現する態度が本物だと言えます。人生でこれだと思ってやっている活動が、もし誰からもまったく評価されないとしたら、それでもそのまま続けますか? その活動への情熱よりも人に認められたい願望の方が勝っているとしたら、人に認められさえすれば何の活動でも構わないということになってしまいます。それがイメージに生きるということです。人に認められなくてもやりたい、それでも続けます! と思うなら本物です。世の中どこに住んでいるとかどんな仕事をしてるとかすべてにおいて、まともな人間であると他人に思ってもらえるという基準で生きている人が多くいます。そんな環境の中で本質的な生き方を目指すのは大変なことですが、私が思うに、後悔することはないと思います。でも、本質的に生きなきゃいけないとは思わないです。あくまでイメージで生きて行きたい場合はそれはそれで構いません。

どこからスタートするか

自分が今子供だったらどうだろうかとよく考えるんですが、要するに子供がこれからの人生で人間性を磨き出して行こうとする原動力をどこで得られるだろうかという疑問です。戦前の修身教育が良かったとは言わないですが、昔の時代の方が魂を鼓舞してくれるような高潔な人に触れる機会は多かったように思います。今は偉人の伝記なんかもあんまり読まれなくなっている気がするし、ましてや道を示してくれる人に出会えるチャンスはほとんどないような感じがします。ぼやぼやしていたら、お金さえあればいくらでも楽しみを享受できる西洋式都市生活の枠内で勝ち組に入ることが理想、と考えられるようになるのも無理はありません。流行っているから瞑想でもしてみるか、と気軽な気持ちでスタートしても、いつの間にか高額セミナーに誘導されるのが関の山という有様です。子供にとってほんとに受難の時代だなと思います。初等教育で、この哲学者がこう言ったみたいな内容を憶えさせるんじゃなく、自分の頭でいろんなことを考えさせることから始める必要があるように思います。その際、人生に対する考えに正解はない、自分の考えを人に押し付けてはいけない、という基本を徹底しないといけません。若ければ若いほど理想的な生き方への感受性は強いので、平凡な大人になってしまった私たちは、少なくとも子供の邪魔だけはしないように気を付けるべきではないでしょうか。

癖と個性

個性を伸ばす教育とか言いますが、ある人が持っている特徴の中で、何が伸ばすべき個性で何がそうではないのか、ちゃんと定義されてないような印象を受けます。これは私の意見ですが、精神世界で言われる叡智というのが個性の正体であって、叡智に至るまでの間に一時的に欠点として現れる性格は、個性ではなく癖と呼ばれて区別されるべきだと思います。なくて七癖とか言いますが、いわゆる過去世やご先祖様の遺伝から持ち越して来ている認識の欠如や世界観の歪みが、癖として現れているんであります。トラウマ的な出来事に向き合えず、理解できないまま終わってしまったことがその原因なのです。アルコールに頼りやすい性格とか、常識的に欠点と見做されるものはいいんですが、「優柔不断なところがかわいい」とか「傲慢なところがかっこいい」とか、本来人間性が成長することで解消されるべき癖に相当するものが、個性と見做されて自他共に認められている場合もあると思います。ましてや、ものごとを所定のやり方で処理しなければ気が済まない神経質な性格とか、頭の中でいちいち人や物を批評する評論家体質とかは、実害がないために癖として認識すらされないかも知れません。認知行動療法的な方法で矯正できるならそれもアリですが、癖というのは理想を言えば、なぜその癖があるのか疑問に思うことから始まって、その根本にある感情に向き合い、何を信じているからそう感じるのかという理解にまで辿り着いたとき、意識のありがたい働きによって自然に解消されるものです。癖そのものは解消されて、それまでの全過程が叡智と言うか個性に変わるというわけです。「あの人いい意味で変わったね」と普通の人から言ってもらえるようにならなきゃ、スピリチュアルをやっているとは言えないだろうと思います。

行程表

人間機械論というのは未だに根強い人気があって、人間は自由意志を持たない機械だという前提の下に話をするスピリチュアルティーチャーさんが少なからずいらっしゃいます。確かに、心にメカニズムのようなものがあり、心を物として扱うことができるなら、あーやってこーやって式の悟りへの行程表を作り易くなります。しかしながら、その線で行けば人生そのものには大して意味がないという結論になるのは当然と言えば当然です。私たちは本当の自分を見つけるために生きている、というのはまったくその通りだと思います。ただ、あいのほしが付け加えたいのは、全員が全員そうだと言う訳ではないのですが、地球に生きている私たちのほとんどは、過去の生き方の誤りを修正するチャンスを与えられてここに来ている、という考えです。そこの理解がないなら、人生に意味があるように見えないのは当たり前のことです。世のため人のためになることをする、というのも他でもない修正のための具体的な方法なわけです。ほんとの真心を世の中に現す必要があるのは、それによって本当の自分が見つかるからに他なりません。考えに考え抜いた大掛かりな慈善計画よりも、純粋で素朴な善意の方が人の心を打つことがあるという事実からも、真心というのは人間の論理を超えたところから来ていることが分かります。それと同じように、社会を変革しようとする活動よりも、自分を癒せたという内面の変化の方が、実は世の中に大きく貢献しているということもあるのです。スピリチュアル業界も何だかんだ言って外面的な現象ばかりが評価される傾向にあるので、気をつけて行きたい点だと思います。

オンラインコミュニティ

インターネットの普及によって情報を得るスピードが飛躍的に速くなったり、遠く離れた人たちと気軽にやり取り出来るようになったりしています。図書館に調べものに行ったり、船便や航空便で手紙を出していた時代と比べると、何かを「知る」という行為に時間が掛からなくなったと言えるでしょう。なんですが、インターネットの使用でコミュニケーションの質が向上したかと言うと、まったくそんなことはないのではないでしょうか。オンライン上のコミュニケーション能力というようなものはないと言いますか、普段の家庭や学校や職場で良い人間関係を築きにくい人がオンラインで不特定の人とコンタクトすると、良い関係どころか犯罪に巻き込まれる危険の方が多いと思います。ユーチューブとかをやるにしても、オフラインで友達を作り易い人、友達を大事にできる人、自分をさらけ出せる人が成功し易いと思います。逆に言えば、始めから経歴を盛ったり偽ったり、イメージを作り上げようとしながら活動する人は、長い目で見たら必ず失敗すると思います。私自身人に好かれるタイプじゃないので偉そうなことは言えないんですが、虚構の上にほんとの人間関係なんて築けるはずもありません。インターネット上でやたら批判的なコメントをする人を観察してみますと、自分の考えに合わない考えを攻撃する感じで、頭の中のおしゃべりと言うか相手がいることを想定できておらず、そもそもコミュニケーションの次元にいないように思われます。思考の中に閉じ籠っているために、現実に何が起きているのか把握できていない状態ではないでしょうか。結局、インターネットはオフラインの世界を代替する手段には決してならないのであります。

歯痒さ

ものごとを思い通りにしたいという気持ちは、人間であれば誰でも持っているものだと思います。大多数の悟りの教えというものは一言で言えば、このものごとを思い通りにしたい気持ちが消えるということでしょう。しかしながら状況をコントロールしようと意志する主体がほんとに脱落したら、その状態で肉体を維持し続けることは出来ないのではないでしょうか。生きていれば何かが欲しいのは当たり前のことで、私が思うに、自由に生きたいという気持ちと、思い通りにならないのを不満に思う気持ちは全然別問題であることを、スピリチュアル業界ではちゃんと区別して語って来なかったのではないでしょうか。思うような結果が出なければ不満や怒りの気持ちが出るのは一見当たり前の反応ですし、そういう歯痒さは潜在意識にどんどん溜まって行って、いつかは必ず体の不調や人生トラブルとして表面に現れて来ることになります。しかし、人生が思い通りにならなくてもまったく歯痒くならない人も実際にいるのです。そうなると、従来型の欲望が不幸の原因という考えは当て嵌まらないことになります。何が違うのかと考えてみますと、よく言われている通りに結局、不平不満が起こりがちな人は「人生そんなにうまく行くわけがない」とか、何が理由であれ「最高の結果は自分に値しない」と信じていて、何とも思わない人は「思ってることはいつか必ず実現する」とか「表面的にどう見えようが常に最善のことが起こっている」と信じているということなのです。「汝自身を知れ」とか言いますが、今も昔も、自分が何を信じて生きているかに気付くことが精神世界の王道なのであります。

自己肯定

自己肯定感を高めるというような話が、スピリチュアルに限らず広く語られるようになって来ていて、いいことだと思うんです。なんですが、スピリチュアル業界では、相対的な自己肯定とほんとの自己肯定を分けて語る必要があるように思います。「これがこうだから自分は素晴らしい」式の、何かしら理由や条件があっての肯定が、相対的な自己肯定であります。理由が何であれ自己否定感が強い人は、まずこのステップから始めるのが真っ当だと思います。どんな小さなことでもいいから自分のいいところを毎日十個ノートに書く、というような方法がそれです。自分の考え方の癖に気づくためにやる必要があるわけです。次のステップは、自分の欠点や過ちを受け容れる、自己受容というやつです。これはもちろん、自分の欠点を肯定するという意味ではありませんので注意してください。自分に欠点があることに気付いてそういうものとして認める、可能な場合には過ちの償いをする、その上で自分を責めないというのが、ここで言う自己受容の意味です。で、最後のステップは、純粋無垢な性質が自分の本心であることに気付き、そういうものとして現実を生きて行くというものです。そうなって初めて、スピリチュアルで言う自己肯定が出来たことになります。インスピレーションを与える存在とか言いますが、一挙手一投足が人に良い影響を与えるような状態に、私たちはなれる可能性があるのです。

性的な自分

性をどう扱うかというのが人類の歴史を通して最も難しい問題であった、と個人的には思います。究極的には性的指向云々ではなくて、自分を自由に表現するということだと思うんです。ところがあらゆる宗教では、禁欲であったり自分そのものを否定する考えが常にあったわけです。もちろん元々は明確な目的があってそういう教えが説かれたのですが、それは特定の段階に来ている修行者に向けた言葉であって、誰にでも適用するべき話ではなかったように思います。変な話になりますが、準備の出来ていない人が性を抑圧したり、(恥ずかしさや罪悪感から)性的な自分を表現することを恐れたりすることによって、チャクラで言えば二番目のチャクラを明け渡す格好になり、そこから漏れ出す性的なエネルギーを、いわゆる幽界の生物たちが組織的に採取しているという現状になったのです。性的に問題のない人もいますが、性的な自分を受け入れ、健全に表現することが人生最大の課題である人もいます。そういう人にとっては「自分はいない」というような自己否定的な教えは大きな害をなす危険性があることを、スピリチュアル業界はよくよく認識する必要があるように思います。自己表現がテーマの人に、そもそも自分というものはないと教えたら、壊滅的な結果にしかならないでしょう。二番目のチャクラが課題になっている人はどうしたらいいのかと言いますと、どれだけ長い時間が掛かろうが必ず性的な恐れを克服する、とまずは覚悟を決めないといけません。

人間にできること

すごく変な話になりますが、人間というのは生まれて来た時点で満願成就と言いますか、望みをすべて手に入れていると見ることもできます。それに気づくかどうかは自分次第ということでございます。で、それと同じように、人にもよりますが、私たちはここへ生まれて来たという事実をもって、やるべき仕事の九割は既に果たしたと見ることもできます。人間として生まれて来ることが決してない天使と言うか守護神様から見れば、ここへ来ること自体が大きな貢献であり犠牲です。私たち人間が苦難を強いられていることなんざ御守護様は百も承知で、逆に言えば、始めからそんなに多くを期待していないということなんであります。思えば人間性の成長ということについては私たちは五十歩百歩、何をどう頑張っても一度の人生ではほんのちょっとしか成長できない、というのが大方の事実ではないでしょうか。貧乏出身から社会的に成功したという意味での成長なら割とあったりしますが、もともとモラルの低い人が素晴らしい人格者に成長したという話はほとんど聞きません。だけど、ただ生まれて来ただけで九割は役割を果たせたと考えると、けっこう安心する人もいるんじゃないでしょうか。理想社会の実現という理念を持ち、奉仕活動に身を投じるような生き方は、極めて強い意志の力がある人向けの道であって、ほとんどの私たちには向きません。過去の感情を癒し、潜在意識を浄化することによって、素直な気持ちで正しく生きることが、私たちにとっての王道であると考えます。それが、私たちを通して知らず知らずのうちに仕事が為される具体的な方法なんであります。難しいことをいろいろ考えていると、その分御守護様が援助し難くなってしまいます。

スパイ

生きづらさ、疎外感、孤独感のようなのは多かれ少なかれ青年期に誰もが経験するという説もありますが、それとは全然縁がなくて楽しい青年期を過ごす人もいます。ところが自分はどこにも所属していないとか、極端な話何かの手違いで地球に生まれて来てしまった宇宙人のような気分を持っている人もいます。私も宇宙人歴長いので、幸せというものを大切に考える場合に、こういう気分がいかに大きな妨げになるかということが経験上分かります。これは何らかの任務のためにある組織に潜入するスパイと同じ気持ちなのであります。ましてや自分の所属する組織にも疑問を持ち始め、二重スパイとなった場合にはより深刻です。スパイのような気持ちでいたら、自分の居場所を早く見つけて人生楽しもうとか言われても、出来る道理がないのではないでしょうか。帰りたいとか一人になりたい気持ちが強くなるばかりです。いろんなケースがあるのでこれが生きづらさの正体だとは言いませんが、どうであれこういう気分がいつ生まれたのかを分析してみますと、家族関係などによって後天的に作られたと言うよりは、生まれつきあったとしか言えない場合の方が多いのではないかと思われます。で、こういう気分はもちろん若いうちに修正するのが一番望ましいと思います。じゃどうすればいいのか、というのはやや難しい問題です。まず、何であれスパイのような気分でいたら、何をどう頑張っても、居場所を見つけたとか人生にフィットしてるといった感覚を得ることは絶対に出来ない、という事実を徹頭徹尾理解することが第一歩になります。住みたい地域を見つけるとか、何であれ自分のスタイルを確立するというような外面を整えることはもちろん大事です。外面をすべて整えたけど幸せにならなかった人も実際にいるのですから、最終的には自分の心が決めることだ、ということはあらかじめ知っておかなければいけません。

創造性

アーティストと言うかクリエイティブな職業というのがある種もてはやされるようになって来て、そのこと自体は歓迎するべきなのかも知れませんが、クリエイティブという言葉が実際どういう意味で使われているかを考えてみますと、子供が画用紙に何描こうとか粘土で何作ろうと言う時の創造性からは、随分とかけ離れているように思われます。こういうことをテーマにすれば美術評論家に注目され易いとか、コンセプトが複雑であればあるほど高く評価されるとか、最終的にアートをお金にするための戦略を立てる能力を称して、クリエイティブと呼んでいるような印象を持ちます。芸術家を志す子供がこういう現状を見て育った場合、アートというのは中身よりも自己演出の方が大事だとか、結局お金にならなければ価値がない、といった印象を刷り込まれるのではないでしょうか。西洋美学の枠組みの中では何の意味も成さないけど、岡本太郎さんじゃないんですが「なんだこれは!?」というのが本来の創造性に近いんじゃないかと思うんですが、みなさんはどう思いますか? 良く言えば理知的、悪く言えば権謀術数という、要するに今のアート界も男性社会ということなんだろう、と個人的には思っています。何かを生み出すのも二通りあり、科学的な発明というのが一つで、もちろん私たちはその恩恵を多分に受け取っていますが、もう一つは野生的な感覚と言いますか、何を意味するとかそういう観念では片付けられない表現というのがあるんだろうと思います。

分からない

すべては考え方という意味では、スピリチュアリティも途中までは哲学だと思うんです。そして哲学は難しい学問ではないでしょうか。今振り返ってみれば、もともと言語能力や論理的思考力が普通よりも劣っている私には、難しい理論を理解できるようになることが魅力的に見えていました。だけど、本を読んでも内容があんまり頭に入って来ないんであります。分かろうと努力しても、生まれつきの能力がそんなに高くないので分からないわけです。こういうところに人生の機微が確実に存在していると思えます。哲学を何十年と研究しても結局理解できない、瞑想を何十年と続けても思うような結果が出ない、要するに一生かけて努力しても人並み程度にもならないと分かっているとしたら、それでもあなたはやりますか? やるとしたら何のため、誰のためですか? 自分の喜びのため、と答えられるなら、それは何を意味するのであれ自分の一生が一生で止まらないことを分かっている人です。すると最初から分かっていることを改めて分かろうと努力していることになり、これはとても面白い質問になり得ます。人間は分かろうとする必要はないと私は思いませんが、頭で分かることが人生の目的ではないとは思います。なぜなら、最初から分かっているからです。これもあいのほしの考え方でしかありませんが、神聖な意志というものがあり、私たちはそれを地上で顕現しようとしているのです。

家がない

心理学の夢分析の文脈で、子供の頃に最初に見たと鮮明に記憶している夢の内容が、その人の人生テーマを示唆しているというような説があるらしくて、ほんとに最初かどうかよりも、最初に見た夢は?と聞かれてパッと思い浮かぶというような意味でいいと思います。私の場合、今で言う異世界とか平行世界に迷い込んでしまって、自分の家に全然知らない人たちが住んでおり、帰る場所がなくなって近所の路上で途方に暮れている、という内容だったんです。「なるほどそのまんまだな」と思うわけです。一つは、あなたの人生はこんな風になります、という予言。もう一つは、その人生をあなたはどう生きるか、という問いです。運命と呼ぶかは別として、遺伝の循環によって人生でどんなことが起きるかはだいたい決まっていると言えるのかも知れません。その設定は人によっては変えられる可能性もあるし、ほとんどの場合あまり変えられないでしょう。だけど、その設定をどう生きるかについては自分でいくらでも変えることができるのです。あいのほしが主義主張したいことが何かあるとすれば、この一点のみです。ごく普通の反応だったら「寂しい」「むなしい」「悲しい」で終わってしまうような人生でも、まったく同じことが起きているのに「本当に幸せな人生だった」という結論に持って行くことは実際に可能です。出来事が変わらないなら同じだと言う人たちもいますが、私に言わせれば気持ちの違いは大きな違いです。スピリチュアリティの真髄は、その違いを生み出すことができるものであると思います。

心理学と宗教

心理学と宗教がお互いを補い合うというのが理想的な行き方だと思います。心というのはいわゆる物質と同じように取り扱うことはできないので、いわゆる科学的研究方法をそのまま適用することはできないわけですが、実証的に進めて行く必要があるという点では、科学もスピリチュアリティもまったく同じだと思います。反証可能性と言うそうですが、ある仮説を立てたら、それを証明する方法と共にそれに反証する方法をもあれこれ同時に考えつつ、実証的に研究することが大切だそうです。ところが心理学も宗教も理論が先行するきらいがあり、反証されかねない新しい事実を好まない傾向が、みなさんもご存じの通りあるようです。断言する根拠は?と聞くと、だいたいが「高名な先生がそう言ったから」という理由なのです。心理学から行くにしても宗教から行くにしても、自分の人生を通じて実証するという心の態度が必要ではないでしょうか。自分で体験し得ていない理論について「これはこういうことなのです!」と断言してはいけない、というのが当たり前のようで重要な態度だと思います。集合意識のようなものがある、というのが理論だとすると、自分の心もその集合意識に繋がっていることになります。集合意識の中にある特定の情報にアクセスする方法があるはずで、そういう事実を実証的に自分で体験し得てはじめて、生きた知識になるのではないでしょうか。(既にスピリチュアリティを学んでいるみなさんが)これから心理学を学び始めるなら、まず前段階としてケン・ウィルバーさんの『万物の歴史』が、西洋の学問の発展を概観するのに役立つと思います。でまず最初に、ハコミセラピープロセス指向心理学の基本的な手法を先に身に付けてしまうことをおすすめします。それから、ウィーン学派と言うんでしょうか、アドラーさん・フロイトさん・フランクルさんがそれぞれ顕在意識・潜在意識・霊意識に対応している、と大雑把ながら見ることができるので、三人の著作を満遍なく読みながら、心理学の知識を人生にどう生かして行きたいのか、(偉そうな言い方で申し訳ありませんが)自分の頭でよく考えて方向性を見極めるといいと思います。

価値の実現

価値の実現というのは本来、いわゆる神聖な計画が成就されるさまを表す言葉であります。ところが人間が利己的な欲望を満たす行為にもやはり価値という言葉が使われており、考えてみれば正反対の意味に同じ言葉が使われているという事情になっております。神様の意志というのはもちろん、すべてに利するという方向性でありまして、人間の考える自分一人が得をして、そのために他の誰かが損をするという商業的方向性ではないのであります。そこら辺の区別がついてないと、自然をも思いのままにコントロールできる未来型の理想社会に向かっていると信じる人間が、実は破滅に向かっていることに気づかないのは当然と言えば当然なのでしょう。人間も自然の一部ですから、利己的な人間が増えれば天災や疫病で人類全体が淘汰されるという自然現象が起きても不思議ではありません。考えてみれば当たり前のことが分からない私たちであります。子どもの頃は誰でも自我が未発達なので、みんなの幸せを願うという本心が自然と現れるのであります。いったん大人になったら最後、元の状態には二度と戻らない人が多いというのが現実ではないでしょうか。ちょっとお金ができたら全然必要のないものをたくさんコレクションしたり、自分でも馬鹿馬鹿しいと分かっているのにやめられません。それだけに、人類が抱えている問題は実は大したものではないとも言えるのではないでしょうか。カラスが光り物を集めているという程度の話です。

人生の意味

人生の意味とは何ぞや、とは伝統的な質問ではあるんですが、結論から言ってしまえば、考えていても分からない、ということだろうと思います。とんでもなく頭の良い人たちが寄って集って考え出した哲学が、世界平和の実現にはほとんどまったく役に立たなかったと言えるでしょう。有名な心理学者(フランクル)さんが、私たちが生きる意味を問うのではなく、人生が私たちに何を求めているのかという問いに答えるべきだ(『夜と霧』)、というようなことをおっしゃいましたが、あいのほしもまったく同じ意見であります。どういう訳かあらゆる経験に意味を見出そうとする精神的傾向を持っている私たちですが、私が思うに、実際に意味を汲み取ろうとしているのは神様の方です。新しい理解が生まれるのは必ず新しい経験をした後です。言葉を駆使して巧みに哲学しても、経験の裏打ちがなければ新しい意味は形成されません。堂々巡りの議論になってしまっているわけです。人生の意味とは何かと問いかけて来るスピリチュアルティーチャーさんがいたら慎重になるべきです。あるいは人生の意味はこうですとか、意味はないですといった哲学には慎重になるべきだと思います。そうじゃなくて、人生からの問いに生き方で答えている人たちが清々しいな、と勝手ながら思ってます。

夢と方法

夢という言葉を私たちがどういう意味で使っているのか考えてみますと、要するに自分の好きな職業に就く自由と、自分の好きなパートナーと結婚する自由ということじゃなかったかと思うんです。自分の好きな場所に住む自由、場合によっては外国に移り住む自由ということも考えられますが、これは二義的だと思います。人間の歴史の中で、たったこれだけの自由が未だに得られないのが現実ではないでしょうか。何らかの理由で自由が得られない状況下では、何か奇跡的なことが起こると妄想するようになる、という心理現象があるそうです。つまり夢はあっても方法がない場合にです。これはまさにスピリチュアル業界の現状にもよく当て嵌まるのではないでしょうか。理想の恋人をゲットするとか、楽して金持ちなるといった夢があり、それを叶える方法というのが、何であれ奇跡的なことが起きることをひたすら期待するような内容だったりします。個人的にけっこう恐ろしいことだと思っています。絶対にそうだとは言いませんが、一歩一歩着実に積み重ねて行くような方法なしでは、すべてが一気に解決するに違いないという妄想状態が長く続くことになってしまいます。悟りとか光明というのは全然別次元の話ですが、私たちの実人生に関わることは、小さな達成を一つ一つ味わって行くような具体的な方法が、当たり前の話ですが絶対に必要なはずです。願望実現に関する教えを聞く時には、夢と具体的な方法が必ずセットになっているかどうかに注意する現実感覚を忘れないようにしたいものです。

欠点を直す

誰にでも欠点ってあると思うんです。で、やっぱ心ある人だったら自分の欠点を直したい、直そうって考えるじゃないですか。スピリチュアル云々に関係なくそういう話は出るし、依存症とか深刻な問題もいろいろあると思うんです。そこにどう向き合うかで精神世界の真価が問われると言っても過言ではないでしょう。まず、そもそも問題というものはない、進歩や成長を目指す意味もない、ただあるがままで完璧なんだとする哲学があります。これは極端に自己否定的な人には(暫定的に)有効である可能性があります。ただ、あるがままを認めれば人生すべて思い通りに行くというような、要するに人間の願望を投影した形に捩じ曲げている教えが多いようです。自分の実際生活において極めて都合の悪いことが起きても心を乱されない、というのが本来のあるがままの教えであります。で次に、自分の性格の歪みを矯正するためのアプローチが各種あるわけですが、実際問題自分の性格を変えるというのはとても難しいことであります。自分に欠点があることに気づくというのが第一歩ですが、気づけたということ自体とても素晴らしいことです。他人に指摘されて「ああそうかね」と思っているのは気づけた状態ではなく、その欠点が人生すべてに影響して来たのがハッキリ見えるという状態が、ほんとに気づけたということであります。で、自分はこんなに悪い人間だったんだということが一旦分かったら、いつまでもクヨクヨ考えずに、意志の強い人だったら自分で直す努力をする、自分にそこまでの力はないと思えば神様に委ねる、という二通りの方法があります。意志の力で直せるのはかなりの少数派と言えましょうが、自己分析が充分に深い人だったら可能であります。そこまで出来ない私たちは、自分を責めずに気づきを深めて行くことで、自然に直って行くんだと信じるのが一番の近道だと思います。

楽しいだけじゃ物足りない

風に飛ばされるちり紙をひたすら追い掛けているというのが、これまでの私の人生の要約であります。追い掛けるそばからどんどん飛ばされるちり紙ですが、仮に捕まえられたとしても、そこに何かいいことが書かれているなんてことはあり得ません。そんなこと分かり切っているはずなのに、まだ追い掛けているわけです。人生のスピリチュアルな意義を追っているつもりなんですが、実のところ何をどうすればいいのかまるで分かっていないんです。突き詰めますと、自分は人とは違って特別だと思いたい性格が原因であったと思います。天界だの神界だのと呼ばれる別世界に自分の言動が影響を与えているみたいな、ニューエイジの大げさなコスモロジーに惹かれたのはそういう訳だったと思います。大げさであればあるほど、自分が特別になったような気分に浸れるからであります。自分が特別な役割を果たしていると真剣に思い込んで生きている(私のような)人が、実際にはまったく誰の役にも立っていないことはあり得ます。スピリチュアルなんてまったく考えもしないような人が明るく楽しく生きている方が、よっぽど多くの人に良い影響を与えているというのが事実ではないでしょうか。自分がスピリチュアルな世界に貢献していると思えないと物足りない理由は何ですか? ただ単に明るく楽しく生きているだけではダメですか? ちり紙を追いかけるのをやめて立ち止まったらどうなるのか、と考えたらやめられません。「12ステップのプログラム」じゃないんですが、人間の知性では前もって何も分からないと理解する必要があります。後は野となれ山となれです。スピリチュアルな世界観に頼らずに明るく楽しく生きていられるとしたら、実際とても素晴らしいことではないでしょうか。

縦と横

縦横の調和という話は、エソテリックな教えの中には必ず出て来る概念です。縦と言うのは、動物としての人間が生存競争をしているという個別意識を下位としますと、その生存を正に可能ならしめている形而上的な霊意識が上位にあるという考え方です。横と言うのは、私たちの現実生活をより良く豊かなものにして行こうという考え方です。言葉による創造の言い伝えの通り、言葉による表現というのは基本的に横方向の働きであり、それゆえ学問というのは基本的に現実生活をより良く豊かにする目的に結び付いていると思います。縦方向というのは意識の焦点が上に移動することであり、人間の言葉では表現し難いものだと言えます。伝統的には問答無用の瞑想の技法が縦の教えです。理想を言えば、意識の焦点が上昇すると、私たちがここで何をしようとしているのか分かるようになるのです。で、縦方向の教えと横方向の教えが調和するのが望ましいという理念は昔からあったのですが、実際にはどちらかに偏った教えが多く、本当に両者が調和した教えが具体化したのはかなり最近のことだと思います。縦に偏ると人間生活を否定する形となり、横に偏ると自分で創造するのではなく他人から奪い取る魔術の形となったのであります。その結果、縦方向で行っても横方向で行っても人間性はほとんど向上しなかったように思われます。家庭や仕事を通じて自ら美の世界を想い描き創造しつつ、神様に心を向けることが縦横の調和する具体的な生き方です。私自身は極端に縦方向の教えと極端に横方向の教えを両方学んだんですが、あいのほしでは縦横の調和する教え、少なくとも一方に極端に偏っていない教えのみをお勧めしております。人間性が磨き出され輝いて行くことが、私たちが生きている目的だと信じるからなんであります。

気持ちを切り換える

上手に気持ちの切り換えが出来るようになったら、精神世界において大事な技術が身に付いたと言って差し支えないでしょう。難しい話は抜きにして、常に爽快かつ気楽な気持ちでいられたらとても素晴らしいと思います。スピリチュアルを仕事にしている人でも、もし人生がどん詰まった場合には暗い気持ちになる、というのが正直なところではないでしょうか。一つには、視野が狭くなるほど気持ちの切り換えがしづらくなるというのが事実であります。ただでさえ狭いスピリチュアル業界の中で、しかも特定の分野にこだわっていたら、そこに解決策を見出せなければ人生終わりになってしまいます。逆に、視野が広がれば広がるほど気持ちを切り換え易くなるんであります。もちろん、人のあんまりいない自然の良い所へ旅行したりするのもいい方法です。もう一つ、自分が全然知らない業界の人に触れるというのが有効です。ただ闇雲に触れるということじゃなくて、どんな業界にも必ず、人として向上しよう、成長しようという気概を持って仕事をしている人がいます。ほとんどの場合、その業界で一流と呼ばれていると思います。そういう人の話は勉強になるし、与えられた環境の中でベストを尽くすという共通点が見えて来ると思います。広く浅く幅広い知識を身に付けるのは大事なことです。それも百科事典みたいにいろんなことを暗記してるという風ではなくて、実地に触れて経験して行くことが必要です。そして知ったことをすべて生かす方向に持って行かなければ意味がありません。いろんな知識があればあるほど、いろんな人の気持ちを理解できることになり、そうなって初めて「生きた知識」になるのです。スピリチュアル業界で仕事をする人にとって大切な姿勢だと思います。

こだわりすぎ

スピリチュアリティの本質は言葉や概念では表現できない、とはよく言われる話です。だからスピリチュアルティーチャーは自身の生き方でそれを示す必要がある、というのは考えてみれば当たり前の話ではないでしょうか。しかしながらみなさんもご存じの通り、あんまりそうなっていないのが現実でありましょう。人として尊敬できるとか、ああいう人になりたいと思わせてくれる存在こそ、本来のスピリチュアルティーチャーであるはずです。言葉にすることで初めて理解できるんですから、その点で言葉というのも大事なんですが、概念そのものに囚われてしまった時の狂信性がいかに恐ろしいものであるか、歴史が証明しております。元来スピリチュアルはあんまり軽々しく扱ってはいけないもので、私も含めて素人がすぐに教師まがいの発信をしてしまう風潮はけっこう危険だと思います(私はスピリチュアル教育を語る素人といったところです)。スピリチュアルは証明できないから言ったもん勝ちという考えがありますが、間違っていると思います。周囲の人たちの人生を現実的に好転できるという事実をもって、教師の資格をおのずから証明すべきです。それが出来ないのなら、スピリチュアル評論家とかスピリチュアル解説者とかの肩書きを使った方が誠実ではないでしょうか。逆に言えば、自分を評論家とか解説者と割り切って活動している人が、スピリチュアル業界にはほとんどいないのを不思議に思います。

うまく行かない人生の意義

何をやってもうまく行かない人というのはいるものですが、うまく行かないの意味は「お金にならないことをやっている」のとほぼ同義なのではないでしょうか。一般的には、お金にならなければどんなことも成功とは見做されません。「昔自分を虐待した人を許す気持ちになれました」とか「依存症を乗り越えられました」とか「孤独を克服できました」とか言っても、変な人と思われるのが関の山です。それよかSNSでフォロワーが何万人いるとかの方が評価されると思います。だけど、スピリチュアルな観点からすると、誰からもまったく評価されない人が、実は集合意識に革命的な影響を及ぼしている場合もあるのです。いわゆる業が浄まって行く方向に使われるなら、ある種の心理療法やヒーリングはすごく重要だと言えます。集合的な業を消す役割を与えられている人生というのがありますが、世間からはまったく評価されないそうした功績を正当に評価してあげるのも、スピリチュアルティーチャーの本来の役割の一つだと考えます。誰かに掛けてもらった一言で人生の見方がガラッと変わることはあるものです。評価されるべきことが評価されることは大事なんじゃないかと思うんであります。そういう意味でニューエイジの甘言もいいこと言ってると思える部分があるのです。そういう言葉がいわゆる幼児的万能感や自己愛性のプライドを助長するんじゃなくて、勇気を奮い立たせる方に働いたら素晴らしいと思います。

理屈じゃない

言葉にすることで初めて理解できる、言葉にすることができれば理解できている証拠である、というのは人間の知性の枠内での話です。人間社会のすべての問題の根本原因は、自分のお金、自分の力、自分の実績などなどと言う所有感覚であるという洞察は、それこそ何千年も前から為されております。それなのに一向に問題が解決しないのは、言葉にしたことで分かったつもりになっているからだと言えましょう。そもそもこういう洞察が為されるには、人間の集合意識という重力の圏外に出ることが必要です。集合意識の外側に出るにはとても勇気が必要で、それを為し得た覚者さんは常に、理論よりも実践を中心に説いたものです。原因の洞察とその解決策が同時に与えられていたわけで、実践してこそ本物の理解が得られるものです。だけど理屈の部分だけを聞いて分かったつもりになる傾向が私たちにはあります。理屈よりも行動を重視した覚者さんはいつも人気がありません。所有感覚が強くなると人間社会はどんどん凶悪化して来るし、所有感覚が薄くなればなるほど楽園化して行く、言葉にすればとても簡単ではないでしょうか。でも、分かったつもりで全然分かっていないのが怖いところなのです。「自分さえ良ければいい」という考えは勘違いであることが本当に痛感されれば、それ以降の生き方が変わって来るのが当然ではないでしょうか。生き方が変わったという事実だけが、本当に理解したことの証拠になるのです。

一人じゃない

人間は誰でも実は一人じゃない、つまり守護霊や守護天使と呼ばれる存在がいつも傍にいる、という考えがありまして、あいのほしはもちろん肯定派なんであります。そのことが本当に分かれば、私たちは二度と孤独というものを感じないで済むはずなのです。私自身がさんざん苦労して来たポイントなので、あまり厳しいことを言いたくはありません。一生一人を運命づけられていることを現実的に悟ってから、かなり寂しく思った時期もあったことを、言いたくはありませんが認めます。人間同士の愛というのはどんなに高く見積もっても子供の(未熟な)恋愛であって、決して(完全に)満たされるということはありません。それなのに、スピリチュアルティーチャーさんを含め、パートナー探しをやめられないのが実際ではないでしょうか。ご守護様がいるいないがただの哲学的議論になっており、いると思っていてもそう感じられないのが問題なのです。人間は一人じゃないのは本当なのですが、そう感じられなければ何の役にも立たない一つのアイデアに過ぎません。じゃどうすればいいのでしょうか。小さい子供が言われたことを何でも信じるみたいに、ご守護様はいると信じないといけません。するといつかはご守護様の方から手を延ばしてくれることは確実です。想像の産物と言う人もいるでしょうが、もしそれで孤独と永久にオサラバできるんであれば安いもんじゃないでしょうか。根本的に孤独を感じない二人が一緒になれば、明らかに関係の質が別次元のものになるんであります。それこそが大人の恋愛と言わねばなりません。

現実を見る

精神世界では、最終的に成功や完成に至るのは多くて百万人に一人くらいです、というような話が大真面目になされます。百万分の一以下と言ったら、科学的には偶然とか無関係と結論されてもおかしくない確率ではないかと思うんですが、それを誰もオカシイと言わないんであります。方法論を提唱するなら、少なくとも二割以上の成功率を実証して頂きたいものです。スピリチュアルに限らず、あまりに遠くにある目標を見ていますと、目の前にある現実が目に入らなくなってしまい、何も手に付かなくなってしまう傾向が私たちにはあります。ましてや雲を掴むようなスピリチュアルな話は、現実から目を背ける理由になるというのは、昔からよく言われていることであります。まったく実績のない新しい方法論や、最後どうなるのかよく分からない哲学が、この業界には溢れております。人生どうなったって構わないという人が、そうしたものに賭けてみるというのもアリですが、もちろんそれを説いているティーチャーさんが責任を取ってくれることはありません。選んだ責任は全部自分という覚悟が必要であります。無駄に終わってもそれはそれで面白いと、それくらい軽い気持ちでいられるならいいだろうと思います。実際、精神世界というのは一種の賭けというのが事実なんだろうと思うんであります。命のすべてを賭けなければ成功は難しい。現実を見るというのは難しいことです。そんなワケであいのほしでは、一気に高みを目指すよりも一歩一歩着実に積み重ねて行くような方針に、ある種の転向をしたんであります。

工夫

私がまだ二十代の頃に「人生の目的は、愛がないように見えるこの世界に愛を見つけることだ」とどっかで読んだと記憶しているんですが、今もってまったく正しいと思います。どこに見つけるって自分の中に見つけるんだと思うんです。お金や恋愛は幸せとは全然関係ないというのが事実なんですが、それを本当に理解すると言うか納得しない限り、自分の外側に愛を探すことを止められません。外側を探すのを止めましょうと言っているのではなく、外側に探すのが一番目に来るのが人間として当たり前だ、というのが事実です。もちろんパートナーや家庭に恵まれるのが幸せだ、というのは人間として当たり前の事実です。だけど、それと同時に幸せは外側の境涯に関わらず心が決めることだ、というのがもう一段高いところにある事実なのであります。そういう意味で、いくら努力しても経済にも愛情にも恵まれなかった人はチャンスです。何もないのにお腹の底から暖かい気持ち、「ありがたい」という気持ちを持っていられるようになったら、この世で一番得難い宝を得られたと言っていいでしょう。要するに幸せということです。何もなくても心が満たされて行く方法を、自分自身の心の性質に照らし合わせて工夫してやって行く必要があります。待っていても誰かがやってくれることはありません。他の誰かが説いている方法が自分にも合うとは限りません。ある方法が自分に合っているなら、半年も経てば見る見る成果が上がって来るのが当たり前で、そうじゃないならその方法は自分に合っていないということになるでしょう。その方法で効果があったという実証者が沢山いて、今も増え続けているというのなら、自分の実践に真剣味が足りないとか、そもそもやり方を間違って理解している場合もあり得ます。

どうしたらいいんだろう

スピリチュアル業界の門を叩くことになる人には、何かしら具体的な理由があるのが普通だろうと思います。この病気をどうやったら治せるだろうとか、親子関係で悩んでいるとか、「どうしたらいいんだろう」というところから入るのではないでしょうか。御多分に洩れず私自身もそうでした。で、もちろんあらゆる問題を解決してあげますよ、というサービスがこの業界には溢れているわけです。ヒーラーさんなりティーチャーさんなりにお金を払って、小一時間お話しすればすべて解決するんであれば、こんなに楽なことはありません。始めは誰でもそういう期待を持つのが当たり前であります。あいのほしでは問題が解決するしないに関わらず、自分ができると思うことはすべてやるといい、という方針でお話ししています。するとやがて「どうしたらいいんだろう」という気持ちは消えて行くんであります。そこまではともかく自分で努力するということです。理想を言えば、そうこうするうちに基本が身に付いて来るからなんであります。科学の世界と一緒で、応用分野というのは何も知らなくてもとりあえず入っては行き易いんですが、不測の事態には手も足も出ないということがあります。基礎がある人は、何をどうすればいいのか考えるためのツールを持っていることになります。子供の頃にヴィヴェーカーナンダさんの全集とかハズラト・イナーヤト・ハーンさんの全集とかを読まされたら、その時にはそれが何の役に立つのかまったく分かりゃしません。だけど大人になる頃には、知らず知らずのうちにこれ以上ない基礎が出来上がっていて、何が起きてもどう対処したらいいのか自分で分かるようになっているものです。どうせなら、面倒臭くて時間が掛かるように見える基礎を積むことが、実は一番無駄のない行き方だと思うんですがいかがでしょうか。兎と亀じゃないんですが、私の経験から言えば、簡単最新を謳う行き方が一番遠回りになる場合もあるかも知れません。

捧げる

よく「悟り澄ましたような顔して」なんていう表現が使われますが、実際精神世界には、乾いた表情で人生を傍観するような向きもあるわけです。ある種のティーチャーさんにとってはそれで構わないんですが、もし何かが欠けていると言うならば、情熱が欠けていると言えるのではないでしょうか。好きな仕事とか好きな人に身も心も魂もすべて捧げたいと思うのは、人間のほんとの心情だと思うんです。自分の人生すべてを捧げる対象を見つけられた人は幸せだ、と一般的にも言われていますが、私もそう思うんであります。なぜ何かに自分を捧げなければいけないのか、と問われれば哲学的な議論になってしまいますが、本来の「捧げる」の意味は、捧げたいから捧げるんだとしか言いようがありません。情熱というのはそういうもんではないでしょうか。極めれば自己利益とか自己保存の本能というのが消えて行く方向にあるわけです。ところが何かいいことを期待して捧げるフリをすることが往往にしてあります。好きな人にすべてを捧げ尽くして何も見返りを求めない、決して後悔しないという生き方は、よっぽど相手を好きじゃないと出来ないのかも知れません。でも、出来たらすごいのです。策略や計算を心が完全に捨てることができるなら、それ自体が本来のスピリチュアルな道に適います。難しい経典をいちいち読まなくてもいいくらいの境地です。

得られない

物質至上主義が行き過ぎてしまっているということは、この文化の特徴として言われ続けているのではないでしょうか。物質を蓄積して行くだけでは本当の幸せは得られない、ということに気づく機会は誰にでも必ず与えられます。ところが当の私たち自身が、そんな風に考えないように努力しているのです。メディアのせいとか誰のせいということじゃありません。私たちは五官に感じられる人生を楽しんでいたいのです。それじゃ本当の幸せは得られないなんてことは、実のところ誰もが心のどこかで分かっているんであります。救われたいなどと全然思っちゃいない人を、救おうと考えたり助けようとしたりするのは、たとえ純粋な善意からだったとしても、おせっかいどころか良くない行為ということになるのです。人類が救われるために覚者の方々が残した痕跡は十二分に保存されております。今さら何かを付け加える必要はありません。まして私ごときが誰かを救おうなどと考えるとしたら、傲慢を通り越して笑止という話になるのです。人類の集合意識が救われることを選ぶなら、それはすぐに与えられるほどに道は整っております。なので何か問題があるように考えない方がいいし、現に問題はないのであります。私個人のことを言えば、世の中のためになると自分で思うことを、結果を期待せずにやることがすべてで、何かを伝えようとか難しいことを考えるのは無駄なことです。一般の私たちにとってスピリチュアリティで大切なことは、語るのではなく行動で見せて行くことだと思います。

過去と未来

癒しやヒーリングに興味がある人というのは、ややもすれば過去の解釈・再解釈に囚われがちになって、文字通り後ろ向きな人生になってしまう傾向が、私の経験から言えばあるように思われます。究極的に言えば過去を癒すことがそのまま未来になる訳なのですが、実質的には何の変化もしない頭の体操になってしまうんであります。未来に飛び込んで行くというのは、まったく経験したことがない故に想像したり予め感じたりできないということであって、科学的に言えば今まで全然使ったことのない脳の領域を使って行くことです。口で言うとそういう言葉になりますが、実際どうやるのかと言いますと、いわゆるクンダリニーを活性化することによってのみ、私たちは未知の世界に飛び込んで行けるのであります。いくら考えたって仕方がありません。今までやったことのないことをやればいいという単純な話でもなく、過去を癒しつつ与えられた天命を果たすべく未来に進んで行く、という生き方になります。今ということを強調する教えがありますが、私が思うに、大概は今と言いつつ後ろ向きになっているようです。未知に直面しているという事実が、本来の今の意味するところです。想像することすらできないのが未来だとしたら、じゃあ一体どうすれば行けるのかというのはすごく難しく思えるわけですが、心をきれいに磨いておけば直接知として勝手に入って来るということなんであります。そういう仕組みになっているとしか言いようがありません。

信念体系のワーク

自分が事実として受け入れている内的現実の総体のことを、精神世界では信念体系と呼んだりしています。自分が信じていることを変えれば現実を変えられるんだ、という考え方が生まれており、その具体的な方法については諸説あるわけです。自分が何を信じているのか自分で認識する必要がある、というのが最初のステップになります。信念体系というのは基本的に潜んでいて、全体像をいきなり掴むことは難しいんですが、常日頃ちょくちょく思う思い方の癖、何かの出来事への感情的な反応、慢性的な体の症状などとして表に現れているものなのです。そっから糸を手繰って自分はこんな風に信じているんだなと認識するに至れば、それを変えるという選択肢が出来るわけなのです。表面的にまったく現れていない思いというものもあり、特定の出来事をきっかけに、自分の中にあるとも思っていなかった感情が出て驚くということもあります。出て来たときが浄化のチャンス、と有り難く思えたら素晴らしいのであります。では自分が固く信じて来た思いの内容を変えたいと決めた場合、どうしたらいいのでしょうか。世界平和の祈り安定打坐の中に消して行くことや、熱を育てる方法の熱の中に投げ入れることをお勧めしています。心理分析的な手法や催眠的な手法は今現在のあいのほしではお勧めしていません。なぜかと言いますと、複雑なものより単純なものの方が良いと思うからであります。心をきれいに磨いて行くことが現時点で一番重要と考えておりまして、それは普通一夜にして起こるものではなく、こつこつ地道に成し遂げて行くものであると感じております。

軽い気持ち

どの道を行くにしても、成功の秘訣は何ですかと聞かれたら「軽い気持ちで取り組むのがいいんですよ」という答えになるでしょう。言葉にすると簡単に聞こえるものの、やってみたら難しいということがよくありますが、これもその一つだと思います。それはあたかもボクシングを真剣にやる人が、小さい子供が遊びに興じるような気持ちで自分の限界に挑戦して行くようなものです。人生という戦いの中で、結果を期待せずそれ自体のために楽しんで行けたら、何をするんであれ必ず成功できると思います。スピリチュアルだってまったく同じです。人生どんなことがあっても常に軽い気持ちでいられたら、それ自体がすごい達成だと言えるでしょう。重大だと思っている教えや哲学へのこだわりや、ナニナニの探究をしていますというような深刻さを落とすことが、確かに第一歩だと言えると思います。ましてや自分の物になってもいないような段階で(間違った使命感から)教えを広めようとすることは良くありません。だけど私も含めてそういうことがよくあります。みんな先生になりたがり、生徒にはなりたがらないとよく言われます。生徒のイメージが悪いからですが、軽い気持ちでいられる人は生徒の立場に甘んじていられるという言い方もできます。何を聞いても新鮮に聞こえるからなんであります。毎日同じ行をしていても、退屈知らずで毎回新鮮に感じられるようなら、とてもうまくできていると言っていいでしょう。

瞑想の道

どの道を行っても最終的には瞑想に集約されるという訳で、王道というような意味でラージャ・ヨーガと呼ばれているそうです。瞑想のようなものが自然に起こるようになる、という言い方がより正確かも知れません。心というものは何かを強く求めているうちは自制することが出来ません。抑圧して潜在意識内に封じ込めようとしても、別な経路で爆発してしまうわけです。なのでやりたいことは気が済むまでやり抜くという一応の方法を採るわけであります。で、飽きてしまうかより良い何かを見つけたりすると、心は掴んでいるものを放すということが自然に起こります。心の停止とまでは行きませんが、静かになるとか落ち着くという瞑想状態が期せずして起きるんであります。感覚を断ち切るということは文字通り絶命を意味していて、普通そこまで行くことありませんが、感覚に心を捕らわれなくさせるというのが、瞑想が深くなって行くプロセスであります。特別な才能がなくても誰でもここまでは来られるのです。誰でも心の平安を得られるのであります。ただ、潜在意識に溜まっているものの大小は個人によりますので、そこの難しさだけがあるのです。七〜八時間平気で瞑想していられる、それが苦になるどころか楽しくて仕方がないという人は、他の道には脇目も振らずに瞑想の道を行くのが合っています。で、悟りや光明というのは私たちの努力で到達できる境地の遥か彼方にあるものであり、人間の側に選択肢がある訳でもありません。基本的に望んで得られるようなシロモノではないので、心に興味を持たせないようにするのが良いと、あいのほしではおすすめしています。

仕事の道

行動や行為を通じて神に至る仕事の道というのがありまして、インドではカルマ・ヨーガと呼ばれています。成功や報酬を期待することなく、世のため人のためになる仕事を全力でやる態度というのは、実は神様の気持ちとまったく一緒なので、知らず知らずのうちに神様と一体になってしまうという方法なのであります。自分を犠牲にしろという意味に聞こえてしまい兼ねないんですが、そうではなく、自分も他人も同じように大切にするのが神様の気持ちなので、自己犠牲的な態度というのはカルマ・ヨーガからはやや離れてしまいます。ここで、例えば年収が一千万円あったとして、それをどう配分して使うのが正しいのか、という実際的な問題が持ち上がります。自分と家族のためにそこから三百万円使うのは多いのでのでしょうか、少ないのでしょうか。一千万円をまるまる放棄するという考えもありますが、そうすると今度は自分が誰かに養ってもらわない限り生きていられないことになり、仕事の道としては正しくありません(出家している場合は別)。では、自分の生活費を差し引いた残りのお金をどう使ったらいいのでしょうか。困っている親戚を助けるのがいいでしょうか。慈善団体に寄付するのがいいでしょうか。それともどこかの事業に投資するのがいいでしょうか。神様の視点を持ち合わせていない限り、何が正しくて何が正しくないのか判断するのが難しいのではないでしょうか。ですがそこは常識的な判断でいいんであります。家族を助けるのはいいことですが、いくら家族を喜ばせるためであっても、宝石をやたらに集めたり別荘をいくつも持ったりするのは、カルマ・ヨーガの観点ではよくありません。自分の知り合いや地域のために、できる範囲でお金を使うのはいいことです。自分が好きで得意なことを、一番世の中のためになると思う方向で生かして行くのはいいことです。で、その結果を期待しちゃいけないということなんですが、そこが一番難しいところで、私たちは大概どんなに頑張っても、ちょっとは期待してしまう気持ちを消せません。それができる人だけが仕事の道で完成するわけでありまして、他の道を行った人と比べて、人々を感化し育てる力がとても強いのが特徴です。世の中を変えて行く力になるわけです。

知識の道

若いうちにしか出来ない、と言うと異論が出るかも知れませんが、やる気とエネルギーが必要だからこそ、若い頃に取り組むべきなのが知識の道、インド哲学で言うジニャーナ・ヨーガであります。これは私が思うに、どうしても知りたいと思うことを研究し尽くし、どうしてもやりたいと思うことを気が済むまでやり尽くすことによって、結果的に神に至る方法であります。「私とは何か」というのが有名な問いですが、これを公案のように考え続ければいいわけじゃなく(それが唯一知りたいことである場合は別)、私が思うに、自分の中にある疑問を虱潰しに解いて行く必要があります。疑問が多ければ多いほど一生懸命学問しないといけませんが、その度合いは人によります。気力がなくなって中途半端で終わってしまうのを、こだわりが取れたからだと言い訳してはいけません。知的な探究だけじゃなくて、海外旅行のようなことも含めて経験してみたいと強く思ったことは実際にやらないといけません。気力がなくなって何となく満足した気持ちになれば終わりということではないのです。なので十代二十代、せいぜい三十代までに集中して行う必要があるわけです。四十代以降になると、社会的な条件や個人的な理由で実行が困難になるのは明らかなことだからです。知識の道は、いわゆる知的好奇心、知りたいという気持ちが人一倍強い人に向いています。もともと知的な関心が薄い人、ものごとを知りたいとあんまり思わない人には合いません。ただ、教養としてジニャーナ・ヨーガがどういうものなのかを知っておくことは誰にでもお勧めできます。教養があるのとないのとでは、長い目で見るとやっぱり差が出て来ます。カジュアル過ぎる本だと全然違う方向に誤解してしまう可能性があるので、ここはヴィヴェーカーナンダさんがお書きになったものを読むのが一番適切だろうと思います。すらすら読める類いの本ではありませんが、読んだら読んだだけのものが必ずあります。

信愛の道

インドに信愛の道と言うかバクティ・ヨーガというのがあって、これは神の属性を多く顕している人を信仰することによって神に至る方法のことを言います。キリスト教では本質的にこの道を辿ります。ヒンドゥー教は信仰の対象になっている神様がいっぱいいるので、日本人は八百万の神と同じような意味での多神教なんだろうと誤解してしまいがちなんですが、ヒンドゥー教では神の化身をバクティ(信愛)の対象にしていると理解するのが正しいと思います。カトリックでお気に入りの守護聖人を信仰したりするのは、日本人としてはご利益目的のお守りとまったく同じか似たようなもんだろうと解釈しているフシがありますが、守護聖人もまたバクティを捧げる対象として置かれていると理解するのが正しいでしょう(私たちとは歴史が違っており、それゆえ遺伝が違います)。何も知らない私ですから間違っているかも知れないですが、歴史的に見て日本にバクティが現れたことはなかったように思います。少なくとも大きな流れになったことはなかったようです。だからこそ、インド・ヨーロッパ語族の宗教文化の中にある信仰を、日本人は一種の思想や哲学と捉えてしまうのであります。信仰というのは考えではなく生き方であって、バクティとは命を捧げることです。この経験が欠如しているために、日本人はこの分野で大いに遅れを取っているのです。神の化身を信仰するのと、ロックスターや映画俳優を熱烈に信奉するのと、どこが違うのかと言いますと、大衆文化的なアイコンは楽しさや狭い意味での自由を象徴しているのに対し、化身というのは誠実さ、美しさ、調和というような性質を顕現する完全な人間であると言えます。神に心を向けることが目的のすべてなので、信仰の対象が例えば、歴史的事実がはっきりしない伝説的な人物のイメージであっても構わないんであります。手掛かりの多い最近の人物である方がやり易いと言えますが、自分が心の底から尊敬し信頼できる人を選ぶ必要があります(信仰は自発的なものであって、押し付けたり押し付けられたりするものであってはいけません)。いろいろ調べてほんのちょっとでも疑いが残る人物は、バクティの対象として無論ふさわしくありません。そのような人を誰も見つけられないなら、信愛の道は自分に合っていないと結論して良いでしょう。他にもいくつか道はあり、特に有名なものでは知識の道(ジニャーナ・ヨーガ)があります。

広い世界

若い頃にある先生から「広い世界がある」と教わったんです。ブルジョワ的な世界を毛嫌いする人が案外多いようですが、邸宅の内装に使われる調度品とか一流の宝飾品などを、変な先入観なしになるべく多く見るようにして、美的感覚を養うのがいいのです。卵が先か鶏が先か、富裕層には心の豊かな人が多いというのは一つの事実であります。教養が幅広いほど楽しみも増えるからであります。それと同じように、精神世界にも広い世界、もっと言えばより良い世界が確実に存在しています。ある一つの分野を究極とし、他のことはよく知りもしないのに全否定するスピリチュアルティーチャーさんがたまにいらっしゃいますが、知らないとは恐ろしいことだと思います。心が成長し、より繊細で美しいものに触れられるようになると、その分だけより崇高な教えがあることに気が付くようになります。で、それまで学んで来た教えを全部手放すということも起こり得ます。より良いものを認識したがために、それまでのものに取って代わるわけです。心が純化されて行くのが正しい方向だと思います。よその組織がいいとか悪いとか、否定性や競争意識のようなものは自然に落ちて行くんであります。一つの見方にこだわらず、いろんな本を読んで学ぼうという姿勢が大事なんじゃないかと思うんです。それで最終的に、自分に一番合っていると感じるものを選ぶといいと思います。

修行の必要性

修行とか修養とかいった考え方は、何でも簡単に手に入ることが求められる今現在のスピリチュアリティの中では、何だか厳しく古臭いものと捉えられがちだと思います。確かに、あくまで私個人の意見ですが、ある種の伝統的な苦行というのは、心身を痛めつけることによって幻覚を見ることが目的であった、と今となっては言えるものです。神秘体験と霊性の自覚というのは多くの場合似て非なるものであって、それはその修行をやっている人を見れば区別が付くものです。神秘体験や霊能力を興味の対象にしている場合、一般常識からかけ離れた言動をして、どことなく品がない印象を与える人になるものです(そんなようなティーチャーさんや団体は要注意です)。伝統的に「魔境」と呼ばれている状態です。じゃ正しい修行とは何なのかと言いますと、私が思うに、心をきれいにすることがすべてです。離欲と言うと哲学的に聞こえてしまいますが、要するに五歳くらいの子供の純粋さということです。すべてを捨てるとなるともちろん人間は生きて行けませんが、そうではなくて、大人のような欲望や策略が心から離れている状態を言うんであります。修行の方向性を間違えてしまうなら、いろんな努力は無駄に終わってしまうので、よくよく気を付けなければいけません。で、子供のように素直で純粋な心になれたらそれが悟りなのかと言ったら、もちろんそうではありません。そこまでが準備段階であって、最後の橋渡しのようなものが必要になります。でも、準備が出来ていない限り橋渡しをすることは無理なのです。なので、人それぞれ心をきれいにするための色々な修行が必要になるというわけです。

お手本

本で読んだり話を聞いたりするのと、実際に経験するのとでは、大きな隔たりがある場合があります。スピリチュアル業界では、いわゆる悟りや光明といったものを「何でもない普通のもの」と表現するティーチャーさんもいらっしゃるように聞きますが、私が思うにどうってことないどころか、それがどういうものかもし事前に知ることができたとしたら、すべてを犠牲にしてでも得たいと自然に思えるほどの宝なのであります。私たちが見て知っているものからでは想像もつかないようなシロモノであり、事実想像できないわけです。だから何でもないものという話になってしまうんだと思います。私が思うに、生身のお手本が絶対に必要だと思います。本物の覚者というのは想像を遥かに超えるような素晴らしい存在である、とそのような人物に出会えた人は口を揃えて言うでしょう。せっかく出会えても覚者と気づかず、くだらない人物と思って通り過ぎてしまう人も多くいます。ちょっと関われるだけでも大チャンスなのに、まして直接指導を受けられる機会はまさに千載一遇と言えるものでしょう。だけど、それで悟りが開けるわけでもないのです。多くの場合、疑いの気持ちや古い信念が覆いとなり、それを取り除かない限り進展がありません。せっかくの覚者とのご縁を無駄にしてしまうのは往往にしてあることです。疑うことを知らない子供のような気持ちにならない限りダメなんであります。これは始めから疑うなという意味ではなくて、まったくその反対に、自分の中にある疑いに一つ一つぶつかって解決して行かなくてはならないという意味です。ですから多くの場合長い時間がかかって当然であります。覚者とのご縁があってこれなんですから、何もない私たちはどうすればいいんでしょうか。今の時代、覚者を探して歩くのは危険なことでもあります。やはり、精神世界云々に関わらず、心のきれいな人や正しく生きようと努力している人と交流することから始めるのが良いだろうと思います。

居場所

自分の居場所を見つけるとか探すといったことは、日常会話でよく聞かれる話です。家を買うとか建てるとかいった時に、終の棲家という表現もよく聞かれます。そんな風に私たちはいつも落ち着く先を探してるようなとこがありますが、驚いたことにスピリチュアル的に言うと、物質世界に私たちの居場所はないということなのです。ここは行動し完成するための通過点であって、そもそも落ち着くべき場所ではない、という身も蓋もない話になってしまいます。もちろん思考を止めるとか自我を消すといった教えは良い伝統なんですが、あくまで完成のための方法であり、完成そのものの姿ではないのであります。そこそのままが居場所であり、誰の所有いかんにこだわらないのが、完成した姿に近いということかも知れません。先祖代々の土地を奪われたとか、仕事のポストを奪われたとか、人間の闘争には居場所に関する事柄が多く含まれています。居場所にこだわらなければこんなに楽なことはないはずなのに、なぜかこだわって苦しんでしまうわけではないでしょうか。すべては法律上の話でしかないのに、土地や建物の所有権を持つことで物質生活が盤石になる、と私たちは真顔で信じ続けているのです。愛があるところが自分の居場所である、と気づけた人はいい線行ってると思います。それを一歩進めて、その愛を神様の方に向けられれば完璧だと思います。

孤独

一人は寂しいものだというのが、ごく一般の社会通念ではないでしょうか。友達は多い方が幸せだというのは、本当にその通りだと思います。ですが、孤独は不幸なものだとか、どのようなことであれ、決め付けてしまうことはスピリチュアル的に見てよくないことであります。ご存知の通り、社会通念的な決め付けによって心を縛られ、苦しんでいる人が多いんであります。そう思わなきゃいいと聞かされたって、どうしてもそう思えてしまうから苦しいんであります。では一体どうすればいいと言うんでしょうか? 中村天風さんの「孤ならず」という言葉がありますが、これは「宇宙の根本造化力は常にあなたの味方なんだから、決して自分は一人だと思っちゃいけないよ」というような意味であります。実際そういう信念が出来た人は自由自在に生きていられると思います。とても難しいことのように聞こえるんですが、人間こう思おうと自分で決心すれば、本当にそう思えるという原理が働くことを、まず理解しなければなりません。すると、そうなれるのです。何がどうであれ、明るく楽しい気持ちで生きて行くことが幸せであり、そのように命を生かし切ることが私たちの義務である、これは理屈ではありません。人間の幸せを大切に考える場合、それが真理であります。幸せなど関係ないと考えるならその限りではありません。持って生まれた条件が違うので、いわゆる運命がどれだけ拓けるかは人それぞれ違いがあります。死んだらおしまいと思うなら、早いこと諦めてしまった方が、無駄な努力をしないで済むから得だ、という結論になるでしょう。だけど、永遠の命ということを信じられるなら、石ころに生まれたらどんなに頑張ってもルビーやエメラルドにはなれないと分かっていても、磨けば綺麗な石ころにはなれる、ということに意味が出て来るんであります。

感謝

痩せ我慢を強要するかのように聞こえることを最終的に言わなきゃならないのが、スピリチュアリティの泣きどころであります。とんでもなく辛い人生を歩んで来たのに感謝とか、仕事がなく、お金もなく、恋人もいないのに心が満たされているとか、一般常識的に見たらオイオイと言われるような、絶対不可能と思われるようなことが実は可能だし、もっと言えばそれしかない、それが精神世界の本質であるということなのです。何だかんだで人生がうまく行っている間はそれが見えないし、また見える必要もありません。人生躓いた時に、ある人にとっては「それでも感謝ですよ」という教えが宝のように光り輝いて来るものなのです。世間では、結婚に失敗し会社をクビになり、鬱になり引き籠もりになりというシナリオが、人間の当たり前の反応として語られるのではないでしょうか。そういう時こそ本当の命を得るチャンスです、なんていう話をメディアで聞いたことはありません。だけれども、メディアの論調は残念ながら正しくありません。仕事で成功し、最高の条件の結婚をし、何一つ不自由なく暮らせることが幸せと信じて来た私たちに、実はそうではないという事実を次々に見せられる時代に入って来ています。メディアも少しずつ変わって行くと思います。どんなことがあっても「まだ生きていることに感謝しよう」と思おうとする努力は決して無駄になりません。実際とんでもなく素晴らしい結果に繋がって行くと私は断言いたします。瞑想とかマントラもいいですが、私が精神世界で何か一つだけ選ぶとしたら、生きていることに感謝するという感謝行をおすすめしたいんであります。

希望

夢や希望を持ちなさい、と子供の頃から聞かされて来た気がするんですが、今一つピンと来なかった私なんであります。世間で言う夢や希望の中身は、理想の恋人に出会うとか、裕福になって遊び暮らすとか、社会的に認められてチヤホヤされるとかいうようなことではないかと思います。この社会は、そういったものが多くの人の手に入らない仕組みになっている以上、夢や希望を持ちなさいという言葉は私には残酷に聞こえたからであります。この言葉通りに七十歳、八十歳になっても白馬に乗った王子様が迎えに来るという希望を持ち続けたとしたら、それは現実と言うよりも自分で作り上げた想像の世界に住むことになってしまいます。そしてスピリチュアル業界も、想像の世界に住めと言わんばかりの浮遊感のある教えが広まっているのではないでしょうか。希望というのは現実のものでなければならないはずであります。スピリチュアル的に言いますと、今現在どんなにひどい境遇にいても、いつかきっと良くなると信じるのはいいことであります。それも自分一人が抜け駆け的に良くなるということではなく、みんなが良くなるんだと思えれば最高です。何が起きても変化があるのは生きてる証拠、生きてるからこそ向上できると思えれば最高です。それこそほんとに我のない生き方ができてるということです。もちろん口で言うより難しいことですが、かと言って難しく考える必要もないかと思います。

常識

若い頃は常識に囚われないのと常識外れなのを一緒くたに考えていて、単にやんちゃで大胆な人をかっこいいと思ったりする、まさに若気の至りといった感じです。かといって世間で常識とされるのは、社会人になったら新聞を読むべきだ、遺伝子解析の分野が有望だ、やれ人工知能だ、火星移住計画だと、要するに最新情報に目を光らせて流れに乗れば成功できる、というような話ばかりではないでしょうか。常識外れであろうとしても、一般常識的であろうとしても、スピリチュアルな道からは遠のいてしまいます。スピリチュアル業界の中ですら、霊性と性格の良し悪しは全然無関係であるとする教えが昔からあるのですから、個人的にはどうしたものかと思っています。もちろん正しい人間の生き方というのはあるんであります。それが分からないままスピリチュアルな道に入ると、結果的にやっぱり誤った方向に行ってしまうように見受けられます。自分さえ良ければいいという人間感覚は根深いんであります。人に感銘を与えるどころか、一般人よりも自分勝手な印象を与える人間になってしまったりします。やっぱり若い頃に正しい生き方をしている人に出会えることが決定的に重要なんじゃないかなあと思うんです。そうでないと、よっぽどの上根でもない限り、人生どういうことなのか分かるはずもありません。スピリチュアルな常識というようなものはあり、人間社会の観点からすると損をするように見えるのです。霊的な生き方こそが一番得な生き方なのですが、私たちはそれが分からずにいるのです。見返りを求めずに世のため人のために最善を尽くす、というのが入り口になりますが、見本を見せてくれる人がいない限り一人でやるのはとても難しいことだと思います。

やるべきこと

人生でやるべきことは何だろう? というのはスピリチュアル業界でもよく議論される話題の一つであります。まず、やるべきことなど別にありはしない、と考える人たちがいます。虚無主義と言ってよいものでしょう。次に、人の迷惑など構うものか、やりたいことを好きにやってこそ我が人生、と考える人たちがいます。これは昔から、反抗期の若者にアピールするんであります。次に、人の迷惑にならない限りにおいて、人生やりたいことをやればよいと考える人たちがいます。言い換えれば、人に迷惑をかけない範囲内で楽しみを見つけて行くことが人生でやるべきことというわけで、これが一般人における自由の概念と言えるのではないでしょうか。最後に、世のため人のためになると思う仕事を、見返りを求めずに神様に捧げるべきだ、と考える人たちがいます。なぜ仕事を神様に捧げるのかと言いますと、何が本当に世のため人のためになる行為なのか人間の頭では分からないので、その結果は神様にお任せしますよ、という意味なのであります。その人のためを思ってしたことが、結果的にその人をダメにしてしまうこともあるのが、人間の愛情というものなのです。なので、見返りを期待しちゃいけないよと言われるわけです。もちろんスピリチュアルなのはこの最後のカテゴリーだけです。私たち一般人の目には、自由のない生き方のように見えるのです。その理由が実は、私たちが本当の自由を理解していないからに他なりません。有名な自己啓発の本にはたいてい、「誠実になる」ことより、「どうやれば誠実そうに見せられるか」という、表面的なイメージを操作する方法が説かれていたりします。そのものズバリを掴むより、「なんちゃって」みたいなのが商売としては一番うまく行くと信じて疑わないからではないでしょうか。スピリチュアル業界がそれとまったく同じような状況にあるのは、ある意味当然といえば当然のことであります。多くのティーチャーさんが戦略やテクニックは必要だと考えており、そのものズバリをやると損をすると思い込んでいるようなフシがあります。

上根下根

仏教界では持って生まれた資質を表す上根・中根・下根という仕分けがあるそうです。私が思うに上根というのは要するに、子供の頃から神仏を敬う気持ちのある人のことです。宗教的家庭環境で育ったから習慣的にそうなった、というんではなく、誰に教えられたわけでもないのに妙に信心深い場合、上根と言うわけです。上根の人はちょっとしかいなくて、その他大勢の私たちは単純に下根と言ってよかろうと思います。ここで問題なのは、インド哲学というのはほぼすべて、何がどうであれ信心深いことが大前提で、人物的にも抜群に優れた上根の人向けに説かれているということです。下根の私たちが一生をかけて実践してもまったく成果が得られず、箸にも棒にも引っ掛からないまま終わる可能性が高いのであります。ヴェーダーンタのような哲学の道は昔からとても難しいと言われていて、「私とは何か? 私はあれではない、私はこれでもない」と突き詰めて行って、最後に残るものがあるかどうか考える、というのが有名な方法です。フランスのように国民性自体が哲学に向いている国であれば、哲学の道が実際に合っている可能性があります。デカルトの哲学を足掛かりにして辿り着いたステファン・ジュルダンさんのような覚者を現に輩出しております。ところが日本では、哲学の道を辿る資質があるとは到底考えられない現状にあると思われます。日本人が辿り易い道があるはずなのであります。未だ私の中で結論は出ていませんが、世のため人のためになると思われる行為を、見返りを求めずに淡々とやるカルマ・ヨーガの道が、本当は日本人の心情に一番ピッタリ来るんじゃなかろうかと思ったりします。そこに現世的な報いがあんまりなかったとしても、神仏は悪いようにはしないという確信が伴えば完璧だと思います。日本人には地味なのが合ってると言わんばかりなんですが、実際そんな感じがしないでもありません。「私悟っちゃいました」とか、そんなような人に誇れる要素が何にもないわけなのです。それでいてちゃんと辿り着いているのです。

心の豊かさ

物質的に豊かな世界になったら、今度は心の豊かさが求められる時代になる、と再三言われております。ここで言う心の豊かさの意味するところを推察するに、世界一周旅行や、美術館巡り、オペラ鑑賞というような、大都市に住む最富裕層が実際に享受している楽しい暮らしに行き当たります。これは私が思うに、心の豊かさと言うよりも、経済の豊かさがもたらす心の余裕と言うべきものではないでしょうか。そして五感を楽しませてくれる外側の何かに依存するものでもあります。お金が尽きればそれと同時になくなってしまうという関係にあるわけです。スピリチュアル的に言えば、物質世界にほとんど関係なく存在すればこそ、本当の心の豊かさであると言えます。もちろん世捨て人にならない限り分からない、語れないという考えは極端過ぎます。神様は物心両面に働いているからです。大安心の境涯と世俗的安泰のバランスというのは常に微妙な問題であり、多くのスピリチュアルティーチャーを脱落させる(金儲けとか権力闘争に走るということ)原因になって来ました。本質的なものとそうでないものの区別がついていないために、一緒くたに説いている教えが多いからとでも言えましょうか。私たちには手も足も出せないような理由なんであります。私たちの目にはすべてを持っているように見えていた人が実は不幸だった、という事実をニュースで見せられる昨今です。心は豊かだけど生活は不幸、などということはあり得ません。今ある生活の中に幸せを見つけ出すためには、自分が理想とする生活を手に入れたつもりで、そこに当然伴っているべき感謝を前もってする、という方法から入るといいと思います。それで実際に生活がよくなる、というオマケが付いて来ればそれに越したことありませんが、そういうのを釣り文句にするのはよくないんじゃないかと思うんであります。

宿縁と浄化

もしもこの世が愛と調和の美しい世界だったら、スピリチュアリティというものは必要ないのだろうと思います。だけど、そのような世界になりつつあるのです。若い時に耐え難いような苦しみに直面させられる人というのはあります。若ければ若いほど、何かよくない行いをした結果だとは考えられず、これといった理由を見つけることができないわけです。そこで先祖や過去世からの宿縁が原因であるとするカルマ論を説かれれば、若い心にはそれが真実であると思えるものです。それ以外に考えようがないわけですからね。そこへ来てさらに、カルマを解消する方法があると聞かされれば、誰だって飛び付きたくなるのは当たり前でしょう。ニューエイジにはカルマを解消できるとする考えがあり、私もいろんな方法を試してみたものです。ところが、宿縁というものが形となって現れるのを未然に防ぐ手段はそんなにない、というのが残念ながら現実なのであります。よく考えてみれば、行為の結果が簡単に消せるなら、世の中何をやっても同じということになってしまい、そんなことがあろうはずもありません。だけど、そんなような虫のいい考えが後を絶たない業界なのであります。七つの体で言うところの四番目の体にアクセスすることができれば、ほとんどの宿縁は消すことが可能であると言うこともできるのですが、そんなものあるとも思ってない私たちが、具体的に何をどうすればできるのか分かる道理もありません。ですので、五井先生のおっしゃる通り、不本意なものは神様が人を彫刻する過程に出る削りかすなのだから、本来の自分とは無関係のものと見て心を捉われさせないことが重要と言うべきだと思います。どんな困難な状況も、それを自分と同化して見なければ睡眠中に浄化されて行く、というのは私の経験から言えば本当です。気持ちを離せば離すほどいいのです。現象として出切ったら必ずよくなるのだ、という希望というか信仰を持てるかどうかに掛かっております。もちろん、将来的に高次元の体にアクセスするという可能性を捨てる必要はありません。

雲を掴むような話

何となく漠然とした話が多いというのが、一般人のスピリチュアルへの評価なのかも知れません。「目覚め」や「悟り」や「光明」といった用語の定義がはっきりしない以上、雲を掴むような話にしか聞こえない、というのが正直と言うか当然の判断だろうと思います。ややもすれば実体のない業界だと言われても仕方がありません。かと言って、趣味のカルチャースクールと同好会を合わせたような、真剣に道を求めているようには見えない生ぬるい雰囲気の中で、それなりに満足している人が多いという業界の実情なのであります。また、真剣にならなければいけないという決まりもありません。だけど、最終的にそれでどうなったかという問いを避けて通ることはできないように思います。一つには、スピリチュアルは心の問題なので、具体的に何がどうなったとか話題にするべきではない、という考え方があり、一理あるなと思います。他方、スピリチュアルなのに結局は楽して儲かるとか、恋愛成就とかいうことだけを重要視する考え方もあります。当たり前の話とも言えるのですが、あいのほしとしては、巨万の富とは言えないまでも人並みの生活ができるようになることを大切と考えますし、なおかつ個人的な信仰を持つに至ることが最も望ましいと考えています。ここで言う信仰とは絶対の信頼とか安心立命のことです。それを観念の上で分かるのではなく実際に生きて行くことによって実体のある教えになるのです。この世ならぬ法力や神通力を発揮してこそ本物と言うべきか、過去の覚者さんはそういう方ばかりだったので、あんまり普通っぽいとスピリチュアルに見えないという面があり、当たり前のことを言っているようにしか聞こえないティーチャーさんには人気が集まりません。昔のようなカリスマがいない時代ですが、雲を掴むような悟りとか解脱とかについて思いを巡らすよりも、心身の事情が良くなって生活が楽しくなり、目に見えない存在の加護を信じ切る気持ちが出ればそれで十分と思いますが、如何でしょうか。私はあまり高い所を目指しておりません。

推薦図書

あんまり知的なタイプとは言えない私なんですが、子供の頃からあんまり本を読まない割には大きな本屋さんが好きだったんです。今にして思えば、心のどこかでいつも何かを探していて、その糸口を本屋さんに求めていたんだなあということが分かります。下根の人間なので長い時間が掛かりましたが、スピリチュアリティの基本をどこに求めたらいいのか、どうにか分かるようになった、とみなさんにお話しできる準備が整ったと思います。それがあいのほしの本の紹介欄なんですが、多くの本を紹介するよりは敢えて数を絞っています。なので若い人にはとりあえず一通り読んで欲しいと思って、一部を除いてわりかし図書館で入手し易いものを選んであります。このためにわざわざ買って読んで欲しいという意図はありません。精神世界というのは純粋な哲学とは違って、それでよりよく生きられるようになるかが最終的に問われることになるので、早い段階から一つの教義にこだわってしまうと、年取ってから失われた部分を取り戻すのは大変だ、という実質的な理由が背景にあるんであります。スピリチュアリティはそもそも、何かが変わるとか良くなるとかいうものではない、とおっしゃるティーチャーさんもいますが、私はそう思わないです。スピリチュアルな伝統をすべて見渡した場合、そういう結論にはならない、というのが私の意見です。私たちはただ存在しているだけではなく、大調和の方向に導かれてもいると見るべきです。スピリチュアルを長年やっても立派な人格にならないし、分かるようで分からない専門用語で若い人をからかうような大人になったら大変です。それもこれも、真の自由を体現し、思わず手を合わせたくなるようなスピリチュアルティーチャーさんが少ないことが原因だとも言えます。実際に見せてくれる人がいなければ、本に書いてあることが本当は何を意味するのか分かるはずがありません。だけど、ある種の境地に辿り着いた人の言葉には特殊な力があることは確かです。

心の拠りどころ

生きて行くためには誰しも心の拠りどころが必要だと私は思うんであります。みなさんはそう思わないかも知れないですが、あいのほしはそういう方向性でやっています。誰かとか何かに頼って生きているのは心が弱いからと言われればそうでしょうし、自分でできることは自分でやる必要はあると思います。哲学を専門にやる人は宗教を一段低く見ているきらいがあるのではないでしょうか。哲学は強い人のためのもので、宗教は弱い人のためのものであると言えるかも知れません。つまり、人生がそれなりにうまく行っているうちは哲学で満足できますが、そうでないなら宗教にまで踏み込んで行く必要が出て来る、という意味です。安心立命とか言いますが本当にその通りで、宗教の本質は結局、人生の状況が何がどうであれ、心の底から安心していられる拠りどころを見つけるところにあるのであります。納得できる答えを見つける不二一元論的な教えは強い人のためのものであり、あまり多くの人を救えないだろう、と私は思います。病気や貧困から抜け出したい、愛情を得たいというのが、ほとんどの私たちの当然の願いであり、そこからでないと入って行けないというのが事実です。そこで昔から、神様の人間を救い上げようとする心の働きとして、覚者と呼ばれる方々がこの世に現れ続けているのであります。人の運命を好転し、なおかつ神性へと導いて行くにはとてつもない力量が求められます。だけど、現実にいるのです。私たちは抽象的な神を始めから信じることができにくいので、そういう先生とのご縁でやって行くことができれば非常な幸運だと思います。そういう先生を心の拠りどころにすれば、その先生は神様の心と直通しているわけですので、そのまま(知らぬ間に)引っ張り上げてもらえます。いつの時代も中途半端なティーチャーさんが多く、存命中の覚者に出会える人は稀です。思慮深く、かつ素直でないと、せっかく出会えてもそれと気づかないこともあり得ます。ご縁を投げ捨ててしまわないように注意しないといけません。

世を去る

余命の宣告を受けて初めて、自分がやり残していることがあるのに気づく、というのはよく聞く話なのですが、精神世界を学んでいながらそれじゃ、ちょっと残念な気がいたします。とはいえ、ある種のスピリチュアルティーチャーさんは死後に自我や個性というようなのは消滅すると説いていて、いわゆる肉体が人間のすべてだと信じ、無神論的な考えが主流になっている国でブームになっております(既成宗教が退廃していることへの反作用)。消滅するのであれば人生何をやっても変わらないわけで、私から見ると困ったブームだなあと思うわけです。ところで、神秘学では私たちはみんな七つの体を持っていると言われています。つまり、肉体の他に微細な体を六つも同時に持っているというんです。私たち一般人にとっては、病気や事故などでたまたま体外離脱でもしない限り、肉体以外にも体があるということは知識として知るだけで、それを裏づける体験が全然ないということになってしまいます。危険を伴う特別な修行(クンダリニー・ヨーガ)をしない限り、体験としてハッキリ分かる可能性がほとんどないので、死んだら終わりと思うのは当然と言えば当然です。引き寄せの法則や思考の現実化というのは本来、微細な体を使えるということが前提条件であって、自分が肉体だと信じている状態でいくら想念を集中したところで、結果は肉体次元の法則に限定されてしまいます。類い稀な集中力を持つ優れた人がいても、それだけでは奇跡的な現象は出て来ないというのは、現実が証明している通りであります。ないと信じている限り、微細な体にアクセスすることは難しいと思います。ある種のスピリチュアルティーチャーさんは、あなたは大宇宙の中で塵にも満たない小さな存在であり、そんな小さなものに価値はなく、さらに大宇宙そのものもいつか終わりを迎えるのだから、消え去るものに意味などあるものかとおっしゃいますが、本当にそうでしょうか? 確かに多くの場合に私たちは非力な存在ですが、親孝行したり、子供の心の支えになったりできる人というのは、世界を変えられると妄想する人よりも偉大ではないでしょうか。私個人の考えでしかありませんけど、それは小さくて何も残らない行為ではあり得ないのであります。

夢の解釈

眠っている間に見る夢をどう解釈するかにはいくつもの説があって、実際にいくつかの種類に分類できるように思います。今回お話しすることはすべて仮説ですので、本当のところはみなさん自身の体験から確かめて行って欲しいと思います。まずはその日に見たり聞いたりしたものごとと、そこから連想されるものごとを、脳が記憶を整理する過程で夢に見る、という説明です。これはだいたい誰でも経験していて納得できると思います。また、子供の頃など昔の出来事を解釈し直すために夢に見る、というのもだいたい誰でも経験していると思います。明らかに今の人生で経験した出来事ではないけれど、極めて明確なストーリー性のある夢を見た場合は、いわゆる過去世の記憶を再解釈している可能性は充分にあると思います。次に、例えば同じ運動を繰り返している夢は筋肉を修復するために見ている夢、通路を通っていたり上下に移動したりする夢は血管や神経の調整(霊的なエネルギーも含む)のために見ている夢、というような説があります。これもかなりの可能性でその通りだと思います。では、あらゆる解釈を拒むような、脈絡のないデタラメな夢はどうでしょうか。ある覚者(五井昌久先生)の説によりますと、潜在意識に蓄積された過去世をも含む過去のよくない想いが、現実に現れる前に夢の中に現れることによって、浄められ消えて行く働きであるということです。つまり、人生上の困難な出来事として現実化する前にご守護様に消してもらっている、というありがたい働きなのであります。例えば自分だけが楽して儲かり、恋愛も思いのまま、というのはスピリチュアル的に見れば、自分も他人も害するよくない想いということになります。夢占いからするともの凄い吉兆と言われるようなシンボルを夢で見ても、たいがいの場合は本当によいこと起きるわけではない理由の一つかも知れません。儲かったらみんなが良くなる目的に使おう、恋愛はお互いに心が浄まり高まって行く相手を選ぼう、と本心から思っているような人は、それが現実になってもらわなきゃ神様も困るわけですから、夢の中に現れて消えて行くということは絶対にないと思います。夢占いというのは基本的に、これから起こるものごとを夢から判断するという主旨ではないでしょうか。私の経験では、もし予知夢というものがあるとしても、それを見られる人はかなり限られているのではないでしょうか。最後に、ご守護様が人生のヒントというか教訓として見せてくれる夢というのが実際にあります。このカテゴリーの夢だけが、唯一解釈のしがいのある夢ということになって参ります。自分ではまったく思いも寄らぬアイデアを受け取ることができるからです。

信仰への問題点

現代人にとって信仰を取り戻すのはもはや無理であろう、とはよく言われることです。それもそのはず、知性が発達すればするほど、信仰というのは一番理屈に合わないものに見えます。実際、何らかの神格を信じるのは非論理的なことであります。でも、人間が救われるのは結局は信仰を通してでしかあり得ない、とあいのほしは敢えて断言いたします。ではどうすればいいのでしょうか。政治哲学や宗教哲学といったものを極めることをおすすめしています。これは学位を取るとかいうことではなくて、自分で納得するまでという基準で極めるという意味です。極めればだいたい無神論的な考えになりますが、それでいいのです。人生はもともと理屈に合わないので、信仰への最後の一歩は人生そのものが導いてくれることになっています。スピリチュアルなことを何も知らないのに、真の自己と呼べるようなものを垣間見る体験をする人がかなりいらっしゃいます。で、そのあとニューエイジの(こうやればこうなる式の)理路整然とした教えに出会い、それが見たことも聞いたこともない話であるために、思わずパッと掴むということが起こりがちなんであります。岩波文庫とか『世界の名著』シリーズ(中央公論社)とかを読んで古典の教養があれば、ニューエイジの教えにはまったくと言っていいほど新しい要素はない、ということがハッキリと分かります(哲学は同じような概念が現れては消えるということを歴史的に繰り返しています、頭で考えるだけで行じないからいつまで経っても本当の理解に達しないのです)。だけど、それが分からないから掴んでしまいます(私自身の体験です)。魅力的に見える教えの中身は、突き詰めればご利益があり、楽して人生万々歳になることを理想とする内容だったりします。これが世に言う唯物論的スピリチュアルであります。せっかく本当のスピリチュアルを垣間見たのに、かえって信仰から遠ざけられることが起こりがちなんです。自分なりに人生を哲学したあとなら、脇目も振らずに信仰に飛び込んで行けます。何かに惑わされるということがないのです。これはもちろん、何らかの宗教的組織に入るという意味ではありません。あくまで自分一人の信仰のあり方であります。

信仰の復活

科学的な物質文化が栄えるに従って、私たちの信仰心が相対的に薄くなっていることは言えるんじゃないでしょうか。それにはもちろん良い面もあって、中世の頃は人間の力ではどうにもならないと諦めていた病気が、実は医学の力でどうにかなると分かった、というような事実があります。一方で、中世の人間は人知を超えた力に心が向いており、いつかは罪穢れのない清浄な世界に戻って行くんだ、という漠然とした目標というか信仰をどこかに抱いていたようなところがあります。現代の私たちは、物質が豊かで人生を楽しめればいいし、それ以上のことは考えたくない、というような傾向にあります。「神は死んだ」と言った哲学者さん(ニーチェ)がありましたが、死んだと言うよりも人間の側が神に背を向けたのだと言えるかも知れません。なまじ科学の力に頼ることを覚えてしまったがために、大きな戦争で「神も仏もあるものか」という無神論的な考えが主流になったようであります。その裏で集合的に累積した罪の意識は凄まじい破壊力を持つまでに膨れ上がっておりますが、私たちの側がそれを掴んで放そうとしないのが現状であります。断定的に言うようで申し訳ないんですが、これから私たちの中に信仰心が復活するというルートはすでに決まっているのであります。神も仏もないと思って生きて来た人が、何か超常的な力が働いているとしか考えようがない困難に直面したときに、神はどうして人間をこんな風に作ったのだろうか、人間の力ではどうにもならないではないか、こんな風にした神が責任を取るべきだ、と神様に心を向けることになるのです。責任を問うという形であっても、神様の方に心が向くわけです。全身全霊で生きて来た人ほど、期せずして神様に全託する気持ち(祈り)に唐突に入ってしまうことになります。信仰心のなかった人が自ずから信仰を持つようになったら、それ以上に生きて来たことが価値になる出来事は他にないと断言できます。生まれつき神仏を信じる気持ちのある人は、相当な上根の人なのであります。

使命

この世に生まれて来たからには、果たすべき役割があるという考え方は、精神世界に限らずポピュラーだと思います。確かにあると思うんです。それは意識的に役割を果たそうとか考えたことがなくても果たしている人がいるし、大げさな理念を抱きつつも本来の役割は果たせていない人もいる、という風でしょう。年齢を重ねるごとに浄まって行くとか、いい顔になって来る人は、順調に役割を果たせていると言っていいと思います。だけど、使命という考え方に、これまたこの世的な成功失敗という尺度が加えられることで、本来の意味から遠ざかってしまうことが起こるんであります。多くのスピリチュアルティーチャーさんが、自分の使命を見つけることの先に、人生の成功があることを仄めかします。その通りになれば、それはそれでいいんです。だけど、使命を果たすことで社会的に成功するはずだ、そうに違いない、という条件づけが刷り込まれてしまうようです。「神様、どうか人を本当に幸せにする仕事のために私をお使いください」と常日頃祈るような人、あるいはきっかけさえ与えられればそういう気持ちになり得る人の数は、決して少なくないように思います。かく言う私自身が、その時々で使命と思ったことをやって来たつもりですが、全然成果が上がりませんでした。けれども、失敗というわけではないのです。物質を光明化する(ラビ・イツハク・ルリアによるティクンの概念)とか、使命というものを大げさに考え過ぎてしまっただけで、そもそも与えられた役割がそんなに大きくない人が大多数であるということなのです。若くて覇気がある人ほど、自分の使命を大きく考え、この道に賭けてみようという生き方に魅力を感じるかも知れません。仕事のことならそれでいいのですが、スピリチュアリティに関しては成功失敗の尺度で見ない方がいい、というのが私の観点です。インド哲学で言うように、行為の結果に執着しない態度を身に付けるといいと思います。つまりスピリチュアリティにおいては、見に見える結果が出なくても気にしないのが一番いいのではないでしょうか。最終的に何がよくて何が悪いのか、人間の頭では分かりにくいからです。

生かし切る

与えられた命を生かし切りたいという願望を、誰でも自然に持っているものです。意識しようがしまいが、そういう風に出来ているんです。そうじゃなかったら宗教やスピリチュアリティが生まれる道理がありません。でもどうすれば、私たち一人一人に与えられた役割を果たすことになるのか、哲学的に考えたらとても難しいわけです。まず、自分の一番好きなことを仕事にして生きて行くのがいいんだ、という考え方があります。好きなことがハッキリしていて、なおかつ才能にも恵まれていればそれでいいんですが、やりたいことがハッキリせず、これといって才能もない場合はどうすればいいんでしょうか。次に、カルマや因縁と呼ばれるようなものから自由になればいいんだ、という考え方があります。そうして初めて本当に人の役に立てるという訳ですが、かと言って、親とかしがらみとかみんな捨てて、どっか外国にでも行って好きに暮らすのがいいのでしょうか。結局、発想が豊かな人ほどいろんな選択肢を思い付くし、行動力もあれば思い切った決断もできますが、何が本当に自分を生かすことなのか、最後まで分からないのではないでしょうか。頭で考えている限り分かるというものではないのです。スピリチュアルな知識をいろいろ蓄えても分かるもんじゃありません。古い話に聞こえるかも知れませんが、信仰心があるかないかの問題なんであります。やれ現実の創造だやれノンデュアリティだと言って、それで表面上の人生が順調に行っているうちは、自他共にこれぞスピリチュアルだと信じていられます。だけど、全力を尽くしたにも関わらず、人生がうまく行かなくなり、恩を仇で返されるようなことをも起きて来ると、人に道を説くのが仕事のスピリチュアルティーチャーでさえも、神の存在を疑うようになるものです。そういう場合、最初から現象面のよし悪しですべてを判断する唯物論者、無神論者であったということなのです。言いたくはありませんが、他でもない私自身が無神論的であったことを認めます。誰からも感謝されなくても「自分が親切にしたくてしたんだから構わない」と言い切れる人、さらに「神様は見てるんだからいずれ必ずよくなる」と信じ切れる人は二重マルです。そういう風な本心で生きて行く人は、何をしていても自分の命を生かし切っているのであります。

謙虚さ

人間世界のゲームとか利益競争というようなのに誰しも巻き込まれるものですが、より深く巻き込まれがちなのは能力の高い人たちなんであります。強い人ほどゲームに勝つ楽しさを味わえますから、どんどん嵌まって行くわけです。で、勝ち組と言われるような人ほど、礼儀正しさや謙虚な態度を身に付けているものではないでしょうか。こういうところに、人間社会の複雑な機微があるなと感じます。ここで、草野球ならぬ草サッカーをしようという人たちがいて、サッカーの上手いキャプテンが、純然たる数合わせのために、サッカーのルールすら知らない人を一人、無理矢理チームに加えたとしましょう。まったくの戦力外で、ピッチの中にいるだけで何もしてくれなくていい人が一人いるわけです。ところが、試合の重大局面で、どういう訳かその人のところにボールが飛んで行ってしまいます。キャプテンは「こっちにパスしろ」と叫びますが、その人はルールを知らないのでボールを手で触ってしまいました。当然反則となり、結果的にチームは負けてしまいます。そこでキャプテンがその人に、「お前を入れたのは俺の責任なんだからお前は悪くない」と直接謝ったとしましょう。すると社会的には、キャプテンは礼儀正しい人だ、謙虚な人だと評価されるに違いありません。ですが、神様の目からこのキャプテンさんの心の動きを見ると、とてもじゃないけど謙虚とは言えない、ということになるんであります。人間世界のゲームに夢中になっている人にとっては、礼儀正しさや謙虚さは、どこまで行っても他人に見せるための表面上のフリでしかないんであります。社会生活を営んでいる以上、そういう偽善を避ける方法もありません。仕方がないと言う他ないのです。本当に謙虚な人(ラーマクリシュナみたいな)というのは、巣から落ちてしまった雛鳥のようなもので、その存在に気が付く人は多くありません。気が付いたということ自体、その人がすでにゲームや利益競争の外に出始めていることを示しています。本当に謙虚な人は自分を謙虚だと思うことがありません。

人それぞれ

このブログでは、各分野から私がベストだと思う本を一冊ずつ紹介したりしてるんですが、その中にまったく正反対なようなのが含まれているのはなぜだろう、と疑問に思う方もおられるかも知れません。それは人それぞれ、その時々に適合する教えが違うからです。あいのほしはバランスの立場を取っています。いい悪いはみなさんが判断するものとして、「すべてを捨てて永遠の命を得べし!」という物質否定型の考えと、「創造者として好きなことをして楽しむべし!」という物質肯定型の考えのバランスに配慮しているつもりです。人生楽しんでなんぼという人には厳格で規律的な教えが合っていたりするし、暗くて孤独がちな人には「人類みな兄妹」みたいな家族的な教えが合っていたりするのは、その時はそれでバランスが取れるからです。今は一つの宗教とか一つの教義に固執するのがいい時代ではないので、理想を言えば、いろんな教えを満遍なく理解するように努めるのがいいと思います。私としては、地球全体の調和に連なる個々人の本当の幸せを重要と思ってやってます。で、あいのほしは基本的に日本人のための活動ですので、日本人向けという意味で中村天風さんをまずはおすすめしています。天風哲学は幅広い分野をカバーしている上に深さも深く、日本人の精神的土壌によく合うのが特徴です。最近は五井昌久さんの世界平和の祈りもおすすめしているのは、五井先生を話題にする方がけっこういらっしゃるので私も便乗したかたちです。心身統一法を自力としますと世界平和の祈りは他力というわけで、一見正反対のものをなぜ両方おすすめするかと言いますと、それでバランスが取れるからなんであります。人生の師と呼べるような先生を見つけるなら、相手の話をろくに聞かずに繰り返し同じことを断言する、要するにひとりよがりになっているように見えるティーチャーさんは、とりあえず避けた方がいいのではないでしょうか。そのティーチャーさんが哲学的には真理を説いていても、あまり得るところはないように思います。相手の話をよく聞き、話してないようなことまで分かってしまうように見える優しいティーチャーさんは、哲学的には大したことを言ってないように思えても、いい先生である可能性があります。

五井昌久の世界平和の祈り

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私達の天命が完うされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます

五井先生ありがとうございます

人間の真実の姿は、業生ではなく、神の分生命(分霊)であって、常に祖先の悟った霊である守護霊と、守護神(天使)によって守られているものである。この世の中のすべての苦悩は、人間の過去世から現在に至る誤った想念が、その運命に現われて消えてゆく時に起る姿である。いかなる苦悩といえど、現われれば消えるものであるから、消え去るのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難の中にあっても、自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくと共に、守護霊、守護神への感謝の心を常に想い、世界平和の祈りをつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得できるものである。

人間社会に渦巻く我欲の想いには凄まじい勢いがあり、一度社会人になったらいつの間にか「大切な何か」を忘れ、自分が本来何を求めていたのかさえ分からなくなるのは必定と言えるであろう。悪い想念が行為として現れ、その結果さらに悪い想念を生むという水平方向の悪循環を断ち切るにはどうしたらよいのか。悪い因縁を消し去り、結果として心身を効果的に癒す方法があるとすれば、私たちが幽玄微妙な霊的エネルギーに繋がり、それを垂直方向に降ろして来るということになろう。だが、実際どうやれば出来るのか。業(カルマ)の波を打ち消すことができる覚者はこれまでにもいたものの、一般人が簡単に到達し得る領域の能力ではないため、基本的にはその覚者の恩寵に与る、悪く言えばひたすらすがる以外に方法がなかったのではないだろうか。そこへ登場したのが、白光真宏会(びゃっこうしんこうかい)を主宰した五井昌久(1916-1980)の世界平和の祈りであった。五井師は難行苦行を否定はしないが、現代人に必要なのは誰にでも実践できる易行道であると説く。世界平和の祈りを一心に唱えることで、根源から来る精妙なエネルギー、すなわち「救世の大光明」に心を繋ぐことになる。それを中継してくれるのが、私たち一人一人の神性への道を最初から最後まで導いてくれる守護霊・守護神の存在である。西洋にも守護天使やハイヤーセルフとの協働という教え方があるが、守護霊・守護神への感謝を中核に据えた宗教というのは他で聞いたことがない。今となっては、私たちの人格の小さな想いの力で人間社会を矯正して行くことが困難なため、むしろ祈りによってすべてを守護霊・守護神の働きに一任し、思い煩わずに明るく朗らかに生きて行く方がよいとする。無論私たち個々人の人生問題も然り。世界平和の祈りは白光真宏会に入会しなくても誰でもでき、またいつでもどこでも実践してよいことなので、やたら多くを期待するのはよくないが、まずは試してみてはいかがだろうか。

※さらに理解を深めるためには、全十三巻の『五井昌久全集』がある。

因縁

原因があって結果が起こる、というのは当たり前なような話なんですが、精神世界では当たり前じゃないんであります。ものごとには実は原因と結果という関係性はなく、理由もなくただ起こり、それゆえ人生何やっても誰にも責任はない、というような哲学は大昔からあるんであります。で、本当は何も起きていないようなもんなんだから、人生何が起きても心がそれを相手にしなければあなたは自由である、というようなティーチャーさんが多くいらっしゃるわけです。心が関わり合いをつけなければ因果の渦はやがて消えて行く、というのがこの教えの肝です。だけど、因縁やカルマと呼ばれるようなのは、ないと思えばないんだ、自分で認めなければいい、そうすればすべて思い通りになるんだ、というところまで進んでしまうと、少なくともインド哲学の文脈では間違っていることになってしまいます。それは『マハーバーラタ』の中で、クリシュナが猟師に誤って殺されてしまうくだりに、明確に示されているように思います。クリシュナでさえも運命の支配者にはなれなかったわけです。「カルマの法則はない」の本来の意味は、あなたは因果の渦に左右されない実在なんだということで、過去の行為がただちに清算されるという意味ではなかったはずです。なのに、「引き寄せの法則」が楽して儲かる方法と解釈されたのと同じ延長線上で、「何も起きていない」を責任を取らなくてもいい、と表面的に解釈する人を多数輩出してしまったのは事実だと思います。努力しないで結果を得られると言っているようなもので、努力なんて馬鹿馬鹿しい思ってる人が真に受けるんじゃないでしょうか。それはそれでいいですが、現世の幸せを大切に考えるなら、人の幸せのために尽くす行為の中に自分を失って行く、それが本当に自分の幸せでもあるという生き方が、よい因縁を作り結果的によい人生を作る王道だと思うんです。それも漠然と他人ということではなく、パートナーや家族のために尽くすことから始めるのが理想で、それが私たちが家庭を持つ必要がある理由だと思います。

資本主義のゲーム

みんな自分の利益だけを考えて生きて行くのは当たり前だし、その何がいけないの? という世の中なわけです。哲学的にはプロテスタンティズムが産業革命や資本主義の起動力になったというような話(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)もありますが、たぶんその通りなんだろうと思います。基本的にお金を持てば持つほど、さらに儲かる仕組みが作られたわけです。お金を稼げる人になることが社会的に正しいとされます。だけど、社会的に立派とされるステータスの高い職業に就いている人や、便利な発明品の特許料で巨額の収入を得ている人に限って、大概は厭世的になったり自己嫌悪に陥ると相場が決まっているというのはどういう訳か、考えたことがあるでしょうか。資本主義のゲームというのは当然、能力の高い人ほど有利にプレイできるものです。勝ち組になれてかなりのお金が取れるようになる過程は、すごく面白いわけです。これは酔っぱらって麻雀をしているようなもので、冷静な判断はついてないけど楽しむことは楽しめている、という状態です。酔いが醒めて正気に返ってみると、方々に敵が出来ていたりして、のっぴきならない状況にはまり込んでしまっていることに気づいたりします。すると、そこから先は楽しいどころか苦しみの連続になるわけです。そういう人生はひどくむなしいものです。プロテスタンティズムが奨励した勤労や貯蓄が、神への奉仕という当初の理念をさっさと失って、功利そのものが目的にすり替わってしまったのと同じように、ステータスの高い仕事や科学的発明から理想が失われて、お金になることは何でも正しいと考えられるようになったことが、現代の不幸の一因になっているのではないでしょうか。便利だけれども最終的には人を不幸にする発明品というものがあります。儲かるけれども人を不幸にする仕事をする人はあまり幸せにはなれない、というのはまぎれもない事実です。かと言って、自分だけの利益を求めることに何の興味もなくなってしまうと、世の中ひどく生きづらいものです。でも、理想を言えばそこがスピリチュアルの出発点であるべきだと思います。功利を捨てて世間からは落伍者と呼ばれながらも、どうにか生きて人の幸せのために尽くそうと奮闘するみなさんに、心から拍手を送りたいと思います。生きているためには功利を完全に捨てることはできない、そこがジレンマですね。昔の覚者もみんな悩んだところだと思います。

成長する

魂の成長という表現は、精神世界では何気によく使われますが、それが本当は何を意味するのかは結構謎だったりします。具体的に何をどうすれば魂の成長に繋がるのでしょう。魂が成長したことを示す兆候はあるのでしょうか。超常的な能力が出て来たり、ものごとが急にうまく行くようになれば、魂が成長した証拠だと言えるでしょうか。一つには、成長というものを認めないというか、全否定する考え方もあります(現世否定的な伝統)。そういう感じの教えをするティーチャーさんご自身が、新しい知識や経験を拒否する生き方をされているのなら、言っていることとやっていることが一致しているので、問題はありません。そうでないのなら、その考え方は間違っていると言わざるを得ないでしょう。子供を見ていれば一目瞭然ですが、私たちには新しい知識や経験を積極的に獲得して行こうとする自然的傾向があります。「何も足さない、何も引かない。ゼロのままがいい」なんて言う子供を見たことはありません。そういうことを言うのは哲学者か宗教家だけではないでしょうか。だけど、成長するということを哲学的に言い表そうとするとひどく難しいわけです。神様の方向に行く、とか全体が調和する方向に働く、とか言葉にするとすごく簡単なんですが、分かるようで全然分からないわけです。かく言うあいのほしそのものが、今思い返せば笑ってしまうような、訳の分からない大げさな概念で世の中に貢献しようと頑張っていたんです。結局のところ、本当に人に喜んでもらえる、いやすべての存在物に喜んでもらえるような生き方を具体的にできなきゃ、スピリチュアルな概念は何の意味もありません。別の言い方をすれば、自分の幸せがすべての人の幸せに繋がって行くような立派な生き方ができるようになることが成長だ、と言えると思います。そこに結び付いて行かないものは、すべてこだわりということになります。スピリチュアルが意味のないこだわりになってしまっている場合が多いように思います。成長したいと願うなら、余計なこだわりをすべて手放すことが必要なように思います。

口伝と書伝

昔から、大覚者と呼ばれるような先生に限って、直接書き残した本がない場合が多いわけです。その理由を察するに、やはり文字だけではその真意が伝わりづらいからだったんだろうと思います。厳密な定義とは違うかも知れませんが、ここで仮に、口頭や直接指導で伝達することを口伝、教典を残して伝達することを書伝という風に言ってみましょう。口伝と書伝はそれぞれ性質が異なり、よい面と悪い面があります。口伝は以心伝心という訳で、師匠が弟子の状態を見ながら、ここはいい、そこは違うとやれるので、一番適確な方法だと言えると思います。一方で、師匠の側から見れば伝達が途絶えてしまうリスクがあり、弟子の側から見れば本物の先生を見分けられるのかというリスクがあります。最悪、カルトに引っ掛かって人生を棒に振る可能性もあるわけです。それに対し書伝は、あくまで文字を頼りに自分で進んで行くことになるので、理想を追い求めるのに上限がないというメリットがあります。一方で、教典に書かれた本来の意図とは全然違う方向に進んでしまっても、自分では全然それと気が付かないという問題があるのです。違ってますよと指摘してくれる人が誰もいないので、そのまま「辿り着いた」と思っている人も出るかも知れません。だから歴史的に見て、書伝は分派が出来やすいんであります。いずれにせよ、何か外側に権威や規準が置かれており、そこを通過しなければダメだという話になった場合、一体誰が何のためにこんなことをしてるんだろうという疑問に、最後は収束するのではないでしょうか。私はそう思います。結局、弟子として極めて優秀で、これ以上ないくらい真剣に修行しても、自分はそもそも何を求めているんだろうという疑問にケリをつけない限りはダメなのだろうと思います。よく言われている通り、軸とか信念といった部分です。私もこの年になって、自分は信念がないからダメなんだなと思うんであります。幸せを大切に考えるんであれば、自分で方法を工夫してやってかなきゃいけないし、成功したいんであれば信念を持たなければダメ、実は悟りに時間はかからないと言うけど本当だな、と思います。自分で信念して疑わなければ、何事もその通りに行くに違いありません。

懐に入る

精神世界に限らず「心を開く」というのはいいこととして語られます。実際、多くの人が心を開き出したなら、この世界はまったく違った場所になることでしょう。今ある問題はあらかたなくなり、スピリチュアリティについての考え方もまったく変わるでしょう。心が閉じているというのは、個の意識になっているということで、自分のことしか考えられないという状態です。だからこそ、自分が得するにはどう動いたらいいだろうかと策謀を企てるわけです。よく考えてみればどうでもいいような、小さなものごとを巡って人々が闘争する世界になるわけです。で、昔から身を持ち崩したりして、半ば強制的にすべてをさらけ出して生きて行かなきゃいけない境遇というものがあるということを、みなさんどこかで知っています。そこに、理由がどうであれ、心を全開にして人々と関わって行く魅力があるのを、誰しもどこかで気づいているのではないでしょうか。カップルや夫婦の間で、お互いに心を開いて交流できたという瞬間が持てただけでも、もう何とも言えません。まして、常に心を開いて生きて行けたらどんなにすごいことでしょう。平穏無事で、相当恵まれた人生を生きた人も、もし心が閉じていたのであれば、本当に生きたとは言えないと言っても言い過ぎではないのではないでしょうか。それくらい違うものです。「あなたも私もない」という世界を地で行くんであります。あなたも私もいないという悟りの哲学を説いていらっしゃる先生が、教師という立場にこだわるせいなのか、個の状態にあり、心を開いていないという可能性もあり得ます。ただ言うのではなく、地で行くところに本当の幸せがあるはずです。英語であけっぴろげな性格のことをオープンブック(an open book)と言うそうですが、まずは包み隠さない態度が糸口になると思います。スピリチュアルティーチャーならなおさら、都合の悪い過去の事実を言わないだけでも、嘘をついているのと同じになってしまいます。自分の評価を下げるようなマイナスな話でも、事実なら率先して言うくらいでちょうどいいと思います。隠そうとするのは我があるからです。だからこそ心を開くのがこれほど難しいわけですが、いったん開けたら間違いなく世界が変わることでしょう。

人を助けるには何が必要か

人助けという言葉はよく使われますし、誰かの助けになりたいと願うきれいな心の持ち主には拍手を送りたいと思います。助けたいという純粋な気持ちが相手に伝わることで何かが変わる、という心の交流の可能性を否定したくはありません。が、実際問題として、病気や借金や依存症に苦しむ人を、思いやりの気持ちだけでは助けられないことも事実ではないでしょうか。人を助けたい気持ちから何かを始めても、自分の中に持つべきもの持たないと、挫折する結果になります。それは残念なことだと思います。一つには、お金や物資で援助するという方法がまず考えられます。何もないよりはマシです。でも、スピリチュアルティーチャーとして人を幸せにすることを目指すのなら、持つべきものが他にもたくさんあります。まず第一に、自分自身が、それが何を意味するのであれ、大きな変化を経過しているということが前提になります。科学的な根拠が全然ないんですが、変化を経過した人というのはある種の磁場を発生していて、それが周りに寄って来る人に変化を誘発するんだろうと思います。パワースポットみたくなっているわけです。頭が良くて情報処理能力が高ければ、自分が変化を経過してなくても道を説くことはできますが、それで救われる人がいるとすれば、始めから大した問題のなかった人なんだろうと思います。スピリチュアルを言うなら、不幸な人を幸せにするくらいじゃなきゃいけません。で、スピリチュアルティーチャーと言うからには、何が本当の幸せなのかという定義について、一本筋の通った哲学を持たなければなりません。相手が欲しいと思うものを何でも与えてあげれば、その人を幸せにできるでしょうか? そういう問題について何であれ結論を出せていなければ、人を助けることはできません。次に、一つの病気に対して複数の治療法があるのと同じように、できる限り多くの技術や方法を心得ていることが望ましいんであります。人を助けたいと本当に思うなら、できるだけ多くの人を助けたいと望むのではないでしょうか。もし一つの方便が究極だとか唯一の道だとか主張する人がいるとしたら、それはこだわりであり、あまり多くの人の心に触れることはないでしょう。だからスピリチュアルティーチャーになってからも勉強を続けるべきです。身体的アプローチは何か一つ習得していることが望ましいように思います。ジャン・クラインさんのカシミール・ヨーガ、アレクサンダー・テクニーク、フェルデンクライス・メソッド、太極拳など、まあどれも難しいものばかりですけれども、私たちは日本人なんですから、野口晴哉先生の「活元運動」ができると特にいいんじゃないかと思います(ちくま文庫から出ている『整体入門』を参照のこと)。呼吸法の指導ができることは言うまでもなく重要で、必須の能力だと言えます。臨床心理学のテクニック、フォーカシングハコミセラピープロセスワークの基本を習得しておくと役に立ちます。医師免許や公認心理師の資格を取れるようであれば当然ベストだと思います。スピリチュアルティーチャーになるというのはもともとハードルの高いものですし、そうあるべきであります。だからこそ、思春期から準備を始めることが必要だと思います。

思春期の教育

英語でティーンエイジと言いますけど、13歳から19歳までですか、いい悪いは別として、その年代に受けた教育がその人の人生を決めると言っても言い過ぎではないと思います。というのは、その年代でその人の人間性がほぼ決定されるためで、その方向で行けば大体こうなる、というのはかなりの程度予測できるからであります。これはもちろん、社会的に成功できるか否かが決定されるという意味ではありませんので、注意してください。ですから最終的に幸せになれるかどうかは、思春期の教育的影響でほぼ決定される、と言っておきましょう。社会的に成功しても不幸な人がいっぱいいるわけですから、この番組で扱っているのはそういう話です。たびたびお話ししていますが、私の場合ちょうどその年代に出会えた先生(八島義郎先生のこと)がいたんです。今にして思えば、スピリチュアルな方向性が出来たのもその先生の直接的な影響だったし、これまで何とか人の道を大きく外れずに済んだのもその先生のおかげだと確信します。でも、私は社会的な成功というものを全然経験していないから何とか保っているものの、もし何らかの段階でスピリチュアル業界で成功していたとしたら、私は容易に人の道を踏み外していたに違いない、と言いたくはありませんが認めます。ましてその先生に出会えていなかったら、私は社会に大きく害をなす人間になっていたに違いないと思います。心理学的に思春期は極めて示唆を受けやすい年代ということが分かっているそうですが、悪く言えばどのようにでも洗脳できてしまうということで、歴史的にも悪用された例があります(ヒトラーユーゲントなど)。人の幸不幸を大切に考える場合、この時期を善用することが鍵になるに違いありません。遺伝的によくない種子を持っている人でも、教育次第でよい方向に持って行ける可能性があり、実際に伝説として語り継がれている覚者が、若い頃は悪党だったという話もあります(スーフィーの言い伝え)。異常と言えるような強欲な人ほど、何かをきっかけにそれが反転すれば、伝説の覚者に生まれ変わる可能性を秘めている、というのは歴史的に見て本当です。結局、大きな情熱とかエネルギーというのは、その向け方によって善にも悪にもなり、その方向性を決めるものは教育だ、とかなりの程度言えると思います。それがたとえ思春期の一瞬の出会いだったとしても、一生を決定づけるほどのインパクトを持ち得るということは、私の経験から言えばあると思います。

ヨアン・クリアーノ『ルネサンスのエロスと魔術』

ルネサンスの文化は想像の文化である。それは内的感覚によって呼び起こされる想像に途方もなく大きな意味を認め、想像に対し、またそれとともに活発に働きかける人間の能力を極限にまで発展させた。(中略)幻想の偶像崇拝的、非宗教的性格を主張することによって、宗教改革は一撃にしてルネサンスの文化を滅ぼしたのである。

同郷ルーマニア出身の宗教学者でミルチャ・エリアーデの愛弟子、ヨアン・クリアーノ(1950-1991)の代表作。ルネサンスとは何だったのか? 専門家でも答えに窮する質問である。専門書であって一般向けに書かれてはいないが、天才ではない私たちが本書を読む意義は、一面的・直線的ではない考え方とは具体的にどういうことなのかを学べる点にあると思う。通俗的な理解では、ルネサンスと言えばギリシア・ローマ時代の学芸の復興だとか、中世の宗教的迷信からの脱却だとかが連想されるかも知れない。しかし実際には、完全に古典に忠実であったわけでも完全に理性中心であったわけでもなく、(内的な感覚印象とも言うべき)「想像的なもの」による錬金術的・神秘主義的な現実の操作を企図していたという側面があった。現代の「思考が現実を創造する」という哲学の源流は古代に遡り、知る由のない経路で確実に中世の西欧社会に伝わっていて、ルネサンス期には迷信的な儀式形態と経験ありきの精神集中の技法を寄せ集めたような様相を呈していたと思われる。マルシリオ・フィチーノやジョルダーノ・ブルーノといった代表的人物の著作がその都度引用され、当時の魔術がどのようなものであったか、ある程度のイメージを掴むことができる。私たちが抱く魔術のイメージからそれほど遠くはないような、言葉、数字、図形、シンボル、占星術を用いる複雑な体系があったらしいが、かと言ってそこから、西洋文明は魔術的技法による権力掌握と大衆操作の歴史であったかのように極論することはできない。現実の解釈は多層的・複眼的なものである。魔術師も錬金術師も(少なくとも表面的には)キリスト者であった。宗教改革(プロテスタント側)も反宗教改革(カトリック側)も、「想像的なもの」と「現実的なもの」を完全に分離するという目的に対しては協働し、その最終結果が現代科学技術文明であるという見方が提示されている。該博な知識を持つ著者ならではの知見が多く、ヨーロッパ知識人の面目躍如に瞠目せざるを得ない。

山本幹雄『現代のカリスマ』

体の中からすべてのものが洗い落され、何もかも透過されてしまったまるで別の自分が今ここに立っている。ここは白雪皚々(はくせきがいがい)、目のとどく限りどこまでも白く、どこまでも透きとおっていて、物音ひとつしないところである。ここは今まで誰ひとり来たこともない未踏の場所……恐る恐る足をふみ出すと、はじめての足あとがつく、はじめての私の足あとが。戦(おののき)の一歩、一歩が果しない未知の地平をおし拡げる。

美を崇拝し、心の華を咲かせる道を説いた人物がここにいる。分類上は神道系とされているが、あまり神道っぽくはない新興宗教「誠成公倫(せいせいこうりん)」の開祖、八島義郎(1914-2010)の半生を、歴史学者が生き生きとした見事な筆致で綴った作品。何を隠そう私自身、十代の頃に縁あって八島師の教えに触れる好遇を得たのであった。その頃すでに人数が多く、直接指導を受ける機会には恵まれなかったが、今振り返ってみれば、人生最大の贈り物を与えられたと思える。個人的事情があり誠成公倫からは離れてしまったが、八島師がもうこの世にいない以上、再度入信を希望してはいない。人生の初期に素晴らしい教えを受けたにも関わらず、いまだに箸にも棒にも引っ掛からない自分を恥ずかしいと言う他はないが、ほんの少しでもましな人間になれるように努力することが、師への恩返しになると考えている。

八島師は旗本の家系に才気煥発な長男として生まれた。にも関わらず「夢のお告げ」を信じた両親は次男に家督を継がせることに決め、家を追い出されてしまう。芸術家を志し、父親の斡旋で仏師(職人)の弟子としてキャリアをスタートさせた。何人かの師匠の下で着実に腕を磨き独立、二十代半ばにして天才彫刻家として美術史に名を残す評価を得るに至る(雅号は八島遙雲)。そこへ来て日米開戦、多くの日本人にとってそうであったように、八島師の人生もにわかに暗転を始める。開戦から数えて約15年もの間、何をやっても仕事がうまく行かず、結婚生活にも失敗し、大阪府豊能郡能勢町の山中で、一山なんぼの土産物用の木彫りを作りながら、三人の子供を抱えての壮絶な極貧生活に転落してしまう。どんな分野でも一流になれるほどの抜群の能力と、誰にも負けない根性とを併せ持ち、誰にも頼らず真面目に生きて来たという自負が彼にはあった。それなのに、なぜこうなってしまったのか・・・仕事や子育ての合間を縫って、命懸けの哲学研究が始まった。煎じ詰めれば他でもない、人呼んで孤高の芸術家という、徹底的で好き嫌いが激しく、他人を遠ざける傾向のあった自らの性格こそが、自分をどん底にまで追い込んだ根本原因であったことを、彼は静かに受け入れる。そこからは自らの心と真正面から向き合い、それまでとは正反対の、屈託がなく明るくオープンで、誰とでも本心からにこやかに関わって行ける人間に生まれ変わるという、彼独自の「行」に取り組んだのである。するとある時点で、自分の体がなくなってしまったようになり、八島師を訪ねて来る人の健康状態や事情がすっかり「写り」、我が事として実感されたあとスーッと抜けて行くようになった。それだけでなく、なんとその人の運命までもが好転するという(師本人が予想だにしなかった)前代未聞の作用が発現したのである。遺伝に起因する悪感情が浄化され消え去る浄滅(じょうめつ)と呼ばれる現象が起きるのであった(これを禊祓の真諦とか真正のカルマ・ヨーガと見ることもできる)。さらに加えて、健康・経済・愛情の三条件を満たす、どこまでも現実的な幸せを期成するなら従うべき法則があることを究明するに至り・・・具体的には、自分を大切にし万事楽しんで生きる、両親に感謝の気持ちを向ける、夫婦仲を改善する(相手のよい面を見て尊重し支える)ようどこまでも努力する、子供は褒めて育てる、美しいものに触れ純粋できれいな感情を使うように心を磨き上げる、人の輪の中に積極的に入り誰とでも真心と調和の精神で接する、正しい言葉遣い・幅広い教養・品格(マナー)を身に付ける、依頼心(誰かが何とかしてくれるだろうと甘える気持ち)をなくす、素直になり猜疑心(どうせ裏があるのだろうと何かにつけ悪意に受け取る態度)を持たない、過去に囚われてものごとを悲観しない、人を見下したり排除する類いのこだわりやプライドを持たない、自分さえよければいいという我欲を滅する、人を喜ばせることを自分の喜びにする、といった方法論を教えた(困難な境遇にいるほどやりがいがあると言うべきである)。その後の経緯は世の常と言うべきか、評判が評判を呼んで、集まって来る人の数が爆発的に増え、最終的には師の目が行き届く範疇を遥かに超えてしまっていたことを、個人的な感想として付け加えておかなければならない。だが、八島師の歩んだ人生は一つの歴史的事実であり、彼から確かに恩恵を受けたと言う何万人もの証人がいるのである。

この本には、著者の体験手記と言える1980年刊の通常版と、伝記的要素を中心に新たに書き下ろされた1984年刊の完全版とがあり、どちらも素晴らしいが、まずおすすめするのは完全版の方である。

  • 山本幹雄『現代のカリスマ 八島義郎と萬華の世界(全)』自費出版、1984年

なお、八島師が作詞作曲した作品が数多く残っており、理屈抜きで彼の心の世界に直接触れるには、音楽から入るのがよい。

  • V.A.『心の華 八島義郎作品集』日本コロムビア、1996年

企画書「精神世界ガイド」

要点

スピリチュアル版ミシュランガイドの創設を企画します。混迷を極める現代の情報社会では、興味本位の範疇を越えて、本格的に人生の指針を得ようとスピリチュアリティの門を叩いても、これほどたくさんの選択肢があると、本当に自分に合った道を見つけることは難しいのではないでしょうか。初心者が、最初から最良の情報に辿り着くことは稀です。「生徒の準備が出来たとき、教師が現れる」というのは一種の神話であって、現実には、たまたま声高に宣伝していた教師や団体に成り行きで関わって行き、それが実は、自分が本当に求めていた道とは違っていたことに気づくまでに、何十年と労力やお金を無駄にしてしまう人が多いのではないでしょうか。 詐欺まがい、カルトまがいの教師や団体に関わってしまうと、経済的な被害を受けるだけならまだマシで、最悪のケースでは、「人生を奪われた」と言えるほどの悪影響が及びます。質が高く、信頼の置ける教師や団体を紹介する誠実なガイドブックが、是非とも必要な現状ではないでしょうか。そのガイドブックには、博物趣味的にいろいろな情報をただ収集したのではなく、そこから抽出したスピリチュアリティのエッセンスが、端的に明示されているべきではないでしょうか。この企画は本として出版するのが適当でしょうが、予算次第では、インターネット上のみでの公開という選択肢もあります。もちろん、企画者は非営利目的の第三者審査機関に徹することが理想です。

幸せとは

あらゆる種類のスピリチュアリティが一つの目的に集約するとしたら、それは「幸せでいる」ことに尽きるのではないでしょうか。スピリチュアリティ以前の幸せの基本条件として、まず、健康・愛情・(最低限の)経済の三つが満たされることが挙げられます。政治的、宗教的な服従を強制される環境の中で、集団催眠にかけられ、自由と幸福を得ていると思い込まされている状態とは区別され、それは内側から沸き上がる喜びや輝きがあるかないかで判断できます。スピリチュアリティは、それによって(誘導的、強制的に)健康・愛情・経済が脅かされたり、損なわれるものであってはいけないと考えます。その上で、スピリチュアリティでは、幸せには二つの方向性があるとされています。一つは、自己実現方向で、人間社会の繁栄のために何か貢献しようとする積極的態度の中に見出されます。もう一つは、自己消滅方向で、何かを成し遂げようと意志する主体そのものが脱落する過程の中に見出されます。しかし、すべての人が超能力者となり、欲しいものを何でも手に入れること、あるいは、すべての人が世捨て人となり、悟りが開けることが、スピリチュアリティの目的であるとは思いません。このプロジェクトでは、一つの仮定として、本当の幸せはどちらか一方ではなく、美徳とも言うべき両者のバランスにあるという立場を採ります。

先行する企画

先行する類似の企画に、別冊宝島さんの『精神世界マップ』、平河出版社さんの『精神世界の本』、荒俣宏さんの『世界神秘学事典』、ブッククラブ回さんの『スピリチュアルデータブック2007』などがあります。ただ、古典的名著を紹介するという形式だと、スピリチュアリティが単なる知的な探究であるという印象を強めてしまう虞があります。最も参考になる企画は、フランスの出版社 Almora による Guide Almora de la spiritualité で(最新版は2013年刊)、これは古典を掘り起こすことではなく、実践されることに主眼を置き、実地の調査をも含めて検証された、現代フランスの生きたスピリチュアリティの総目録になっています。

なお、日本の宗教法人に関する一次資料としては、文化庁が毎年発行している『宗教年鑑』があります。

評価方法

当該の教師・団体が発行する著作やインターネット上の公式サイトなどに一通り目を通します。その上で、もし予算が許せば、抜き打ち的にイベントやセミナーに参加し、詐欺まがい、カルトまがいの言動がないかどうかをチェックします。完璧な教師はいないのですから、審査上やむを得ない場合を除いては、試したり悪意のある質問をしたりといった挑戦的な行為は慎まなければなりません。大きな団体については、過去に名称を変えたり、裁判沙汰になったりしたことがあるかどうかもチェックします。明瞭な評価基準を設け、掲載するべきかどうかを総合的に判断します。評価するに当たっては、一般常識に加えて、宗教全般についての基礎的理解や、カルトの原理、サイコパスの心理についての基本的知識が必須になります。

評価基準

  • 内容。人の悩み苦しみを徹底的に洞察し、解決のための実際方法を明確に提示できているかどうかをチェックします。さらに、当該の教師自身が、人にインスピレーションを与えるような素晴らしい生き方を、実際にしているかどうかをチェックします。
  • 料金。今の日本には、精神世界・スピリチュアル業界の適正価格の相場がありません。そのため、心に悩みを抱える人たちに付け込む心理的商売が、野放しになっている状態です。当該の教師・団体が提供するサービスの対価が、一般常識に照らして法外な金額になっていないかどうかをチェックします。また、 当該の教師・団体の活動の根幹が、家元制度・上納金制度・資格商法・マルチ商法・ねずみ講の上に成り立っていないかをチェックします。政府が規制をかけざるを得ない事態になる前に、民間が率先して自浄能力を示して行きましょう。
  • 歴史。一般的に、長く続いているものほど信頼性が高いと言えます。ただし、伝統的な正統派だからと言って、盲目的に高く評価するようであってはいけません。
  • 成果。当該の教師や団体に関わりを持った人たちが、実際に変化し、幸せになっているかどうかをチェックします。
  • 言行一致の原則。美しい理想が語られるのみで、現実の行動を伴わない教えは虚しいものです。言葉と行為との間に、著しい矛盾が見られる教師や団体を、高く評価してはいけません。
  • 公平性の確保。執筆者・編集者が信奉する教義が、やたらと高く評価されないように、可能な限りダブルチェック、トリプルチェックを徹底する必要があります。執筆者・編集者の知り合いが、不適切に高く評価されないように配慮しなければなりません。また、このプロジェクト自体が、企画者の売名行為にならないように、配慮しなければなりません。

対象範囲

全世界を網羅することは現実的ではないので、日本国内で活動している教師、または日本に活動拠点を持っている団体に限定します。少なくとも二十年以上は安定した活動を続けており、なおかつ際立った成果を上げている教師や団体を中心に取り上げることが望まれます。いかに優れているように見えても、活動開始から十年も経っていないような教師や団体を、安易に取り上げるべきではありません。

  • 伝統宗教。仏教、神道、キリスト教、ヒンドゥー教(ヨガ哲学)、イスラム教、ユダヤ教、先住民文化(シャーマニズム)など。何千年もの伝統は、それだけ多くの検証に耐えて来たと考えられるので、王道だと思います。
  • 神秘主義思想。歴史的に見て、神秘主義はスピリチュアリティの最大の源泉とも言えますが、神秘のヴェールは最大の煙幕にもなり得ます。おとぎ話のようで現実味のない団体には、疑問を呈するべきです。
  • 心理学・心理療法・脳科学。精神の健康は誰にとっても重要ですし、そこが入り口になる人たちも多くいると思います。
  • ヒーリング。医学的検証に耐え、スピリチュアリティに連なるものであれば、取り上げるべきです。
  • 自己啓発。ビジネスの成功哲学にも、スピリチュアリティに繋がって行くものがあります。
  • 新興宗教。敬遠されがちな分野ですが、もし卓越した教義を持ち、運営方法も穏当であるなら、取り上げるべきです。
  • 超能力者・霊能者。科学的検証にオープンであり、なおかつ著しい社会的(影響力ではなく)貢献があるなら、取り上げるべきです。
  • 霊媒(チャネリング)。チャネリングによる伝達は、一般的に信憑性が低いと考えられますが、年月を経て情報の有効性が証明されているなら、取り上げるべきです。
  • 文学・哲学。実践するという点では疑問の余地があるものの、純粋な文学・哲学の中にも目を見張る内容のものがあります。
  • 芸術家・音楽家。美しさはスピリチュアリティに繋がります。
  • 武術。伝統的な武術にはスピリチュアリティが内包されている場合が多いので、取り上げるべきです。
  • エコロジー。先住民文化と共鳴する環境哲学の中には、優れたものがあります。

対象外とするべき範囲

非常識で無責任な教師や団体は、取り上げるべきではありません。トラブルを回避するために、敢えて悪評を掲載するよりも、評価できない教師・団体は最初から掲載しないという方針を採ります。 評価できると判断した場合でも、(取材とは違うので、掲載許可を貰う必要はないとは思いますが、)メディアへの露出を望まない教師や団体を、一方的に掲載するべきではありません。また、次のような特徴を持つ教師・団体は、そもそもスピリチュアリティとは何の関係もないため、対象範囲外とします。

  • 過激な教師や団体。宇宙には善悪も意味もないので何をやっても構わないとする教え、幻覚剤を用いる実験、黒魔術、悪魔崇拝、常軌を逸した儀式や修行を伴う超越思想など。
  • 霊的伝統の枠組みを悪用し、明らかに金銭やマインドコントロールを主目的としている教師や団体。
  • 社会不適応的な傾向を持つ人に、まやかしの希望を与えて依存させることで成り立っている教師や団体。
  • 理屈がどうであれ、信者に家族を捨てることを奨励する教師や団体。
  • 脱退しようとする人に対して、恫喝や脅迫をする教師や団体。
  • 諸悪の根源は政治経済システムにあるなどとし、反体制的な言動が目立つ教師や団体。
  • 自らが一番優れていると主張し、他を悪しざまにけなす教師や団体。
  • まったくのデタラメではないものの、明らかに大袈裟な「奇跡」「究極」「世界初」「革命」「何もかも上手く行く」などの表現を用いたり、明らかに話を盛っている体験談や有名人の推薦文を持ち出したりして、誠意を欠いた宣伝広告を行う教師や団体。
  • 性的な関係が入り乱れている教師や団体。
  • 本名や都合の悪い過去の経歴を隠そうとする教師。
  • 悪意はないものの、(エゴは実在しないので)自分には責任がないという哲学のもと、気まぐれな言動で人を惑わす教師。
  • 自らを過信し、絶対に間違いを認めようとせず、人に頭を下げることを知らない教師。
  • 「信じる信じないはあなた次第」という、結果が検証されることを最初から視野に入れていない、その場限りの占いや人生相談。
  • 一般に存在を公表していない秘密結社や、一般に公開してはいるものの、上級者サークルに入るにはイニシエーションを受ける決まりになっている、秘密めいた団体。
  • フランスの1995年の報告書でセクト指定されている団体とその関連。

改訂について

一度は信頼が置けると判断した団体が、主催者が変わった途端に豹変することもあるため、数年に一度は全面改訂する必要があります。言うまでもなく、権威主義に陥り、賄賂を貰って掲載するなどという暴挙に出てはなりません。万が一、高く評価していた教師や団体が、社会的な問題を引き起こした場合には、心ならずも片棒を担いでしまったことを謝罪し、責任を取るのが当然です。(それだけ審査を慎重に行わなければならないということです。)

協賛者募集

ご報告:募集は締め切りました。

ジャン・クライン『われ在り』

二十世紀フランスが生んだ二大霊的指導者の一人、ジャン・クライン(1912-1998)。(ちなみにもう一人はアルノー・デジャルダン。)妻子のある医師であり音楽家でもあったが、思うところがあり1950年代に一人インドを旅し、奇跡的な経緯で伝統的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)と、カシミール地方に古代から連綿と伝わるシヴァ派(ヒンドゥー教の宗派の一つ)のヨーガを会得した。帰国後は広く欧米にその教えをもたらし、パリ五月革命に代表される価値観の転換に寄与したとも言え、後継者としてフランシス・ルシールエリック・バレを残した。現代のネオ・アドヴァイタの中には、シンプルに表現され過ぎていて、インド哲学の知識がない限り的外れな理解が生まれる可能性のあるもの、あるいは、西洋哲学の枠組みの中で再解釈され、意味が歪曲されているように思われるものなど、要するに傍流に変化しているように見えるものもあるが、この本はもともとのエッセンスを見事に抽出していると言って差し支えないだろう。インド哲学をある程度知っている欧米人に向けて語られているが、難しい専門用語やキリスト教との比較に頼らないため、私たち日本人にも分かり易い。ときおり曖昧な表現が使われているからといって何となくフィーリングで読むのではなく、まずは書かれている内容を論理的にきちんと理解するように努力し、そのあとで指し示されているそれそのものを予感するようにするとよい。

(まだ日本語に翻訳されていないが、ギリシャで行われた講演の記録である Open to the Unknown もよい。)

中村天風の心身統一法

『幸福なる人生』

現在、目の前に立って教えを授けている人間に対しても、自分の心の中でもって、壁をつくっちまうからいけないんだ。私とあなた方と大した差はありゃしないぜ。ただ、ここに立っているか、そっちに座っているかだけなの。

天風会(初期の名称は統一哲医学会)は1919年に成立しているが、本書に収められている講演はすべて戦後のもので、中村天風(1876-1968)が命を賭けて作り上げた「心身統一法」の基本原理が読みやすくまとめられている。人間は誰でも、「病」「煩悶」「貧乏」と自ら縁を切り、幸せになる力を与えられていると言う。ただし、ただ期待して待っているだけでは誰も物にはならない。「観念要素の更改」「積極精神の養成」「神経反射の調節」と言い方はやや古めかしいが、極めて具体的な方法論があり、各方面に実際に物になった人を多数輩出して来た事実こそが、これらの方法に妥当性があることを証明している。敢えて分類するとすれば、伝統的なラージャ・ヨーガから形式的な部分を取り除き、日本人向けに組み立て直した内容と言えるだろう。しかもそれで完成としないで、医学的発見を取り入れつつさらに前進しようとしていた点は特筆に値する。心身統一法は、これからの日本のスピリチュアリティの叩き台であると言いたい。


『真人生の探究』

これを分り易く要約すれば、霊性の満足を目標とする創造の生活とは、常に「人の世のためになることをする」ということを目標とする生活なのである。(中略)そしてこれをたやすく実現せしめるためには、出来る限り、人のため、世の中のためになることを言い且つ行うということを、自己人生のたのしみとするという気分になることである。

未だに精神世界では、自説を装飾するために都合の良い学説のみを援用するのが悪しき慣例になっているが、天風は医学・栄養学・哲学・心理学・心霊学など、一つだけ取っても極めるのが困難な学問をいくつも基礎から勉強している。「人間とは何か」「いかに生きるべきか」という根本問題への一つの答えとして総合的に組み立てられた「心身統一法」の基本原則が、百年も前に既に成立していたのには驚くほかない。天風が自ら著した数少ない著作の中で、最も基本と言われているのが本書である。天才の思考プロセスを是非味わってみて欲しい。


『盛大な人生』

どんな場合でも感謝にふりかえてごらん。すると、この心のもつ歓喜の力は、これはもう何とも形容のできない人生のエクスタシーを感じる事実となってあらわれてくる。また、それを求める必要もない。報いを求めちゃいけない。自分の生きてるあいだ、何ともいえない楽しさ、朗らかさ、おもしろさの絶えざる連続だというような生き方にしなきゃあ。それがとりもなおさず、人の生命と宇宙本体の生命との調子を合わせるダイヤルになるんだよ。

心身統一法の高度な段階として天風会員に贈られた講話をまとめた一冊。天風は禅門の人ではなかったが、禅で言うところの悟りに直入するためのいわゆるダイレクトパスをも説いていた。「安定打坐(あんじょうだざ)」と呼ばれる瞑想法がそれである。宇宙の進歩的方向に貢献しないなら意味がないと考え、悟り(有意実我の境)そのものを目的にしなかったところはいかにも天風会らしい。ならば、なぜ瞑想する必要があるのか。それは、純一無雑な意識の大元に立ち返り、心を休ませてあげることで、命の本然の力が湧き出るためだと言う。ここまで噛んで含めて説明してくれる指導書は、私が知る限りでは他にない。


『力の結晶』

吾は今 力と勇気と信念とをもって甦えり、新しき元気をもって、正しい人間としての本領の発揮と、その本分の実践に向わんとするのである。

吾はまた 吾が日々の仕事に、溢るる熱誠をもって赴く。

吾はまた 欣びと感謝に満たされて進み行かん。

一切の希望 一切の目的は、厳粛に正しいものをもって標準として定めよう。

そして 恒に明るく朗かに統一道を実践し、ひたむきに 人の世のために役だつ自己を完成することに 努力しよう。

誦句とは、天風の霊性心から出て来た言葉をそのまま書き留めたもの。意味も分からず呪文のように繰り返し唱えていればいい事が起こるということではなく、言葉が示している中身を確実に自分のものにすることが本来の意図である。まさに天風哲学の結晶と言えるものであるので、心して受け取るべきであろう。本書は、それぞれの誦句に込められた真意を、天風本人が説き明かして行く構成になっている。

森本貴義、近藤拓人『新しい呼吸の教科書』

心身の悩みやトラブルがきっかけとなり精神世界に入門する人の数は多いに違いない。だが、瞑想だとか潜在意識を変えるとか、やたらと(心の操作ですべてを解決できるという)精神論を強調する教えに従って努力したものの、これといった成果を出せないまま何十年も苦しい思いをしている人もありはしないだろうか。それはスポーツの世界で、かつての(服従と忍耐を強要する)根性論が今ではあまり正しくないとされているのと似て、手段がきちんと目的に結び付いていないからという可能性も考え得る。まずは呼吸を改善してみるのはどうだろうか。ストレスの多い現代人は、多くの場合呼吸が乱れているらしい。誰でも最初は(自然な)正しい呼吸をしているが、それを取り戻す必要があるということである。本書は、細胞に届けられる酸素の量を増やすことによって心身の状態を改善できるという事実を、最新の知見を交えて教えてくれる。楽な呼吸をするための姿勢や筋肉を取り戻すエクササイズも紹介されており、基本的に実践中心の内容である。インストラクションをよく読む必要があるが、写真入りなのでイメージはしやすい。ほとんど誰にでもできる基本的な方法から始めて、かなりスポーツをしている人にとってもやり甲斐のあるレベルにまで進んで行く。

バーバラ・マーシニアック『プレアデス+ 地球をひらく鍵』

プレアデス星団の反逆者集団が、チャネラーであるバーバラ・マーシニアック(1948-)を通じてメッセージを伝えるという、常識からすればいわゆるトンデモ本の類いではある。彼らによれば、自分たちの祖先が過去に人類に対して行ったDNA操作の結果、生命の本質が冒涜され、最終的に人間がサイボーグ化された未来の時間軸が存在しているのだと言う。地球はあらゆる生物の設計図のようなものが貯蔵されている12ある図書館のうちの一つで、人間はその情報にアクセスするためのIDカードのようなものであり、それゆえ重要であると言うが、それが具体的に何を意味するのか詳細は語られていない。プレアデス人自身をも含めて、外部からのメッセージを簡単に信用してはいけないとする。なぜなら必要な情報は既に人体に記録されているからとし、それゆえ私たちが自身の中にある情報にアクセスする方法はしっかり語られている。問題は「地球を所有していると思っている」アヌンナキなる高次元の存在たちとゲームをプレイすることによって、私たちが心の内部を覗き込み、すべての本質が愛であることを見破れるかどうかであり、図書館を開く鍵は、地球を我が家として大切に思う気持ちであると言う。古代史からセクシュアリティに至るまで話題は多岐に及び、内容の質は他の追随を許さない。変なことを言うようだが、まずは完全なフィクションとして読むのがいいと思う。それでも、普段のものの考え方にいかに想像力が足りていないかを痛感させられるだろう。歴史学や考古学をやる人には特におすすめ。

ハズラト・イナーヤト・ハーン『音の神秘』

音楽は神への最短かつ最も直接的な道です。しかし人は、音楽とはいかなるものであり、それをどう用いればよいのかを知らなければなりません。

ヴァドーダラー(インド)出身でイスラム神秘主義(スーフィズム)の大家であるハズラト・イナーヤト・ハーン(1882-1927)の著作集の中で、一番有名な第二巻を全訳したもの。主要テーマは音楽であるが、音楽家のために書かれたわけではなく、一般の人をスーフィズムの世界に招待するといった内容である。著者は主要な宗教すべて(特にヒンドゥー教)に精通しており、これから神秘の道に入って行く人に盤石な基礎を与えてくれる(逆に、イスラム教の歴史や哲学を知りたい人には向いていないと言える)。すべては一つのものから発せられる音色、高さ、長さ、強さ、リズムといった特徴を備えた音(波動)であり、五大元素(地、水、火、空気、エーテル)によって表現され、内的な感覚によって聴かれる現象であると説く。そこから規則正しいリズムの効果や、音と音との協調関係(ハーモニー)という考えが導かれる。文章そのものに調和が取れており美しく、かつ経験に裏打ちされていることが感じられ、大師が(何を意味するのであれ)確かに「完成」の域に到達していたことを窺わせる。一見すると、具体的なメソッドは何も書かれていないようであるが、大師の言葉もまた音楽であり、それを本当に「聴く」努力をし、スーフィーたちの気息に同調するつもりで読んでみると、実はいろいろ方法が指し示されていることが理解される。感受性が磨かれれば、その分だけさらに多くの実りを得られる読書体験になるだろう。

アーノルド・ミンデル『自分さがしの瞑想』

西洋と東洋をどちらもよく理解している人はあまりいない。たまにいても評価されない。正しく評価できる人がいないからである。アーノルド・ミンデル博士(1940-)の提唱するプロセス指向心理学が、しかるべき評価を受けているとは言い難い理由は、そんなところかも知れない。「動いているスピリット」とも言うべき「プロセス」を信頼することが鍵になるが、このプロセス自体を科学的に定義することがまず困難ではないかと思う。私たちの現在の人格である「一次プロセス」は、未来からのメッセージである「二次プロセス」に常に脅かされているが、多元的な意識の構造とか、プロセス自体が私たちをどこに導こうとしているのかといった難問に、容易に答えは与えられない。そうした基礎理論上の性格はあるものの、この本で明らかにされる瞑想法は、(静座して心の動きを観察するといった)基本をかじったことさえあれば、誰でも十分に理解し実践することができるものである。逆に、瞑想中に(繰り返し)浮上する雑念や妄想を無視することなく、メッセージとして受け取るべし(瞑想したい私が一次プロセスで、入って来る邪魔が二次プロセスで、両者間の葛藤を眺めているのがプロセス自体と言える)と書いてあるので、仏教やヒンドゥー教の瞑想を極めた上級者にはおすすめしづらい。しかし、ここからスタートする恵まれた初心者だけでなく、すでに瞑想に親しんでいる人も、道しるべになり得るヒントを本書の中にたくさん発見できるはずである。

※本書だけではプロセスワークの瞑想法が具体的にイメージできない場合、同著者の『うしろ向きに馬に乗る』(春秋社、1999年)を副読本にするとよい。

アレクサンドル・ジョリアン『人間という仕事』

哲学はたしかに、苦痛が最後の言葉とはならず、苦痛から生の蔑視が生み出されないために、複数の地平線を開くことを可能にしてくれます。

多くの人にとっては当たり前のことが当たり前でない人にとっては、ものごとはまったく違って見える、ということは忘れられがちな事実である。スイス生まれのアレクサンドル・ジョリアン(1975-)は、脳性運動機能障害というハンデを負いながら、ヨーロッパの伝統的な教育課程において哲学の学士号を取得した正統派である。ヨーロッパの一般的な若者の間では、哲学とは基本的に生活とは無関係であり、上流階級や中高年層が余暇に楽しむものと考えられているらしい。しかし意外と言うべきか、著者にとっての哲学はあくまで実際的な学問なのである。常日頃苦痛を伴うリハビリをすることを余儀なくされ、リハビリを諦めるという選択は半ば自殺と同じ意味を持つという条件の中で、彼にとって生きることは(家族の協力なしでは成り立たない)継続中の闘いであり、自閉し孤立したくなる誘惑に抗って人間に「なる」とは、常に前進し心を高めることである。当然、共感し喜びを見つけることが一番大事な仕事であり、プラトンやスピノザやニーチェは、そのために前に進むことを可能にしてくれる武器や道具を提供してくれる先人である。本書以降の著者は三児の父親になり、西洋哲学の範疇を出て(スワミ・プラジニャーンパッドによる)不二一元論や禅にも出会い、ますます思索を深めている模様である。今現在フランス語圏における気鋭の思想家と言ってよいだろう。

マヘンドラ・グプタ『大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉』

熱心に、真心こめて神に祈りなさい。そうすれば、あの御方は必ずききとどけて下さる。

十九世紀インドの聖人、ラーマクリシュナ(1836-1886)の言行録である。その教えの内容は、ヨーガの四区分(ラージャ、カルマ、バクティ、ジニャーナ)で言えば、バクティ・ヨーガに分類されると思われる。バラモン階級の生まれでありながら、イスラム教にもキリスト教にも自ら入信し、どの道も同じ目的地に到達すると喝破した、目の覚めるような先覚者であった。愛弟子のヴィヴェーカーナンダが、ヨーガ哲学の真髄を初めて欧米に伝えた事実も有名である。「熱心に求めさえすれば、誰でも神を見られる」と、ラーマクリシュナはいとも簡単そうに言う。ほとんどの人は五官の歓びを幻であると観じて捨て去ることができない。しかしラーマクリシュナは、「俗世に染まってしまえば神を見ることはできない」どころか「世間で暮らしていても神を見ることは可能」だとする。一般人に向かって「世を捨てて修行せよ」とか「この世には何の意味も価値もない」などとはまったく言っていない。絶対不動の実在(神)と、多種多様な現象世界の働き(俗世)は、天秤の重さの同じ二つの皿であり、必要なのは(神を恋い慕う)ひたむきな気持ちだけだ言うのである。ラーマクリシュナには、難しい概念を子供でも理解できる譬え話で表現する才能があり、大人は非常に理解し易い。とはいえ、聖人の言葉を無分別に取り入れるのは望ましくない—神にすがれと言うが、実際には人の情けにすがって生きていただけではないか? 聖人ならばどうして病死したのか? 精神文化はともかくとして、インド社会に具体的にどんな貢献をしたのか? もっともな批評である。だが結論を下す前に、まずは本書を一読して欲しい。あらゆる意味で、すべての宗教の本質がここに要約されている。

※上記の文庫版はベンガル語原典からの抄訳である。全五巻の完訳はラーマクリシュナ研究会による編集を経てブイツーソリューションから刊行されている。

ベッセル・ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する』

高等教育では、心理学は基礎から始めて臨床に進むという順番になっている。だが、心理学に興味を持った一般人は、長い時間をかけて基礎から積み上げるのではなく、心理学が実際どのように役に立つのかを一番先に知る必要がある。そこで手引き書を探すわけだが、あまりに選択肢が多く、なかなか困難である。精神病理学は荷が重すぎるし、かと言って、科学的な根拠が明確でないカジュアルな流行本も好ましくはない。一般人にとって心理学はやはり臨床が肝であり、具体的にどんな可能性があるのかを分かりやすく教えてくれる本が必要であろう。PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されるかどうかは別として、人は誰でも、大なり小なりトラウマを抱えて生きているものである。この本のテーマはトラウマであり、それゆえ絵空事のような学問としてではなく、自分自身や身近にいる人に引きつけて理解することができる。専門知識がない読者を想定して説明してくれるので、視床、扁桃体、前頭葉、ミラーニューロン、エピジェネティクス、脱感作といった用語を初めて聞く場合でも有用な知識を得ることができる。多くの臨床例が取り上げられるが、当然気楽に読める内容ではない。臨床心理学に進もうかどうか漠然と考えている若い人にとっては、この本を読むことが、自分に向いているか否かを判断するための格好の試金石にもなる。セルフヘルプ本ではないので、読者が自分で実践する目的には書かれておらず、あくまで臨床家の存在を前提にしているが、トラウマの治療法としては、断片化した感覚や感情を認識し、解離した経験を統合するトップダウン型の方法と、リズミカルな動きやツボのタッピングといった経路で、脳幹の警報システムを解除するボトムアップ型の方法とがあり、両方を併用することで一層効果が上がるという。もちろん投薬治療の可能性も否定されてはいない。幼少期の虐待やネグレクトが人生を大きく狂わせ、ひいては多くの社会問題の根本要因になっているという研究が示され、支援のための仕組み作りを著者は訴えている。

ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』

プラグマティズムで知られるアメリカの心理学者、ウィリアム・ジェームズ(1842-1910)の主著の一つであり、1901年と1902年に分けてエディンバラ大学で行なった講義をまとめたものである。「スピリチュアルな価値」などというものはない、あるいは分からないという前提から始めて、当然否定的な結論に至るのが、普通の科学者というものかも知れない。心霊現象を研究したことでも知られるジェームズであるから、本書でも霊的価値というものに肯定的な立場をとっている。まずテーマを「個人的宗教」、すなわち組織宗教の枠組みの中ではなく、個人が経験し得たことの中で、強烈な宗教性を放っているとしか表現しようのない事例のみに限定している。アフマド・ガザーリー、ハインリヒ・ゾイゼ、イグナチオ・デ・ロヨラ、アビラの聖テレサ、十字架の聖ヨハネ、ヤーコプ・ベーメ、ジョージ・フォックス、ホイットマン、トルストイなど、有名無名の事例が多数取り上げられ、この分野でどんな一次資料があるのかを把握することができる。「神の顕現」としか呼べないような神秘体験をしたことがある人は、そのような一般人の実例も紹介されているので、勇気づけられることになろう。宗教的経験を、生まれつき世界の善性を楽観的に信じる「一度生まれ型」と、極度の鬱や絶望の後にすべてが反転するという、死と再生の「二度生まれ型」の二つに分けた上で、二度生まれ型がより深い宗教性を持つと言う。ちょうどこの頃アメリカで花開きつつあった新思想運動(ニューソート・ムーブメント)さえも、一度生まれ型の宗教として好意的に取り上げている。また、当時は虚無主義と解釈されることの多かった仏教を、キリスト教と同等に評価している点にも感心させられる。とはいえ、神経過敏や強迫観念と聖者との関係、催眠や暗示への感受性と神秘体験の関係、自己侮蔑と犠牲的態度の関係といった、科学者としての精神病理学的な考察を加味することも怠らない。ジェームズの講義の進め方からは、二十世紀初頭で、既に学際的であったハーバード大学の校風を窺い知ることができる。欧米の一流大学への留学を目指す若い人は、このような多面的な議論ができるように、早い段階からトレーニングを積むとよいだろう。演繹的な抽象化を良しとしない、学者としての理想的態度を示してくれる本でもある。

(なお、哲学的興味が薄く、難解な本書を通読する自信がない人は、下巻の「神秘主義」の章のみを読めばそれで十分だと思う。)

夢窓疎石『夢中問答集』

仏教の入門書は数あれど、仏教の本質を捉えるのは難しいと思う。そもそも釈迦本人の説法の中には、当時のバラモン教やアージーヴィカ教の教義に反論する形で説いた相対的な教えが含まれているし、さまざまな哲学を取り込みながら発展して来たという歴史もある。苦諦(生きることは苦しみであるという考え)を根本とするのかと言えば、現世を完全否定するわけでもない。足利直義の質問に、臨済宗の高僧である夢窓疎石(1275-1351)が答えるという形式で書かれているこの本の内容を一言で要約すれば、坐禅とその工夫用心に猪突猛進すべし、ということになろうか。ただし、禅の入門書ではない(教外別伝)。三十一歳で印可を受けてから、悟りの伝達を求めて押し寄せる修行僧たちを避けるために各地を転々としつつ大悟徹底に努め、指導的立場に転じたのは五十歳を過ぎてからと伝えられるから、並大抵の心根ではないだろう。足利直義もまた頭の良い人で、一般人が疑問に思いそうなことを虱潰しに質問しているので、夢窓疎石の答えも包括的な内容になっている。直義の素朴な問い掛けに、「なるほど私も若い頃、同じように考えたことがあった」とその考えの妥当性を認めた上で、「しかし実は、こういうことだ」と続け、分かり易い実例を挙げる。仏法はこうなんだからとにかく信じなさい、とは決して言わないのである。本分の田地、離欲、理入と行入、魔境、菩提心などの重要な概念に、明快かつ徹底的な説明がなされ、レトリックによるごまかしがない。ニューエイジのようにも、ネオ・アドヴァイタのようにも読めてしまうところに、時代を超越する覚者の凄みを感じる。さらっと読むのではなく、よく考えながら読まなければ、仏教のエッセンスを汲むことは難しい。だが、努力するだけの価値はある。

アウグスティヌス『告白』

ローマ帝政期のタガステ(現アルジェリア)の生まれで、ヒッポ・レギウス(現チュニジア)の司教になったアウグスティヌス(354-430)が、自身の半生を告白するという内容である。神の前で告白すると同時に、人に読んでもらうためにも書いているという、二重の構造になっており、後の時代の「告白文学」とは若干性質を異にしている。若き日のアウグスティヌスは、(当時のアフリカ的気質を思えば奔放とまでは言えないものの)情熱的な青春、マニ教や星占いへの傾倒、親友との死別など、さまざまな経験を積んで行く。どうすれば立身出世できるだろうか、結婚はどうしたらよいのかといったことで、普通に思い悩みながらも、類い稀な知性に恵まれていたために、ミラノで今で言う国立大学教授のような要職に就くことに成功する。しかし、「真実」への渇きは尋常ではなかった。スピリチュアルな「探究者」が誰でも通り抜けるであろう典型が、そこには見出せる。彼は自分自身に問いかける。そこには、生きている限りいつかは問わざるを得なくなるすべての問い—自分はどこから来たのか、どう生きればよいのか、何のために生きるのか、神とは、そして悪とは何か—が含まれている。結局、生きているという事実と何の関わりもない哲学に、何の意味があろうか。それから、かの有名な目覚めが起こり・・・単に罰を恐れるがゆえに品行方正な人と、非行も含めて、ありとあらゆることをやり尽くした後に改心(キリスト教の文脈では回心)した人とでは、理解の深さが全然違うのは、いつの時代も共通なことかも知れない。アウグスティヌスが、神の光—それは比喩であって可視光線のことではないと彼は書いている—を、理知的な次元ではなく、「体験した」あるいは「見た」ことは確実である。今やさまざまな資料を比較検討することが可能な私たちは、それは例えば、禅で言うところの「一瞥」や「見性」と本質的に同じであったことを、容易に読み取ることさえできる。この本には、自らの魂と対話しながら読み進める(もともとの意図はこれである)のと、字面通りに受け取るのと、二通りの読み方がある。事実、カール大帝の時代には、アウグスティヌスの著作は「法律的」に解釈されたらしい。キリスト教の前提知識は必要ない(むしろない方がよい)ので、ぜひ心で読んで欲しい。この本を読めば立派な哲学者になれるとは思わない。しかし、西洋文化を本気で理解したいと思ったら、一番最初に精読すべきと言い得るほどの名著である。

苦痛

すべての生き物は時々苦しむし、最後は死んでしまいます。もしも始めに創造主がいたのなら、なぜ彼/彼女は生と死の仕組みを作ったのでしょう? 苦痛は何のためにあるのでしょうか? これは哲学的な疑問であると同時に、経験上の疑問でもありますね。

苦痛は生体に埋め込まれています。一番原始的な生き物として、微生物を例に取り上げてみましょう。微生物が生命を維持するためには、食べなくてはなりません。空腹は一種の苦痛ではありませんか? 私はそう思います。空腹は苦しくて、食べるのは気持ちいい、そうじゃありませんか? 空腹が微生物を運動に駆り立てて、食べる物を探させます。ですから、苦痛が運動を作り出すと言えるでしょう。もし苦痛が存在しなかったら、あらゆるものは停止するはずです。これが苦痛の根本的な理解だと思います。

さらに、私たち人間には、「退屈」というもっと微妙な形態の苦痛があります。私たちは退屈すると、何かを知ったり、感情的・知的な刺激を得ることに駆り立てられます。それで最終的に、私たちは緊張だらけの文明を作ってしまいました。

ほとんどの私たちは、苦痛が好きではないと言えると思います。誰も苦しみたくはありません。そこで何人かの科学者が、私たちの遺伝子から苦痛を除去することに着手するかも知れません。もしその試みが成功したら、次に何が起こるでしょうか? 私たちは死ぬほど退屈してしまうのかも知れません。

ある人たちは、この世には快楽と苦痛しか存在しないと考えています。悲しいですが現実的な発想ですね。人間社会では、快楽と苦痛の間を行ったり来たりする力学が、権力意識を生み出します。私たちは、興奮した時に力の感覚を感じるでしょう? 苦痛によって興奮を得る人たちがいます。薬物を使うことで興奮を得る人たちもいます。秘教的に言えば、これらはすべて下位の三つのチャクラに対応しています。私たちはある種みんな、動物的性質や生存本能を備えています。歴史的に見れば、私たちはとても長い間、主従関係というものに執着して来ました。

この哀れな世界観の中には、もちろん、愛の入り込む隙間はありません。無条件の愛に触れたことがなければ、快楽と苦痛以外のものが存在するように思えないのは当たり前のことです。神聖なものという概念は、愛を知らない人たちにとっては大嘘でしかありません。そういう人たちを非難するつもりはありません。愛は言葉では説明できないのですから、難しい状況なわけです。

ごく自然な成り行きですが、愛の欠如は、不毛さ、心理的な葛藤、抑うつという結末に至ります。私たちは絶望的なのでしょうか? そうとも言えるし、そうではないとも言えます。ある人たちには馬鹿馬鹿しく聞こえるでしょうが、慈善の気持ちがとても大事だと思います。見せかけを越えて与えるという行為が、私たちの本当の性質である愛に再び結び付けてくれます。慈善は段階的なプロセスです。家族や人間関係を通して、与えたり受け取ったりする練習を積むことができます。ごくシンプルで当たり前のことですね?

Pain

How are you doing, my friends? This time, I’m going to talk about pain. A heavy one, isn’t it?

Every creature seems to have pain from time to time and eventually dies. If the Creator existed in the first place, why did He or She create this mechanism of life and death? What purpose does pain serve? This is not only a philosophic question but also an empirical question.

Pain is ingrained in biology. As the most primitive form of biology, let’s take a microbe for example. A microbe has to eat to sustain its life. Hunger is a kind of pain, isn’t it? I suppose so. Hunger is painful and eating is pleasurable, right? Hunger motivates a microbe to move and find something to eat. So let’s say that pain creates movement. If pain doesn’t exist, everything will come to a halt. I think this is a fundamental understanding of pain.

Furthermore, as human beings, we have a subtler form of pain: boredom. When we are bored, we are motivated to know something, get emotional or intellectual stimulation. So eventually, we created highly charged civilizations.

We could say that most of us don’t like pain. We don’t like to suffer. So some scientists may look into eliminating pain from our DNA. If this attempt succeeded, what would happen next? We would get bored to death.

Some people think that there are only pleasure and pain in this world. An unhappy but realistic idea. The dynamic between pleasure and pain creates a sense of power in human society. We feel a sense of power when we get excited, right? In fact, some people get excited from pain. Some people use chemicals to get excited. Esoterically this is all about the first three chakras. We all have the animal nature or the survival instinct in a sense. Historically, we have been obsessed with the relation between master and servant for a very long time.

In this pitiful worldview, there’s no room for love, of course. Without any trace of unconditional love, we don’t think there is more than pleasure and pain, indeed. Concepts of the divine are bullshit for those who don’t know love. I don’t blame them. It is a difficult situation because love isn’t explainable in word.

Quite naturally, the lack of love leads to meaninglessness, psychological suffering and depression. Are we hopeless? Yes and no. This may sound ridiculous for some people, but I think that charity is very important. Beyond hypocrisy, the act of giving brings us back to our true nature that is love. Charity is a gradual process. We can practice giving and also receiving in families and relationships. So simple and obvious, yes?

OK, that’s all for today. Thank you for listening.

欲しいものは何ですか?

今回は、人生に何を望むかについて、お話ししてみようと思います。ここでもまた、哲学的疑問にするのはやめましょう。何か欲しいものってあるでしょ? それこそ、あなたが人生に望むものです。欲望は良いか悪いか、それは哲学的疑問です。でも、そこには触れません。

たくさんの人たちが、望みを引き寄せる方法について話しています。確かに、もしそれが可能なら、誰でも知りたいと思います。鍵は想像力にあるようです。想像力が物質的に欲しいものを届けてくれる、とみなさんに約束することはできません。でも、想像力がみなさんの中に特定の感覚を作り出してくれることは約束できます。何よりもまず、あなたが欲しいものが、それが何であれ、既に手に入ったところを想像してください。情熱を込めて想像し、強く感じて、それから、その感覚に付随するすべての条件を落としてください。これを何度も繰り返しやってみてください。すると、何の条件もないのに、その感覚そのものを楽に感じることができるようになるはずです。とってもシンプルでしょ? この方法は大いに役立つはずです。

たぶん、金持ちな人たちなら、物質的にもすべてを持てるでしょう。彼らは最高級の別荘に住み、最高級の食事をし、最高級の服を身につけ、最高級の男女を買い、最高級のドラッグで年中ハイになっていられますが、ほとんどの場合、それでも幸せを感じられません。彼らは満たされてはいるものの、不幸です。

欲しいものが手に入らないなら、満たされませんよね? でも、満足と幸せを混同しないようにしてください。満たされないのに幸せでいることは可能です。なぜなら、想像力の助けを借りれば、今ここで幸せを感じることができるからです。そういうものです! もしあなたが完全に満足しているなら、二度とベッドから起き上がることはなく、要するに、あなたは死んでいるということです。欲望とは、単純に人間の心の新陳代謝機能です。

私たちには選択があります。たとえば、私はこんな風に考えるかも知れません。「これまでに一度もデートしたことがない。でも恋人が欲しい。だから、私は不幸だ。」気をつけてください。これは一つの考え方であって、唯一無二の事実ではないでしょ? まったく反対に、こういう風にも言えます。「これまでに一度もデートしたことがない。だから、私は幸せだ。」まるで今の状況が、本当に欲しいものだったかのように言ってみるわけです。すると、今の状況のいいところが見えて来ます。たとえば、誰からも指図されなくて済むとか、自由だとか、自分だけのために、すべての時間とお金を使いたい放題だとか。発想の転換ですよね。ガールフレンドやボーイフレンドがいたことがなくても、もちろん、あなたは幸せでいられます。誰からも仕事を評価されなくても、もちろん、あなたは幸せでいられます。

諦めることを説いているわけじゃありません。もし恋人がたくさんいて、それでいろいろと問題があっても、なおまた、あなたは幸せでいられます。もしお金がたくさんあって、それでいろいろと問題があっても、なおまた、あなたは幸せでいられます。今の現状からスタートできるわけです。これは難しいことでしょうか? とんでもありません! これは馬鹿げた考えなんかじゃなくて、リラックスして、人生を楽しみ始める具体的な方法の一つです。実際、今すぐ幸せになりたいなら、これが最も簡単な方法かも知れません。ただし、身体の痛みがある場合は除きます。

幸せですか?

あなたは幸せですか? これを哲学的疑問にするのはやめましょう。幸せってどんな感じか、私たちはみんな知っているはずです。幸せは概念じゃなくて、感覚でしょう? もしあなたが不幸せなら、すべての哲学的探究は失敗でしかありません。それは分かり切ったことです。スピリチュアルな先生たちは、「私は探求を終えました」と言います。おそらく、真理を見つけたので、探すのをやめたという意味なのでしょう。実に形而上学的ですね。でも私としては、私たちが実際に幸せなとき、幸せを感じていると想像する必要がなくなったとき、私たちは幸せを探すのをやめる、と言っておきます。結局、精神世界では、あなたが本当に幸せかどうか以外に、大切なことは何もありません。

でも、どうすればいいのでしょう? この最初の回では、方法を三つ提示したいと思います。これらの方法が、私が今後お話しすることの基礎になります。

一つ目。朝起きて一番に、幸せでいることを決心します。こんな風に言ってください。「私は、何がどうであれ、幸せでいることを決心します。」自分で決心する、それだけです。とっても簡単でしょう?

二つ目。これは重要な方法で、何千年も前からあるものです。私は「熱を育てる方法」と呼んでいます。はじめに、自分が一番好きなことを思い浮かべてみてください。野球をするのでも、お菓子を食べるのでも、買い物に行くのでも、友達と話すのでも、恋人とデートするのでも、何でもいいんです。情熱を感じるでしょう? シャクティとかクンダリニーと呼ばれることもあります。私は単に、熱と呼んでいます。今ここで、この熱を見つけてください。心配いりませんよ、誰にでもできますからね。次に、この情熱、あなたの中に熱を感じさせてくれるあらゆる状況から、熱そのものを切り離して、あなたの中にある熱だけを感じてみてください。何か条件がなくても、熱そのものに集中することができますよね? そしたら、毎日、この熱がどんどん強まるようにしてください。あたかも、昨日よりも今日、熱がますます強くなっているかのようにです。それが「熱を育てる」の意味です。大丈夫ですね? もしその方が簡単なら、火の祭壇と炎を心の中に思い描いてみてください。必ずしも体の中にというわけではありませんが、とにかくあなたの中にです。この祭壇の「イメージ」を強くしてくださいということではありません。これはいわゆる「視覚化」の練習ではないんです。そうではなくて、あなたの「感覚」を育てるということです。

三つ目。これは補助的と言えるかも知れません。目を閉じて、何もない空間を想像してください。まるで、あなたさえも存在していないかのようです。一日に一回、だいたい30秒、長くても2分の間、茫然自失してください。

これらの方法は、幸せとは何の関係もないように見えるかも知れませんね。でも、私の見方からすれば、あるんです。

What Do You Want?

Hi guys. What’s up? This time, I’m going to talk about what we want in life. Again, let’s not make it a philosophic question. You desire something, right? That’s what you want in life. Whether desire is good or bad, that’s a philosophic question. But I don’t go there.

Many people talk about how to attract what we desire. Indeed, if it’s possible, we all want to know how. The key seems to be imagination. I don’t assure you that imagination brings you what you want materially. Instead, I can assure you that imagination creates specific feelings in you. First off, let’s imagine that you already have what you want, whatever it is. Imagine with passion, feel it, and then drop all the conditions around this feeling. Do this over and over again. Then you can feel the feeling itself without any conditions, at ease. Very simple, right? This method would help a lot.

Maybe rich people can have it all materially. They can live in the best villas in the world, they can eat the best foods in the world, they can wear the best clothes in the world, they can have the best prostitutes in the world, they can take the best drugs in the world and get high all the time, but in most cases, still they don’t feel happy. They are satisfied AND unhappy.

When you can’t get what you want, you are unsatisfied, right? But don’t confuse satisfaction with happiness. You can be unsatisfied AND happy, because it is possible to feel happy immediately with the help of imagination. That’s what it is! If you are completely satisfied, you won’t get out of bed, meaning you’re dead. Desire is simply a metabolic function of human mind.

We have a choice to make. For example, I would think like this: I haven’t dated anyone, but I want someone, so I’m unhappy. Careful, this is a thinking process, not THE fact, right? On the contrary, I can say, I am happy because I haven’t dated anyone, as if the current situations were what I really wanted. Then I can think of merits of the circumstance, such as that no one tells me what I should do, I am free, I can spend all the time and money only for myself, et cetera, et cetera. A quick turn of thinking mind. Even if you have never had a girlfriend or a boyfriend, yes, you can be happy anyways. Even if no one appreciates your work, yes, you can be happy anyways.

I don’t talk about renunciation here. If you have many lovers and problems with that, so be it, you can be happy anyways. If you have plenty of money and problems with that, so be it, you can be happy anyways. You can start with the status quo. Is this difficult? No way! This is not a crazy idea but a solid way to relax and start enjoying life. In fact, if you want to be happy right away, this would be the easiest way, except when you are in physical pain.

You don’t have to agree with me, but please reflect on this idea. All right? That’s it for now. Thank you for listening.

Are You Happy?

Hi guys, nice to see you. My name, you can’t pronounce it. Call me Menet if you will. I am Japanese. I’m not a native speaker of English, so please be generous in my errors. In fact, I don’t speak English. In this program, I write a script and then read it. I’m not a teacher, nor a scholar, nor a healer. I’m not married. I don’t have children. And I don’t work at all. I am nothing, in your view perhaps. So please don’t follow me, but just reflect on the contents of this program, so that they will nourish you. All right?

This program is concerned with happiness, your personal happiness. I don’t talk about impersonal awakening, and I never will. To be honest, I don’t understand anything about Non-duality teachings or creating reality teachings.

Are you happy? Let’s not make it a philosophic question here. We all know how happiness feels like, don’t we? Happiness is not a concept but a feeling, right? If you’re unhappy, all the philosophical pursuits are but a failure. We all know that. Spiritual teachers say they finished searching. They mean they ended the search for Truth, because they found it, probably. Very metaphysical indeed. But I would say, we will end the search for happiness when we are actually happy, when we no longer have to imagine feeling happy. After all, in spirituality nothing matters except whether of not you are truly happy.

But how de we get there? In this first episode, I propose three methods. These are the basis of what I will talk about in the future.

One. You decide to feel happy first thing in the morning. You say like this: “I decide to feel happy no matter what.” You make the decision, that’s all. Very simple, right?

Two. This is a fundamental method which dates back thousands of years. I call this method “nurturing heat”. First, think about what you love to do the most. Playing baseball, eating candies, going shopping, talking with your friends, dating with your partner, anything will do. You feel passionate, right? Some people call it Shakti or Kundalini. I simply call it heat. Please find this heat, right now. Don’t worry, everyone can do it. Second, separate all the situations that provoke this passion, the heat in you from the heat itself, and feel only the heat inside you. Without any conditions, you can concentrate on the heat itself, right? Third, make the heat growing and growing, everyday. Each day, it feels as if the heat were stronger than the day before, more and more. That’s what I mean by “nurturing heat”, OK? If it’s easier for you, picture in your mind a fire altar and a flame, not necessarily in your body, but inside. I don’t say intensify the image of this altar. This is not an exercise for the so-called visualization. I say nurture your feeling.

Three. This is rather supplementary. Close your eyes and imagine a space where nothing exists, as if even you didn’t exist. Be vacant or dumbfounded for about 30 seconds, 2 minutes at the most, once a day.

You would think these methods have nothing to do with happiness, but they sure do from my perspective. If you need a sort of textbook somewhat corresponding to this program, I would recommend The Teachings of Tempu by H. E. Davey, although I don’t intend to disseminate the Japanese culture. That’s it for now. Don’t hesitate to contact me by email! Thank you for listening.

あいのほしの基本方針

  • 若い世代が、これから世界中の人々のありとあらゆる思想や生き方に接するときに、それに惑わされず対応して行けるだけの、基本的な理解の枠組みを提供すること。
  • 一人一人が自己認識に辿り着くきっかけを提供すること。
  • 方法や結果ではなく、直の出会いを大事にすること。
  • これから教育または医療の仕事に就く利用者にインスピレーションを与えること。
  • 心の繋がりを通じて、教育関係者のネットワークを作ること。
  • 利用者のプライバシーを保護し、オンラインで私的なデータを保存しないこと。
  • 利用者のコミュニティで性的な関係を求めないこと。
  • ありとあらゆる思想に対して中立を保ち、教える立場に立たないこと。
  • 自分の意見に過ぎないことを、真実であると勝手に裁断しないこと。
  • みだりに過去の霊的な伝統や高名な先生方の教えに言及しないこと。
  • どうにでも解釈できる曖昧で非論理的な表現で、何か特別なことを知っているかのように語ったり、いかにも神秘的に聞こえる体験をでっち上げたりして、自己演出したり、ウソをついたりしないこと。
  • 売名のために著名人やマスメディアを利用しようとしないこと。

大人のための教養講座

スピリチュアルな教育について、気をつけたいこと
トラウマの再体験
再構成家族
日本語
事勿れ主義
本当に欲しいもの
男らしさ、女らしさ
人間関係
真剣さ
信念体系に取り組む
言葉とシンボル
自分を信じる

ニューエイジ入門

※フィクションですので本気にしないでください。


あなたがまだ小さな子供だった頃・・・世界は驚きに満ちていました。

両親や、その代わりをしてくれる人たちや、面倒を看てくれる大人たちに、ものごとや世界の仕組みを尋ねてみては、その不思議さにわくわくします。

自分にはいろいろな可能性があり、何にでもなれると思います。

でも、ふとした瞬間に、両親や周りの大人たちが不安そうな表情をしたり、泣いたり、他の誰かを非難したり、争ったりするのに気づきます。

あなたはとてもこわくなります。

あまり楽しそうには見えません。

大人たちはみんな、我を忘れて自分の役割を真剣に演じているのに気づきます。

世界のことをもっと教えてもらうにつれ、ますますこの世界が大きくて複雑なゲームであることを実感します。

大人たちの真剣さが肌で伝わって来るのです。

なりたいものになるのはそんなに簡単じゃないのかも知れない、とあなたは思い始めます。

大人たちのゲームに参加するには、難しいルールをたくさん憶えなければいけないのだと分かります。

あなたはいつか大人になりたいと思っているので、大人のルールを勉強することに決めます。

そしていつの間にか、自分のことや、一番大切なこと—愛の真実—を忘れて、大人になり・・・今に至ります。


「自我の目覚め」とは、子供が大人のルールを憶え始めることを意味します。子供は自発的にものごとの仕組みを理解しようとし、早く大人になりたがったりしますが、社会のルールはある程度大人に強制されて憶えるものでもあります。「自我」や「性格」は、この世界のルールに適応して生きて行くために、言葉を憶え始めるあたりから、脳が発達する過程で作り出されるものです。言うなれば、その場しのぎのインターフェイスなのです。ところが、私たちは後から作り出された自我や性格の方を、いつからか自分自身だと思い込んで、本来の自分—魂—を忘れてしまいます。本来自分が持っている愛を、外の世界、すなわち他人の中に見つけようとし始めます。恋愛関係の中に永遠の愛を見つけようとしてもあまりうまく行きません・・・そうではないでしょうか? 一時は手に入れた!と思っても、いつの間にか失っているという具合です。大人になって心無い決断や行動をすることを「魂を売る」と言ったりしますが、本当に魂を売ることはできません。私たちはどんな時も魂を持っているということを忘れているだけです。

あなたは、この世界は壮大なゲームのようなもので、誰もが自分の役割を演じるのだということにうすうす勘づいていたはずです。でも、ゲームのルールそのものを疑っても良いということは誰も教えてくれませんでした。だからあなたはルールに従うことにしたのです。そうでしたね? 実際は、ルールは変更可能です。変えられないルールなど一つもありません。多くの私たちは、この世界の既成事実にあまりにも馴染み過ぎていて、それを絶対的な真実として受け入れています。そのことについては、なるべく考えないようにしています。ルールに従わない人は、この世界では、罰を受けます。この世界を変えようと苦闘する活動家もいます。ゲームのプレイヤーでありながら、内部の何かを変えようと試みると、ルールを破って無理矢理進まなくてはいけない場面があったりして、非常な混乱や抵抗が起きます。それはとても困難な方法です。ルールを変える方が、むしろ簡単なのです。ルールを変えて、エネルギーの効率性が上がれば、ものごとはとても速く動き出します。私はルールを変えて人生を設計し直す方法について具体的にお話しします。それは自らの内に深く降りてゆくことについてです。ルールはまず個人の中で変えなければいけません。それから、おそらくは世界人口の一パーセントくらいの人がルールを変えることを選択するとしたら、世界の枠組みに影響を及ぼし始めることができると思います。すべては個人の選択によります。今は、ものすごい数のみなさんが霊的な知識を求めている時代です。ですから人類をより善いステージへと押し上げるチャンスです。人生を自らの意志で設計し直すための知識は、まず自分が体験してマスターする必要があり、それから人から人へ、親から子へと大切に伝えられるべきものです。ですから世界を進路変更するにはとても時間が掛かるものだということです。


現在起きつつある意識のパラダイムシフトは、科学の世界でニュートン物理学から量子物理学へとシフトしつつあることと直接関係があります。ニュートン物理学のモデルでは、まず意識と物質を切り離します。計測可能であり、実験によって再現可能な現象だけを、現実として受け入れます。異なる力と力の関係が最も重要であり、科学的探究は人間の外側へ、外側へと向かって行くのです。ところで、量子物理学では、意識と物質が一つに結び付きます。「観察者効果 (observer effect) 」と言って、観察者の意識が実験の結果に影響を及ぼすことが認められています。量子物理学のモデルでは、不確実なエネルギーについての理解があり、現実はそれほど固定したものではなくなります。原子のもとになる素粒子などより小さなもの、人間の内側へ内側へと向かって行きます。意識が物質に影響を及ぼすということについて少し考えてみると、それが科学にとっていかに大きな衝撃であるか分かると思います。そしてこの科学界の認識の変化こそが、私たちの生き方に決定的な転換をもたらす文化的背景なのです。

これまで、大部分の私たちの意識は自分の外側にある世界へと向けられて来ました。外へ外へと探求して行く傾向があったのです。これを「今までの生き方」と呼んでみましょう。今までの生き方は、ニュートン的です。今までの生き方では、直線的な時間をもとに人生を設計します。目標を設定して、それをうまく達成するために計画を立てます。人生は勝負であり、自由競争を勝ち抜いて幸せを手にするには、目標に向かって一歩一歩、勤勉に努力しなければいけません。苦難や抵抗に遭ったなら、力ずくで道を切り開きます。道を譲ってしまったら、他の誰かが自分の替わりにその道を行くだけのことです。力と力の駆け引きを憶えるかも知れません。人生の評価基準は、目に見えるものや金額や点数など、自分の外側にあって計測可能な基準を使います。人生は足し算のように、たくさん持っていたり、点数が高ければ高いほど幸せだと考えます。あなたは人生のどこかの時点で、こういう生き方に疑問を抱いたはずです。もしそうじゃなかったら、この本を読んだりしないでしょうから。なぜなら、この生き方では、成功できる人の数は限られていて、席の争奪戦になり、しかも往々にして、自分の目標に向かって突き進んでいく過程で他人を不幸に陥れることに、おそらくあなたは気が付いたことでしょう。今までの生き方では、幸せの基盤を限られた地球資源の上に置いている以上、みんなが幸せになることが不可能なのです。自分の外側にある現実世界を思い通りに操作しようとしたら、並外れた知性や力が要求されます。それはとても疲れる作業です。あなたは疲れ果てたり、退屈したかも知れません。そんな時に、いわゆる霊的な知識との衝撃的な出会いを経験したはずです。それが精神世界の本であったか、スピリチュアルなセミナーであったか、あるいは宗教であったか、みなさんそれぞれ違うでしょうが、とにかく、「私が知りたかったのはこれだ!」とか「なぜだか分からないけど、私にはこれが真実だと分かる!」という体験をしたはずです。それはまさに新しい世界へ第一歩を踏み出した、決して忘れることのできない瞬間でした。あなたをその瞬間に連れ出したのは、何を隠そうあなたの人生経験でした。たぶん人には分からないような苦労があったはずです。中でも、あなたを一番悩ませた問題が、他でもないあなたの家族だったのではないでしょうか。多くのみなさんにそういう傾向があります。経験があるからこそ、あなたは霊的な知識に含まれる真実を感じ取ることができるのです。もしあなたがまだ第一歩を踏み出していないなら、この話を単なる冗談だと思うだけでしょう。霊的な知識と初めて出会うことによって、必然的に意識の大きな飛躍 (quantum leap) が起こります。すると人生観が変わり、それまでに人生の目標として定めていたものがあなたの中で価値を見失って、何の情熱もない時期が訪れます。情熱のない時期は、私の印象では、あなたが新しい真実に基づいて「人生を設計し直す」まで続くようです。


さていろいろな本やホームページで語られている目新しい情報があります。あなたもそのうちのいくつかを既に知っているでしょう。これらの情報は、「新しいエネルギー (the New Energy) 」と呼ばれる現象と密接な関係がありますが、時間という観点から見ると、別に新しくはありません。それは古代から連綿と伝えられて来ている生き方でもあるからです。区別するために、それを「今からの生き方」と呼ぶことにしましょう。今からの生き方は、量子的です。意識と物質がお互いに影響を与え合うという事実を認めることによって、あらゆる現実の解釈を再構成します。詰まるところ意識が現実を創造するということです。

信念が現実を構築する礎材である。

もう何度も耳にした言葉ではないでしょうか。これが最も基本的な理解です。例えばあなたが子供の頃に、「男は家族を養うために黙って働くものだ」と聞かされたとしましょう。あなたがそれをルールとして受け入れたとしたら、いつの間にか、大人になり、仕事を見つけ、結婚し、家族のために黙って働く自分を発見するでしょう。信念はそんな風に無意識的に作用します。あなたが幸せであれば何の問題もありません。でも、もしかしたらあなたは芸術家になりたかったのに、その道を選択する自由がなかったと感じているとしたらどうでしょう。自由な選択ができないというのは、常に問題なのです。「信念が現実を構築する礎材である」という考え方は、理論というよりむしろ実体験に基づいたものです。人生経験が少ない人は、これを理解することができません。どんなにうまく説明しても納得してもらえないでしょう。理解の基盤になるような体験がないのですから、仕方のないことです。みなさんは、良くも悪くも、人生は自分が信じた通りになっていることが見えると思います。自分の中にあるルールや限界を超えるような出来事は、望まない限り決して起きなかったはずです。あるいは、意識が現実を引き寄せるのを日常的に体験しているかも知れません。頭に思い浮かべていた人に、奇跡的なタイミングでばったり会うというような体験が、一度ならず何度も起こるなど。いわゆるシンクロニシティですね。直線的な時間の観念が崩れたかも知れません。

今までの生き方では、何かを創造するには、まず外へ出て何かを始める必要がありました。今からの生き方では、まったく違う方法で創造し始めます。

立ち止まって内側を見る。

多くのみなさんは、今までのやり方とあまりに違うので、最初は戸惑います。外へ出て、行動したくなります。今からの生き方は、自分の内側を見つめるために、一日中瞑想するとか、何も行動しないということを意味しません。そんな極端な生き方ではないのです。そうではなくて、自分の中にあって、魂の糧となるような真に満ち足りた人生を経験するのを妨げている障害物を、一つ一つ消し去ってゆくことによって、あなたのエネルギーに自由な動きを取り戻すということなのです。引き算のように、あなたの中で行き詰まり、役に立たなくなっている不毛なルールを取り除いてゆくことによって、エネルギーの効率性を上げます。すると、それまで絶対に必要だと思っていたものが必要なくなったりして、よりシンプルなライフスタイルが実現します。例えば、あなたは人から評価されるためには頑張らないといけないと信じているかも知れません。子供の頃に、両親に無条件に褒めてもらえなかったのが原因かも知れません。すると、あなたは努力家で、常に頑張ることを要求される職場で働いていたりします。敢えて自分に全然向いていない職種を選んでいたり、他人に任せておけば良いことを自分で片付けようとするかも知れません。チャレンジすることが大好きなら、何の問題もありません。でも、努力しないと不安になり、何度も何度も同じような行動パターンにはまり込んでいることに気づいているなら、信念を見直すべき時なのかも知れません。そもそもあなたが頑張ることで、誰が得をしているのでしょうか? 本当にあなたの成長に役立っていますか? あなたの古い信念は、よく検討した上で、変更することができます。そうした下準備のあとで行動を始めると、ものごとが俄然スムーズに進みます。昔経験しなければならなかったような苦闘をしなくても良くなります。

今からの生き方では、人生の評価基準を心の豊かさに置きます。もちろん経済的な豊かさも重要な基準の一つであることには変わりありませんが、多ければ多いほど幸せとは限りません。心の豊かさとは主観的な体験であり、数多くの要素と有機的に結び付いています。健康、経済、家族、愛情、環境、芸術、自己表現、社会の成熟・・・それは個人で完結する範囲を超越して、全体へと繋がってゆきます。

すべては繋がっている。

私たちは、自分の意識や行為が誰かに影響を与えることに気づいています。お互いに影響し合います。結局、自分一人の幸せなどというものは存在しません。ごちそうを一人で食べてもおいしくないのと同じですね。宇宙は全体で一つになる有機体です。個人の欲望を限りなく増幅して行った時に何が起こるでしょうか。それが今までの生き方であり、その結果が「持続不可能 (unsustainable) 」な世界です。今からの生き方では、人と協力し合うことを学びます。コミュニケーションが大切です。良いコミュニケーションには、力や、いかなる形の強制も存在できません。力で押すのではなく、輪を広げるのですね。誰もが幸せを求めているということを理解するのは重要です。今からの生き方を身に付けるためには、自分以外の人をもっと信頼するのに役に立つ機会は何でも利用する必要があります。家庭がコミュニケーションを学ぶ基本的な場所です。家族との関わりを通して、私たちはお互いを信頼することを学びます。

人生に目的はあるのでしょうか。私たちには生きる目的が必要です。今までの生き方の中にも、目的はもちろんありました。ほとんどの場合、それは個人的幸福に根差した具体的なもので、これを達成したら、その次、その次、という風に幾分直線的なプロセスでした。一つの目的に一生を捧げることも珍しくありませんでした。これは一つのドラマチックな劇の主人公を演じるのに似ています。自分の目的に適う人とだけ積極的に関わる傾向があるため、人間関係は閉鎖的です。一方、今からの生き方では、ものの見方を個人から全体の幸福へと拡大することそのものが目的になります。これまでの歴史では、人間は生来利己的であり、「最大多数の最大幸福」の実現は夢物語と考えられて来ました。

意識は常に拡大し続ける。

本当は、私たちの魂は成長し、意識は拡大するのが自然な姿です。インターネットの世界を覗いて見ると、利他的な活動を目指している人の数がとても多いことに勇気づけられます。今、人類は歴史の転換点を迎えています。文明が成熟し、利己主義を捨てて、これまで多くの人が求めてきた利他の精神へといよいよ集団でシフトする時が来た、ただそれだけのことです。ものの見方が多面的になるというのが意識の拡大の意味するところです。それは上演中の舞台で、主人公と同時に脇役も演じるようなものです。他の登場人物の感じ方や考え方が分かるようになって来ます。さらに、他の場所で他の人が演じている劇とも関わりが出て来ます。そのようにしてどんどん世界が拡がって行きます。人間関係は開放的で、変化が多くなります。意識が拡大するほど、私たちは寛容で優しくなり、利己心が原因で道を踏み外すことがなくなります。今からの生き方では、人生の全体図が見えるようになります。魂が成長すればするほど、人生の目的が明確になって来て、自分の意志をもっと反映したくなりますから、その度に人生を改めて設計し直す必要が出て来るというわけです。

宇宙には一つの流れがあります。すべてのものに共通して流れるエネルギーのようなものがあるのです。それが生命の本質であり、古来から神の恵みとか、宇宙意識とか、真如(しんにょ)とか、創造のインパルスとか、タオとかいろいろに呼ばれて来ていますが、同じものだと思います。私はそれをスピリットと呼んでいます。私たちは生きていますから、目には見えない何らかの力によって生かされていることを実感できますが、近代科学の世界では、そのような力の存在を前提に考えて来ませんでした。今ではスピリットの存在は散逸構造論として説明されています。

人は自ら癒される。

あなたが何もしなくても、秋になれば植物が実を付けます。あなたが黙っていても、夜が明けて朝が来ます。スピリットは善であり、人間の限られた知性ではとても理解することができないほど精妙に作用し、完全に信頼が置けるものです。悪は人間の心の中にだけ存在します。人間がスピリットを否定したり、信じられなくなると、自分の身を守るために何でもするようになり、悪が生じます。そういう意味では、悪は無知のなせる業と言えるのかも知れません。人間以外の自然の世界に悪が存在するかどうか観察してみてください。大きな流れに身を任せれば、私たちは必ず善い方向に進みます。ですから私はスピリットは善であると言っています。これも経験なくしては理解するのが難しい概念でしょう。一方、スピリットの流れに逆らって進むことも可能です。今までの生き方では、生命の本質についての知識を大人から教えられる機会がほとんどないため、人間社会に対する不信や抵抗が当たり前の現実になっています。自分自身さえも信じられなくなっています。それが不安や病気を作り出します。不信や抵抗がスピリットの流れをせき止めて、あらゆる困難な状況を生み出します。自分の内側を見て、自分自身や他者や社会への不信や抵抗を取り除くことさえできれば、エネルギーは自然に流れ出します。自分を癒すためには、宇宙を信頼すれば良いのです。今からの生き方では、私たちはエゴの小さなこだわりを捨てて、大きな流れを完全に信頼することを学びます。


さて今からの生き方は、霊的な修行の目的とされる「悟り」や「覚醒」とどんな関係があるのでしょうか? 悟りにはいろいろな定義がありますが、一般には自我による知覚の制限を超越して、真の実在に目を開くことを意味します。私の考えでは、人類の意識は全体としてまだ悟りを開く段階には達していません。と言うのも、人類が経験するべき素晴らしい時代はこれからやって来るからです。ある人が悟りに達するかどうかは、その人の自我が決めることではなく、その人の魂が決めます。魂が人間としての経験を積み重ねている段階では、悟りたいと思って霊的な修行をしたとしても悟ることは出来ません。例えば、魂の側では恋愛関係を経験しようとしているのに、自我の方が「いや、これはただの欲望だ」と勘違いして仏門に入ったりすると、かえって魂の成長を妨げてしまいます。悟りを得るタイミングはあなたの魂が決めます。魂がやりたいことをやり尽くした後に、その時は来るのです。いったん悟りを得たら、あなたの人間としての旅は終わり、新たに別の次元で意識を進化させるべく地球を離れることになります。いよいよ覚醒する準備が整ったら、あなたは人間として経験できるあらゆるものごとに一切執着しなくなるので、それと分かります。ですからその時までは、自らの魂と親密な対話を続けながら、意識を進化させるために生き続けるのです。そもそも誰もがそのために生まれて来ています。体験するためです! 今からの生き方を実践することで、あなたが自分をもっと良く知ることができるなら、あなたは意識の進化の道に乗っています。タイミングは人それぞれですが、いつかは悟りの境地へと辿り着きます。でも、この人生で覚醒する人もきっといるでしょう。


ここで「あいのほし」で使っている意識のモデルをご説明しましょう。私たちの意識の仕組みを理解することはとても役に立ちます。このモデルは、ある程度科学的根拠もありますが、大まかに理解できるように単純化してあります。このモデルは一つの考え方に過ぎないと思っていてください。

では図の下の部分にある大きな丸を見てください。そこには「魂あるいは無意識」と書いてあります。下で切れているのは、魂が比喩的に言ってものすごく大きいことを表しています。これがあなたの意識の本質であり、あらゆる記憶を保持しています。ちなみに、「あいのほし」では輪廻転生を前提にしていますが、生まれ変わりを胡散臭く感じるみなさんは信じなくても構いません。魂はあなたのすべての転生の記憶と、そこから得られた知恵を持っているため、とても賢い存在です。輪廻転生を信じないみなさんは、魂には自分の先祖の記憶が蓄えられていると考えて差し支えありません。あるいは、魂はユングの言う集合的無意識 (collective unconscious) であると考えても良いでしょう。いずれにせよ、突き詰めて行けば同じことです。魂の上部には「潜在意識」と書かれています。そこから細い道を通って上へ行くと、もう一つの小さな丸である「おしゃべりマシーン(自我)」に辿り着きます。おしゃべりマシーンとは、自我はおしゃべりが得意なので、冗談で付けた愛称です。脳波(頭に電極を取り付けて、電気変動を時系列で記録した波形)の状態で、おしゃべりマシーンにはβ(ベータ)波、細い道にはα(アルファ)波、魂の入口にはθ(シータ)波、魂にはδ(デルタ)波が、おおよそではありますけれど、それぞれ割り当てられています。

あなたが目覚めている時間帯では、あなたの意識の大部分を自我が占めています。自我は、始めのほうで触れた通り、社会のルールに適応して生きて行くために、脳が発達する過程で作られるあなたの性格のことです。自我の役割は、生身の人間として自分の安全を確保するために、肉体を維持管理する活動(食べる・飲む・清潔にする・運動するなど)、子孫を残すための生殖活動、身の危険を事前に察知すること、経済的に自立するために何をするべきかの価値判断といった、肉体の存続に関係することすべてです。自我は、もともとの性質から言って自己防衛的です。自我は、人間として生きて行く上で必要な機能ですが、精神性 (spirituality) とは何の関係もありません。実は、今までの生き方は、自我をベースにした生き方でした。生涯教育と言うように、自我はいろいろなものの見方を学んだり、経験を積んだりすることによって一生発達し続けますが、どこまで行っても「自分さえ良ければいい」のです。自分がある程度満足すれば、ではあなたもどうぞ、という風に他人に優しくなることもできます。でも、ご存じの通り、自我の現実の解釈には限界があって、窮地に立たされたり、いわれのない事件に巻き込まれたり、病気になったりしたときに、自分の内部に原因を見出すことができません。なぜって、自我はあなたの小さな一部分でしかないのですから、当然のことです。そこで、外の世界に解決策を見出そうとします。でも、自分が完全に納得する回答を見つけることはできないかも知れません。自我の視点から見ると、世界の紛争の解決策や、あらゆる病気の根本的な治療法を考え出すことは不可能に見えます。興味深いことに、世界で最も知性の発達した人たちが、いろいろ考えて研究して、最終的に辿り着く結論は、「理屈では説明できない何かが、確かに存在する」ということです。ですから、みなさんが今からの生き方を実践して行く動機となるのは、理屈では説明のつかない困難な問題に直面していたり、すでにそれを乗り越えて来たか、自我が高度に発達して、次の段階へ進む準備ができているかのどちらかだと思います。意外でしょうか? 魂の進化がある段階へ達した人だけが、今からの生き方を理解すると、みなさんは考えているでしょうか? あるいは、エゴが強い人は、今からの生き方を決して理解しないだろうと考えていますか? 最初から極めて進化した魂として生まれて来ている人は、私も含めて、みなさんの中にはいません。なぜなら、進化した魂は、啓発された両親の許に生まれて来るので、正すべき偏った考え方を持っておらず、こういう文章を読む必要性がないからです。彼らは人類の教師としてやって来ます。私が思うに、もし適切な教育を受けられるとしたら、人類の少なくとも半数以上が、今からの生き方をすんなりと受け入れる段階まで発達して来ています。意識には発達段階のパターンがあって、今からの生き方は、今までの生き方のちょっと上に存在しているだけなのです。大きな飛躍ではありますが、決して無理なことではありません。ではなぜ?と思うみなさんもいるかも知れません。確かに、自分勝手な理由で人類の意識の進化を妨害しようとする支配勢力があります。正しい情報を遮断することで、私たちが決して団結しないように、分離した状態に留めようと目論んでいます。私たちがお互いに助け合うことが進化への鍵です。

自我はとても賢いので、自分の限界に気づいてしまいます。「私はいつも自分の考えを持って来たし、それによって社会的に成功もした。でもなぜ私は、幸福ではないのだろう? 人生には考慮に入れなければならないもっと他のことがあるのだろうか?」「子供を産み育てることだけが、私の役割なのだろうか?」「まあいいだろう・・・どうすれば良いのか私には分からない。せいぜい人生楽しんで、長生きしよう。」自分自身を疑うなんて面白いと思いませんか? 私たちには、二つの意志があるのです。自我の意志と、魂の意志です。自我の意志は、局在的 (local) であり、常に肉体に結び付いています。魂の意志は、非局在的 (non-local) であり、この世に生まれて来た目的に結び付いています。子供の頃は、早く大人になってやりたいことをやろう!と思っていたのに、いざ大人になってみると、何をやりたかったのか忘れてしまうのですよね。生きていないとやりたいこともできないのですから、自我の意志によって、生活の基盤を固めるのは大事なことです。ではなぜ、自我は自分自身を疑う必要があるのでしょうか? 例えば、左耳からは「結婚したし、子供もできた。仕事もうまく行っている。世間的に見れば、ずいぶん幸せじゃないか。この幸運を、神に感謝しなければ」と聞こえて来て、右耳からは「やりたかったのはこれじゃない。小説を書きたいんだ」と聞こえて来るのを想像してみましょう。どちらが自我の声で、どちらが魂の声か分かりますか? ええそうです。自分の中で二つの意見が対立すると、精神的なストレスになります。これはとても良く起こることです。人によっては、うつ病になってしまいます。結局、魂の意志を実行しない限り、本物の喜びや、本当の達成感を味わうことはありません。お腹がいっぱいになると、とても幸せになりますが、しばらくするとまたお腹が減って来ます。それと同じで、自我の意志が成就すると、一時は幸福になりますが、長続きしません。常に深いところで「何かが違う」という感覚があるとすれば、あなたの自我が自分自身をごまかすことは決してできません。自分の中に二つの意見があって、満たされない何かを感じるとき、人によっては、魂の声を聞かないようにするために、より一層自我の欲望を追求し始めます。お金や、名誉や、恋愛を際限なく追い求めたりします。人によっては、自暴自棄になり、あらゆる種類の依存症を引き寄せます。人によっては、無気力になり、修行の道に入って、自分の選択を放棄します。でも、満たされません。みなさんは、そうではなくて、人生の本当の目的を見つけることに決めたのです。それは素晴らしい選択です。

肉体に関連しないあなたの意識が、潜在意識と無意識です。私は魂と呼んでいます。瞑想に熟達している人の脳波や、私たちが眠りに入る直前の脳波は、シータ波を示し、この状態で魂の入口と言える潜在意識になります。潜在意識の状態に留まるためには、多くの場合訓練が必要です。また、潜在意識から自我の意識に戻った時に、潜在意識での体験の記憶をほとんど思い出せません。自分が潜在意識にいる時には憶えているのですが、通常の自我の意識に戻って来たとたんに忘れてしまうのです。これは記憶が失われているのではなくて、自我と潜在意識の間に大きな隔たりがあるために起きることです。私たちが熟睡(ノンレム睡眠)している時は、無意識になっています。実は、無意識の状態では自我が完全に止まっており、意識が最も拡大しています。無意識で体験している現実は、自我の意識とはまったく異なる性質のものなので、自我は思い出すことができません。逆に、無意識は自我の体験を思い出すことができません。つまり、あなたが目覚めている時間帯は、三次元の世界に暮らしていますが、眠っている時間帯は、もっと壮大な世界に暮らしているということです。この二つの世界は、相互に関連しています。

あなたの魂は意志を持っています。あなたの物理的現実は、あなたの魂が肉体を使って見ている夢だ、と言ったら分かり易いでしょうか。魂は統合された一つの意識であり、明確な意図を持って、あなたの物理的現実を創造しています。私たちが生きているということは、すなわち目的を持って生きているということを意味します。魂は、少なくとも自我よりは遥かに賢い存在です。つまり、本当のあなたは賢いのです。「私には魂の意志はないみたいです。感じたことないもの」と思うみなさんもいるかも知れません。魂の意志があるというのは、あなたには天から与えられた特別な「使命」があるという意味ではありません。確かに特別な使命を持って生まれて来ている人もいますが、全員ではありません。魂は、成長するために個人的な経験を自ら選びます。人として生きることそのものが魂の糧となるので、際立った経験を何も選ばないこともあります。でも今の時期、大きくはないにせよ人類のために何か奉仕するものを持っている人が多いことも事実です。魂の意志はスピリットの働きでもありますから、限られた人間の知性を超えた観点から善の方向へ進みます。自分の魂が苦行を選ぶのではないかなどと心配しないでください。魂の意志の先には必ず、軽やかさと喜びがあるものです。魂の意志に従うかどうかは、常にあなたに選ぶ権利があります。これが自由意志と呼ばれるものです。「邪悪な目的を持つ魂もいるのではないでしょうか?」と質問するみなさんがいるかも知れません。はい、でもみなさんが想像するほど多くはないのです。他人が成長するのを妨害しようと意図する存在がいますが、みなさんはそういう魂と関わる必要はありません。そもそも、そういう妨害の試みはスピリットの働きに反しているのですから、結果的にうまく行くことはないのです。

もう一度図に戻りましょう。魂から矢印が出ていて、魂が現実を創造していることを示しています。それに対して、自我からの矢印は、自我が現実に反応していることを示しています。文字通り無意識のうちに、あなたはあらゆる現実を創造しています。何だか変でしょうか? 魂が物理的現実を創造して、自我はそれを肉体と感情を通して体験するのです。魂は人生の目的を最初から決めているので、それを一歩一歩、あたかも花弁を開くように機会として顕現させて行きます。あなたの魂が「まあいいや。目的は生まれてから決めることにしよう」と決めたと思っていますか? 自分探しのあてどもない旅に出る必要はありません。自我の側で準備が出来ると、人生の新たな局面が目の前に現れます。そういう風になっているのです。人生の目的は途中で変えることができるのでしょうか? いいえ、自我の意志で目的そのものを変更することはできません。それに、計画にはいろんな人がお互いに関わっているわけですから、気まぐれにコロコロ変えられると周りが迷惑してしまいます。それに、もともと大きい部分のあなた(魂)が自分で決めたことです。ですから自我の側から見た選択は、やるか・やらないかの二つしかありません。人間としてのあなた(自我)が、人生の目的とは全然違う方に進むことを選ぶことはできます。魂は自我の意志を最大限に尊重します。あなたの自我が望むならどんなことでも、魂はそれを体験できるようにサポートしてくれます。でも、自我の成長が完全に止まっている場合、せっかくの人生を無駄にしないために、魂が無理矢理ショッキングな出来事を引き寄せることはあります。何かを行動に移す必要があることを自我に知らせようとするのです。思い当たる節がある人もいることでしょう。今からの生き方とは、魂に添った生き方のことです。

自分の魂が悲惨な状況や辛い出来事を勝手に引き寄せるんじゃないかと不安になった人もいるでしょうか。確かに、魂が成長するためにどうしても避けられない場合、そういうこともあり得ます。でも、あなたはこの情報を読んでいるので、あなたには当て嵌まらないことが分かります。この手の情報を受け取ることができるなら、あなたは霊的に自立する段階へ到達しており、もはや無意識的に惨事を引き寄せることはないはずです。意識的に成長し続けることができるなら、極端な出来事を経験しないで済むのです。

図の細い道にあたる部分、ここはあなたがリラックスしている時に、意識がこの部分にあると考えてみてください。リラックスしていると、自分の自我としての意識と、それほど時間に束縛されていない潜在意識の、両方を意識することができます。ちょうど、ボーッとして好きな空想にふけっている状態に当たります。これから説明する方法では、このアルファ波の状態を活用します。意識が拡大するとは、おしゃべりマシーンが拡大したり、無意識が大きくなるのではなく、この細い道がだんだん太くなってゆく過程なのだと想像してみてください。自我は人間として生きるための限定された機能ですので、自我が一定以上に拡大することはできません。自我は、いろいろ知識を学ぶことができますが、自ずと限界があるので、結局は「自分はほとんど何も知らない」ということに気づくだけです。今の段階では、自我の意志と魂の意志はしばしば対立するかも知れませんが、あなたが成長し、意識が拡大した結果、この二つの意志は互いに矛盾することがなくなって、一つになります。最終的には、おしゃべりマシーンと魂は完全に協働するでしょう。

さてあなたは自我と魂の両方であり、自我と魂の相互作用により、無意識の領域から物理的現実を絶えず創り出していることをお話ししました。この全過程を可能にしている根源的エネルギーが、あなたのスピリットです。それはあらゆるものごとの背後に存在します。スピリットを、電気のような単なるエネルギーだと思わないでください。スピリットは、寛大に見守る父のエネルギーであり、無条件に愛し育む母のエネルギーであり、喩えるならば恋人同士の情熱と官能に一番近いと思います。とても甘美なエネルギーなのです。特定の意志はまったく持たないようでいて、「拡大し、すべてを一つに統合する」という方向性を持っています。スピリットは生命力です。スピリットは究極の愛です。スピリットは、あなたの所有物と言うより、あなたの本質そのものです。あなたは、肉体と自我を所有している魂とスピリットです。魂とスピリットより貴重な宝物は存在せず、あなたは既にその宝物を持っています。これは驚くべきことではないでしょうか? だとしたら、私たちは魂とスピリットの正しい使い方を習得すれば良いだけではないでしょうか。

このモデルにはありませんが、γ(ガンマ)波の超意識という状態もあります。超意識は覚醒した後の意識の状態と言われています。私には良く分かりませんので、興味のあるみなさんは調べてみてください。


さて意識のモデルについて長々とお話ししましたが、これから具体的な方法に入ります。私はこれからご紹介する、潜在意識にある制限的な信念を変えて、人生を設計し直す方法を「大人の特権」と名付けました。この方法は子供向けではないからです。あなたの自我が既に確立していて、感情的に安定している必要があります。

大人の特権には、二つのパートがあります。一つは、あなたの魂の意志を知る方法。もう一つは、潜在意識にある信念にアクセスして、それを変える方法です。


魂の意志を知る方法

これは一定期間、毎日行う必要があります。多くのみなさんにとって意外な方法かも知れません。

毎朝このように言って一日を始めてください。「私の最愛の魂よ、私が本当に経験したいと望んでいることをはっきり認識できるように、疑いようのない物理的現実や象徴やメッセージを通して、私の目の前に現してください。そしてそれが正しいことがはっきり分かるように、ハートのフィーリングで知らせてください。」

毎晩寝る前にこのように言ってください。「私の最愛の魂よ、私が本当に経験したいと望んでいることをはっきり認識できるように、夢の中の象徴やメッセージを通して、私に伝えてください。そして私がその夢をはっきり憶えていられるようにしてください。」

書かれている言葉通りでなくても構いません。あなた自身の言葉で言ってください。最も肝腎なことは、あなたが魂の意志を知ることを「望む」ことです。他の誰かがあなたの代わりにすることはできません。あなたが自発的に望まない限り、魂の意志を知ることはできません。そしてそれ以外に方法はないのです。シンプルですね?

あなたが魂の意志を知る準備ができていれば、言葉の通りに本当に知ることになります。もしこういう言葉を言うのに抵抗があるなら、単にあなたはまだ望んでいないというだけです。良い悪いはありません。

魂の意志には、例えば「こういう職業に就く」というような具体的な場合もあれば、「誰もが側に来て安心できるような、寛容な自分になる」というような抽象的な場合もあります。とにかく一人一人全然違うので、一般化することはできません。でも、魂の意志には必ず快いフィーリングが伴います。もしフィーリングが何もないなら、それは魂の意志ではありません。それは言葉や概念のようなものではなく、ハートの「感覚」なのです。それが魂の話し方です。魂の意志に従って行動するのは、スピリットの流れに乗ることでもありますから、楽しいことです。喜びなのです。退屈するなら、あなたは魂の意志に従って行動していません。これは大切なポイントですので、ぜひ憶えておいてください。

何かをしたい「衝動」を感じた場合はどうでしょうか? 衝動は、火山の爆発と同じように、内部の圧力を一気に解決するための感情の動きです。そういう意味では魂の意志の一部とも言えます。でも、ちょっと待ってください。衝動には、現実逃避や同じことの繰り返しが背後に隠れている場合もあります。「今すぐ仕事を辞める!」「昔やっていたことをもう一度やってみよう!」「今楽しめることをもっとやろう!」そういう性急な衝動は、どちらかと言うと、今までの生き方に属する可能性があります(そうではない可能性もあります)。以前持っていた情熱を取り戻そうとしているのかも知れません。意識が進化すると、以前と同じ状態に戻ろうとする方がかえって大きな苦痛になります。ですから、衝動に従って極端な行動を取る前に、次の「信念を置き換える方法」をやってみてください。ここで言っている快いフィーリングは、激しい情動とは違います。とても微妙で優雅なものです。今からの生き方では、目的地に辿り着くために、最も緩やかな道を通ります。ちなみになぜハート(胸)で感じるかというと、そこに魂があるからです。

遂に魂の意志を知ることが出来たら、いよいよ行動するわけですが、あせってはいけません。スピリットには適切なタイミングがあって、早過ぎてはいけないのです。魂の意志に従って行動しても、タイミングが早過ぎると、なお困難や抵抗があります。ですから再び、ハートの感覚を確かめてください。魂への質問はこうです:「今が行動するタイミングですか?」魂に「何月に引っ越すべきでしょうか?」と聞いたりしないでください。実は、魂もスピリットも、いつタイミングがやって来るか知りません。でも「今」がそのタイミングかどうかなら、確実に答えてくれるでしょう。タイミングが来ているとき、ハートは歌い出します! ですから、定期的にタイミングを確かめてください。あなたが魂の意志を適切なタイミングで実行に移すとき、ものごとはとてもスムーズに動きます。簡単で、周囲が協力的で、ものごとが魔法のように進むなら、そしてあなたが心から楽しんでいるのなら、あなたはスピリットの流れに乗っています! それから、他の多くの事とは違って、魂の意志を実行するには、決して遅過ぎることはない、ということを知ってください。


信念を置き換える方法

あなたが持っている信念の多くは、子供の頃に大人から教えられたものです。子供の頃は自我があまり発達していないので、見聞きしたことが吟味されることなしに、ダイレクトに潜在意識に入って行ってしまいます。ある考え方やものの見方や価値判断が潜在意識に入ると、それが信念となり、あなたの自我(顕在意識)の働きと魂(無意識)の働きの両方に影響を及ぼし始めます。

あなたの意識の主要な部分が自我(ベータ波)で占められているとき、つまり起きていて昼間の活動(家事・仕事・勉強・運動など)をしているとき、あなたは自分が保持している信念のほとんどに気づくことすら出来ません。信念は潜在意識の中に入っています。あなたが考えることと、あなたの信念が食い違っていることもよくあります。例えば、あなたは表面的には「男女が平等に社会的役割を選択できるようにするべきだ」と考えているかも知れませんが、深いところでは「女は家庭を守るべき存在だ」と信じています。でも、あなたは気づいていないので、自分を進歩的な人間だと思っています。そして、社会へ出て活躍する強い女性を尻目にかけ、なぜか面白くない自分の気持ちに戸惑ったりしているでしょう。「自分は進歩的な考えを受け入れているはずなのに、どうしてこうも腹立たしいのだろう。いや、そんなはずはない。私は腹を立ててなどいないんだ!」

潜在意識にゴムボールがぎゅうぎゅうに詰まっている様子を想像してみてください。「制限的」な信念をたくさん持っている人の潜在意識は、こんな風です。それは自我と魂の通信を妨げます。自我の認識を変質させ、魂が創造する世界を歪めてしまいます。制限的な信念は、現実の本質的理解を妨げ、あなたが欲しい現実を自由に創り出すためには障害になります。たくさんの嘘の欲望(幻想)であなたの目を曇らせます。制限的な信念とはどんな信念でしょうか。それは「本当に欲しいものは滅多に手に入らない」「お金は苦労して手に入れるもの。それ以外の手段で手にしたお金は汚い」「強い者がすべてを手に入れる。人生は勝たなければ無意味だ」「憐れな小市民には世界を変える力などない。権力に盾突けば痛い目を見ることになる」「人生は荒れ狂う海に浮かぶ小舟のようだ。運命は時に私たちを弄ぶ」「人生は闘いだ。本当に信頼できる人間はほとんど皆無に等しい」「もっと強くならなければ。病魔が非情にも私から命の炎を奪い去る前に」「人生に目的はないのだから、私を楽しませてくれるものにしがみついていなければ」といったものです。リストは延々と続きます。最初にお話しした大人のルールは、こういった信念ではないでしょうか? 要するに、「自分には変化を創り出すだけの十分な力がない」という発想に行き着きます。本当にそうでしょうか? 私たちが受け継いだ制限的な信念は、文化と呼ばれています。私たちは文化を大切にするように教育を受けますが、本当に成長しようと思ったら、古い信念を受け継いではいけません。でも、もう既に受け継いでしまいましたよね。私たちの文化の大きな特徴になっている、「男は女よりも偉いのだ」という信念は、人間の魂を汚します。日本は精神性の高い国だと信じているでしょうか。ええ、日本は他の国と同じ程度にスピリチュアルです。

信念というものは、すべて制限ですが、「比較的」制限のない信念というのもあります。文化は、すべてが制限というわけではなく、もちろん素晴らしい遺産もあります。日本人が誇りにして良い精神文化はたくさんあります。比較的制限のない信念とはどういうものか、自分で判断できるようになることが大切です。比較的制限のない信念とは、「内面の認識を変えさえすれば、瞬時に物理的現実に影響を及ぼすことができる」「すべての人が豊かになることを許すなら、お金は自由に流れ出す」「自分の体に気づいていることによって、健康を維持することができる」「準備ができれば、必要なものは向こうからやって来る」「知りたいと思えば知ることができる」「魂の意志を実行して天才になることができる」「自分以外の誰かに依存せずに幸せになることができる」といったものです。これらの信念は、制限的な信念よりも遥かに合理的かつ現実的であることに気づいてください! 制限のない信念は、夢や幻想の世界とは違います。例えば、「私は年間一兆円を稼ぎ出すことができる」とか「私は空を飛んで、アンドロメダ銀河へ行き、大天使と会って、天界のヒエラルキーの頂点に君臨し、地球を救う」とかの信念は、実際には制限的な信念です。不可能です! もしあなたが非現実的なほどたくさん欲しいなら、あなたは「私は持っていない」と信じています。あなたは無価値感の中に閉じ込められているのです。

例えば、あなたは新聞記者になりたいとしましょう。

ケース一:あなたは小学生の時、学校の先生に「あなたの文章はまとまりがないわね」と言われ、国語で悪い成績を取りました。それが原因で「自分は文章を書く仕事には向いていないかも知れない」と信じています。あなたが新聞記者になるという夢を持ったとき、その望みは「文章を書く仕事には向いていない」という潜在意識にある信念に阻まれて、魂まで届きません。あなたは学校へ行き、申し分のない知識と国語力を身に付けました。それから新聞社の就職試験を受けに行きますが、なぜか面接で落ちてしまいます。

ケース二:あなたは小学生の時、学校の先生に「あなたには無限の可能性がある。何でも好きなことをやりなさい」と教えられました。あなたは自分の国語力に関して何の疑問も信念も持っていません。あなたが新聞記者になるという夢を持ったとき、その望みはストレートに魂に伝わります。あなたは「できる」と信じています。すると、あら不思議! あなたは新聞記者の人と知り合います。それで記者になるためにはどういう勉強をすれば良いのか適切なアドバイスをもらいます。あなたはつつがなく準備を整え、新聞社の就職試験を受けに行きます。あなたは面接官と意気投合して和やかな雰囲気で面接を終えることができ、見事合格します。

何が起きているのでしょうか? これは信念がどのように働くかについての一例です。この単純な仕組みはどんなことにでも当て嵌まります。あなたが「自分にはできない」という制限的な信念を持っていなければ、あなたは「無意識の協力」と呼ばれる助けを得ることができます。つまり、あなたの魂が望みを現実にしてくれます。思い付くことが出来るなら、ほとんどどんなことでも実現可能です。この物理的現実では、外側の世界を思いのままに操作したり、二つの矛盾する望みを同時に叶えることは不可能です。でも、私は敢えて言いましょう、「あなたが現時点で想像できる以上のことを、あなたは実現するでしょう。」一瞬で出来るとは言いません。どれほど時間がかかるかは予測できませんが、不可能だという信念を捨て去ることが出来れば、必ず実現します。これは宇宙の法則ですが、そのことをあまり知らない私たちは、制限的な信念に挑戦する前に、早々と望みを諦めてしまいます。もったいないことだと思います。

信念を置き換えるのは、本当はできないと思っているのにできると信じ込む、ということではありません。できない、という信念をなくせば、新しい信念は自ずと生まれます。

この方法は、自分でも意識していない制限的な信念にまず気づくことと、それを意識的に新しい信念に置き換えることの両方を行います。リラックスしたアルファ波の状態で行います。ただ目を閉じるだけで、誰でもアルファ波の状態になりますから心配は要りません。それからあなたの人生の好きな分野を取り上げ、身体の感覚に注意を向けます。そこに制限的な信念が眠っています。あなたは身体の感覚と文字通り「対話」することになります。あなたの制限的な信念は、おそらく子供の姿で現れるでしょう。その信念を初めて受け入れた時の年齢のあなたの心の風景を再び見ることになるでしょう。その年齢で、感情的な成長が止まっているのです。イメージを頭の中で無理矢理作り出そうとしてはいけません。それよりもずっとシンプルなことです。あなたが許せば、「感じる」ことができます。感情も浮上しますが、あなたがそれに飲み込まれることはありません。あなたは感情をコントロール出来ます。若い頃のあなたではなくて、知らないおじいさんやおばあさんの姿が見えて来ても驚かないでください。あなたがその信念を受け入れたのは、「この人生」ではないかも知れません。すべては繋がっているのです。あなたは新しい信念を自分で考え、あなたが対話している相手に分かり易く伝え、心の風景の土の中に「種」として植えてもらうようにお願いします。多くのみなさんはこの方法を難しそうと思うかも知れません。でも、私が言わんとしていることが一旦伝われば、とても簡単であることが分かるでしょう。詳しいみなさんは、「これは、インナーチャイルドと同じですね」と思うでしょう。その通りです。この方法は、インナーチャイルドを癒すことよりももっと野心的であることに、みなさんは気づくことになるでしょう。

ではやってみましょう。


☆一時間くらいの間、完全に一人になれる時間と場所を見つけてください。誰にも干渉される可能性がない静かな場所です。電話は切っておきましょう。

☆ゆったりと椅子に腰掛けて、自分が知っている一番効果のある方法でリラックスします。音楽をかける場合は、歌ではないものを選んでください(歌詞が集中の妨げになります)。横になっても構いませんが、途中で眠らないように気を付けてください。眠くならないためにカフェイン入りの飲み物を飲まないようにしてください(カフェインは刺激物です)。

☆あなたの人生で今一番気になっている分野を一つ選びましょう。例えば、あなたは仕事が詰まらないと思っているとしましょう。この例では仕事を分野として選びます。

☆目を閉じてください。ここから先は、ずっと目を閉じたままでいてください。その分野についてしばらくボーッと考えてみましょう。例えば、職場にいるのを想像してみると良いでしょう。

☆体に意識を向けてください。どこかに違和感や不快感がありますか。たぶん、あるはずです。気づいてください。

例:体に意識を向けると、肩が緊張しています。胃がむかむかします。すねの辺りに少ししびれを感じます。

☆感じていることをできるだけ忠実に言葉にしてみましょう。口に出して言ってみるとさらに効果的です。

例:「肩が凝っています。胃がむかむかしています。すねの辺りに言葉にできない妙な感覚があります。」

☆体の感覚の中で、自分にとって一番慢性的な症状だと思われるものを一つ選びましょう。

例:胃のむかむかを選びます。

☆息を深く吸い込みながらその感覚を意識しましょう。十分に体の感覚に気づきましょう。

例:深呼吸しながら胃のむかむかを十分に感じます。

☆十分に意識したその感覚と、対話を始めましょう。その感覚が、あたかも人格のある相手のようなつもりで、話し掛けてください。このように聞いてください:「私に何か伝えたいメッセージがありますか?」

例:胃の感覚に話し掛けます。「私に何か伝えたいメッセージがありますか?」

☆言葉が聞こえて来るとか、何か映像が見えて来ることを期待しないでください。何が起こるか予測はつきませんが、確実に何らかの反応が返って来ます。ただリラックスして、待ってください。おそらく、どこからともなく急に何かが思い浮かんだり、何かを感じたりするでしょう。

例:始めは何も感じませんでしたが、急に、子供の頃に母親に叱られている場面が浮かんで来ます。

☆返って来た微妙な反応を、意識してつかまえてください。すると、もっと具体的になって行きます。

例:母親に言われたことを思い出します。「ぐずぐずしないの。さっさとやりなさい。」その時にまったく同じ胃のむかむかを感じたことを直観します。

☆具体的になって来たその感覚が相手だと思って、こう聞いてください:「あなたは何を信じていますか?」リラックスして待っていると、何らかの反応が返って来ます。その感覚ができる限り忠実に表現されるように、言葉に直して、口に出して言ってみましょう。

例:具体的になって来た子供の頃の記憶に向かって、問い掛けます。「あなたは何を信じていますか?」しばらく待っていると、小さな男の子としてのあなたが、「僕は何一つうまくできないんだ」と言っているような気がします。がっかりするような感覚があります。「私は何一つうまくできない」と口に出して言います。

☆論理的で優しい、分別のある大人として、あなたが今感じている心の風景に語り掛けます。あなたは今や大人で、その制限的な信念を持ち続ける必要はないことが分かると思います。心の風景を相手にして、分かり易く筋が通った言葉で、その信念がもはや正しくないことを説明してください。相手が子供なら、子供の言葉で話しましょう。

例:男の子に優しく語り掛けます。「君は母親に叱られて傷ついたかも知れない。それで自分のすべてがだめなんだと思い込んだんだね。でもそれは正しくないんだよ。大人になった君は、社会人として立派に働いている。のろまなんかじゃない。会社でだって、ずいぶん認められているんだよ。本当は、君がうまくできることはたくさんある。そうだよね?」

☆あなたが対話している相手と一緒に、成長した大人としての新しい信念を象徴する短い言葉を、考え出してください。創造性を遺憾なく発揮して、あなたが現時点で考えることが出来る、最も制限のない一文を作ります(かと言って、あなた自身が受け入れられないような非現実的な言葉を選ばないでください)。新しい信念が決まったら、相手にそれで良いかどうか聞いてください。もし答えがイエスなら、ハートに喜びの感覚がやって来ます。もし答えがノーだったら、もっと言葉を簡単にしてみてください。新しい信念を象徴する言葉の頭に「私の存在の全体性から」という言葉をくっ付けて、声に出して三回繰り返します。どうしても新しい信念が決まらない場合、この言葉を三回繰り返してください:「私の存在の全体性から、私はこの信念を変容させます。」あなたが対話している体の部分に、響かせてください。

例:男の子と対話をします。「君は自分がのろまだと信じているから、大人の僕は仕事でいつもプレッシャーを感じていて、先に進めないでいるんだよね。じゃあ、新しい信念はこれでどうだろう。『僕は人の意見に惑わされず、いつでも自分の才能を完全に発揮することができる。』分かるかな? それでどうだろう?」あなたはイエスのサインをハートの喜びとして受け取ります。「私の存在の全体性から、私は人の意見に惑わされず、いつでも自分の才能を完全に発揮することができます。」この言葉を声に出して三回繰り返します。・・・あるいは・・・今のところは、この感覚をどうしたら良いのかはっきり分かりかねています。「私の存在の全体性から、私は何一つうまくできないという信念を変容させます。」この言葉を声に出して三回繰り返します。

☆あなたが言った言葉が中に入っている種を想像してください。その種をあなたが対話している相手に渡し、それをどこか好きな場所の土の中に植えて来てくれるように頼みます。種を植え終わったら、もう一度戻って来てくれるようにお願いしてください。

例:想像の世界で男の子に種を渡し、こう伝えます。「この種を好きな場所の土の中に植えて来てくれるかな。植えたら戻っておいで。」

☆リラックスして、対話している相手が、種を植える作業を終えて戻って来るまで待ちましょう。すべてが完了したとき、あなたは何らかの合図を「感じる」でしょう。たぶん、それほど時間は掛からないでしょう。

例:男の子がにこやかに戻って来るのを感じます。

☆対話している相手にお礼を言って、お別れします。

例:男の子に「どうもありがとう。君のことを誇りに思っているよ」と伝え、想像の中で抱き締めます。「じゃあ、さようなら。」

☆深呼吸をして、ゆっくりと目を開けます。


残念ながら、この方法は一回ですべて解決というものではありません。一日に何度もやらないでください。そうではなくて、日を置いて、同じ分野に何度か取り組むと良いと思います。一回終わる度に、気づいたことをメモしておくことをおすすめします。すると、あなたの信念が実際に変化して行くのを実感できます。それから、ただのお水をたくさん飲んでください。感情の残りかすのようなものは、水と一緒に体の外へ出て行きます。

信念が変わると、すべてのことに影響を与えます。人間関係や、物理的現実が変化しますから、心しておいてください。

慣れて来ると、この方法の肝がつかめるようになると思います。細部にこだわる必要はありません。創造的になって、どんどんアレンジしてみてください。あなた独自の方法が出来上がるかも知れません。


これは新しい知識ではありません。実際、古い知識です。

私たちは、思考によって現実を構築する建築家です。厳密に言い換えれば、大脳新皮質 (cerebral neocortex) の神経細胞 (neuron) の接続によって構築される人格 (personality) を通して、量子場 (quantum field) と呼ばれる、すべての時間と空間が同時に存在する神秘的な場から、エネルギーを絶えず物質へと崩壊させています。それが私たちが現実と呼ぶものの性質です。

電磁コイルを一つ、思い浮かべてください。このコイルは、あなたのある一つの思考を象徴しています。どんな思考でも構いません。この電磁コイルが持つ極性によって、原子や分子が引き寄せられるのを想像してください。一定の時間が経つと、ひとまとまりの原子や分子が凝縮して、回転が遅くなり、固体として現れるのを想像してください。

さて次に、このコイルの芯に、磁石を入れましょう。磁石は、あなたの感情の象徴です。磁石を芯にしたことで、この電磁コイルの引き寄せる力が、何万倍にも強くなるのを想像してください。

これは単にたとえ話に過ぎないのですが、現実の性質をうまく説明しています。

さて、私たちがどんな思考によって現実を建築しているのかを探ってゆくに当たって、一番基本的なところから始めましょう。人生の意義。あなたは、人生の意義、あるいは人生の意味をどう定義していますか? 紙と鉛筆を取り出して、あなたの人生の意義を書いてみてください。何か素晴らしい哲学談義を書くのではなくて、何かとても正直に、自分の人生の意義について「感じて」いることを書いてください。

考えていること、ではなくて、感じていることを書くことには重要な意味があります。あなたが感じていることは、あなたの基本的な信念を表しています。あなたが感じることは、あなたが受け入れていることであり、あなたにとっての現実なのです。私は、特にそれを感情性 (emotionality) と呼ぶことにします。

例えば、もしあなたが、「人生は退屈で詰まらないものだ」と「感じて」いるとします。すると、あなたはそのような観点から現実を創造していて、本当に人生が退屈です。「人生は退屈だ」と信じている人が、毎朝、喜びとともに飛び起きると思いますか? そういう風にはなりません。人生が退屈だと信じていれば、うつ病になるのが自然の成り行きです。ですから、まず人生の意義について、あなたが感じている内容を知る必要があります。

ある思考が、それに関連する体験の記憶と感情に結び付くと、信念になります。信念は、強力な電磁石です。信念は、似たような性質の現実をさらに引き寄せますから、それによって、自らをさらに強化するのです。

次に、自己の定義について、見てゆきましょう。あなたは、自分自身をどのように定義していますか? ここでも、あなたの考えではなくて、感じていることを書いてみてください。あなたは、自分自身をどう感じていますか? あなたは、自分自身に価値を感じていますか、それとも、感じていませんか?

もしあなたが、自分自身をちっぽけな存在だと感じているとしたら、自分の才能を素晴らしく発揮して生きることは無理だろうと思いませんか? 何か素晴らしい機会が目の前にやって来ても、あなたは無意識のうちに、それを避けてしまいます。信念はそのように働きます。

あなたが、人生の意義、自己の定義について何を感じているか知ることが、どれほど大事なことか分かって来るはずです。それらは、あなたの現実の基盤となる「基本的な信念」に属しています。基本的な信念とは、あなたが普通に感じていることです。自分にとってあんまり普通なことなので、その存在に気づくことがありません。あなたは、自分の基本的な信念と自己同一化 (self-identification) しているのです。

ある年齢、おそらくは十二歳くらいまでは、大脳新皮質の神経細胞には可塑性 (plasticity) があって、変化への柔軟性があります。例えば、ある年齢までは、環境に応じてどんな言語も習得することができます。ところが、ある年齢を過ぎるとそれができなくなります。神経細胞の可塑性が減少して、接続がかなり固定化されるからです。一般に、人格の形成期は、神経細胞の可塑性が減少することによって終わります。それ以降は、同じ思考を繰り返し行うようになるのです。ほとんどの人は、自分と自分の人格を同一視しますが、断じてそうではありません。誰が何と言おうが、違います。

私たちが生まれた時、赤ちゃんの時、私たちは人格を持ちません。ある年齢までは、人格にも可塑性があります。私たちが一般に人格と呼んでいるものは、両親(あるいは育ての親)、兄弟姉妹、友人、教師、憧れの存在などからほとんど無意識的に受け継いだ、感情性のことです。私たちが過大評価しているほどには、人格にはオリジナリティがありません。人格は、感情的な態度の「パッチワーク」のようなものです。ある年齢までは、人格自体に柔軟性がありますが、それ以降はある程度固定化されます。では、人格が固定化される以前に存在するのは、一体「誰」なのでしょうか?

人格が固定化される以前にも、もちろん意識はありますし、個性もあります。そこにあるのは、魂の膨大な可能性です。小さい子供を見ていると、一人一人、個性的ではないでしょうか。私たちは大人になるにつれて、没個性的になるのではないでしょうか。私たちは、子供には無限の可能性があることを直観的に知っています。それには、科学的な妥当性があります。人格が固定化されていなければ、自由に思考することができ、変化や成長の機会が無限に広がっているわけです。

私たちは、大人になるにつれ、過度に感情的に条件付けられてしまい、過度に社会に適応して、変化を恐れるようになります。本来、人格は常に変化してゆくものです。子供は、外部のいろいろな影響を受け入れて、その都度人格を成長させてゆきますが、大人になると、柔軟性がなくなって、「自分はこれまで、ずっとこういう自分だった」というフリをし始めます。もちろん、勘違いです。あなたは人格ではありません。そもそも、私たちが自己同一化している人格というものは存在しません。自分と人格を同一視してしまえば、成長はありません。少しでも変化してしまうと、自分が自分じゃなくなってしまうという理由で、人格は変化を恐れます。人格もあなたの創造物で、あなたの一部だと言えますが、ずっと変わらない本質だけが、本当の「あなた」です。

もし、あなたが過去の記憶をすべて失ったとしたら、あなたの人格に何が起こるでしょうか? あなたの人格は、過去の記憶で構成されていますから、過去がなくなれば、人格も消えるのです。では、過去がなくなり、人格が消えたら、あなたはあなたではなくなるのでしょうか? いいえ、です。

もっと深く入って行きましょう。家族について。あなたにとって、家族とは何ですか? どんな意味がありますか? あなたが家族について「感じて」いることを書いてみてください。あなたの家族に対する感情的な態度が、あらゆる人間関係にも反映しますので、それを知ることは重要です。

さて、人生の意義、自己の定義、家族の三点について、あなたの信念を書いてみたでしょうか。ではそのリストを、まったく「あなたのことではない」と仮定してみましょう。どこかにいる、別の人が持っている信念のリストだと思ってみてください。カウンセラーになったつもりで。そして、このリストを見ながら、その人の人生の状況が今どうなっているか、これからどうなってゆくのか、予想してみてください。客観的に、論理的に。このような信念を持っている人の人生は、どんなだと思いますか? 何か新しい洞察が得られるでしょうか。

私が、声を大にして言いたいのは、次のことです。別に信じなくても構いません。

あなたは、あなたの思考と同じではありません。

あなたは、あなたの感情と同じではありません。

あなたは、あなたの信念と同じではありません。

あなたは、あなたの思考と感情と信念を、

意識的に変える能力を持っています。

もし、私たちの信念が現実を創造しているのであれば、一番最初に変えなければいけないのは「すべてのものごとは、私の思い通りにはならない」という信念ではないでしょうか。誰でも、程度の差こそあれ、持っている信念です。思い通りにならないと信じていれば、本当に思い通りにならないのではないでしょうか。ですから、私からの新しい提案はこれです。

すべてのものごとは、あなたの思い通りに実現して来ています。

伝説 水の音

 五月の雨。雨足が強く、ざあっという音を立てて降っている。地面には、すぐには沁み込まずにいる雨がうっすら残り、ぱしゃぱしゃ撥ねているのが見える。僕は縁側に坐って裸足をぶらぶらさせる。湿った生暖かい風が吹く。少し暑くて汗をかいているようだ。初夏の風は山や野原の土や植物の匂いを運んで来る。その匂いを感じながらこんな光景を脳裏に思い描いていた。
 雨がざあざあ降る中、男が山道を駆け下りて来る。笠をかぶり蓑を来て。草鞋は水浸しになり、足首は撥ね上がった泥で汚れている。林の向こうに視界が開けて、霧に霞んだ集落が現れる。ああもうすぐだ、と男はほっと胸を撫で下ろす。
 その頃の植物は、今よりも力強さがあったのではないか。人間と植物の間には、超えてはいけない境界のようなものがあって、自立した植物の生命力に近寄り難さ、というのか畏敬の念を持っていた。鬱蒼とした暗い森の中を一人で歩くようなときには一層、静かな空気の中に植物の精気が漲るのを感じただろう。
 今は違う。人間が植物を支配している、というより植物が人間に翻弄されているかのようだ。人間は、自己の目的のために植物を改良したり薬にしたりして来た。最近のバイオテクノロジーは植物を利用し尽くすかのごとくである。利用することが悪いのではない。ただ彼らの了解を得ていないのは自分勝手だと思うのだ。
 そんなことを考えながら、僕は雨が降るのを眺めていた。僕は座敷に戻り仰向けにごろんと寝転んだ。外が少し暗いので昼間からつけている蛍光灯の明かりを瞼に感じながら、しばらく天井を見つめていると眠くなって来た。
 ウトウトしかけていると羽音を立てながら何処からか蚊が飛んで来た。気になって耳を傾けていると案の定血を吸いに来た。腕に止まったところを見計らってペシッと叩いた。潰れた蚊の体内から出た赤い血がべとっとくっ付いた。たぶん先に誰かの血を吸って来たのだろう。潰れた蚊の姿をじっと見た。さっきまで生きていたのだ。ではいつ死んだのだろう。叩かれた瞬間か、それとも叩かれてしばらく経ってからであろうか。叩かれてからしばらくは足をぴくぴくさせたりしていることが経験上多いのだ。叩かれた直後には、まだ体は生きていたに違いない。生物が物体に変わってしまう瞬間が不思議なのだ。何かのテレビアニメのように、魂がふうっと体を抜けて何処かへ飛び去ってゆくとでも云うのだろうか。
 僕は寝転がった姿勢のまま腕を伸ばして卓上に放ってあるテレビのリモコンを掴んでスイッチを入れた。お笑いの二人組が司会のバラエティ番組の再放送らしきものがやっている。タレントさんたちはわいわい楽しそうに喋っている。番組があまり面白くなかったのでテレビを消して、外に目をやると雨が止んでいる。雨後の鳥の囀り声に誘われて、散歩にでも行ってみようかという気になった。
 玄関でサンダルをつっかけて外に出ると、もうっとした空気だ。いろいろな匂いが混じり合った雨の匂い。こういう何とも形容し難い匂いを、僕は水の匂いだと云っている。玄関から続く砂利道を歩いて敷地の外へ出ると、目の前はずーっと田んぼで、田植えされたばかりの苗が静かに水面に映っている。道端には紫露草の三角形の花が水に濡れている風情だった。
 家の前の通りを右に曲がって、道幅の狭い舗装された道路を、水溜まりを避けながらとぼとぼ歩き始めた。道路の左側には細い用水路が通っており、ときどき段差のついている場所で水が下に勢い良く流れ込み、ざぶざぶという大きな音を立てているのだった。そう、この音だ。近頃、水の音が僕を不思議な追憶へと駆り立てるようになっていた。昔のことを思い出すような、それも大昔の、水の中にいるような懐かしいイメージ……
 北の空の雲が晴れて、西にどんよりと残る雨雲が太陽の光を遮っているせいで、光が微妙な陰影を作り出し叙情的な景色である。こんな時の散歩は、人を切ない情感の世界へと引きずり込んでしまう。右手に小高くなった森の緑を眺めながら歩いて行くと、水車小屋に近付いて来た。この村にある三台の水車の内の一つである。水車は絶えず回転しながら水路の水を低い所から高い所に汲み上げている。滴り落ちる水が清新に感じられる。私たちの人生もこの水車のように絶え間なく回転しているのであろう、などと考えた。
 雨の音、水の流れる音、気泡の立つ音、こぼれ落ちる水、水しぶきの冷たさ、水の匂い……こうしたものに僕は感覚的になる。そしてどういうわけか遠い記憶へと意識が向けられてゆくのだ。僕はその記憶を手繰り寄せようとする、だがそれは内面の奥深くに存在する漠然とした感性なのであった。感性でありながら確かに現実に存在するもののように思われた。このような思いに囚われているときには、妙な幸福感があるのだった。

植物日記

土の感触を忘れてしまってから、生きることが難しくなってきた。
気が付いたときには、迷子になっていた。
虚空を泳いでいて、帰る場所が見当たらない。
私はずっと泣いていた。

どんなことがあっても地球が食べさせてくれる。
そういう支えを感じてはじめて私は生きて行くことができる。

もう一度土と繋がりたい。
その願いが強くなった。


植物は
手を伸ばせばそこにいて
涙を拭ってくれる
優しい女性の抱擁のようだ

それなのに私はただ立っていて
待っていて
叫んでいる


例えば
赤い実がなっている
オレンジ色の花が風に揺れている
焚火の煙が青空に上っている
線香の匂いがする
秋の日に

部屋の外には光が溢れている
澄んだ驚き
自分一人じゃもったいない
誰かに伝えたい


いつも心に引っ掛かっている

美しいプラスチックが
土に還る日は来るのだろうかと

100万台のテレビや冷蔵庫や
車やビデオデッキは
どこへ消えてしまうのだろうかと

100万本の殺虫剤や洗剤や塗料は
どこに流されているのかと

本当は知っている
土を通して
私の血の中へ流れ込んでいることを


太陽があった。

光だけが存在していて
目の前にあるものは影が織りなす幻に思える

遠くから、あるいは頭の奥底から聞こえてくる
懐かしい響きが呼んでいる
それは小さな陽光を伴っている

私はここにいるのだろうか。


ある日突然、ドアが叩かれた。

一人で生きて行けるということも、私は一人であるということも間違っていた。
傲慢だった。

私は知った。どうしても愛が必要なことを。
空気と同じように、どこにでも存在するたくさんの愛が。

自分を愛することを学ぶために私は生きている。