思考の習慣

人生を根本的に変えようと思ったら考え方を根本的に変える必要がある、というのは精神世界ではよく聞く話かも知れませんが、実際にやってみると、ものの考え方が大きく変わったと自分では思うのに人生はほとんど何も変わらない、という経験をする人が多いんじゃないでしょうか。常日頃考えている内容が人生を形作るとは、どういうレベルで言っているんであれ一般的に承認される話ではないかと思うんですが、自分にとって当たり前の思考というのは困ったことにほぼ生まれつきのもんだと言えまして、つまり気分や体質によってその大枠が決まっているんであります。ですから自分にとって当たり前だと感じる思考の枠の外にある思考に出会った時、自分にとって何の脈絡もない不自然なものと感じるため、無意識的に無視するということが自動的に起きるわけであります。「話としては分かるけど納得は出来ない」という状態です。要するにただ新しい考えを入れるだけでは、自分という枠の外には出られないことが多いようです。自分という枠を広げるには、ただ考えるだけではなく新しい経験をして、体が変わり心が変わるという過程を経ることが必要なのは、子供がどうやって成長するかを見れば当然なことのようですが、ただ新しい経験を求めさえすればいいかと言うとそうでもなく、極めて冒険的挑戦的な生き方をしている人が、ある一定の水準まで来るとそれ以上本質的に成長しないように見える場合もあります。精神世界では、思考の上で自分が一生安心して暮らせる哲学的な枠を見つけて自己完結することを悟りと称する人もいます。私の意見では人間の枠というのは自己保存の本能のことです。どういう訳か人間には次の段階があらかじめ用意されており、それが自分の枠を超えるということであって、自分の枠を超えると自分のことを一切考えないで他者のために生きるようになりますが、それが自然の成り行きだと一般的に認知されていないのは、実際にそうなった人が今まではかなり少なかったからだと思います。詭弁を弄するようですが、人間が成長すれば自然に次の段階に進むと言っても、どうやったら人間的に成長できるのかは人それぞれ違います。考える、経験するのどちらか一方ではなくて、両輪で進んで行く必要があるかと思います。

あいのほしの開運法

開運したいと思わない人がいるでしょうか? という訳で、あいのほしが考える原理原則をお話しするべきではないかと思いました。世の中に数多い開運法の中でも、表面上は悪意のない些細なおまじないのようなものに「こっそり得したい」とか「自分だけ儲かりたい」という感覚が根底にある場合もあり、そうした言動が長い間いくつも積み重なって行くと、それだけでスピリチュアリティの本道から大きく外れてしまうかも知れません。とは言え私の考えが正しくて他の人の考えが間違っているという主張ではありませんので、いつものように参考程度に聞いてください。また私のは開運法と言いましても、まさしくプロセスそのものが答えという「方法」でして、結果を保証することは一切出来ませんのであらかじめご了承ください。まず一つ目は、明るく楽しく暮らすことです。人にもよりますが、ただ生きているだけで嫌なこともトラブルも必ず起きて来ますから、常に明るく楽しい気分を維持するのは相当大変なことですが、開運するしないに関わらず、それが出来たら人生において大きなプラスになるだろうとは容易に想像がつくのではないでしょうか。明るく楽しい雰囲気は人に好い印象を与え、社会に出て評価されやすくなります。ですからこれが目指すべき一点目です。二つ目はもっと難しいですが、素直になることです。これは自己利益のために権謀術数を用いないということで、要するに自分の有利になるような小智才覚を身に付け始める前の子供のような状態です。本心に立ち返るというスピリチュアリティの基本でもあり、素直になったら損をすると信じられている大人の世界でこれが出来たら称賛に値します。しかし私たちの観点からすると、素直であることで本来の運命を拓くことになるという意味で、結果的に一番得(徳になる)ということでございます。三つ目は、自分が本当に欲しいもののためなら全力を出すということです。誰でも生きている限り欲しいものがあると私は思っているんですが、なぜか精神世界には最小限の努力で最大限の成果を手にするという考え方が少なからず出回っているので、三つ目は念のために付け足すことにしました。好きなことをやるのに努力を惜しむ理由はないと思うんですがいかがでしょうか。考え方は本当に人それぞれでして、財産や権力を得るためならどんな手段でも講じる人は、そういう心を与えられてそんな風に生きているだけで、自己奉仕の生き方も事実として許されているし間違っているということではないのです。

学成り難し

「少年老い易く学成り難し」と言いますが、スピリチュアリティも一面では学問でありますので、同じことが言えるわけであります。みんながそうだと思いませんが、若い頃はとかく自分を過大評価しがちでありまして、ちょっと本を読みセミナーに通った程度で「分かった」と思ったり、中には「到達した」と思ったりする人もあります。ですがそのまま大成する人は稀でして、大抵の人は中途半端に終わるというのが、冷静になって考えれば「世の常」といったところではないでしょうか。中年になってようやく「自分は本当は何も分かっておらず、またこの先に進んで行く能力もない」と気づく場合があります。かなりガッカリな気づきですが、このように思えた人は実はいい線を行っているのでございます。誰からも評価されず結果が出ないというのは、この世では死活問題でもありとても辛い状況ですが、ここが踏ん張りどころと言いますか、運命の分かれ道がハッキリ現れる時と言えます。この時点で人生に失敗しているにも関わらず、それは過去の因縁が相当悪かっただけのことであり、あくまで人間として何が正しいのか、何が最高の理想なのかを考えて生きて行こうと結論できる人は、既にゴールしているのと同じであります。つまりスピリチュアリティの基本が身に付いたことを意味します。一方で、スピリチュアリティの基本が「永遠の生命」を信じることであり知ることであるはずなのに、どんな手段を使ってでも生きているうちに結果を出さなきゃ意味がないと焦って、学問の世界で実験結果やエビデンスを捏造する人が出るように、スピリチュアル業界でも出来ないことを出来るように嘘をついたり、ないものをあるように偽装したりして、人集めや商売に成功する人が出たりします。多くの人がやっている方法だから大丈夫とは限りません。普通よりも良い意図を持ってスピリチュアルな道に入ったにも関わらず、普通の仕事をするよりもむしろ悪い言動を積み重ねてしまい後々面倒臭い羽目になるとしたら、それは本当に気の毒だと言わねばなりません。究極的に間違った道はないと言えますが、遠回りすることになると思います。

性の力

精神世界に限らず世の中には開運や願望実現のための方法が各種取り揃えられているわけですが、その中でも自分の性的な魅力をアピールすることが人間社会を有利に渡って行くための最強のツールであるということは、誰にでも分かる当たり前の事実だと思うんですがどうでしょうか。ところがスピリチュアル業界では、引き寄せの法則を始めとする願望実現系の教えを説くティーチャーさんが、自身の性的な魅力をあからさまに、あるいはそれとなく利用することで人集めに成功していることが誰から見ても明らかな状況なのに、あくまでも自分で教えを実践した結果成功したという体で活動されているように見受けられます。あくまでもこの世の生活に限った話ですが、性の力を活用するのが一番の近道です、と私だったら話すと思います。性の力というのは結局大元のエネルギーに直結しているので、社会的に成功している人は大なり小なり必ず利用していると言えます。性的魅力は本来内側から放たれる輝きなんですが、もちろん外部的な要因で疑似的に高めることも出来ます。そうじゃなかったらファッション業界や美容業界の規模がこんなに大きいはずはありません。何事もやり過ぎは良くないですが、自己満足じゃなくて相手に好い印象を与えることが目的である限り、身だしなみや服装に労力とお金をかけることにマイナスの要素は一つもありません。不謹慎な言い方になって申し訳ありませんが、人生を有利に運びたいと思うならまず第一に取り組むべきことは、人に好い印象を与えるために自分が出来る範囲で外見を磨くことだと思います。自己肯定感を上げるために整形するとかブランド品を身に着けるという意味ではありません。

物差し

何かものごとを始める時に、どこを目指すのかとか何が最終目的なのかということは、一番先に定めるのが当たり前だと思うんですが、スピリチュアル業界ではそこが意図的にぼかされていると考えられる場面によく出くわします。それゆえそのスピリチュアルティーチャーさんの人生観とか、どんな物差しでものごとを測っているのかということを、功利主義ではないんですがまっ先に見極めることが必要ではないでしょうか。ものごとをあんまり哲学的に考えない日本人には慣れない作業です。するとスピリチュアルを謳っていても、結局は楽してお金が儲かり、理想の恋人をゲットすることが最終目的であるという、要するに本当なら自己啓発に分類されるべき物差しが、少なからず混じっていることが分かります。なぜならそうしないと人が集まらず、商売にならないからです。開運とか生活水準の向上を望まない人はいないのですし、その教えの性質を見極めた上で自分に必要だと思えば上手に取り入れればいいし、要は自分で選択しているという自覚が絶対的に重要だということを私は言いたいわけです。どんなにいい教えであっても、自分が心から納得していない段階で言いくるめられ誘導されて、すべて上手く行くという夢を見させられている状態は、長い目で見ると望ましくないと思うからであります。ではどんな物差しを持っているのがいいかというのは難しい問題なんですが、「自分が悟る」とか「自分が開花する」というような、最終目的の主語が「自分」であるものに関しては、私の意見では要注意とだけ言っておきましょう。同様に「神が私になる」ならいいんですが、「私が神である」という発想も要注意だと思います。