科学的な物質文化が栄えるに従って、私たちの信仰心が相対的に薄くなっていることは言えるんじゃないでしょうか。それにはもちろん良い面もあって、中世の頃は人間の力ではどうにもならないと諦めていた病気が、実は医学の力でどうにかなると分かった、というような事実があります。一方で、中世の人間は人知を超えた力に心が向いており、いつかは罪穢れのない清浄な世界に戻って行くんだ、という漠然とした目標というか信仰をどこかに抱いていたようなところがあります。現代の私たちは、物質が豊かで人生を楽しめればいいし、それ以上のことは考えたくない、というような傾向にあります。「神は死んだ」と言った哲学者さん(ニーチェ)がありましたが、死んだと言うよりも人間の側が神に背を向けたのだと言えるかも知れません。なまじ科学の力に頼ることを覚えてしまったがために、大きな戦争で「神も仏もあるものか」という無神論的な考えが主流になったようであります。その裏で集合的に累積した罪の意識は凄まじい破壊力を持つまでに膨れ上がっておりますが、私たちの側がそれを掴んで放そうとしないのが現状であります。断定的に言うようで申し訳ないんですが、これから私たちの中に信仰心が復活するというルートはすでに決まっているのであります。神も仏もないと思って生きて来た人が、何か超常的な力が働いているとしか考えようがない困難に直面したときに、神はどうして人間をこんな風に作ったのだろうか、人間の力ではどうにもならないではないか、こんな風にした神が責任を取るべきだ、と神様に心を向けることになるのです。責任を問うという形であっても、神様の方に心が向くわけです。全身全霊で生きて来た人ほど、期せずして神様に全託する気持ち(祈り)に唐突に入ってしまうことになります。信仰心のなかった人が自ずから信仰を持つようになったら、それ以上に生きて来たことが価値になる出来事は他にないと断言できます。生まれつき神仏を信じる気持ちのある人は、相当な上根の人なのであります。