説明

スピリチュアルティーチャーさんにぶつけてみたい質問の代表格として、自分が人生で体験して来たこと—大体はよくない体験だと思うんですが—の説明を求めるというのがあります。で、その体験の意味はこうですと言われるのであれ、意味なんかないですと言われるのであれ、その回答に心から納得できることはまずないだろうと思います。言葉で説明しようとしたら、何であれそれは知的な解釈の一つに過ぎません。何かについて意見を言うということは、基本的には潜在意識の中にあるすべての経験から自動的に導き出される情動的な反応であるか、あるいは言葉の上で論理的に導き出される結論のどちらかでしょう。これではどこまで行ってもものごとの本質を捉えることは出来ません。哲学用語で観るという漢字を使って直観と言うそうですが、愛の目で見ることによってものごとと一体になり、直接知る・分かるという作用が、いわゆる人間の知性や論理の上位レベルにあるのです。これだとものごとの本質を知覚していることになり、解釈を差し挟む余地がなく間違いということがありません。事実確認をすれば100パーセント正しい、というのが直観であることの証明になります。私たちが本来スピリチュアルティーチャーさんに期待する答えはこれなのであります。小さい子供が何でも分かるわけではないのと一緒で、心を空っぽにすれば直ちに直観できて答えを得られるわけではないのは、みなさんも既にご存じの通りです。潜在意識の中身は一瞬ではきれいにならないですし、段階は人それぞれです。パッと何かを感じるというのは、たいてい感じるという漢字を使う方の直感で、過去の経験から来ます(いわゆる女の勘や野生の勘というのは、稀に直観である可能性もありますが、ほとんどは直感であると言えるでしょう)。観る方の直観には情動が伴いません。より繊細な知覚であって言葉で来るわけではないので、何か素晴らしいものを観てもそれを正確な言葉で表現できるようになるまで二十年三十年かかるのが普通だと思います。

美しい暮らし

日本の住環境が美しさの面で諸外国から大幅に後れを取っている、とよく言われます。昔の建物は一般的に火事や地震に弱かったという点は否めないので、特に戦後はとにかく火事や地震に強く、価格的に安く作れるという技術面が優先されたのも無理はありません。だけど、あまり美しくはありません。卵が先か鶏が先かじゃありませんが、美しい家に住んでさえいれば心も清くなるということはないものの、心が美しい人は必ず住環境も美しく調和しているものなので、変な話ですが商業ベースの建築様式をより美しいものに改善して行く仕事は今後有望である可能性があります。よく考えてみれば当たり前のことなんですが、日本のいわゆる伝統的な色や形の中には普遍的に美しいものが幾らもあるので、まずはそれを徹底的に学んだ上で、そこをベースに現代の建築技術や加工技術を加味すればいいと思います。ヨーロッパみたいに普遍的に美しい色や形を繰り返し使って行くことが様式美になるので、同じように日本の様式美を生み出して行けると思います。侘び寂びというのは禅の考え方が入って来るので、侘び寂びを生活様式に取り入れることによって人間性が向上するという確証がない以上そこに戻る必要はないかも知れませんが、今の建築は写真写りを気にするあまり、自然光の明暗を考慮に入れなさ過ぎる傾向があるように思われます。日本人的な感性に響くような住まい作りを、現実的にあまりお金がかかり過ぎないようにポイントを押さえてやって行く必要があるかと思います。

言葉と本物

一般的に言ってものごとをあまり深く考えない私たち日本人にとっては、哲学から始めるのはいいことだと思うんです。中等教育で、哲学者の難しい概念を教えるんじゃなく、人生をどう生きるかということを、正解はないという前提で自分の頭で考えさせる(つまり自分で考えるやり方を教える)授業をやったらいいと思います。で、いろんな哲学を頭で理解できたということは第一歩としていいんですが、それを言葉で語ることで満足してしまう傾向がこれまではあったわけです。言葉で説明できるのと、実際にそれを生かすのは全然別物だ、という実感が切実になって来ない限り、私たちは向上しないのではないでしょうか。クンダリニーが目覚めて権能獲得と言ってみたり、ワンネスを悟って全託と言ってみたり、結局はまったく同じ大安心の境涯のことを、一方は現象面から、一方は精神面から表現しているだけだろうと思うんですが、知的に考えたらどこをどうやっても矛盾しているようにしか聞こえないので、全然違う二つの道なんだろうと結論してしまうかも知れません。もしも間違ったことを教えられても、間違いに気づかないまま終わってしまうという状態です。覚者と一般人との大きな隔たりを埋める中間層を育てて行かないといけないと考えます。究極意識とか神通力までは分からなくても、人生は心の置きどころ言いますか、心的態度がすべてだと分かっているというのが、ここで言う中間層の人であります。雲を掴むような目覚めや悟りで人生大逆転を狙う人を増やすよりは、平凡であっても何はともあれ安心していられる人を増やす方がいい、というのがあいのほしの考え方であります。

故郷

「誰か故郷を想わざる」という歌詞の通り、生まれ故郷というのはほとんど誰にとっても特別なものではないでしょうか。それには純粋に心情的なものだけではない理由があるような気がいたします。私たちは生まれた時点でクンダリニーとは繋がっていないのですが、その代わり産土神の言い伝えの通りに、生まれた土地のエネルギーと繋がっていると言えると思います。この繋がりはほとんどの場合一生涯切れることがないようです。人生で何をやりたいかとか、誰と出会うかというような要素は、この土地のエネルギーから割り振られて与えられていると考えることも出来ます。地球に意識があるとすれば、全体のバランスを調整しながら人間一人一人に役割を与えているわけです。ところが、何らかのきっかけで土地のエネルギーとの繋がりが突然切れてしまう人がいます。人間社会の中での役割から解放され、故郷のない自由人になるわけです。タロットで言えば愚者のカード、トランプで言えばジョーカーがあるということは、大昔からそういう役目を与えられる人が一定数いたことを示唆しているようです。土地のエネルギーから切り離されるところからクンダリニーの目覚めがスタートして、クンダリニー・ヨーガのゴールはその遥か先にあります。最初のステップの衝撃で正気を失ってしまう人もあり(いわゆるクンダリニー症候群)、クンダリニー・ヨーガは狂気を孕んだ危うい道であると言われる所以です。土地のエネルギーというのは、私たちが生きているという実感を持って正気でいられる基盤になっているんであります。それを失うということは、そういうことです。私が思うに、クンダリニー・ヨーガは真面目な修行というよりか、強烈なメッセージ性を携えて危なっかしい人生を駆け抜けたロックスターの生き様に近いものがあり、実際にいわゆる悟りに近い状態まで行った人もいます(例えばボガンボスのどんとさんやフィッシュマンズの佐藤伸治さん)。ジョーカーとして生きるのは楽な道ではなく、大きく言えばそのような役割もまた、神様に与えられるものだと思います。

オイル治療の可能性

禊と言いますか体を清めることは、霊性の道において人によっては大事になって来ると思います。で植物から抽出するいわゆるエッセンシャルオイルに、気と言うかエネルギーの詰まりを解消する効果があると個人的に感じています。エッセンシャルオイルにはたくさん種類があって、足の裏など直接肌に塗れるオイルと、オリーブオイルなどに少量溶けば肌に塗ることができるオイルと、どんな場合でも肌に塗るべきでなく香りだけを利用するオイルとあるわけです。気と言うかエネルギーの流れは人それぞれ全然違うので、どういう場合にどのオイルが効果があるのか見極めるのは至難の技と言えましょうが、国や文化によっては代替医療として使われる場合もあると聞きます。私自身の経験から言いますと、特定の植物に含まれる特定の成分に薬効があるという解釈よりは、エッセンシャルオイルに含まれる多次元の光が体のいわゆる自然治癒力を引き出すという解釈の方がいいんだろうと思います。好転反応(瞑眩)と言うんでしょうか、病気が進行するのと逆の順番に症状が出て来るというのも私の経験ではある程度本当で、治療と言うよりも治癒という表現の方がしっくり来ます。治癒に向かう時の症状はとても辛いものになり得るので、この分野を日本ではほとんど誰も探究していないのも頷けます。他人の体で試すわけに行かないので、自分の体で実験するしかなく、現時点では結果どうなろうが完全に自分の責任でしかありません。ある人には劇的に効果の出るオイルが、別の人にはまったく何の反応も出ないか、強過ぎてアレルギー反応が出る場合もあり、まずは体力を回復するための別の方法が必要であるとか、いわゆる好転反応の症状を緩和してあげるために別のオイルをブレンドして使うとか、専門家になろうとしたら学ぶことがたくさんあるでしょうが、将来的には素晴らしい成果が期待できると思います。

クンダリニー

クンダリニーとはサンスクリット語で創造エネルギーというような意味で、インド哲学はこのクンダリニーを如何にして目覚めさせるかという問題を中心に成り立っていると言っても過言ではないでしょう。私たちはなぜか生まれた時点ではクンダリニーと繋がっていなくて、根源の生命エネルギーと繋がっていない状態でどうやって生きていられるのか逆に疑問に思いますが、水や空気や食べ物に蓄えられている光を代謝することによって何とか生きられているということだろうと思います。インド哲学では気と言いますかエネルギーの性質を三つに分類しておりまして、サットヴァというのは精神を高める性質、ラジャスというのは物質生活を豊かにする性質、タマスというのは流れを遅くする性質と説明できると思います。専門家ではないので間違っていたらごめんなさい。で、クンダリニーを目覚めさせるためには、どういう訳かサットヴァ性を重んじなきゃいけないということなのであります。そのためには泌尿器、消化器、循環器をみんなきれいにしなきゃいけないので、アーユルヴェーダというのは医療目的であったと同時に、クンダリニーを目覚めさせるという最終目的のために組み立てられたのかも知れません。私が思うに、ある種の植物にはサットヴァ性があり、自然な方法で抽出したエッセンシャルオイルはそのために必要な浄化に利用できます。植物が蓄える光が重要であり、あくまで仮定の話ですが、ある植物から水蒸気蒸留法で抽出した(新鮮な)オイルにはサットヴァ性の働きがあり、化学的に混ぜ物して抽出したオイルにはラジャス性の働きがあり、それをさらに加工して粉にしたものにはタマス性の働きがあるというような可能性があり、この植物はこういう効能という単純な分類はしない方がいいかも知れません。むしろ特定の鉱物の結晶が特定の周波数の光を吸収する性質を利用するクリスタルヒーリングの方が、今の科学では取っ付き易いのではないでしょうか。今まで全然やったことないことを直感的にやってみたくなり、それが思いも寄らないタイミングと方法としてクンダリニーを目覚めさせるための準備になった、というようなことが本来の道筋で、それを本や論文に書こうと思ったら大変な騒ぎになりますが、実際問題としては誰もが導かれていることを信じるのが一番と言えると思います。

二種類の見方

スピリチュアルに興味を持つのにも二パターンありまして、一つは自分が得する情報を求めて入るパターンと、もう一つは世のため人のためになりたくて入るパターンです。すべてを損得で考える人というのは多数派でして、自分が損させられるように思える教えは受け入れません。逆に、自分を犠牲にしてでも人の役に立ちたいと心から願う人というのはかなりの少数派ですが、自分だけが得するように思える教えを受け入れられない場合もあるのです。昔の覚者さん(例えばヴィヴェーカーナンダ師)はそこら辺のとこを弁えていたので、どっちから入っても対応できるように教えを説いていたわけですが、そうとは知らずに正反対の目的を持った人が同じ教典を読んでいるというのが一般的に起きていることです。意識は一つですべてが繋がっているという教えと、現実生活を豊かにするための教えと、一つの教典の中に両方含まれていますが、人それぞれどちらか一方が重要だと捉えていると思います。だけど、あくまであいのほしの考え方でしかありませんが、最終的には両方受け入れないと完成しません。今も昔も基本は変わりないのですが、人生どうなったって構わないとか、すべてを思い通りに実現したいとか、スピリチュアルティーチャーさんが両極端に偏らないように指導できるのが理想です。もっと言えば、国や文化によって特有のエゴの構造があって、まったく同じ教え方をしても、ところ変われば全然違う解釈をされる場合もあるので、その辺りの的確な理解と細やかな心配りが必要だと思います。相手が誰であろうがお構いなしに同じ言葉を繰り返すというのは、今となってはあまりにも古い方法になっていると申せましょう。

集合意識

自然界の例えば蟻の巣とか魚の群れを観察していると、たくさんの個体の集合が一つの生き物のような行動をするので、超常的なコミュニケーション形態が存在しているらしいという意味で、集合意識という仮定がなされることがあります。集合意識というのは今のところ想像上の理論でしかないのかも知れませんが、脳科学の観点から今後数十年の間に証明されると予想されます。人間も動物であるという面があり、普通私たちはそういう風に考えませんが、一人一人にやりたい仕事があるということは、全体から見ると一人一人に役割が与えられているからだとも言えます。ただその役割が多種多様であり創造的であるという点では動物とは異なっております。じゃあ悪いことをする人はその役割を与えられているからかという疑問は、それこそ何千年も前から哲学の最大の争点であったと言えます。ただ考えているだけでは決して解決のつかない問題ですが、私の勝手な意見では、私たちが生きているこの宇宙にはテーマ性があり、それは自由意志の体験を通して慈悲の心を体得するという計画なのであります。それも他にいくつかある宇宙の一つであり、さらに遠大な神様の全体計画の構成要素であると考えられるものです。だからと言って大げさに空想するべきじゃなく、私たちの人生というのはただ単にそういう意義を持つものだということだと思います。

新しい経済学

お金になるかならないかが分かり易い価値の基準になっている昨今ですが、経済学で言う価値の定義って何でしょう? 素人なので間違っていたら申し訳ないんですが、銀行の金利とか利子というのは永遠の経済成長という想定と言いますか、世の中に付加価値が生まれ続けない限り成り立たないのではないでしょうか。農業・漁業・林業・採掘業・工業・小売業といった私たちの生活を支える基本的な仕事の他に、いろんな種類のサービス業が占める割合が多くなっている現在ですが、サービス業が生み出す付加価値を計量することが今の経済学では難しいんじゃないかと思います。知的生産という言葉がありますが、例えば娯楽産業はお金になる限り付加価値と認められていると思います。人の気持ちを暗くし恐怖を与えるのであれ、人の気持ちを明るくし勇気を与えるのであれ、今の経済学で見るのは売上だけで、内容はまったく問わないのではないでしょうか。また、医療産業の規模はかなり大きいのでしょうが、人類の成長という観点からしたら、私たちが健康になり産業規模が小さくなるのが付加価値だと言えるのに、今の経済学では医療産業が拡大することも経済成長に入れるのではないでしょうか。動植物の生態の研究のような、それ自体ではまったくお金にならないような学問がいくらもありますが、そういった要素は知的生産としてカウントされていないように思います。結局、世の中を動かす大きな力を持つと見做されない要素は相手にしないという訳で、私たちの実際生活を価値の基準から正確に計量しようという気がないのではないでしょうか。そんなような議論をあまり聞いたことがないのを寂しく思います。

基本姿勢

信じる者は救われるという言葉はあんまりいい文脈で使われないみたいですが、もし信じられるならもう救われている、というのは本当の話です。すごく難しい哲学的なことを考えて「これも幸せと言えるのではあるまいか」と自分を納得させるのもアリですが、何がどうであれ心がぽかぽか、気楽な気持ちで人生を楽しんでいる人には敵わないのではないでしょうか。そりゃ仕事も家庭も順調で、お金がいくらでもあれば誰だって気楽に人生楽しめるでしょうよ、と一般の人は想像したりするかも知れませんが、精神世界で言っているのはそういう意味じゃありません。少なくとも私たちはそういう意味で言っておりません。仕事も家庭も順調からはほど遠く、健康を害してしまっても、正しい生き方を貫けばいつかは必ず良くなると信じることが出来るなら、たとえ生きている間に夢のような境涯にはならなくても、何の不安もない幸せな気持ちだけ先取りすることは現実に可能なのであります。そういう心の態度を基本にして、何であれ自分が置かれた境遇に即応してやるべきことを淡々となせば、どんな人でも必ず人生に成功できると信じます。秘教的な教えに導かれる人がいるとすれば、そこから先の話です。

共感

この会社に就職したらどうなるんだろうとか、この人と結婚したらどうだろうとか、人生の岐路にあって結果を先に知れたらいいのに、という思いは誰しも持つのではないでしょうか。スピリチュアルに片足突っ込んでるならなおさら、未来を当ててみたいと思うでしょう。で、まずは人間の思いの世界であれこれ予想するわけです。イメージがチラッと見えるとかそういうことも起こりますが、あくまで想像の世界ですから、希望的観測が入れば入るほどまったく見当外れになり、少し客観的になれているなら偶然当たる時もある、といった程度でしょう。次に、知識と経験から勘が働くという場合があります。潜在意識にある程度のデータがあり、そこから導き出される答えなので、頭で考えて予想するよりは当たると言えるでしょう。次に、響き合うという言い方をしたりしますが、愛や慈しみの気持ちが出ている時に突然起きる共感というのがあります。これは普通の人でも一生に一度くらいは限定的に経験し得るものですが、心が空っぽになると全面的に起きるようになるんだと思います。ここで言う心が空になるとは、何も考えてない瞬間があるという意味じゃなくて、人間の業想念を浄めて心が生存本能を超越した状態という意味です。ものごとそのものを見ていることになるので、共感によって得られた情報は、客観的に検証しても100パーセント合っていることになります。精神世界をやっている私たちは、この三つが入り混じった形で未来を予感していると言えるでしょう。本物の共感というのは不可抗力というのが適切な表現であって、そういう能力を得たいと思うのは本質的に的外れだと言えると思います。

波及効果

すべては繋がっている、とまともなスピリチュアルは説きますが、実際自分が関わるすべての人が幸せになるというのが、理想中の理想だし王道であります。ある教師や団体と関わって行く中で、理由が何であれ自分の家族が離散して行くようなら、その教えは本物でない可能性が高く、疑い始めるのがいいような気がします。ヒーリングやセラピーのようなものを習っても、自分の親兄妹が病気になった時にその方法で治らなければ、一番大事な時に何の役にも立たなかったことになるのではないでしょうか。ガッカリなんてもんじゃありません。誰かを癒したいと思う気持ちは尊いものですが、願うだけではどうにもならないこともまた事実です。自分が何か一つ乗り越えたとき、こだわりが取れたとき、愛の気持ちが出たとき、最初に血の繋がりのある家族や一番身近にいる人たちに嬉しい波及効果があるのは本当です。すべては繋がっているとは具体的にそういうことなのであります。何の変化も出ないようなら、自分が独り善がりになっている可能性を疑った方がいいと思います。家族に良い影響を与えるという事実を知ることが、心の浄化に取り組むためのモチベーションになる人もいると思うので、こんな話をしています。自分の心が軽くなることで、世界のどこかにいる知らない誰かの心も期せずして軽くなるというのも本当です。逆に言えば、自分が知らない誰かの恩恵に浴していることもあるのです。いずれにしろ、心の世界の取り組みが無駄になることはありません。

あなたと私

個別の自分というものは本当はなくて、私が私と思っている私と、あなたが私と思っている私は同じ私、実は人類全体いや宇宙全体で一つの私であるとしたら衝撃的ではないでしょうか。しかし、そのまさかが真実という訳です。「私はあなた、あなたは私」という考え方はそれこそ大昔からあって、二人でペアを作り、お互いに目を見つめ合いながら「私はあなた、あなたは私」と言うといったワークをやらせるティーチャーさんもいたりしますが、それを裏付ける理由と言うか証拠がなければ、ただの哲学で終わってしまいます。金属元素が光を吸収し、その後だんだん放出するのと同じ原理で、魂が肉体に宿るというのは霊の光を体が蓄えて、だんだん光が放出されると体としては死を迎えると理解することも出来ます。光が一時的に閉じ込められることで、個別の知覚が発生するという驚きの仕組みです。もちろん人間としての私たちが、あなたと私が同じであると悟るための順路は用意されてまして、第一段階はパートナーや親子の愛情を通して与えられるのであります。自分の命よりも誰かが大事だと本当に思う真の愛情というのは、人間が利己的な個人だとすると論理的にあり得ないことなので、私とあなたが同じであることの間接的な証拠になるわけです。次の段階は、誰かが考えたり記憶したりしていることを、完全ではないにしろ分かるようになる能力の発現として与えられます。もちろん簡単に与えられることはありませんが、過去の覚者を調べれば、こういうことは本当に起こることが分かります。それはあなたと私が同じである本格的な証拠になる訳です。

青写真

私たちは生まれて来る前に人生の計画をあらかじめ立てている、お互いに人生テーマが似通った魂が同じ時期に同じ国へグループで転生する、といった話が精神世界にはありまして、そういう見方をすればかなりの程度事実なんだろうと思います。が、そういう話を聞かされたところで人生は何一つ変わらないとすれば、ただのおとぎ話に過ぎなくなるのではないでしょうか。スピリチュアルとは何の関係もない一般の人が見ても、「この人はこれをやるために生まれて来たのかも知れないな」という風に納得させてしまう天才的な人というのがいます。だいたいその通りだと思うんです。青写真がすごくハッキリしていて分かりやすいわけです。なのですが、まずまず平凡というカテゴリーに入る多くの私たちの青写真というのは、具体的にこれこれをやりに来たという種類のものではないのです。ほぼすべての私たちの青写真というのは魂を磨き神性を現すということであって、特定の天職に就かなければそれを実現できないというようなことはないのであります。あいのほしの意見を押し付けるつもりはないんですが、これを理解することはとても重要です。なぜなら、特定の何かをしなければならないはずだと想像して生きていたら、結果的に要領を得ない人生になってしまう危険性があるからです。心を浄め人間性を高めることを人生の目的に定めることは、私が思うにとても意義のあることです。人生の目的として定めていることが真実に近づけば近づくほど、私たちは揺るぎない信念と心の平安とを持って人生を生きて行くことができるからです。別にこれが唯一の答えだという訳じゃないので、最期に本当に有意義だったと確信できそうな内容を、人生の目的として自分で定めるといいと思います。

経験と学び

一般的に経験はたくさん積んだ方が良いとされますが、新しい体験にどんどん飛び込んで行く冒険的な人は必ず人間性が磨かれるという訳でもなさそうだし、どこへも行かずに一つ事をやり続ける職人的な人は全然成長がないという訳でもなさそうです。これはどう考えたらいいんでしょうか? 何も考えないで次から次へと新たな経験を重ねても成長は出来ないし、体験がなく頭の中で哲学するばかりでも成長は出来ないようです。何も理解する必要はないという哲学もありますが、成長したいと思うなら理解というのは重要です。モコモコした泡の中に宝物が埋もれているとして、別に探そうとしなくても宝物はあるにはあるわけです。泡の中に手を突っ込んで宝物を見つけ出して初めてそれが何か分かる、というのが理解するということだと思います。そういう意味で熟考するとか熟慮するといった態度は大事だと思うんです。で、一口に理解と言っても二通りあり、頭で理解するのと心の底から理解するのと違いがあります。精神世界の話を聞くチャンスがなければ人間は成長できないということでもありませんが、既に聞けたということは取り敢えず頭では理解できたことになります。で、その理解が実際に体験として分かるようになるまでに何十年と掛かるのが普通と言えるでしょう。何十年で分かったら優秀と言えるのかも知れません。で、心の底から理解したことを生き方を通して証明するという段階がそっから始まるわけです。生き方として見せることがなければ、誰もその理解が本物であるかどうか判断することが出来ません。人として完成するというのは、その人のやること為すことすべてが愛と調和を生み出して行く姿を見せるということではないでしょうか。

娯楽と実力

自己本位という欠点のある私たちにとって、自分に向き合い人生に立ち向かうのは難しいことです。今考えれば精神世界には娯楽に類するものが多くあり、楽しませてもらっているうちにだんだん現実と向き合えなくなり、行動する気力を削がれてしまったりします。理想を言えば、多少厳しくとも、知らず知らずのうちに何であれ生きる力が身に付き、勇気を持てるようになる教えがいいと思います。楽しむためという考え方もありますが、私が思うに、人生というのは人間性を磨き出し、いわゆる神性を輝かせるためにあり、その過程には苦痛が付き物です。苦痛を避けて通ることは出来ませんが、喩えて言うならば緩和ケアのようなものは実際にございます。これは私個人の意見ですが、瞑想というのは目的を達するための手段ではなく、実は人生の苦痛を和らげる緩和ケアに相当するものだと思います。人生に立ち向かうことこそが、常に道であり方法であるわけです。過去を癒す、悪い癖を直す、誤った世界観を正すといったことが具体的な方法だと言えると思います。人生は最終的に自己の本質を悟り人として完成するためにあり、その過程は基本的に大変であることを重々承知の上で、だからこそ楽しんでやる必要があると身をもって示してくれるティーチャーさんがいたら最高です。大変だからこそ、苦痛を適度に緩和しながら楽しんで生きるというのが、それこそ人生の極意だと思います。進めば進むほど楽になる、要するにエゴの欲望に振り回されなくなる、そういう態度を早い段階で身に付けることが大事だと思います。

イメージと本物

天命を全うすると言うけど、具体的に何をどうすれば自分の命を生かし切ることになるんだろうか? とこういうことが真剣な疑問になって来なきゃいけないのではないでしょうか。何がイメージと言うか幻を追い掛けている生き方で、何が魂にとって本物の価値がある生き方なのか、エソテリックな議論をしようとしたらとても難しい話になり得ます。私たちは誰でも、程度の差こそあれいい格好したいという願望を持っていると思います。単純に言えば、人に褒められたい、評価されてなんぼ、「わーすごいですねー」と言ってもらえるように伝え方を工夫する、都合の悪い要素は排除して完璧な物語を作り上げる、とこういうような態度がイメージの中で生きているということだと思います。良い悪いの判断をせず、包み隠さずそのまんま表現する態度が本物だと言えます。人生でこれだと思ってやっている活動が、もし誰からもまったく評価されないとしたら、それでもそのまま続けますか? その活動への情熱よりも人に認められたい願望の方が勝っているとしたら、人に認められさえすれば何の活動でも構わないということになってしまいます。それがイメージに生きるということです。人に認められなくてもやりたい、それでも続けます! と思うなら本物です。世の中どこに住んでいるとかどんな仕事をしてるとかすべてにおいて、まともな人間であると他人に思ってもらえるという基準で生きている人が多くいます。そんな環境の中で本質的な生き方を目指すのは大変なことですが、私が思うに、後悔することはないと思います。でも、本質的に生きなきゃいけないとは思わないです。あくまでイメージで生きて行きたい場合はそれはそれで構いません。

どこからスタートするか

自分が今子供だったらどうだろうかとよく考えるんですが、要するに子供がこれからの人生で人間性を磨き出して行こうとする原動力をどこで得られるだろうかという疑問です。戦前の修身教育が良かったとは言わないですが、昔の時代の方が魂を鼓舞してくれるような高潔な人に触れる機会は多かったように思います。今は偉人の伝記なんかもあんまり読まれなくなっている気がするし、ましてや道を示してくれる人に出会えるチャンスはほとんどないような感じがします。ぼやぼやしていたら、お金さえあればいくらでも楽しみを享受できる西洋式都市生活の枠内で勝ち組に入ることが理想、と考えられるようになるのも無理はありません。流行っているから瞑想でもしてみるか、と気軽な気持ちでスタートしても、いつの間にか高額セミナーに誘導されるのが関の山という有様です。子供にとってほんとに受難の時代だなと思います。初等教育で、この哲学者がこう言ったみたいな内容を憶えさせるんじゃなく、自分の頭でいろんなことを考えさせることから始める必要があるように思います。その際、人生に対する考えに正解はない、自分の考えを人に押し付けてはいけない、という基本を徹底しないといけません。若ければ若いほど理想的な生き方への感受性は強いので、平凡な大人になってしまった私たちは、少なくとも子供の邪魔だけはしないように気を付けるべきではないでしょうか。

癖と個性

個性を伸ばす教育とか言いますが、ある人が持っている特徴の中で、何が伸ばすべき個性で何がそうではないのか、ちゃんと定義されてないような印象を受けます。これは私の意見ですが、精神世界で言われる叡智というのが個性の正体であって、叡智に至るまでの間に一時的に欠点として現れる性格は、個性ではなく癖と呼ばれて区別されるべきだと思います。なくて七癖とか言いますが、いわゆる過去世やご先祖様の遺伝から持ち越して来ている認識の欠如や世界観の歪みが、癖として現れているんであります。トラウマ的な出来事に向き合えず、理解できないまま終わってしまったことがその原因なのです。アルコールに頼りやすい性格とか、常識的に欠点と見做されるものはいいんですが、「優柔不断なところがかわいい」とか「傲慢なところがかっこいい」とか、本来人間性が成長することで解消されるべき癖に相当するものが、個性と見做されて自他共に認められている場合もあると思います。ましてや、ものごとを所定のやり方で処理しなければ気が済まない神経質な性格とか、頭の中でいちいち人や物を批評する評論家体質とかは、実害がないために癖として認識すらされないかも知れません。認知行動療法的な方法で矯正できるならそれもアリですが、癖というのは理想を言えば、なぜその癖があるのか疑問に思うことから始まって、その根本にある感情に向き合い、何を信じているからそう感じるのかという理解にまで辿り着いたとき、意識のありがたい働きによって自然に解消されるものです。癖そのものは解消されて、それまでの全過程が叡智と言うか個性に変わるというわけです。「あの人いい意味で変わったね」と普通の人から言ってもらえるようにならなきゃ、スピリチュアルをやっているとは言えないだろうと思います。

行程表

人間機械論というのは未だに根強い人気があって、人間は自由意志を持たない機械だという前提の下に話をするスピリチュアルティーチャーさんが少なからずいらっしゃいます。確かに、心にメカニズムのようなものがあり、心を物として扱うことができるなら、あーやってこーやって式の悟りへの行程表を作り易くなります。しかしながら、その線で行けば人生そのものには大して意味がないという結論になるのは当然と言えば当然です。私たちは本当の自分を見つけるために生きている、というのはまったくその通りだと思います。ただ、あいのほしが付け加えたいのは、全員が全員そうだと言う訳ではないのですが、地球に生きている私たちのほとんどは、過去の生き方の誤りを修正するチャンスを与えられてここに来ている、という考えです。そこの理解がないなら、人生に意味があるように見えないのは当たり前のことです。世のため人のためになることをする、というのも他でもない修正のための具体的な方法なわけです。ほんとの真心を世の中に現す必要があるのは、それによって本当の自分が見つかるからに他なりません。考えに考え抜いた大掛かりな慈善計画よりも、純粋で素朴な善意の方が人の心を打つことがあるという事実からも、真心というのは人間の論理を超えたところから来ていることが分かります。それと同じように、社会を変革しようとする活動よりも、自分を癒せたという内面の変化の方が、実は世の中に大きく貢献しているということもあるのです。スピリチュアル業界も何だかんだ言って外面的な現象ばかりが評価される傾向にあるので、気をつけて行きたい点だと思います。

オンラインコミュニティ

インターネットの普及によって情報を得るスピードが飛躍的に速くなったり、遠く離れた人たちと気軽にやり取り出来るようになったりしています。図書館に調べものに行ったり、船便や航空便で手紙を出していた時代と比べると、何かを「知る」という行為に時間が掛からなくなったと言えるでしょう。なんですが、インターネットの使用でコミュニケーションの質が向上したかと言うと、まったくそんなことはないのではないでしょうか。オンライン上のコミュニケーション能力というようなものはないと言いますか、普段の家庭や学校や職場で良い人間関係を築きにくい人がオンラインで不特定の人とコンタクトすると、良い関係どころか犯罪に巻き込まれる危険の方が多いと思います。ユーチューブとかをやるにしても、オフラインで友達を作り易い人、友達を大事にできる人、自分をさらけ出せる人が成功し易いと思います。逆に言えば、始めから経歴を盛ったり偽ったり、イメージを作り上げようとしながら活動する人は、長い目で見たら必ず失敗すると思います。私自身人に好かれるタイプじゃないので偉そうなことは言えないんですが、虚構の上にほんとの人間関係なんて築けるはずもありません。インターネット上でやたら批判的なコメントをする人を観察してみますと、自分の考えに合わない考えを攻撃する感じで、頭の中のおしゃべりと言うか相手がいることを想定できておらず、そもそもコミュニケーションの次元にいないように思われます。思考の中に閉じ籠っているために、現実に何が起きているのか把握できていない状態ではないでしょうか。結局、インターネットはオフラインの世界を代替する手段には決してならないのであります。

歯痒さ

ものごとを思い通りにしたいという気持ちは、人間であれば誰でも持っているものだと思います。大多数の悟りの教えというものは一言で言えば、このものごとを思い通りにしたい気持ちが消えるということでしょう。しかしながら状況をコントロールしようと意志する主体がほんとに脱落したら、その状態で肉体を維持し続けることは出来ないのではないでしょうか。生きていれば何かが欲しいのは当たり前のことで、私が思うに、自由に生きたいという気持ちと、思い通りにならないのを不満に思う気持ちは全然別問題であることを、スピリチュアル業界ではちゃんと区別して語って来なかったのではないでしょうか。思うような結果が出なければ不満や怒りの気持ちが出るのは一見当たり前の反応ですし、そういう歯痒さは潜在意識にどんどん溜まって行って、いつかは必ず体の不調や人生トラブルとして表面に現れて来ることになります。しかし、人生が思い通りにならなくてもまったく歯痒くならない人も実際にいるのです。そうなると、従来型の欲望が不幸の原因という考えは当て嵌まらないことになります。何が違うのかと考えてみますと、よく言われている通りに結局、不平不満が起こりがちな人は「人生そんなにうまく行くわけがない」とか、何が理由であれ「最高の結果は自分に値しない」と信じていて、何とも思わない人は「思ってることはいつか必ず実現する」とか「表面的にどう見えようが常に最善のことが起こっている」と信じているということなのです。「汝自身を知れ」とか言いますが、今も昔も、自分が何を信じて生きているかに気付くことが精神世界の王道なのであります。

自己肯定

自己肯定感を高めるというような話が、スピリチュアルに限らず広く語られるようになって来ていて、いいことだと思うんです。なんですが、スピリチュアル業界では、相対的な自己肯定とほんとの自己肯定を分けて語る必要があるように思います。「これがこうだから自分は素晴らしい」式の、何かしら理由や条件があっての肯定が、相対的な自己肯定であります。理由が何であれ自己否定感が強い人は、まずこのステップから始めるのが真っ当だと思います。どんな小さなことでもいいから自分のいいところを毎日十個ノートに書く、というような方法がそれです。自分の考え方の癖に気づくためにやる必要があるわけです。次のステップは、自分の欠点や過ちを受け容れる、自己受容というやつです。これはもちろん、自分の欠点を肯定するという意味ではありませんので注意してください。自分に欠点があることに気付いてそういうものとして認める、可能な場合には過ちの償いをする、その上で自分を責めないというのが、ここで言う自己受容の意味です。で、最後のステップは、純粋無垢な性質が自分の本心であることに気付き、そういうものとして現実を生きて行くというものです。そうなって初めて、スピリチュアルで言う自己肯定が出来たことになります。インスピレーションを与える存在とか言いますが、一挙手一投足が人に良い影響を与えるような状態に、私たちはなれる可能性があるのです。

性的な自分

性をどう扱うかというのが人類の歴史を通して最も難しい問題であった、と個人的には思います。究極的には性的指向云々ではなくて、自分を自由に表現するということだと思うんです。ところがあらゆる宗教では、禁欲であったり自分そのものを否定する考えが常にあったわけです。もちろん元々は明確な目的があってそういう教えが説かれたのですが、それは特定の段階に来ている修行者に向けた言葉であって、誰にでも適用するべき話ではなかったように思います。変な話になりますが、準備の出来ていない人が性を抑圧したり、(恥ずかしさや罪悪感から)性的な自分を表現することを恐れたりすることによって、チャクラで言えば二番目のチャクラを明け渡す格好になり、そこから漏れ出す性的なエネルギーを、いわゆる幽界の生物たちが組織的に採取しているという現状になったのです。性的に問題のない人もいますが、性的な自分を受け入れ、健全に表現することが人生最大の課題である人もいます。そういう人にとっては「自分はいない」というような自己否定的な教えは大きな害をなす危険性があることを、スピリチュアル業界はよくよく認識する必要があるように思います。自己表現がテーマの人に、そもそも自分というものはないと教えたら、壊滅的な結果にしかならないでしょう。二番目のチャクラが課題になっている人はどうしたらいいのかと言いますと、どれだけ長い時間が掛かろうが必ず性的な恐れを克服する、とまずは覚悟を決めないといけません。

人間にできること

すごく変な話になりますが、人間というのは生まれて来た時点で満願成就と言いますか、望みをすべて手に入れていると見ることもできます。それに気づくかどうかは自分次第ということでございます。で、それと同じように、人にもよりますが、私たちはここへ生まれて来たという事実をもって、やるべき仕事の九割は既に果たしたと見ることもできます。人間として生まれて来ることが決してない天使と言うか守護神様から見れば、ここへ来ること自体が大きな貢献であり犠牲です。私たち人間が苦難を強いられていることなんざ御守護様は百も承知で、逆に言えば、始めからそんなに多くを期待していないということなんであります。思えば人間性の成長ということについては私たちは五十歩百歩、何をどう頑張っても一度の人生ではほんのちょっとしか成長できない、というのが大方の事実ではないでしょうか。貧乏出身から社会的に成功したという意味での成長なら割とあったりしますが、もともとモラルの低い人が素晴らしい人格者に成長したという話はほとんど聞きません。だけど、ただ生まれて来ただけで九割は役割を果たせたと考えると、けっこう安心する人もいるんじゃないでしょうか。理想社会の実現という理念を持ち、奉仕活動に身を投じるような生き方は、極めて強い意志の力がある人向けの道であって、ほとんどの私たちには向きません。過去の感情を癒し、潜在意識を浄化することによって、素直な気持ちで正しく生きることが、私たちにとっての王道であると考えます。それが、私たちを通して知らず知らずのうちに仕事が為される具体的な方法なんであります。難しいことをいろいろ考えていると、その分御守護様が援助し難くなってしまいます。

スパイ

生きづらさ、疎外感、孤独感のようなのは多かれ少なかれ青年期に誰もが経験するという説もありますが、それとは全然縁がなくて楽しい青年期を過ごす人もいます。ところが自分はどこにも所属していないとか、極端な話何かの手違いで地球に生まれて来てしまった宇宙人のような気分を持っている人もいます。私も宇宙人歴長いので、幸せというものを大切に考える場合に、こういう気分がいかに大きな妨げになるかということが経験上分かります。これは何らかの任務のためにある組織に潜入するスパイと同じ気持ちなのであります。ましてや自分の所属する組織にも疑問を持ち始め、二重スパイとなった場合にはより深刻です。スパイのような気持ちでいたら、自分の居場所を早く見つけて人生楽しもうとか言われても、出来る道理がないのではないでしょうか。帰りたいとか一人になりたい気持ちが強くなるばかりです。いろんなケースがあるのでこれが生きづらさの正体だとは言いませんが、どうであれこういう気分がいつ生まれたのかを分析してみますと、家族関係などによって後天的に作られたと言うよりは、生まれつきあったとしか言えない場合の方が多いのではないかと思われます。で、こういう気分はもちろん若いうちに修正するのが一番望ましいと思います。じゃどうすればいいのか、というのはやや難しい問題です。まず、何であれスパイのような気分でいたら、何をどう頑張っても、居場所を見つけたとか人生にフィットしてるといった感覚を得ることは絶対に出来ない、という事実を徹頭徹尾理解することが第一歩になります。住みたい地域を見つけるとか、何であれ自分のスタイルを確立するというような外面を整えることはもちろん大事です。外面をすべて整えたけど幸せにならなかった人も実際にいるのですから、最終的には自分の心が決めることだ、ということはあらかじめ知っておかなければいけません。

創造性

アーティストと言うかクリエイティブな職業というのがある種もてはやされるようになって来て、そのこと自体は歓迎するべきなのかも知れませんが、クリエイティブという言葉が実際どういう意味で使われているかを考えてみますと、子供が画用紙に何描こうとか粘土で何作ろうと言う時の創造性からは、随分とかけ離れているように思われます。こういうことをテーマにすれば美術評論家に注目され易いとか、コンセプトが複雑であればあるほど高く評価されるとか、最終的にアートをお金にするための戦略を立てる能力を称して、クリエイティブと呼んでいるような印象を持ちます。芸術家を志す子供がこういう現状を見て育った場合、アートというのは中身よりも自己演出の方が大事だとか、結局お金にならなければ価値がない、といった印象を刷り込まれるのではないでしょうか。西洋美学の枠組みの中では何の意味も成さないけど、岡本太郎さんじゃないんですが「なんだこれは!?」というのが本来の創造性に近いんじゃないかと思うんですが、みなさんはどう思いますか? 良く言えば理知的、悪く言えば権謀術数という、要するに今のアート界も男性社会ということなんだろう、と個人的には思っています。何かを生み出すのも二通りあり、科学的な発明というのが一つで、もちろん私たちはその恩恵を多分に受け取っていますが、もう一つは野生的な感覚と言いますか、何を意味するとかそういう観念では片付けられない表現というのがあるんだろうと思います。

分からない

すべては考え方という意味では、スピリチュアリティも途中までは哲学だと思うんです。そして哲学は難しい学問ではないでしょうか。今振り返ってみれば、もともと言語能力や論理的思考力が普通よりも劣っている私には、難しい理論を理解できるようになることが魅力的に見えていました。だけど、本を読んでも内容があんまり頭に入って来ないんであります。分かろうと努力しても、生まれつきの能力がそんなに高くないので分からないわけです。こういうところに人生の機微が確実に存在していると思えます。哲学を何十年と研究しても結局理解できない、瞑想を何十年と続けても思うような結果が出ない、要するに一生かけて努力しても人並み程度にもならないと分かっているとしたら、それでもあなたはやりますか? やるとしたら何のため、誰のためですか? 自分の喜びのため、と答えられるなら、それは何を意味するのであれ自分の一生が一生で止まらないことを分かっている人です。すると最初から分かっていることを改めて分かろうと努力していることになり、これはとても面白い質問になり得ます。人間は分かろうとする必要はないと私は思いませんが、頭で分かることが人生の目的ではないとは思います。なぜなら、最初から分かっているからです。これもあいのほしの考え方でしかありませんが、神聖な意志というものがあり、私たちはそれを地上で顕現しようとしているのです。

家がない

心理学の夢分析の文脈で、子供の頃に最初に見たと鮮明に記憶している夢の内容が、その人の人生テーマを示唆しているというような説があるらしくて、ほんとに最初かどうかよりも、最初に見た夢は?と聞かれてパッと思い浮かぶというような意味でいいと思います。私の場合、今で言う異世界とか平行世界に迷い込んでしまって、自分の家に全然知らない人たちが住んでおり、帰る場所がなくなって近所の路上で途方に暮れている、という内容だったんです。「なるほどそのまんまだな」と思うわけです。一つは、あなたの人生はこんな風になります、という予言。もう一つは、その人生をあなたはどう生きるか、という問いです。運命と呼ぶかは別として、遺伝の循環によって人生でどんなことが起きるかはだいたい決まっていると言えるのかも知れません。その設定は人によっては変えられる可能性もあるし、ほとんどの場合あまり変えられないでしょう。だけど、その設定をどう生きるかについては自分でいくらでも変えることができるのです。あいのほしが主義主張したいことが何かあるとすれば、この一点のみです。ごく普通の反応だったら「寂しい」「むなしい」「悲しい」で終わってしまうような人生でも、まったく同じことが起きているのに「本当に幸せな人生だった」という結論に持って行くことは実際に可能です。出来事が変わらないなら同じだと言う人たちもいますが、私に言わせれば気持ちの違いは大きな違いです。スピリチュアリティの真髄は、その違いを生み出すことができるものであると思います。

心理学と宗教

心理学と宗教がお互いを補い合うというのが理想的な行き方だと思います。心というのはいわゆる物質と同じように取り扱うことはできないので、いわゆる科学的研究方法をそのまま適用することはできないわけですが、実証的に進めて行く必要があるという点では、科学もスピリチュアリティもまったく同じだと思います。反証可能性と言うそうですが、ある仮説を立てたら、それを証明する方法と共にそれに反証する方法をもあれこれ同時に考えつつ、実証的に研究することが大切だそうです。ところが心理学も宗教も理論が先行するきらいがあり、反証されかねない新しい事実を好まない傾向が、みなさんもご存じの通りあるようです。断言する根拠は?と聞くと、だいたいが「高名な先生がそう言ったから」という理由なのです。心理学から行くにしても宗教から行くにしても、自分の人生を通じて実証するという心の態度が必要ではないでしょうか。自分で体験し得ていない理論について「これはこういうことなのです!」と断言してはいけない、というのが当たり前のようで重要な態度だと思います。集合意識のようなものがある、というのが理論だとすると、自分の心もその集合意識に繋がっていることになります。集合意識の中にある特定の情報にアクセスする方法があるはずで、そういう事実を実証的に自分で体験し得てはじめて、生きた知識になるのではないでしょうか。(既にスピリチュアリティを学んでいるみなさんが)これから心理学を学び始めるなら、まず前段階としてケン・ウィルバーさんの『万物の歴史』が、西洋の学問の発展を概観するのに役立つと思います。でまず最初に、ハコミセラピープロセス指向心理学の基本的な手法を先に身に付けてしまうことをおすすめします。それから、ウィーン学派と言うんでしょうか、アドラーさん・フロイトさん・フランクルさんがそれぞれ顕在意識・潜在意識・霊意識に対応している、と大雑把ながら見ることができるので、三人の著作を満遍なく読みながら、心理学の知識を人生にどう生かして行きたいのか、(偉そうな言い方で申し訳ありませんが)自分の頭でよく考えて方向性を見極めるといいと思います。

価値の実現

価値の実現というのは本来、いわゆる神聖な計画が成就されるさまを表す言葉であります。ところが人間が利己的な欲望を満たす行為にもやはり価値という言葉が使われており、考えてみれば正反対の意味に同じ言葉が使われているという事情になっております。神様の意志というのはもちろん、すべてに利するという方向性でありまして、人間の考える自分一人が得をして、そのために他の誰かが損をするという商業的方向性ではないのであります。そこら辺の区別がついてないと、自然をも思いのままにコントロールできる未来型の理想社会に向かっていると信じる人間が、実は破滅に向かっていることに気づかないのは当然と言えば当然なのでしょう。人間も自然の一部ですから、利己的な人間が増えれば天災や疫病で人類全体が淘汰されるという自然現象が起きても不思議ではありません。考えてみれば当たり前のことが分からない私たちであります。子どもの頃は誰でも自我が未発達なので、みんなの幸せを願うという本心が自然と現れるのであります。いったん大人になったら最後、元の状態には二度と戻らない人が多いというのが現実ではないでしょうか。ちょっとお金ができたら全然必要のないものをたくさんコレクションしたり、自分でも馬鹿馬鹿しいと分かっているのにやめられません。それだけに、人類が抱えている問題は実は大したものではないとも言えるのではないでしょうか。カラスが光り物を集めているという程度の話です。

人生の意味

人生の意味とは何ぞや、とは伝統的な質問ではあるんですが、結論から言ってしまえば、考えていても分からない、ということだろうと思います。とんでもなく頭の良い人たちが寄って集って考え出した哲学が、世界平和の実現にはほとんどまったく役に立たなかったと言えるでしょう。有名な心理学者(フランクル)さんが、私たちが生きる意味を問うのではなく、人生が私たちに何を求めているのかという問いに答えるべきだ(『夜と霧』)、というようなことをおっしゃいましたが、あいのほしもまったく同じ意見であります。どういう訳かあらゆる経験に意味を見出そうとする精神的傾向を持っている私たちですが、私が思うに、実際に意味を汲み取ろうとしているのは神様の方です。新しい理解が生まれるのは必ず新しい経験をした後です。言葉を駆使して巧みに哲学しても、経験の裏打ちがなければ新しい意味は形成されません。堂々巡りの議論になってしまっているわけです。人生の意味とは何かと問いかけて来るスピリチュアルティーチャーさんがいたら慎重になるべきです。あるいは人生の意味はこうですとか、意味はないですといった哲学には慎重になるべきだと思います。そうじゃなくて、人生からの問いに生き方で答えている人たちが清々しいな、と勝手ながら思ってます。

夢と方法

夢という言葉を私たちがどういう意味で使っているのか考えてみますと、要するに自分の好きな職業に就く自由と、自分の好きなパートナーと結婚する自由ということじゃなかったかと思うんです。自分の好きな場所に住む自由、場合によっては外国に移り住む自由ということも考えられますが、これは二義的だと思います。人間の歴史の中で、たったこれだけの自由が未だに得られないのが現実ではないでしょうか。何らかの理由で自由が得られない状況下では、何か奇跡的なことが起こると妄想するようになる、という心理現象があるそうです。つまり夢はあっても方法がない場合にです。これはまさにスピリチュアル業界の現状にもよく当て嵌まるのではないでしょうか。理想の恋人をゲットするとか、楽して金持ちなるといった夢があり、それを叶える方法というのが、何であれ奇跡的なことが起きることをひたすら期待するような内容だったりします。個人的にけっこう恐ろしいことだと思っています。絶対にそうだとは言いませんが、一歩一歩着実に積み重ねて行くような方法なしでは、すべてが一気に解決するに違いないという妄想状態が長く続くことになってしまいます。悟りとか光明というのは全然別次元の話ですが、私たちの実人生に関わることは、小さな達成を一つ一つ味わって行くような具体的な方法が、当たり前の話ですが絶対に必要なはずです。願望実現に関する教えを聞く時には、夢と具体的な方法が必ずセットになっているかどうかに注意する現実感覚を忘れないようにしたいものです。

欠点を直す

誰にでも欠点ってあると思うんです。で、やっぱ心ある人だったら自分の欠点を直したい、直そうって考えるじゃないですか。スピリチュアル云々に関係なくそういう話は出るし、依存症とか深刻な問題もいろいろあると思うんです。そこにどう向き合うかで精神世界の真価が問われると言っても過言ではないでしょう。まず、そもそも問題というものはない、進歩や成長を目指す意味もない、ただあるがままで完璧なんだとする哲学があります。これは極端に自己否定的な人には(暫定的に)有効である可能性があります。ただ、あるがままを認めれば人生すべて思い通りに行くというような、要するに人間の願望を投影した形に捩じ曲げている教えが多いようです。自分の実際生活において極めて都合の悪いことが起きても心を乱されない、というのが本来のあるがままの教えであります。で次に、自分の性格の歪みを矯正するためのアプローチが各種あるわけですが、実際問題自分の性格を変えるというのはとても難しいことであります。自分に欠点があることに気づくというのが第一歩ですが、気づけたということ自体とても素晴らしいことです。他人に指摘されて「ああそうかね」と思っているのは気づけた状態ではなく、その欠点が人生すべてに影響して来たのがハッキリ見えるという状態が、ほんとに気づけたということであります。で、自分はこんなに悪い人間だったんだということが一旦分かったら、いつまでもクヨクヨ考えずに、意志の強い人だったら自分で直す努力をする、自分にそこまでの力はないと思えば神様に委ねる、という二通りの方法があります。意志の力で直せるのはかなりの少数派と言えましょうが、自己分析が充分に深い人だったら可能であります。そこまで出来ない私たちは、自分を責めずに気づきを深めて行くことで、自然に直って行くんだと信じるのが一番の近道だと思います。

楽しいだけじゃ物足りない

風に飛ばされるちり紙をひたすら追い掛けているというのが、これまでの私の人生の要約であります。追い掛けるそばからどんどん飛ばされるちり紙ですが、仮に捕まえられたとしても、そこに何かいいことが書かれているなんてことはあり得ません。そんなこと分かり切っているはずなのに、まだ追い掛けているわけです。人生のスピリチュアルな意義を追っているつもりなんですが、実のところ何をどうすればいいのかまるで分かっていないんです。突き詰めますと、自分は人とは違って特別だと思いたい性格が原因であったと思います。天界だの神界だのと呼ばれる別世界に自分の言動が影響を与えているみたいな、ニューエイジの大げさなコスモロジーに惹かれたのはそういう訳だったと思います。大げさであればあるほど、自分が特別になったような気分に浸れるからであります。自分が特別な役割を果たしていると真剣に思い込んで生きている(私のような)人が、実際にはまったく誰の役にも立っていないことはあり得ます。スピリチュアルなんてまったく考えもしないような人が明るく楽しく生きている方が、よっぽど多くの人に良い影響を与えているというのが事実ではないでしょうか。自分がスピリチュアルな世界に貢献していると思えないと物足りない理由は何ですか? ただ単に明るく楽しく生きているだけではダメですか? ちり紙を追いかけるのをやめて立ち止まったらどうなるのか、と考えたらやめられません。「12ステップのプログラム」じゃないんですが、人間の知性では前もって何も分からないと理解する必要があります。後は野となれ山となれです。スピリチュアルな世界観に頼らずに明るく楽しく生きていられるとしたら、実際とても素晴らしいことではないでしょうか。

縦と横

縦横の調和という話は、エソテリックな教えの中には必ず出て来る概念です。縦と言うのは、動物としての人間が生存競争をしているという個別意識を下位としますと、その生存を正に可能ならしめている形而上的な霊意識が上位にあるという考え方です。横と言うのは、私たちの現実生活をより良く豊かなものにして行こうという考え方です。言葉による創造の言い伝えの通り、言葉による表現というのは基本的に横方向の働きであり、それゆえ学問というのは基本的に現実生活をより良く豊かにする目的に結び付いていると思います。縦方向というのは意識の焦点が上に移動することであり、人間の言葉では表現し難いものだと言えます。伝統的には問答無用の瞑想の技法が縦の教えです。理想を言えば、意識の焦点が上昇すると、私たちがここで何をしようとしているのか分かるようになるのです。で、縦方向の教えと横方向の教えが調和するのが望ましいという理念は昔からあったのですが、実際にはどちらかに偏った教えが多く、本当に両者が調和した教えが具体化したのはかなり最近のことだと思います。縦に偏ると人間生活を否定する形となり、横に偏ると自分で創造するのではなく他人から奪い取る魔術の形となったのであります。その結果、縦方向で行っても横方向で行っても人間性はほとんど向上しなかったように思われます。家庭や仕事を通じて自ら美の世界を想い描き創造しつつ、神様に心を向けることが縦横の調和する具体的な生き方です。私自身は極端に縦方向の教えと極端に横方向の教えを両方学んだんですが、あいのほしでは縦横の調和する教え、少なくとも一方に極端に偏っていない教えのみをお勧めしております。人間性が磨き出され輝いて行くことが、私たちが生きている目的だと信じるからなんであります。

気持ちを切り換える

上手に気持ちの切り換えが出来るようになったら、精神世界において大事な技術が身に付いたと言って差し支えないでしょう。難しい話は抜きにして、常に爽快かつ気楽な気持ちでいられたらとても素晴らしいと思います。スピリチュアルを仕事にしている人でも、もし人生がどん詰まった場合には暗い気持ちになる、というのが正直なところではないでしょうか。一つには、視野が狭くなるほど気持ちの切り換えがしづらくなるというのが事実であります。ただでさえ狭いスピリチュアル業界の中で、しかも特定の分野にこだわっていたら、そこに解決策を見出せなければ人生終わりになってしまいます。逆に、視野が広がれば広がるほど気持ちを切り換え易くなるんであります。もちろん、人のあんまりいない自然の良い所へ旅行したりするのもいい方法です。もう一つ、自分が全然知らない業界の人に触れるというのが有効です。ただ闇雲に触れるということじゃなくて、どんな業界にも必ず、人として向上しよう、成長しようという気概を持って仕事をしている人がいます。ほとんどの場合、その業界で一流と呼ばれていると思います。そういう人の話は勉強になるし、与えられた環境の中でベストを尽くすという共通点が見えて来ると思います。広く浅く幅広い知識を身に付けるのは大事なことです。それも百科事典みたいにいろんなことを暗記してるという風ではなくて、実地に触れて経験して行くことが必要です。そして知ったことをすべて生かす方向に持って行かなければ意味がありません。いろんな知識があればあるほど、いろんな人の気持ちを理解できることになり、そうなって初めて「生きた知識」になるのです。スピリチュアル業界で仕事をする人にとって大切な姿勢だと思います。

こだわりすぎ

スピリチュアリティの本質は言葉や概念では表現できない、とはよく言われる話です。だからスピリチュアルティーチャーは自身の生き方でそれを示す必要がある、というのは考えてみれば当たり前の話ではないでしょうか。しかしながらみなさんもご存じの通り、あんまりそうなっていないのが現実でありましょう。人として尊敬できるとか、ああいう人になりたいと思わせてくれる存在こそ、本来のスピリチュアルティーチャーであるはずです。言葉にすることで初めて理解できるんですから、その点で言葉というのも大事なんですが、概念そのものに囚われてしまった時の狂信性がいかに恐ろしいものであるか、歴史が証明しております。元来スピリチュアルはあんまり軽々しく扱ってはいけないもので、私も含めて素人がすぐに教師まがいの発信をしてしまう風潮はけっこう危険だと思います(私はスピリチュアル教育を語る素人といったところです)。スピリチュアルは証明できないから言ったもん勝ちという考えがありますが、間違っていると思います。周囲の人たちの人生を現実的に好転できるという事実をもって、教師の資格をおのずから証明すべきです。それが出来ないのなら、スピリチュアル評論家とかスピリチュアル解説者とかの肩書きを使った方が誠実ではないでしょうか。逆に言えば、自分を評論家とか解説者と割り切って活動している人が、スピリチュアル業界にはほとんどいないのを不思議に思います。

うまく行かない人生の意義

何をやってもうまく行かない人というのはいるものですが、うまく行かないの意味は「お金にならないことをやっている」のとほぼ同義なのではないでしょうか。一般的には、お金にならなければどんなことも成功とは見做されません。「昔自分を虐待した人を許す気持ちになれました」とか「依存症を乗り越えられました」とか「孤独を克服できました」とか言っても、変な人と思われるのが関の山です。それよかSNSでフォロワーが何万人いるとかの方が評価されると思います。だけど、スピリチュアルな観点からすると、誰からもまったく評価されない人が、実は集合意識に革命的な影響を及ぼしている場合もあるのです。いわゆる業が浄まって行く方向に使われるなら、ある種の心理療法やヒーリングはすごく重要だと言えます。集合的な業を消す役割を与えられている人生というのがありますが、世間からはまったく評価されないそうした功績を正当に評価してあげるのも、スピリチュアルティーチャーの本来の役割の一つだと考えます。誰かに掛けてもらった一言で人生の見方がガラッと変わることはあるものです。評価されるべきことが評価されることは大事なんじゃないかと思うんであります。そういう意味でニューエイジの甘言もいいこと言ってると思える部分があるのです。そういう言葉がいわゆる幼児的万能感や自己愛性のプライドを助長するんじゃなくて、勇気を奮い立たせる方に働いたら素晴らしいと思います。

理屈じゃない

言葉にすることで初めて理解できる、言葉にすることができれば理解できている証拠である、というのは人間の知性の枠内での話です。人間社会のすべての問題の根本原因は、自分のお金、自分の力、自分の実績などなどと言う所有感覚であるという洞察は、それこそ何千年も前から為されております。それなのに一向に問題が解決しないのは、言葉にしたことで分かったつもりになっているからだと言えましょう。そもそもこういう洞察が為されるには、人間の集合意識という重力の圏外に出ることが必要です。集合意識の外側に出るにはとても勇気が必要で、それを為し得た覚者さんは常に、理論よりも実践を中心に説いたものです。原因の洞察とその解決策が同時に与えられていたわけで、実践してこそ本物の理解が得られるものです。だけど理屈の部分だけを聞いて分かったつもりになる傾向が私たちにはあります。理屈よりも行動を重視した覚者さんはいつも人気がありません。所有感覚が強くなると人間社会はどんどん凶悪化して来るし、所有感覚が薄くなればなるほど楽園化して行く、言葉にすればとても簡単ではないでしょうか。でも、分かったつもりで全然分かっていないのが怖いところなのです。「自分さえ良ければいい」という考えは勘違いであることが本当に痛感されれば、それ以降の生き方が変わって来るのが当然ではないでしょうか。生き方が変わったという事実だけが、本当に理解したことの証拠になるのです。

一人じゃない

人間は誰でも実は一人じゃない、つまり守護霊や守護天使と呼ばれる存在がいつも傍にいる、という考えがありまして、あいのほしはもちろん肯定派なんであります。そのことが本当に分かれば、私たちは二度と孤独というものを感じないで済むはずなのです。私自身がさんざん苦労して来たポイントなので、あまり厳しいことを言いたくはありません。一生一人を運命づけられていることを現実的に悟ってから、かなり寂しく思った時期もあったことを、言いたくはありませんが認めます。人間同士の愛というのはどんなに高く見積もっても子供の(未熟な)恋愛であって、決して(完全に)満たされるということはありません。それなのに、スピリチュアルティーチャーさんを含め、パートナー探しをやめられないのが実際ではないでしょうか。ご守護様がいるいないがただの哲学的議論になっており、いると思っていてもそう感じられないのが問題なのです。人間は一人じゃないのは本当なのですが、そう感じられなければ何の役にも立たない一つのアイデアに過ぎません。じゃどうすればいいのでしょうか。小さい子供が言われたことを何でも信じるみたいに、ご守護様はいると信じないといけません。するといつかはご守護様の方から手を延ばしてくれることは確実です。想像の産物と言う人もいるでしょうが、もしそれで孤独と永久にオサラバできるんであれば安いもんじゃないでしょうか。根本的に孤独を感じない二人が一緒になれば、明らかに関係の質が別次元のものになるんであります。それこそが大人の恋愛と言わねばなりません。

現実を見る

精神世界では、最終的に成功や完成に至るのは多くて百万人に一人くらいです、というような話が大真面目になされます。百万分の一以下と言ったら、科学的には偶然とか無関係と結論されてもおかしくない確率ではないかと思うんですが、それを誰もオカシイと言わないんであります。方法論を提唱するなら、少なくとも二割以上の成功率を実証して頂きたいものです。スピリチュアルに限らず、あまりに遠くにある目標を見ていますと、目の前にある現実が目に入らなくなってしまい、何も手に付かなくなってしまう傾向が私たちにはあります。ましてや雲を掴むようなスピリチュアルな話は、現実から目を背ける理由になるというのは、昔からよく言われていることであります。まったく実績のない新しい方法論や、最後どうなるのかよく分からない哲学が、この業界には溢れております。人生どうなったって構わないという人が、そうしたものに賭けてみるというのもアリですが、もちろんそれを説いているティーチャーさんが責任を取ってくれることはありません。選んだ責任は全部自分という覚悟が必要であります。無駄に終わってもそれはそれで面白いと、それくらい軽い気持ちでいられるならいいだろうと思います。実際、精神世界というのは一種の賭けというのが事実なんだろうと思うんであります。命のすべてを賭けなければ成功は難しい。現実を見るというのは難しいことです。そんなワケであいのほしでは、一気に高みを目指すよりも一歩一歩着実に積み重ねて行くような方針に、ある種の転向をしたんであります。

工夫

私がまだ二十代の頃に「人生の目的は、愛がないように見えるこの世界に愛を見つけることだ」とどっかで読んだと記憶しているんですが、今もってまったく正しいと思います。どこに見つけるって自分の中に見つけるんだと思うんです。お金や恋愛は幸せとは全然関係ないというのが事実なんですが、それを本当に理解すると言うか納得しない限り、自分の外側に愛を探すことを止められません。外側を探すのを止めましょうと言っているのではなく、外側に探すのが一番目に来るのが人間として当たり前だ、というのが事実です。もちろんパートナーや家庭に恵まれるのが幸せだ、というのは人間として当たり前の事実です。だけど、それと同時に幸せは外側の境涯に関わらず心が決めることだ、というのがもう一段高いところにある事実なのであります。そういう意味で、いくら努力しても経済にも愛情にも恵まれなかった人はチャンスです。何もないのにお腹の底から暖かい気持ち、「ありがたい」という気持ちを持っていられるようになったら、この世で一番得難い宝を得られたと言っていいでしょう。要するに幸せということです。何もなくても心が満たされて行く方法を、自分自身の心の性質に照らし合わせて工夫してやって行く必要があります。待っていても誰かがやってくれることはありません。他の誰かが説いている方法が自分にも合うとは限りません。ある方法が自分に合っているなら、半年も経てば見る見る成果が上がって来るのが当たり前で、そうじゃないならその方法は自分に合っていないということになるでしょう。その方法で効果があったという実証者が沢山いて、今も増え続けているというのなら、自分の実践に真剣味が足りないとか、そもそもやり方を間違って理解している場合もあり得ます。

どうしたらいいんだろう

スピリチュアル業界の門を叩くことになる人には、何かしら具体的な理由があるのが普通だろうと思います。この病気をどうやったら治せるだろうとか、親子関係で悩んでいるとか、「どうしたらいいんだろう」というところから入るのではないでしょうか。御多分に洩れず私自身もそうでした。で、もちろんあらゆる問題を解決してあげますよ、というサービスがこの業界には溢れているわけです。ヒーラーさんなりティーチャーさんなりにお金を払って、小一時間お話しすればすべて解決するんであれば、こんなに楽なことはありません。始めは誰でもそういう期待を持つのが当たり前であります。あいのほしでは問題が解決するしないに関わらず、自分ができると思うことはすべてやるといい、という方針でお話ししています。するとやがて「どうしたらいいんだろう」という気持ちは消えて行くんであります。そこまではともかく自分で努力するということです。理想を言えば、そうこうするうちに基本が身に付いて来るからなんであります。科学の世界と一緒で、応用分野というのは何も知らなくてもとりあえず入っては行き易いんですが、不測の事態には手も足も出ないということがあります。基礎がある人は、何をどうすればいいのか考えるためのツールを持っていることになります。子供の頃にヴィヴェーカーナンダさんの全集とかハズラト・イナーヤト・ハーンさんの全集とかを読まされたら、その時にはそれが何の役に立つのかまったく分かりゃしません。だけど大人になる頃には、知らず知らずのうちにこれ以上ない基礎が出来上がっていて、何が起きてもどう対処したらいいのか自分で分かるようになっているものです。どうせなら、面倒臭くて時間が掛かるように見える基礎を積むことが、実は一番無駄のない行き方だと思うんですがいかがでしょうか。兎と亀じゃないんですが、私の経験から言えば、簡単最新を謳う行き方が一番遠回りになる場合もあるかも知れません。

捧げる

よく「悟り澄ましたような顔して」なんていう表現が使われますが、実際精神世界には、乾いた表情で人生を傍観するような向きもあるわけです。ある種のティーチャーさんにとってはそれで構わないんですが、もし何かが欠けていると言うならば、情熱が欠けていると言えるのではないでしょうか。好きな仕事とか好きな人に身も心も魂もすべて捧げたいと思うのは、人間のほんとの心情だと思うんです。自分の人生すべてを捧げる対象を見つけられた人は幸せだ、と一般的にも言われていますが、私もそう思うんであります。なぜ何かに自分を捧げなければいけないのか、と問われれば哲学的な議論になってしまいますが、本来の「捧げる」の意味は、捧げたいから捧げるんだとしか言いようがありません。情熱というのはそういうもんではないでしょうか。極めれば自己利益とか自己保存の本能というのが消えて行く方向にあるわけです。ところが何かいいことを期待して捧げるフリをすることが往往にしてあります。好きな人にすべてを捧げ尽くして何も見返りを求めない、決して後悔しないという生き方は、よっぽど相手を好きじゃないと出来ないのかも知れません。でも、出来たらすごいのです。策略や計算を心が完全に捨てることができるなら、それ自体が本来のスピリチュアルな道に適います。難しい経典をいちいち読まなくてもいいくらいの境地です。

得られない

物質至上主義が行き過ぎてしまっているということは、この文化の特徴として言われ続けているのではないでしょうか。物質を蓄積して行くだけでは本当の幸せは得られない、ということに気づく機会は誰にでも必ず与えられます。ところが当の私たち自身が、そんな風に考えないように努力しているのです。メディアのせいとか誰のせいということじゃありません。私たちは五官に感じられる人生を楽しんでいたいのです。それじゃ本当の幸せは得られないなんてことは、実のところ誰もが心のどこかで分かっているんであります。救われたいなどと全然思っちゃいない人を、救おうと考えたり助けようとしたりするのは、たとえ純粋な善意からだったとしても、おせっかいどころか良くない行為ということになるのです。人類が救われるために覚者の方々が残した痕跡は十二分に保存されております。今さら何かを付け加える必要はありません。まして私ごときが誰かを救おうなどと考えるとしたら、傲慢を通り越して笑止という話になるのです。人類の集合意識が救われることを選ぶなら、それはすぐに与えられるほどに道は整っております。なので何か問題があるように考えない方がいいし、現に問題はないのであります。私個人のことを言えば、世の中のためになると自分で思うことを、結果を期待せずにやることがすべてで、何かを伝えようとか難しいことを考えるのは無駄なことです。一般の私たちにとってスピリチュアリティで大切なことは、語るのではなく行動で見せて行くことだと思います。

過去と未来

癒しやヒーリングに興味がある人というのは、ややもすれば過去の解釈・再解釈に囚われがちになって、文字通り後ろ向きな人生になってしまう傾向が、私の経験から言えばあるように思われます。究極的に言えば過去を癒すことがそのまま未来になる訳なのですが、実質的には何の変化もしない頭の体操になってしまうんであります。未来に飛び込んで行くというのは、まったく経験したことがない故に想像したり予め感じたりできないということであって、科学的に言えば今まで全然使ったことのない脳の領域を使って行くことです。口で言うとそういう言葉になりますが、実際どうやるのかと言いますと、いわゆるクンダリニーを活性化することによってのみ、私たちは未知の世界に飛び込んで行けるのであります。いくら考えたって仕方がありません。今までやったことのないことをやればいいという単純な話でもなく、過去を癒しつつ与えられた天命を果たすべく未来に進んで行く、という生き方になります。今ということを強調する教えがありますが、私が思うに、大概は今と言いつつ後ろ向きになっているようです。未知に直面しているという事実が、本来の今の意味するところです。想像することすらできないのが未来だとしたら、じゃあ一体どうすれば行けるのかというのはすごく難しく思えるわけですが、心をきれいに磨いておけば直接知として勝手に入って来るということなんであります。そういう仕組みになっているとしか言いようがありません。

信念体系のワーク

自分が事実として受け入れている内的現実の総体のことを、精神世界では信念体系と呼んだりしています。自分が信じていることを変えれば現実を変えられるんだ、という考え方が生まれており、その具体的な方法については諸説あるわけです。自分が何を信じているのか自分で認識する必要がある、というのが最初のステップになります。信念体系というのは基本的に潜んでいて、全体像をいきなり掴むことは難しいんですが、常日頃ちょくちょく思う思い方の癖、何かの出来事への感情的な反応、慢性的な体の症状などとして表に現れているものなのです。そっから糸を手繰って自分はこんな風に信じているんだなと認識するに至れば、それを変えるという選択肢が出来るわけなのです。表面的にまったく現れていない思いというものもあり、特定の出来事をきっかけに、自分の中にあるとも思っていなかった感情が出て驚くということもあります。出て来たときが浄化のチャンス、と有り難く思えたら素晴らしいのであります。では自分が固く信じて来た思いの内容を変えたいと決めた場合、どうしたらいいのでしょうか。世界平和の祈り安定打坐の中に消して行くことをお勧めしています。心をきれいに磨いて行くことが現時点で一番重要と考えておりまして、それは普通一夜にして起こるものではなく、こつこつ地道に成し遂げて行くものであると感じております。

軽い気持ち

どの道を行くにしても、成功の秘訣は何ですかと聞かれたら「軽い気持ちで取り組むのがいいんですよ」という答えになるでしょう。言葉にすると簡単に聞こえるものの、やってみたら難しいということがよくありますが、これもその一つだと思います。それはあたかもボクシングを真剣にやる人が、小さい子供が遊びに興じるような気持ちで自分の限界に挑戦して行くようなものです。人生という戦いの中で、結果を期待せずそれ自体のために楽しんで行けたら、何をするんであれ必ず成功できると思います。スピリチュアルだってまったく同じです。人生どんなことがあっても常に軽い気持ちでいられたら、それ自体がすごい達成だと言えるでしょう。重大だと思っている教えや哲学へのこだわりや、ナニナニの探究をしていますというような深刻さを落とすことが、確かに第一歩だと言えると思います。ましてや自分の物になってもいないような段階で(間違った使命感から)教えを広めようとすることは良くありません。だけど私も含めてそういうことがよくあります。みんな先生になりたがり、生徒にはなりたがらないとよく言われます。生徒のイメージが悪いからですが、軽い気持ちでいられる人は生徒の立場に甘んじていられるという言い方もできます。何を聞いても新鮮に聞こえるからなんであります。毎日同じ行をしていても、退屈知らずで毎回新鮮に感じられるようなら、とてもうまくできていると言っていいでしょう。

瞑想の道

どの道を行っても最終的には瞑想に集約されるという訳で、王道というような意味でラージャ・ヨーガと呼ばれているそうです。瞑想のようなものが自然に起こるようになる、という言い方がより正確かも知れません。心というものは何かを強く求めているうちは自制することが出来ません。抑圧して潜在意識内に封じ込めようとしても、別な経路で爆発してしまうわけです。なのでやりたいことは気が済むまでやり抜くという一応の方法を採るわけであります。で、飽きてしまうかより良い何かを見つけたりすると、心は掴んでいるものを放すということが自然に起こります。心の停止とまでは行きませんが、静かになるとか落ち着くという瞑想状態が期せずして起きるんであります。感覚を断ち切るということは文字通り絶命を意味していて、普通そこまで行くことありませんが、感覚に心を捕らわれなくさせるというのが、瞑想が深くなって行くプロセスであります。特別な才能がなくても誰でもここまでは来られるのです。誰でも心の平安を得られるのであります。ただ、潜在意識に溜まっているものの大小は個人によりますので、そこの難しさだけがあるのです。七〜八時間平気で瞑想していられる、それが苦になるどころか楽しくて仕方がないという人は、他の道には脇目も振らずに瞑想の道を行くのが合っています。で、悟りや光明というのは私たちの努力で到達できる境地の遥か彼方にあるものであり、人間の側に選択肢がある訳でもありません。基本的に望んで得られるようなシロモノではないので、心に興味を持たせないようにするのが良いと、あいのほしではおすすめしています。

仕事の道

行動や行為を通じて神に至る仕事の道というのがありまして、インドではカルマ・ヨーガと呼ばれています。成功や報酬を期待することなく、世のため人のためになる仕事を全力でやる態度というのは、実は神様の気持ちとまったく一緒なので、知らず知らずのうちに神様と一体になってしまうという方法なのであります。自分を犠牲にしろという意味に聞こえてしまい兼ねないんですが、そうではなく、自分も他人も同じように大切にするのが神様の気持ちなので、自己犠牲的な態度というのはカルマ・ヨーガからはやや離れてしまいます。ここで、例えば年収が一千万円あったとして、それをどう配分して使うのが正しいのか、という実際的な問題が持ち上がります。自分と家族のためにそこから三百万円使うのは多いのでのでしょうか、少ないのでしょうか。一千万円をまるまる放棄するという考えもありますが、そうすると今度は自分が誰かに養ってもらわない限り生きていられないことになり、仕事の道としては正しくありません(出家している場合は別)。では、自分の生活費を差し引いた残りのお金をどう使ったらいいのでしょうか。困っている親戚を助けるのがいいでしょうか。慈善団体に寄付するのがいいでしょうか。それともどこかの事業に投資するのがいいでしょうか。神様の視点を持ち合わせていない限り、何が正しくて何が正しくないのか判断するのが難しいのではないでしょうか。ですがそこは常識的な判断でいいんであります。家族を助けるのはいいことですが、いくら家族を喜ばせるためであっても、宝石をやたらに集めたり別荘をいくつも持ったりするのは、カルマ・ヨーガの観点ではよくありません。自分の知り合いや地域のために、できる範囲でお金を使うのはいいことです。自分が好きで得意なことを、一番世の中のためになると思う方向で生かして行くのはいいことです。で、その結果を期待しちゃいけないということなんですが、そこが一番難しいところで、私たちは大概どんなに頑張っても、ちょっとは期待してしまう気持ちを消せません。それができる人だけが仕事の道で完成するわけでありまして、他の道を行った人と比べて、人々を感化し育てる力がとても強いのが特徴です。世の中を変えて行く力になるわけです。

知識の道

若いうちにしか出来ない、と言うと異論が出るかも知れませんが、やる気とエネルギーが必要だからこそ、若い頃に取り組むべきなのが知識の道、インド哲学で言うジニャーナ・ヨーガであります。これは私が思うに、どうしても知りたいと思うことを研究し尽くし、どうしてもやりたいと思うことを気が済むまでやり尽くすことによって、結果的に神に至る方法であります。「私とは何か」というのが有名な問いですが、これを公案のように考え続ければいいわけじゃなく(それが唯一知りたいことである場合は別)、私が思うに、自分の中にある疑問を虱潰しに解いて行く必要があります。疑問が多ければ多いほど一生懸命学問しないといけませんが、その度合いは人によります。気力がなくなって中途半端で終わってしまうのを、こだわりが取れたからだと言い訳してはいけません。知的な探究だけじゃなくて、海外旅行のようなことも含めて経験してみたいと強く思ったことは実際にやらないといけません。気力がなくなって何となく満足した気持ちになれば終わりということではないのです。なので十代二十代、せいぜい三十代までに集中して行う必要があるわけです。四十代以降になると、社会的な条件や個人的な理由で実行が困難になるのは明らかなことだからです。知識の道は、いわゆる知的好奇心、知りたいという気持ちが人一倍強い人に向いています。もともと知的な関心が薄い人、ものごとを知りたいとあんまり思わない人には合いません。ただ、教養としてジニャーナ・ヨーガがどういうものなのかを知っておくことは誰にでもお勧めできます。教養があるのとないのとでは、長い目で見るとやっぱり差が出て来ます。カジュアル過ぎる本だと全然違う方向に誤解してしまう可能性があるので、ここはヴィヴェーカーナンダさんがお書きになったものを読むのが一番適切だろうと思います。すらすら読める類いの本ではありませんが、読んだら読んだだけのものが必ずあります。

信愛の道

インドに信愛の道と言うかバクティ・ヨーガというのがあって、これは神の属性を多く顕している人を信仰することによって神に至る方法のことを言います。キリスト教では本質的にこの道を辿ります。ヒンドゥー教は信仰の対象になっている神様がいっぱいいるので、日本人は八百万の神と同じような意味での多神教なんだろうと誤解してしまいがちなんですが、ヒンドゥー教では神の化身をバクティ(信愛)の対象にしていると理解するのが正しいと思います。カトリックでお気に入りの守護聖人を信仰したりするのは、日本人としてはご利益目的のお守りとまったく同じか似たようなもんだろうと解釈しているフシがありますが、守護聖人もまたバクティを捧げる対象として置かれていると理解するのが正しいでしょう(私たちとは歴史が違っており、それゆえ遺伝が違います)。何も知らない私ですから間違っているかも知れないですが、歴史的に見て日本にバクティが現れたことはなかったように思います。少なくとも大きな流れになったことはなかったようです。だからこそ、インド・ヨーロッパ語族の宗教文化の中にある信仰を、日本人は一種の思想や哲学と捉えてしまうのであります。信仰というのは考えではなく生き方であって、バクティとは命を捧げることです。この経験が欠如しているために、日本人はこの分野で大いに遅れを取っているのです。神の化身を信仰するのと、ロックスターや映画俳優を熱烈に信奉するのと、どこが違うのかと言いますと、大衆文化的なアイコンは楽しさや狭い意味での自由を象徴しているのに対し、化身というのは誠実さ、美しさ、調和というような性質を顕現する完全な人間であると言えます。神に心を向けることが目的のすべてなので、信仰の対象が例えば、歴史的事実がはっきりしない伝説的な人物のイメージであっても構わないんであります。手掛かりの多い最近の人物である方がやり易いと言えますが、自分が心の底から尊敬し信頼できる人を選ぶ必要があります(信仰は自発的なものであって、押し付けたり押し付けられたりするものであってはいけません)。いろいろ調べてほんのちょっとでも疑いが残る人物は、バクティの対象として無論ふさわしくありません。そのような人を誰も見つけられないなら、信愛の道は自分に合っていないと結論して良いでしょう。他にもいくつか道はあり、特に有名なものでは知識の道(ジニャーナ・ヨーガ)があります。