楽しんで生きる

何事も楽しんで生きるのがいいですよ、と若い頃に教えられたんですが、言われた傍から出来るのは相当筋の良い人なんだろうと思います。私みたいに「なるほど」と思うようになるまでに何十年と掛かる筋の悪い人もいますが、今思い返してみれば、確かに「楽しんで生きよう」と自分で決めた瞬間からプロセスがスタートしたんだろうと思います。最初は「何をどうやって」ということはまるで分からないわけです。だけど、楽しんで生きよう、といつかの時点で決心することがなかったとしたら、自然の成り行きでいつの間にか人生を楽しめるようになることはないかも知れません。多くの人が「楽しいことが起これば人生楽しくなる」と考えて、何かとか誰かに楽しませてもらうことを期待していますが、スピリチュアルな観点からすると、そのような生き方は望みが薄いのです。他方、生まれつき楽しむことを知っている素晴らしい人も存在します。いわゆる個人差がとてもありますが、たとえ筋が悪くても諦める必要はないと思います。いつの日にか、人生に何があろうとなかろうと、何事も楽しんで生きている自分の姿を想像するんであります。すると直ちにそうなります・・・とは行かないかも知れませんが、いつの日にか必ずなるんであります。人間の心の凄さだと思います。

教える

一般的に学校の先生と言ったら、学習指導要領に従って、一つ一つ順番に教えるのが役割と言えるでしょう。そこで、教師用のマニュアルといったものが一切なく、例えば音楽を教えるとして、あるのは一台のピアノのみで、超初心者に「音楽の本質」を伝えるとしたらどうやるでしょうか。記憶の中から、何年に誰それが何々という作品を作曲したという知識を披露したところで、あんまり意味を成さないでしょう。ピアノを弾いて、例えばベートーヴェンはこう、ショパンはこう、と実演する必要があります。楽譜を読めない相手にハーモニーやリズムといった基本概念をうまく説明できないといけません。要するに、身に付いたもの板に付いたものが相当なければ出来ないはずです。スピリチュアル業界では、本に書かれていることをそのまま話し、素性がばれないように一対一の関係を避けるような形式でも、もちろん教師は務まります。お金が目的なら、自分を実際以上に見せるためのマーケティング、ブランディング、パッケージングといったビジネスの手法がそのまま有効です。目に見えないし証明も出来ないこと教えるんですから、ビジネスモデルが破綻するまでにヘタすりゃ何十年もあるので、長い間儲けが見込めるわけです。でも、それではちと寂しい気がしますがいかがでしょうか。生き方を教えるんですから、一対一で伝えるのがやっぱり理想です。昔の覚者さんは偉かったなんて言うと、教師のハードルを上げようとしているように聞こえてしまいますが、あいのほしの意図はそうではありません。むしろこのレベルに達してないと教えてはいけないというような基準はない方がいいと思うんです。レベルが高い低いではなく、身に付いたものを人格から人格へありのままに伝えることを基本とすべきで、そこにイメージの偽装があってはならないと考えます。

疑い

宗教の教えというのは、そういう哲学として頭で理解するだけでなく、生き方で示して行かないといけないと思うんです。ところがこれが実に難しいものなんであります。言ってることとやってることが全然違うティーチャーさんは問題外として、本質的にとてもいい線行ってる覚者さんでさえも、細かい粗探しをすれば、ごく普通の意味で、あまり尊敬できるとは言えない言動の一つや二つは必ず出て来るものなのです。大覚者と言えども人間でもありますから、時代背景や環境による制約を受けているので、すべてが完璧という風には行かないようです。その一つや二つの事実を取り上げて、その先生の教えを全否定するのは勿体ないと思います。本質に響いて来るものがあるなら、小さな欠点から全部を疑ってかかるよりも、素晴らしい面を見て吸収するようにするのが正しいやり方だと思います。そもそもスピリチュアリティにおいては、あるティーチャーさんの人間としての現れに愛着を持って拝むというのが良くありません。その現れの源に目を向けるのが本来のやり方です。よく考えてみれば、精神世界には常識外れな考えや、自分が絶対正しいとする態度が横行する中で、実は常識的なものの見方が大事だというのはあべこべな話なのかもしれません。でもそうなのです。真心があり、素直で嘘をつかない先生かどうかが、私たちが本物を見分けるための基軸だと思います。

感受性

これまでのスピリチュアリティでは、「悟り澄ましたような顔」と言われるように、何やら高い境地にいる人は何があっても心が動揺しないという印象が昂じて、何も感じないとか感情がないことがその証であると考えられるきらいがあるようですが、これは誤解だと思います。事実はその逆で、感情を避けて通れば目的地に辿り着くことは出来ません。男性は特に感じることを恐れる傾向がありますが、その線で行くと、分かるようで全然分からない観念的な悟りに辿り着くだけだと思います。現代のスピリチュアルティーチャーさんはクールであったりドライであったりするのが流行っているのかも知れないですが、昔の時代のティーチャーさんと言えば、宗教者であると同時に優れた詩人であり画家であり歌い手であり踊り手であるという人が少なからずいたものであります。何を隠そう私の最初(で最後)の先生がそういう感じで、感受性を育てることが大事と教えられましたが、今はそういうケースが珍し過ぎて誰も変だと思わない現状です。私自身かなり筋が悪い方なので、正しいことを教えられてもその時はピンと来ないことが多々あるんですが、今振り返って見れば、なぜそう指導されたのかは理解できます。いわゆる喜怒哀楽を包み隠さず感じることは自分の考え方を知る上で大切ですし、美しさを感じ取る感受性は本当の自分を見つける鍵になるとさえ言えるでしょう。いい音楽を聴いたりいい演劇を見たりすることは、私たちが考える以上に重要なことです。ただ、それ自体を目的にするんじゃなく、それを乗り物にして上に登って行く必要があるということです。

恐怖との闘い

満ち足りた子供時代というものがあったとすれば、ある時点で恐怖との出会いがあり、そこから本当の人生が始まったと言うことが出来ます。脳にいわゆる障害があって、恐怖も苦痛も感じない人生というのもあるそうですが、それが人間の理想の状態かと言うとそうでもないのではないでしょうか。普通の人も脳を手術して同じ状態にしてしまおうという議論には決してならないわけです。それは恐怖には役割があることを私たちは直観的に知っていることを意味しています(前に失敗したことがあったからです)。実際、恐怖にどう向き合うかが、人生を生きて行く上で最も大事なことと言っても過言ではない気がしますが(恐怖の状態にいると、人間本来の力というのは全然発揮されません)、実生活でそのことが語られなさ過ぎます。一方で悟りを自称する人が、ある素晴らしい瞬間以来何かを恐れるということが一切ないと語ったりして、スピリチュアル業界に極端な印象を与えている現状があります。私が思うに、潜在意識に恐怖がうんと溜まっているんだから、それを少しずつでも着実にきれいにして行ければそれでいいんじゃないかな、と思います。でもどうやって? 専門家の助けを借りるというのも一つの手段ですが、自分でやれる方法が一つでも見つかればそれがベストではないでしょうか。どんなにちょこっとずつでも確実に減って行けばそれでいいわけです。と言う訳で、基本は呼吸法だと思います。無理のない範囲で体の特定の部位にある恐怖をしっかり感じながら、呼吸によってそこに気を送るイメージをします。それを「ご先祖様もさぞ辛かったろうな」と思いながらやるといいのです。

正解

人生の答えと言いますか、正解を常に探しているようなところが私たちにはあります。それはやっぱり学校の試験問題で、一問一答には必ず正解があり、記述式には必ず模範解答なるものがあって、問題にはあらかじめ答えが用意されているはずだという風に、言い方は悪いですが条件づけられてしまったからだと思います。この傾向は日本だけに限りませんが、日本では特に、あらかじめ用意されているレールの上で品行方正でいられれば、社会生活の安定が保障されるかのような仕組みで動いているので、期待されている答えを見つけようとする誘因はなおさら強いように思われます。で、それがスピリチュアルな世界でも同じような感じになってしまうわけです。心の世界には感情があるので、簡単に割り切れるものでもなく答えが決まっているわけでもありません。正しい教えというのは必ず道徳的であって、表面上はそれに従って行かれればいいように見えます。だけど、人によっては正しい生き方に納得しない業の思いが潜在意識の中に溜まっていて、本心からではなく嫌々ながら従っているだけというケースも出て来ます。顕在意識と潜在意識に矛盾が生じているので、当然いわゆる「効果」が出ないということになり、結果的に正しい教えに出会っているにも関わらず「詐欺に遭った」という風に結論してしまったりします。正しい道というのがあるにしても、人それぞれ順序やアプローチの方法は違っていて然る可きです。これが正解のはずだと頭で考えていると、却って道の妨げになる場合があるので注意が必要だと思います。

自分を知る

どういう訳か持って生まれた性格というものがある私たちですが、性格というのはご先祖様やいわゆる過去世の思いから多くが構成されていると言っていいでしょう。いつか浄められ叡智というようなものに昇華されるのを待っている思いがありますが、埋もれたまま知覚されることがなければ、私たちはそもそもそれが存在するということに気づきません。体との繋がりの中で感覚されて初めて、私たちはそこに何かがあることに気が付くことが出来ます。意識の上に表面化する必要があるわけなのです。体の感覚や症状あるいは感情が混沌としていて、それを意識の上でしっかり捕らえ切れない場合に有効なテクニックがいくつかあります。フォーカシングやプロセスワークの「チャンネルを切り替える」動作は画期的な発見だったと言えるでしょう。調べてみたい感覚や感情があったら、まずそこに気持ちを向けることで、自動的に気が流れて行くという理解が基本になります。次に使える手は、精神世界ではよく「呼吸を通す」と言ったりしますが、そこの部分に息を吸い込むイメージをすることです。あるいは、そこの部分で息を吸ったり吐いたりするイメージをします。もちろん実際にそんなことは出来ないので、ただのイメージなんですが、気が流れることでその感覚や感情がより鮮明になることを企図しているわけです。よくよく感じるということが一番大事です。その次に出来るのは、チャンネルを切り替えてさらに調べることです。それに味があったらどんな味だろう? どんな匂いがするだろう? 触ったらどんな感触だろう? どんな音がする? 色や形は? という風に内なる五官を開いて調べます。想像すると言ってもいいでしょう。充分に鮮明に捕らえることが出来たと思ったら、その次に出来るのは、その感覚や感情に一番ぴったりな言葉を探すことです。自分の中で本当にしっくり来る単語やフレーズを見つけます。こういう一連の動作は多くの場合、自分を知るために必要ですし役に立ちます。ただ、それによって特定の結果を期待したり、心理分析的に原因や理由を探ろうとしたりしない方が望ましいです。自分を知ろうとするのが本来の動機であって、その中に何らかの利益を求める心を入り込ませないのがベストだと思います。

受容

願望実現についての教えは本来のスピリチュアリティには含まれているものでして、その鍵は「受け入れる」ことであると言われます。言葉にすればこの上なくシンプルなんですが、そのの意味が分からないからみんな苦労するのではないでしょうか。そのコツさえ掴めれば、言ってしまえば何もかも思い通りに実現できるはずです。が、みなさんも知っての通りそういう人は実在しないと言っていいような状況です。結果が出ないということは受け入れていないからだとするならば、どうすれば受け入れられるのかが問題です。まず、「私はナニナニを受け入れます」と口に出して言うとか紙に書くというのが、誰でも最初に思い付く方法ではないでしょうか。それでダメなら、神社仏閣に詣でてお願いをします。家相やラッキーアイテムが役に立つかも知れません。それでもダメなら、自分が欲しいものを既に持っている誰かから奪い取るための戦略を立てます。結局、お金がすべてだという結論に到達するかも知れません。いわゆる顕在意識の思いの力で願望を実現しようとしたら、こんな風に邪道に入り易いと言えるでしょう。いろんな方法があるんでしょうが、昔からそれで結果が出る人もいるからあるわけです。「形から入る」方法と言えるわけですが、そこから先は二通りに分かれます。一つは、真似しているうちにだんだん自分のものになり、最後は本物になるパターン。もう一つは、詐欺や泥棒のようにいつまで経っても自分のものにならないパターンです。詰まるところ、微妙な態度の違いが大きな差になると言えます。受け入れるか受け入れないかというのは態度の違いです。自分が実際どんな音を出しているのか知らないといけませんが、そのためにはいわゆる潜在意識まで掘り下げる必要があるかも知れません。結果が出ないということは、往往にして顕在意識と潜在意識が食い違っているからなのです。

あいのほしの瞑想

これからお話しすることは、数多ある瞑想についての考え方の一つに過ぎないことを、まず最初に言い添えておきます。で、あいのほしが考える瞑想というのは、何か特定の結果が期待できるものではなく、強いて言えば、単に「休む」ことであります。神秘体験とか、こういう体験が出来るはずだ期待して瞑想するとなると、それだけで本来の瞑想からは離れてしまうように思います。方法としては、理想を言えば背筋を伸ばし、足を組んでただ座るということになります。機能的な障害があったりして体の痛みに気を取られてしまうようなら、別にどんな姿勢でも構いません。で、何も考えないでそのまま座っていられるんであれば、それだけで完璧な瞑想です。難しい理屈を付け足す必要はありません。次に、何も考えない状態にはならなくても、座ってるうちに心が静かになるという人は、心を集中する訓練をします。ヴィヴェーカーナンダさんの『ラージャ・ヨーガ』という本に書いてある方法を参考にしているんですが、心を集中すべき場所は二つありまして、一つ目は頭のてっぺんから15センチくらい茎が伸びて黄金の蓮の花が咲いているイメージで、その蓮の花になっている感じで集中します。二つ目は胸の中心に炎が燃えているイメージで、その炎になっている感じで集中します。炎の色は何でもいいんですが、青がおすすめです。一度の瞑想で蓮の花と炎を同時にイメージするんじゃなくて、蓮の花なら蓮の花、炎なら炎のどちらか一つに集中します。イメージを使うんですが、映像をイメージする訓練じゃなくてあくまで心を集中する訓練なので、そのものに成り切るのがポイントであります。最後に、座っているといつの間にかくだらないことをあれこれ考えているという人は、その考えを紙に書く練習をします。「またくだらないことを考えてしまった」と書くという意味じゃなくて、具体的に何を考えていたか思い出して書くということです。すべての思考には理由がありますが、いい悪いを判断するためとか、心理を分析するためとかいうんじゃなくて、何の期待もせずにただ書き留めます。自分が何を考えているのか自分で認識することの意義を甘く見てはいけません。頭を休ませることが目的だとすれば、漫然と考えごとをしながら座ってるくらいなら昼寝でもする方がいいのです。自分の考えを認識することによって、理想を言えば心の中身が自然と整理されて、だんだん静かに座れるようになって来ると思います。

学びの手順

スピリチュアリティについて誰もが押さえて置くべき基本というのがあるんでしょうが、それを言い出すとすぐに宗教的なドグマが出来上がってしまうのが難しいところです。良かれと思って作った規則が精神の自由を束縛し始めると、人間社会はあらぬ方向に行ってしまいます。私たちが生きているのには目的があるということを理解することが重要です。だけど、あなたの役割はこれです、と他人に教えられるのではなく、自分でこうだと分からなければ何の意味もありません。一人一人に割り当てられた固有の役割があり、スタート地点からしてそれぞれ違っているので、全員一律に同じ人生哲学を押し付けられるのではなく、自分の道を自分で見つけられる教育環境を、チャンスとして与えられるのが理想なんだろうと思います。勉強であれスポーツであれ芸術であれ、あるいは伝統宗教であれ、何でも一通りやってみることが出来る環境があれば、自分のやりたいことを自分で見つけることが出来ます。一方、身体的にであれ精神的にであれ、あるいは家庭環境であれ、自分で選ぶ余地があんまりない束縛の中に生まれついている人もいます。そんな中で自分がやるべき義務を果たしながら、精神の自由を得るためにスピリチュアルな道に置かれていると言っていいでしょう。普通は、人間やりたいことを自由にやるのがいいに決まってます。実はそれが、「自分がやった」という自意識を満足させるためではなく、完全調和のために誰もが自分の仕事を捧げているんだということに、今この人生を生きている間に気づけたら最高だと思います。

逆境

逆境に立たされた時に初めてその人のスピリチュアリティの真価が試される、それまでの人生すべては本番前のリハーサル、というのが最終的に私たちの共通認識になるのだろうと思います。そのくらい口で言うのと実際にやるのとは違うと痛感いたします。「人生こう生きるべきだ」というようなことを教える先生方に従って何年も真剣に実践しても、うまく行かないことの方が多いように思いますが、その結果に対するフォローが多くの場合何もないのではないでしょうか。「無責任な人たちだな」という不満があって、そんなようなことを口に出して言ってもいた時期がありましたが、よく考えてみれば当たり前の話でもあり、もうそんな風に考えないようにしよう、というのが私の正直な現状であります。フォローするというのはお弟子さんの人生を引き受けるのに等しいことですから、そこまでの度量のある先生が少ないことは理解できます。なぜ悪いことや困難なことが起こるのかと言ったら、昔ながらの説明の通り、それがないと私たちは成長しないからです。いつの間にか人生に立ち向かう勇気が身に付いている、というのが本物のスピリチュアリティの醍醐味だと思います。いざという時に役に立たなければそれは本物じゃない、というのは誰もがいつかは直面しなければならない大問題であります。

理解

人間にはものごとの仕組みを理解したいという願望があり、また理解できる能力を与えられている以上、私たちが人生をより深く知ろうとするのは自然なことに思われます。実際、未来の世界では私たちがここ(地球)で何をしようとしているのかが理解されるようになるのです。そうなったらもう占めたものでしょう。ただ、難しい哲学を理解できるならそれはそれですごいことなのですが、哲学の大部分はどちらかと言うと解説とか背景知識に属するものであって、愛の道を行じる霊止(ひと)になるのに背景知識は全然必要ありません。言葉にするから変に聞こえてしまうんですが、まず知識から入って、それを行じて行くうちに自分のものになり、最終的にいちいち頭で確認する必要がなくなるという訳なのです。私個人の勝手な意見なんですが、一人一人が別々に修行してという今までのスピリチュアリティのあり方は終わりつつあるように思います。私たちは集合的な理解に到達しつつあると見るべきです。それはもちろん言葉が一人歩きして行くからではなく、黙々と行じる人が増えて行くからこそ達成されるのです。

知識

知識を得ることは大事だとあいのほしでは考えております。「何も知る必要はない」とする哲学もありまして、極論すれば言語も使わない原始生活が理想ということになるんでしょうが、本気でそれを実行する人はいないのが現実ではないでしょうか。で、私自身好奇心が人一倍強かったので、(最初から最良の先生に出会えていたにも関わらず)マイルドな知識に飽き足らず、最新と言われている知識や、あまり知られていない秘教的な知識を追い求めたりもしました。でも、デッサンや楽器の練習と同じで、基本を踏まえずに応用から始めると、ある程度のところまでは行けるものの、いわゆる自己流の癖が身に付いてしまったがために必ず行き詰まる時が来るんであります。限界に直面して「なぜ基本が大事だと教えてくれる人が誰もいなかったんだろう」とその時になって思うものです。では精神世界の基本とは何ぞやと言いますと、結局、伝統宗教の顕教では必ず一番最初に教えられる、日本では道徳や倫理に分類される部分の教えがそれなんであります。人を傷つけてはいけないとか、貪ってはいけないといった基本的態度を一切踏まえないで、いきなり悟りとか究極が分かったとしても、結局性格のいびつな人間が出来上がるばかりで霊性の花は開きません。分かるのと実践するのとが全然別物になってしまうわけです。最近のスピリチュアル業界はモラルに関する教えを軽視する傾向にあるように思うので、そこがあんまりいい結果が出て来ない原因なんじゃないかなと考えたりします。

言葉と本物

一般的に言ってものごとをあまり深く考えない私たち日本人にとっては、哲学から始めるのはいいことだと思うんです。中等教育で、哲学者の難しい概念を教えるんじゃなく、人生をどう生きるかということを、正解はないという前提で自分の頭で考えさせる(つまり自分で考えるやり方を教える)授業をやったらいいと思います。で、いろんな哲学を頭で理解できたということは第一歩としていいんですが、それを言葉で語ることで満足してしまう傾向がこれまではあったわけです。言葉で説明できるのと、実際にそれを生かすのは全然別物だ、という実感が切実になって来ない限り、私たちは向上しないのではないでしょうか。クンダリニーが目覚めて権能獲得と言ってみたり、ワンネスを悟って全託と言ってみたり、結局はまったく同じ大安心の境涯のことを、一方は現象面から、一方は精神面から表現しているだけだろうと思うんですが、知的に考えたらどこをどうやっても矛盾しているようにしか聞こえないので、全然違う二つの道なんだろうと結論してしまうかも知れません。もしも間違ったことを教えられても、間違いに気づかないまま終わってしまうという状態です。覚者と一般人との大きな隔たりを埋める中間層を育てて行かないといけないと考えます。究極意識とか神通力までは分からなくても、人生は心の置きどころ言いますか、心的態度がすべてだと分かっているというのが、ここで言う中間層の人であります。雲を掴むような目覚めや悟りで人生大逆転を狙う人を増やすよりは、平凡であっても何はともあれ安心していられる人を増やす方がいい、というのがあいのほしの考え方であります。

クンダリニー

クンダリニーとはサンスクリット語で創造エネルギーというような意味で、インド哲学はこのクンダリニーを如何にして目覚めさせるかという問題を中心に成り立っていると言っても過言ではないでしょう。私たちはなぜか生まれた時点ではクンダリニーと繋がっていなくて、根源の生命エネルギーと繋がっていない状態でどうやって生きていられるのか逆に疑問に思いますが、水や空気や食べ物に蓄えられている光を代謝することによって何とか生きられているということだろうと思います。インド哲学では気と言いますかエネルギーの性質を三つに分類しておりまして、サットヴァというのは精神を高める性質、ラジャスというのは物質生活を豊かにする性質、タマスというのは流れを遅くする性質と説明できると思います。専門家ではないので間違っていたらごめんなさい。で、クンダリニーを目覚めさせるためには、どういう訳かサットヴァ性を重んじなきゃいけないということなのであります。そのためには泌尿器、消化器、循環器をみんなきれいにしなきゃいけないので、アーユルヴェーダというのは医療目的であったと同時に、クンダリニーを目覚めさせるという最終目的のために組み立てられたのかも知れません。私が思うに、ある種の植物にはサットヴァ性があり、自然な方法で抽出したエッセンシャルオイルはそのために必要な浄化に利用できます。植物が蓄える光が重要であり、あくまで仮定の話ですが、ある植物から水蒸気蒸留法で抽出した(新鮮な)オイルにはサットヴァ性の働きがあり、化学的に混ぜ物して抽出したオイルにはラジャス性の働きがあり、それをさらに加工して粉にしたものにはタマス性の働きがあるというような可能性があり、この植物はこういう効能という単純な分類はしない方がいいかも知れません。むしろ特定の鉱物の結晶が特定の周波数の光を吸収する性質を利用するクリスタルヒーリングの方が、今の科学では取っ付き易いのではないでしょうか。今まで全然やったことないことを直感的にやってみたくなり、それが思いも寄らないタイミングと方法としてクンダリニーを目覚めさせるための準備になった、というようなことが本来の道筋で、それを本や論文に書こうと思ったら大変なことになりますが、実際問題としては誰もが導かれていることを信じるのが一番と言えると思います。

二種類の見方

スピリチュアルに興味を持つのにも二パターンありまして、一つは自分が得する情報を求めて入るパターンと、もう一つは世のため人のためになりたくて入るパターンです。すべてを損得で考える人というのは多数派でして、自分が損させられるように思える教えは受け入れません。逆に、自分を犠牲にしてでも人の役に立ちたいと心から願う人というのはかなりの少数派ですが、自分だけが得するように思える教えを受け入れられない場合もあるのです。昔の覚者さん(例えばヴィヴェーカーナンダ師)はそこら辺のとこを弁えていたので、どっちから入っても対応できるように教えを説いていたわけですが、そうとは知らずに正反対の目的を持った人が同じ教典を読んでいるというのが一般的に起きていることです。意識は一つですべてが繋がっているという教えと、現実生活を豊かにするための教えと、一つの教典の中に両方含まれていますが、人それぞれどちらか一方が重要だと捉えていると思います。だけど、あくまであいのほしの考え方でしかありませんが、最終的には両方受け入れないと完成しません。今も昔も基本は変わりないのですが、人生どうなったって構わないとか、すべてを思い通りに実現したいとか、スピリチュアルティーチャーさんが両極端に偏らないように指導できるのが理想です。もっと言えば、国や文化によって特有のエゴの構造があって、まったく同じ教え方をしても、ところ変われば全然違う解釈をされる場合もあるので、その辺りの的確な理解と細やかな心配りが必要だと思います。相手が誰であろうがお構いなしに同じ言葉を繰り返すというのは、今となってはあまりにも古い方法になっていると申せましょう。

基本姿勢

信じる者は救われるという言葉はあんまりいい文脈で使われないみたいですが、もし信じられるならもう救われている、というのは本当の話です。すごく難しい哲学的なことを考えて「これも幸せと言えるのではあるまいか」と自分を納得させるのもアリですが、何がどうであれ心がぽかぽか、気楽な気持ちで人生を楽しんでいる人には敵わないのではないでしょうか。そりゃ仕事も家庭も順調で、お金がいくらでもあれば誰だって気楽に人生楽しめるでしょうよ、と一般の人は想像したりするかも知れませんが、精神世界で言っているのはそういう意味じゃありません。少なくとも私たちはそういう意味で言っておりません。仕事も家庭も順調からはほど遠く、健康を害してしまっても、正しい生き方を貫けばいつかは必ず良くなると信じることが出来るなら、たとえ生きている間に夢のような境涯にはならなくても、何の不安もない幸せな気持ちだけ先取りすることは現実に可能なのであります。そういう心の態度を基本にして、何であれ自分が置かれた境遇に即応してやるべきことを淡々となせば、どんな人でも必ず人生に成功できると信じます。秘教的な教えに導かれる人がいるとすれば、そこから先の話です。

あなたと私

個別の自分というものは本当はなくて、私が私と思っている私と、あなたが私と思っている私は同じ私、実は人類全体いや宇宙全体で一つの私であるとしたら衝撃的ではないでしょうか。しかし、そのまさかが真実という訳です。「私はあなた、あなたは私」という考え方はそれこそ大昔からあって、二人でペアを作り、お互いに目を見つめ合いながら「私はあなた、あなたは私」と言うといったワークをやらせるティーチャーさんもいたりしますが、それを裏付ける理由と言うか証拠がなければ、ただの哲学で終わってしまいます。金属元素が光を吸収し、その後だんだん放出するのと同じ原理で、魂が肉体に宿るというのは霊の光を体が蓄えて、だんだん光が放出されると体としては死を迎えると理解することも出来ます。光が一時的に閉じ込められることで、個別の知覚が発生するという驚きの仕組みです。もちろん人間としての私たちが、あなたと私が同じであると悟るための順路は用意されてまして、第一段階はパートナーや親子の愛情を通して与えられるのであります。自分の命よりも誰かが大事だと本当に思う真の愛情というのは、人間が利己的な個人だとすると論理的にあり得ないことなので、私とあなたが同じであることの間接的な証拠になるわけです。次の段階は、誰かが考えたり記憶したりしていることを、完全ではないにしろ分かるようになる能力の発現として与えられます。もちろん簡単に与えられることはありませんが、過去の覚者を調べれば、こういうことは本当に起こることが分かります。それはあなたと私が同じである本格的な証拠になる訳です。

青写真

私たちは生まれて来る前に人生の計画をあらかじめ立てている、お互いに人生テーマが似通った魂が同じ時期に同じ国へグループで転生する、といった話が精神世界にはありまして、そういう見方をすればかなりの程度事実なんだろうと思います。が、そういう話を聞かされたところで人生は何一つ変わらないとすれば、ただのおとぎ話に過ぎなくなるのではないでしょうか。スピリチュアルとは何の関係もない一般の人が見ても、「この人はこれをやるために生まれて来たのかも知れないな」という風に納得させてしまう天才的な人というのがいます。だいたいその通りだと思うんです。青写真がすごくハッキリしていて分かりやすいわけです。なのですが、まずまず平凡というカテゴリーに入る多くの私たちの青写真というのは、具体的にこれこれをやりに来たという種類のものではないのです。ほぼすべての私たちの青写真というのは魂を磨き神性を現すということであって、特定の天職に就かなければそれを実現できないというようなことはないのであります。あいのほしの意見を押し付けるつもりはないんですが、これを理解することはとても重要です。なぜなら、特定の何かをしなければならないはずだと想像して生きていたら、結果的に要領を得ない人生になってしまう危険性があるからです。心を浄め人間性を高めることを人生の目的に定めることは、私が思うにとても意義のあることです。人生の目的として定めていることが真実に近づけば近づくほど、私たちは揺るぎない信念と心の平安とを持って人生を生きて行くことができるからです。別にこれが唯一の答えだという訳じゃないので、最期に本当に有意義だったと確信できそうな内容を、人生の目的として自分で定めるといいと思います。

娯楽と実力

自己本位という欠点のある私たちにとって、自分に向き合い人生に立ち向かうのは難しいことです。今考えれば精神世界には娯楽に類するものが多くあり、楽しませてもらっているうちにだんだん現実と向き合えなくなり、行動する気力を削がれてしまったりします。理想を言えば、多少厳しくとも、知らず知らずのうちに何であれ生きる力が身に付き、勇気を持てるようになる教えがいいと思います。楽しむためという考え方もありますが、私が思うに、人生というのは人間性を磨き出し、いわゆる神性を輝かせるためにあり、その過程には苦痛が付き物です。苦痛を避けて通ることは出来ませんが、喩えて言うならば緩和ケアのようなものは実際にございます。これは私個人の意見ですが、瞑想というのは目的を達するための手段ではなく、実は人生の苦痛を和らげる緩和ケアに相当するものだと思います。人生に立ち向かうことこそが、常に道であり方法であるわけです。過去を癒す、悪い癖を直す、誤った世界観を正すといったことが具体的な方法だと言えると思います。人生は最終的に自己の本質を悟り人として完成するためにあり、その過程は基本的に大変であることを重々承知の上で、だからこそ楽しんでやる必要があると身をもって示してくれるティーチャーさんがいたら最高です。大変だからこそ、苦痛を適度に緩和しながら楽しんで生きるというのが、それこそ人生の極意だと思います。進めば進むほど楽になる、要するにエゴの欲望に振り回されなくなる、そういう態度を早い段階で身に付けることが大事だと思います。

イメージと本物

天命を全うすると言うけど、具体的に何をどうすれば自分の命を生かし切ることになるんだろうか? とこういうことが真剣な疑問になって来なきゃいけないのではないでしょうか。何がイメージと言うか幻を追い掛けている生き方で、何が魂にとって本物の価値がある生き方なのか、エソテリックな議論をしようとしたらとても難しい話になり得ます。私たちは誰でも、程度の差こそあれいい格好したいという願望を持っていると思います。単純に言えば、人に褒められたい、評価されてなんぼ、「わーすごいですねー」と言ってもらえるように伝え方を工夫する、都合の悪い要素は排除して完璧な物語を作り上げる、とこういうような態度がイメージの中で生きているということだと思います。良い悪いの判断をせず、包み隠さずそのまんま表現する態度が本物だと言えます。人生でこれだと思ってやっている活動が、もし誰からもまったく評価されないとしたら、それでもそのまま続けますか? その活動への情熱よりも人に認められたい願望の方が勝っているとしたら、人に認められさえすれば何の活動でも構わないということになってしまいます。それがイメージに生きるということです。人に認められなくてもやりたい、それでも続けます! と思うなら本物です。世の中どこに住んでいるとかどんな仕事をしてるとかすべてにおいて、まともな人間であると他人に思ってもらえるという基準で生きている人が多くいます。そんな環境の中で本質的な生き方を目指すのは大変なことですが、私が思うに、後悔することはないと思います。でも、本質的に生きなきゃいけないとは思わないです。あくまでイメージで生きて行きたい場合はそれはそれで構いません。

行程表

人間機械論というのは未だに根強い人気があって、人間は自由意志を持たない機械だという前提の下に話をするスピリチュアルティーチャーさんが少なからずいらっしゃいます。確かに、心にメカニズムのようなものがあり、心を物として扱うことができるなら、あーやってこーやって式の悟りへの行程表を作り易くなります。しかしながら、その線で行けば人生そのものには大して意味がないという結論になるのは当然と言えば当然です。私たちは本当の自分を見つけるために生きている、というのはまったくその通りだと思います。ただ、あいのほしが付け加えたいのは、全員が全員そうだと言う訳ではないのですが、地球に生きている私たちのほとんどは、過去の生き方の誤りを修正するチャンスを与えられてここに来ている、という考えです。そこの理解がないなら、人生に意味があるように見えないのは当たり前のことです。世のため人のためになることをする、というのも他でもない修正のための具体的な方法なわけです。ほんとの真心を世の中に現す必要があるのは、それによって本当の自分が見つかるからに他なりません。考えに考え抜いた大掛かりな慈善計画よりも、純粋で素朴な善意の方が人の心を打つことがあるという事実からも、真心というのは人間の論理を超えたところから来ていることが分かります。それと同じように、社会を変革しようとする活動よりも、自分を癒せたという内面の変化の方が、実は世の中に大きく貢献しているということもあるのです。スピリチュアル業界も何だかんだ言って外面的な現象ばかりが評価される傾向にあるので、気をつけて行きたい点だと思います。

性的な自分

性をどう扱うかというのが人類の歴史を通して最も難しい問題であった、と個人的には思います。究極的には性的指向云々ではなくて、自分を自由に表現するということだと思うんです。ところがあらゆる宗教では、禁欲であったり自分そのものを否定する考えが常にあったわけです。もちろん元々は明確な目的があってそういう教えが説かれたのですが、それは特定の段階に来ている修行者に向けた言葉であって、誰にでも適用するべき話ではなかったように思います。変な話になりますが、準備の出来ていない人が性を抑圧したり、(恥ずかしさや罪悪感から)性的な自分を表現することを恐れたりすることによって、チャクラで言えば二番目のチャクラを明け渡す格好になり、そこから漏れ出す性的なエネルギーを、いわゆる幽界の生物たちが組織的に採取しているという現状になったのです。性的に問題のない人もいますが、性的な自分を受け入れ、健全に表現することが人生最大の課題である人もいます。そういう人にとっては「自分はいない」というような自己否定的な教えは大きな害をなす危険性があることを、スピリチュアル業界はよくよく認識する必要があるように思います。自己表現がテーマの人に、そもそも自分というものはないと教えたら、壊滅的な結果にしかならないでしょう。二番目のチャクラが課題になっている人はどうしたらいいのかと言いますと、どれだけ長い時間が掛かろうが必ず性的な恐れを克服する、とまずは覚悟を決めないといけません。

人間にできること

すごく変な話になりますが、人間というのは生まれて来た時点で満願成就と言いますか、望みをすべて手に入れていると見ることもできます。それに気づくかどうかは自分次第ということでございます。で、それと同じように、人にもよりますが、私たちはここへ生まれて来たという事実をもって、やるべき仕事の九割は既に果たしたと見ることもできます。人間として生まれて来ることが決してない天使と言うか守護神様から見れば、ここへ来ること自体が大きな貢献であり犠牲です。私たち人間が苦難を強いられていることなんざ御守護様は百も承知で、逆に言えば、始めからそんなに多くを期待していないということなんであります。思えば人間性の成長ということについては私たちは五十歩百歩、何をどう頑張っても一度の人生ではほんのちょっとしか成長できない、というのが大方の事実ではないでしょうか。貧乏出身から社会的に成功したという意味での成長なら割とあったりしますが、もともとモラルの低い人が素晴らしい人格者に成長したという話はほとんど聞きません。だけど、ただ生まれて来ただけで九割は役割を果たせたと考えると、けっこう安心する人もいるんじゃないでしょうか。理想社会の実現という理念を持ち、奉仕活動に身を投じるような生き方は、極めて強い意志の力がある人向けの道であって、ほとんどの私たちには向きません。過去の感情を癒し、潜在意識を浄化することによって、素直な気持ちで正しく生きることが、私たちにとっての王道であると考えます。それが、私たちを通して知らず知らずのうちに仕事が為される具体的な方法なんであります。難しいことをいろいろ考えていると、その分御守護様が援助し難くなってしまいます。

人生の意味

人生の意味とは何ぞや、とは伝統的な質問ではあるんですが、結論から言ってしまえば、考えていても分からない、ということだろうと思います。とんでもなく頭の良い人たちが寄って集って考え出した哲学が、世界平和の実現にはほとんどまったく役に立たなかったと言えるでしょう。有名な心理学者(フランクル)さんが、私たちが生きる意味を問うのではなく、人生が私たちに何を求めているのかという問いに答えるべきだ(『夜と霧』)、というようなことをおっしゃいましたが、あいのほしもまったく同じ意見であります。どういう訳かあらゆる経験に意味を見出そうとする精神的傾向を持っている私たちですが、私が思うに、実際に意味を汲み取ろうとしているのは神様の方です。新しい理解が生まれるのは必ず新しい経験をした後です。言葉を駆使して巧みに哲学しても、経験の裏打ちがなければ新しい意味は形成されません。堂々巡りの議論になってしまっているわけです。人生の意味とは何かと問いかけて来るスピリチュアルティーチャーさんがいたら慎重になるべきです。あるいは人生の意味はこうですとか、意味はないですといった哲学には慎重になるべきだと思います。そうじゃなくて、人生からの問いに生き方で答えている人たちが清々しいな、と勝手ながら思ってます。

縦と横

縦横の調和という話は、エソテリックな教えの中には必ず出て来る概念です。縦と言うのは、動物としての人間が生存競争をしているという個別意識を下位としますと、その生存を正に可能ならしめている形而上的な霊意識が上位にあるという考え方です。横と言うのは、私たちの現実生活をより良く豊かなものにして行こうという考え方です。言葉による創造の言い伝えの通り、言葉による表現というのは基本的に横方向の働きであり、それゆえ学問というのは基本的に現実生活をより良く豊かにする目的に結び付いていると思います。縦方向というのは意識の焦点が上に移動することであり、人間の言葉では表現し難いものだと言えます。伝統的には問答無用の瞑想の技法が縦の教えです。理想を言えば、意識の焦点が上昇すると、私たちがここで何をしようとしているのか分かるようになるのです。で、縦方向の教えと横方向の教えが調和するのが望ましいという理念は昔からあったのですが、実際にはどちらかに偏った教えが多く、本当に両者が調和した教えが具体化したのはかなり最近のことだと思います。縦に偏ると人間生活を否定する形となり、横に偏ると自分で創造するのではなく他人から奪い取る魔術の形となったのであります。その結果、縦方向で行っても横方向で行っても人間性はほとんど向上しなかったように思われます。家庭や仕事を通じて自ら美の世界を想い描き創造しつつ、神様に心を向けることが縦横の調和する具体的な生き方です。私自身は極端に縦方向の教えと極端に横方向の教えを両方学んだんですが、あいのほしでは縦横の調和する教え、少なくとも一方に極端に偏っていない教えのみをお勧めしております。人間性が磨き出され輝いて行くことが、私たちが生きている目的だと信じるからなんであります。

どうしたらいいんだろう

スピリチュアル業界の門を叩くことになる人には、何かしら具体的な理由があるのが普通だろうと思います。この病気をどうやったら治せるだろうとか、親子関係で悩んでいるとか、「どうしたらいいんだろう」というところから入るのではないでしょうか。御多分に洩れず私自身もそうでした。で、もちろんあらゆる問題を解決してあげますよ、というサービスがこの業界には溢れているわけです。ヒーラーさんなりティーチャーさんなりにお金を払って、小一時間お話しすればすべて解決するんであれば、こんなに楽なことはありません。始めは誰でもそういう期待を持つのが当たり前であります。あいのほしでは問題が解決するしないに関わらず、自分ができると思うことはすべてやるといい、という方針でお話ししています。するとやがて「どうしたらいいんだろう」という気持ちは消えて行くんであります。そこまではともかく自分で努力するということです。理想を言えば、そうこうするうちに基本が身に付いて来るからなんであります。科学の世界と一緒で、応用分野というのは何も知らなくてもとりあえず入っては行き易いんですが、不測の事態には手も足も出ないということがあります。基礎がある人は、何をどうすればいいのか考えるためのツールを持っていることになります。子供の頃にヴィヴェーカーナンダさんの全集とかハズラト・イナーヤト・ハーンさんの全集とかを読まされたら、その時にはそれが何の役に立つのかまったく分かりゃしません。だけど大人になる頃には、知らず知らずのうちにこれ以上ない基礎が出来上がっていて、何が起きてもどう対処したらいいのか自分で分かるようになっているものです。どうせなら、面倒臭くて時間が掛かるように見える基礎を積むことが、実は一番無駄のない行き方だと思うんですがいかがでしょうか。兎と亀じゃないんですが、私の経験から言えば、簡単最新を謳う行き方が一番遠回りになる場合もあるかも知れません。

信念体系のワーク

自分が事実として受け入れている内的現実の総体のことを、精神世界では信念体系と呼んだりしています。自分が信じていることを変えれば現実を変えられるんだ、という考え方が生まれており、その具体的な方法については諸説あるわけです。自分が何を信じているのか自分で認識する必要がある、というのが最初のステップになります。信念体系というのは基本的に潜んでいて、全体像をいきなり掴むことは難しいんですが、常日頃ちょくちょく思う思い方の癖、何かの出来事への感情的な反応、慢性的な体の症状などとして表に現れているものなのです。そっから糸を手繰って自分はこんな風に信じているんだなと認識するに至れば、それを変えるという選択肢が出来るわけなのです。表面的にまったく現れていない思いというものもあり、特定の出来事をきっかけに、自分の中にあるとも思っていなかった感情が出て驚くということもあります。出て来たときが浄化のチャンス、と有り難く思えたら素晴らしいのであります。では自分が固く信じて来た思いの内容を変えたいと決めた場合、どうしたらいいのでしょうか。世界平和の祈り安定打坐の中に消して行くことや、熱を育てる方法の熱の中に投げ入れることをお勧めしています。心理分析的な手法や催眠的な手法は今現在のあいのほしではお勧めしていません。なぜかと言いますと、複雑なものより単純なものの方が良いと思うからであります。心をきれいに磨いて行くことが現時点で一番重要と考えておりまして、それは普通一夜にして起こるものではなく、こつこつ地道に成し遂げて行くものであると感じております。

瞑想の道

どの道を行っても最終的には瞑想に集約されるという訳で、王道というような意味でラージャ・ヨーガと呼ばれているそうです。瞑想のようなものが自然に起こるようになる、という言い方がより正確かも知れません。心というものは何かを強く求めているうちは自制することが出来ません。抑圧して潜在意識内に封じ込めようとしても、別な経路で爆発してしまうわけです。なのでやりたいことは気が済むまでやり抜くという一応の方法を採るわけであります。で、飽きてしまうかより良い何かを見つけたりすると、心は掴んでいるものを放すということが自然に起こります。心の停止とまでは行きませんが、静かになるとか落ち着くという瞑想状態が期せずして起きるんであります。感覚を断ち切るということは文字通り絶命を意味していて、普通そこまで行くことありませんが、感覚に心を捕らわれなくさせるというのが、瞑想が深くなって行くプロセスであります。特別な才能がなくても誰でもここまでは来られるのです。誰でも心の平安を得られるのであります。ただ、潜在意識に溜まっているものの大小は個人によりますので、そこの難しさだけがあるのです。七〜八時間平気で瞑想していられる、それが苦になるどころか楽しくて仕方がないという人は、他の道には脇目も振らずに瞑想の道を行くのが合っています。で、悟りや光明というのは私たちの努力で到達できる境地の遥か彼方にあるものであり、人間の側に選択肢がある訳でもありません。基本的に望んで得られるようなシロモノではないので、心に興味を持たせないようにするのが良いと、あいのほしではおすすめしています。

仕事の道

行動や行為を通じて神に至る仕事の道というのがありまして、インドではカルマ・ヨーガと呼ばれています。成功や報酬を期待することなく、世のため人のためになる仕事を全力でやる態度というのは、実は神様の気持ちとまったく一緒なので、知らず知らずのうちに神様と一体になってしまうという方法なのであります。自分を犠牲にしろという意味に聞こえてしまい兼ねないんですが、そうではなく、自分も他人も同じように大切にするのが神様の気持ちなので、自己犠牲的な態度というのはカルマ・ヨーガからはやや離れてしまいます。ここで、例えば年収が一千万円あったとして、それをどう配分して使うのが正しいのか、という実際的な問題が持ち上がります。自分と家族のためにそこから三百万円使うのは多いのでのでしょうか、少ないのでしょうか。一千万円をまるまる放棄するという考えもありますが、そうすると今度は自分が誰かに養ってもらわない限り生きていられないことになり、仕事の道としては正しくありません(出家している場合は別)。では、自分の生活費を差し引いた残りのお金をどう使ったらいいのでしょうか。困っている親戚を助けるのがいいでしょうか。慈善団体に寄付するのがいいでしょうか。それともどこかの事業に投資するのがいいでしょうか。神様の視点を持ち合わせていない限り、何が正しくて何が正しくないのか判断するのが難しいのではないでしょうか。ですがそこは常識的な判断でいいんであります。家族を助けるのはいいことですが、いくら家族を喜ばせるためであっても、宝石をやたらに集めたり別荘をいくつも持ったりするのは、カルマ・ヨーガの観点ではよくありません。自分の知り合いや地域のために、できる範囲でお金を使うのはいいことです。自分が好きで得意なことを、一番世の中のためになると思う方向で生かして行くのはいいことです。で、その結果を期待しちゃいけないということなんですが、そこが一番難しいところで、私たちは大概どんなに頑張っても、ちょっとは期待してしまう気持ちを消せません。それができる人だけが仕事の道で完成するわけでありまして、他の道を行った人と比べて、人々を感化し育てる力がとても強いのが特徴です。世の中を変えて行く力になるわけです。

知識の道

若いうちにしか出来ない、と言うと異論が出るかも知れませんが、やる気とエネルギーが必要だからこそ、若い頃に取り組むべきなのが知識の道、インド哲学で言うジニャーナ・ヨーガであります。これは私が思うに、どうしても知りたいと思うことを研究し尽くし、どうしてもやりたいと思うことを気が済むまでやり尽くすことによって、結果的に神に至る方法であります。「私とは何か」というのが有名な問いですが、これを公案のように考え続ければいいわけじゃなく(それが唯一知りたいことである場合は別)、私が思うに、自分の中にある疑問を虱潰しに解いて行く必要があります。疑問が多ければ多いほど一生懸命学問しないといけませんが、その度合いは人によります。気力がなくなって中途半端で終わってしまうのを、こだわりが取れたからだと言い訳してはいけません。知的な探究だけじゃなくて、海外旅行のようなことも含めて経験してみたいと強く思ったことは実際にやらないといけません。気力がなくなって何となく満足した気持ちになれば終わりということではないのです。なので十代二十代、せいぜい三十代までに集中して行う必要があるわけです。四十代以降になると、社会的な条件や個人的な理由で実行が困難になるのは明らかなことだからです。知識の道は、いわゆる知的好奇心、知りたいという気持ちが人一倍強い人に向いています。もともと知的な関心が薄い人、ものごとを知りたいとあんまり思わない人には合いません。ただ、教養としてジニャーナ・ヨーガがどういうものなのかを知っておくことは誰にでもお勧めできます。教養があるのとないのとでは、長い目で見るとやっぱり差が出て来ます。カジュアル過ぎる本だと全然違う方向に誤解してしまう可能性があるので、ここはヴィヴェーカーナンダさんがお書きになったものを読むのが一番適切だろうと思います。すらすら読める類いの本ではありませんが、読んだら読んだだけのものが必ずあります。

信愛の道

インドに信愛の道と言うかバクティ・ヨーガというのがあって、これは神の属性を多く顕している人を信仰することによって神に至る方法のことを言います。キリスト教では本質的にこの道を辿ります。ヒンドゥー教は信仰の対象になっている神様がいっぱいいるので、日本人は八百万の神と同じような意味での多神教なんだろうと誤解してしまいがちなんですが、ヒンドゥー教では神の化身をバクティ(信愛)の対象にしていると理解するのが正しいと思います。カトリックでお気に入りの守護聖人を信仰したりするのは、日本人としてはご利益目的のお守りとまったく同じか似たようなもんだろうと解釈しているフシがありますが、守護聖人もまたバクティを捧げる対象として置かれていると理解するのが正しいでしょう(私たちとは歴史が違っており、それゆえ遺伝が違います)。何も知らない私ですから間違っているかも知れないですが、歴史的に見て日本にバクティが現れたことはなかったように思います。少なくとも大きな流れになったことはなかったようです。だからこそ、インド・ヨーロッパ語族の宗教文化の中にある信仰を、日本人は一種の思想や哲学と捉えてしまうのであります。信仰というのは考えではなく生き方であって、バクティとは命を捧げることです。この経験が欠如しているために、日本人はこの分野で大いに遅れを取っているのです。神の化身を信仰するのと、ロックスターや映画俳優を熱烈に信奉するのと、どこが違うのかと言いますと、大衆文化的なアイコンは楽しさや狭い意味での自由を象徴しているのに対し、化身というのは誠実さ、美しさ、調和というような性質を顕現する完全な人間であると言えます。神に心を向けることが目的のすべてなので、信仰の対象が例えば、歴史的事実がはっきりしない伝説的な人物のイメージであっても構わないんであります。手掛かりの多い最近の人物である方がやり易いと言えますが、自分が心の底から尊敬し信頼できる人を選ぶ必要があります(信仰は自発的なものであって、押し付けたり押し付けられたりするものであってはいけません)。いろいろ調べてほんのちょっとでも疑いが残る人物は、バクティの対象として無論ふさわしくありません。そのような人を誰も見つけられないなら、信愛の道は自分に合っていないと結論して良いでしょう。他にもいくつか道はあり、特に有名なものでは知識の道(ジニャーナ・ヨーガ)があります。

お手本

本で読んだり話を聞いたりするのと、実際に経験するのとでは、大きな隔たりがある場合があります。スピリチュアル業界では、いわゆる悟りや光明といったものを「何でもない普通のもの」と表現するティーチャーさんもいらっしゃるように聞きますが、私が思うにどうってことないどころか、それがどういうものかもし事前に知ることができたとしたら、すべてを犠牲にしてでも得たいと自然に思えるほどの宝なのであります。私たちが見て知っているものからでは想像もつかないようなシロモノであり、事実想像できないわけです。だから何でもないものという話になってしまうんだと思います。私が思うに、生身のお手本が絶対に必要だと思います。本物の覚者というのは想像を遥かに超えるような素晴らしい存在である、とそのような人物に出会えた人は口を揃えて言うでしょう。せっかく出会えても覚者と気づかず、くだらない人物と思って通り過ぎてしまう人も多くいます。ちょっと関われるだけでも大チャンスなのに、まして直接指導を受けられる機会はまさに千載一遇と言えるものでしょう。だけど、それで悟りが開けるわけでもないのです。多くの場合、疑いの気持ちや古い信念が覆いとなり、それを取り除かない限り進展がありません。せっかくの覚者とのご縁を無駄にしてしまうのは往往にしてあることです。疑うことを知らない子供のような気持ちにならない限りダメなんであります。これは始めから疑うなという意味ではなくて、まったくその反対に、自分の中にある疑いに一つ一つぶつかって解決して行かなくてはならないという意味です。ですから多くの場合長い時間がかかって当然であります。覚者とのご縁があってこれなんですから、何もない私たちはどうすればいいんでしょうか。今の時代、覚者を探して歩くのは危険なことでもあります。やはり、精神世界云々に関わらず、心のきれいな人や正しく生きようと努力している人と交流することから始めるのが良いだろうと思います。

成長する

魂の成長という表現は、精神世界では何気によく使われますが、それが本当は何を意味するのかは結構謎だったりします。具体的に何をどうすれば魂の成長に繋がるのでしょう。魂が成長したことを示す兆候はあるのでしょうか。超常的な能力が出て来たり、ものごとが急にうまく行くようになれば、魂が成長した証拠だと言えるでしょうか。一つには、成長というものを認めないというか、全否定する考え方もあります(現世否定的な伝統)。そういう感じの教えをするティーチャーさんご自身が、新しい知識や経験を拒否する生き方をされているのなら、言っていることとやっていることが一致しているので、問題はありません。そうでないのなら、その考え方は間違っていると言わざるを得ないでしょう。子供を見ていれば一目瞭然ですが、私たちには新しい知識や経験を積極的に獲得して行こうとする自然的傾向があります。「何も足さない、何も引かない。ゼロのままがいい」なんて言う子供を見たことはありません。そういうことを言うのは哲学者か宗教家だけではないでしょうか。だけど、成長するということを哲学的に言い表そうとするとひどく難しいわけです。神様の方向に行く、とか全体が調和する方向に働く、とか言葉にするとすごく簡単なんですが、分かるようで全然分からないわけです。かく言うあいのほしそのものが、今思い返せば笑ってしまうような、訳の分からない大げさな概念で世の中に貢献しようと頑張っていたんです。結局のところ、本当に人に喜んでもらえる、いやすべての存在物に喜んでもらえるような生き方を具体的にできなきゃ、スピリチュアルな概念は何の意味もありません。別の言い方をすれば、自分の幸せがすべての人の幸せに繋がって行くような立派な生き方ができるようになることが成長だ、と言えると思います。そこに結び付いて行かないものは、すべてこだわりということになります。スピリチュアルが意味のないこだわりになってしまっている場合が多いように思います。成長したいと願うなら、余計なこだわりをすべて手放すことが必要なように思います。

人を助けるには何が必要か

人助けという言葉はよく使われますし、誰かの助けになりたいと願うきれいな心の持ち主には拍手を送りたいと思います。助けたいという純粋な気持ちが相手に伝わることで何かが変わる、という心の交流の可能性を否定したくはありません。が、実際問題として、病気や借金や依存症に苦しむ人を、思いやりの気持ちだけでは助けられないことも事実ではないでしょうか。人を助けたい気持ちから何かを始めても、自分の中に持つべきもの持たないと、挫折する結果になります。それは残念なことだと思います。一つには、お金や物資で援助するという方法がまず考えられます。何もないよりはマシです。でも、スピリチュアルティーチャーとして人を幸せにすることを目指すのなら、持つべきものが他にもたくさんあります。まず第一に、自分自身が、それが何を意味するのであれ、大きな変化を経過しているということが前提になります。科学的な根拠が全然ないんですが、変化を経過した人というのはある種の磁場を発生していて、それが周りに寄って来る人に変化を誘発するんだろうと思います。パワースポットみたくなっているわけです。頭が良くて情報処理能力が高ければ、自分が変化を経過してなくても道を説くことはできますが、それで救われる人がいるとすれば、始めから大した問題のなかった人なんだろうと思います。スピリチュアルを言うなら、不幸な人を幸せにするくらいじゃなきゃいけません。で、スピリチュアルティーチャーと言うからには、何が本当の幸せなのかという定義について、一本筋の通った哲学を持たなければなりません。相手が欲しいと思うものを何でも与えてあげれば、その人を幸せにできるでしょうか? そういう問題について何であれ結論を出せていなければ、人を助けることはできません。次に、一つの病気に対して複数の治療法があるのと同じように、できる限り多くの技術や方法を心得ていることが望ましいんであります。人を助けたいと本当に思うなら、できるだけ多くの人を助けたいと望むのではないでしょうか。もし一つの方便が究極だとか唯一の道だとか主張する人がいるとしたら、それはこだわりであり、あまり多くの人の心に触れることはないでしょう。だからスピリチュアルティーチャーになってからも勉強を続けるべきです。身体的アプローチは何か一つ習得していることが望ましいように思います。ジャン・クラインさんのカシミール・ヨーガ、アレクサンダー・テクニーク、フェルデンクライス・メソッド、太極拳など、まあどれも難しいものばかりですけれども、私たちは日本人なんですから、野口晴哉先生の「活元運動」ができると特にいいんじゃないかと思います(ちくま文庫から出ている『整体入門』を参照のこと)。呼吸法の指導ができることは言うまでもなく重要で、必須の能力だと言えます。臨床心理学のテクニック、フォーカシングハコミセラピープロセスワークの基本を習得しておくと役に立ちます。医師免許や公認心理師の資格を取れるようであれば当然ベストだと思います。スピリチュアルティーチャーになるというのはもともとハードルの高いものですし、そうあるべきであります。だからこそ、思春期から準備を始めることが必要だと思います。