心の世界

スピリチュアルは心の世界と言いますが、そんなようなことを教えているティーチャーさんに限って、自分がトラブルに遭うや否やお金や財産にしがみ付こうとしたり、すぐさま医師や弁護士に相談したりということが起こりがちです。これはすなわち、目に見える外側の世界をいかに強く信じているかということで、いざという時にハッキリと表面化して来るということです。心の世界と口では言いながら心の世界を信じていないというのは、本人が自覚できないことの方が多いと思います。私が見る限り、最初から騙すつもりでやっているティーチャーさんはほとんどなく、出来ない人にやれと言うのは酷なことであります。そう考えると、実は誰にも責任がないという不思議な世界なんであります。外側の世界に関係なく心の世界だけが本物だと気づいた時から、では自分はどうしたいのかが見えて、どうすればいいのかも分かり、即座に実践し始める、というのが筋のいい人の姿であって、そうでないなら、私を含めて頭で分かっているだけの筋の悪い人ということです。しかし筋が悪いことを恥ずかしく思う必要はありません。出来ないのは自分の責任ではなく、心の世界で自分の人生を楽しく幸せなものにするかそうしないかだけが唯一の自分の責任である、と分かっていればそれで十分だと思います。

ロールモデル

将来ああいう風になりたいと若い世代に思わせるような人、というのがロールモデルの意味だと思うんですが、スピリチュアル業界には太古の昔から二種類のロールモデルがありまして、一つはもちろん本物の覚者。もう一つはスピリチュアルを売り物にする商売人でございます。目に見えないし証明も出来ないものを売るというのは、言葉にするととても難しそうに聞こえるんですが、商才のある人にとっては割と簡単なことみたいで、昔から常に沢山いるという状態です。あまりにも多いので、「ああいうやり方をしていいんだ」というロールモデルとして機能しています。これが現実なわけですし、私に良い悪いを言う資格はありません。だけど理想を言えば、スピリチュアルティーチャーというのは自分で選んでやるものではなく、人に選ばれてなるものではないでしょうか。話を聞いてくれる人が何人もいない段階で、それまでの仕事を辞めてしまってスピリチュアルティーチャーになる方が沢山いらっしゃいますが、その流れだと、商売として成り立たせようとする工夫が主になり、当然の成り行きとして、本来の目的から遠ざかるという状況を自ら作り出していることになりはしないでしょうか。何の話だか分からなくなりますけど、自分の所に来る人の数が増えて、本業を続けられないくらい忙しくなったタイミングで、スピリチュアルティーチャーを仕事にするという流れじゃないと、本物にはならないと思います。前にもお話ししましたが、あいのほしとしては、あるレベルに達しない限り人に教えてはいけないとは思いませんが、教える立場に置かれる人にはそれにふさわしい経緯があってしかるべきだとは思います。

好き嫌い

好きなことを仕事に出来れば最高だ、と一般によく言われますが、スピリチュアリティの観点からしますとこれには二色ありまして、一つは好きなことが得意なことになり、その先が世のため人のために役に立つことに繋がって行くことです。さらに世のため人のために自分を最大限に役立てて行こう、という志で行くならば言うことありません。もう一つはいわゆる人間の五官に触れる好き嫌いを追求して行くことで、それが多くの人に受け入れられる内容であれば仕事に出来るというものです。いわゆる趣味の研究家やアーティストと呼ばれる職業が、多くの場合それに該当します。自分の五官を楽しませることを中心に生きて行くと、いわゆる自己満足の人生になりますが、面白いのは、自分のためだけにやっていることが、結果的に世のため人のために役立つ場合もあるということでございます。するといわゆる社会的に成功するということが起こるわけです。ただし、五官の好き嫌いを中心に据えて生きて行くことは、いわゆる肉体に自分のアイデンティティを縛り付ける可能性があります。よく「年取って頑固になる」と言われるのはこの状態でございます。私に人の生き方をどうこう言う資格はないので、みなさんが自由に判断して良いことです。好き嫌いで行くと、結果的に人の健康を害する内容のものが、多くの人に求められてお金になる場合もありますが、あいのほしとしてはおすすめしません。だって、自分がしたことの結果はすべて自分に返って来ることになるからです。

念力

スピリチュアル業界には昔から、狭い意味での心の使い方で人生を変えようとする念力系の教えが存在しています。実に様々なバリエーションがありますが、両極端を取り上げますと、一つの極には「すべてを手放せば上手く行く」といった教えがあります。何となくスピリチュアルに聞こえるんですが、手放す目的が願望実現である限りは、そういう心の使い方を手段にする念力系の教えと言えます。もし人間が生きて行く上で必要な当たり前の努力を放棄して、ひたすら奇跡は待つような人を作ってしまう可能性があるとしたら、危険な思想だと思います。もう一つの極には、まずは心を空にして、それからある思考に一心に集中することで、どんなことでも実現できるとする教えがあります。これは人並み以上に能力のある人にとってはプラスアルファの要素になり得ます。ただその目的が願望実現の一言に集約されるとしたら、スピリチュアリティとは全然関係のない念力系の教えの典型だと言えるでしょう。ここでみなさんに念を押したいのは、念力系の教えに興味を持つのは良いことでも悪いことでもなく、当たり前の話だということです。豊かになりたい、病気を治したいと思わない人ありません。貧乏なままでいい、病気が治らなくていいと本気で思う人はいないはずです。困ったことに、念力系の教えを支持したり教えたりする方は、社会的にかなりの地位にいるケースが多ございます。そうすると私のような頭の弱い人間は実際に真に受けてしまったんでございます。それは仕方のないこととして、みなさんは常識的なバランス感覚を持って判断して行かないといけないと思います。

確信

世の中並外れて意志の力が強く集中力もある人というのはいます。そうするとほとんどすべての分野で大成することが出来ると考えられますが、逆にスピリチュアリティでは成功できないことの方が多いと思います。なぜかと言えば、実際問題スピリチュアリティにおいても意志の力や集中力は役に立ちますが、秀でれば秀でるほど「自分は特別だ」という感覚を持ち易いからなのです。どんなに優秀でも特別感を持っている限り成功はありません。じゃ何が必要な条件なのかと言いますと、変な話になりますが、神様と呼ぶのであれ大生命と呼ぶのであれ大自然と呼ぶのであれ、その何かに自分が支えられているという知識以上の信念であり確信であります。「自分と大自然は一体なのだから出来るんだ」という絶対の信頼がある場合、多少人より能力が劣っていたとしても成功できると思います。結局、身も蓋もない言い方で申し訳ありませんが、意志の力も集中力も確信もない人が飛び付くのが、楽々と成功できると説くティーチャーさんとか秘密の方法なわけではないでしょうか。その裏には「自分だけが得をする」ことへの期待が、前提として存在しています。こういうものはスピリチュアリティでも何でもありません。だけど、私も含めて多くの人が、大なり小なり自己都合からスピリチュアルに接している事実に気が付いた方が良いのです。その上で前に進んで行かないといけません。

目覚め

目覚めとか覚醒というのはいかにも精神世界っぽい用語でして、何が目覚めるのかとか、誰が目覚めるのかという観点から見ますと、定義がハッキリしません。で、帰納的に一般に一番伝わりやすい意味を考えますと、多くの人が合意するいわゆる人生を超えた何かがあると感じ始めることではないでしょうか。就学、就職、結婚、出産、社会的成功といった人生要素に属さない価値が実在するということを、最終的に経験を通して悟るわけです。一つにはいわゆる超常現象を通して、社会通念を超えた世界があることに気づくというルートがあります。一つには誰かを文字通り「この人のためなら死ねる」と思うくらい好きになることで、個人の損得を超える何かがあることに気づくというルートがあります。一つにはいわゆる覚者に出会うことによって、霊的な価値というものがあることに突然気づくというルートがあります。いずれの場合でも、最初のきっかけに留まるのではなく(初心を忘れないことも大事ですが)、前に進み続ける必要があります。なぜかと言えば、知っての通り目覚めたばかりの人をターゲットにする商売が大昔から後を絶たないというのが現実だからです。この過程で自分の選択を手放すように教えるティーチャーさんもいらっしゃいますが、自分を支えるのは「成長するんだ」という選択でしかない、とあいのほしでは考えております。

知らないこと

日本ではスピリチュアルと言えば夜店のような世界から始まり、例えばリーディング(占い)やヒーリングや開運グッズのような、ちょっとした不思議な体験に興味を引かれるのが普通だと思います。このこと自体は良いことでも悪いことでもなく、人間知らないことに興味を持つのは当たり前の話ではないでしょうか。この時点で急に臨時収入があったり恋人が出来たりして、自分もスピリチュアルティーチャーとして活動を始める人もいます。しかし冷静によく考えてみれば、この言葉を唱えさえすれば—このグッズを家に置きさえすれば—人生すべて上手く行くんであれば、世の中苦労する人はいないはずだ、ということは誰にでも分かります。スピリチュアルに長く関わっていると、「あなたのこういうところが問題です」と指摘してくれる人によく出会います。よくよく考えると、まったく正しいこと言われている場合が多いのです。私自身も「あの時正しいことを言われたんだな」と振り返って思うことがしょっ中あります。だけど、知ったところでどうすればいいのか方法を教えられないわけです。方法がなければ何も知らないのと同じだということに、十年もすればだんだん気が付くようになって来るものです。知ることと行うことが同時に起こることはあり、「言下に悟る」というのは相当筋のいい人の話でございます。しかしながら「知っていることを活かさなきゃ意味がない」と気づくだけでも一歩前進です。

トラブル

スピリチュアリティというのは日常会話に出て来るようなものではなく、特殊な領域というような認識が一般的だと思います。確かに普通の意味での人生相談というのはスピリチュアルとは違います。しかし、人生相談を受け付けないスピリチュアルというのも今となっては違うと言えるんでございます。みなさんも知っての通り、人生には様々なトラブルが起こります。それゆえ、そのトラブルにどう対処して行くのか、具体的な心のあり方というのが、実際にはスピリチュアリティの肝であると言って間違いないでしょう。これまで人生の全域に対して具体的な対処方法を指導できるのが最良の先生だったし、これからもそうです。そのために必要な知識は並大抵のものではないですし、だからこそ普通の人生相談とは一味違う答えであるとか方法を指し示すことが出来るものだと思います。ここで気を付けたいのは、私たちの側でスピリチュアルに対して色眼鏡を掛けていると、覚者さんからのアドバイスを「何だか俗っぽく聞こえる」という理由で排除してしまう可能性があるということです。高尚に聞こえるのであれ俗っぽく聞こえるのであれ、私たちを成長させてくれる教えかどうかはやってみないと分かりません。そこが難しいと言えば難しいところですが、面白いと思ってやるのが一番だと思います。

地獄

人は元来利己的であるとよく言いますが、人間生きて行く中でそれを裏付ける証拠や経験を蓄積するのに困ることはないわけです。で、人生も終盤に来て「人を信用してはいけない」とか「愛なんて幻想に過ぎない」といった結論に至る人が、残念ながらかなりの数いらっしゃいます。それが本当なら、「この世は地獄」と言って間違いないでしょう。ところが幸いなことに、事実はそうではないのです。でも「人は信用できる」とか「愛が現実にある」といった経験を自分のものにする方法が、当然のことながら必要になって参ります。普通に生きていたんじゃそれが難しいから、伝統的には一旦すべてを捨てるという方法が、やや極端ながらも採られて来たものと思います。もちろん今もって有効な手段ではあるのでしょうが、それは外面的なことではなくて、心の中で捨てる必要があるんだと気づければ最高です。いわゆる捨欲ということですが、これにはあいのほし流の解釈があり、自分を含めた全員の幸せを願うことと、そこに関係しない一切のこだわりを捨てることだと考えます。言葉にすると単純で基本的なことに聞こえますが、大切だと思います。

慰め

需要と供給と言いますが、精神世界には何らかの理由で心が弱っている人や、自己評価が極端に低い人を慰める分野というのが、みなさんもご存じの通り存在しています。努力すれば何とかなると分かっている場合でも、頑張れない状態の人もいるということは、私自身の経験からよく承知しています。だから必要だと思うんです。本当に心を癒し浄化するヒーリング法があるなら尚更です。だけど、それだけに終始するようであれば片手落ちと言わねばなりません。心が元気になり、勇気が湧いて来たら次はどうするのか、という教えがないのは困りものです。あるいは、ざっくり何でも好きなことやればいいとか、あなたも悟っちゃうかもとか、楽して儲かる方法とか、最高の恋人に出会う方法といった人生万々歳な情報も溢れております。そこにお金が絡めば、スピリチュアル業界の評判が最悪なものになってしまうのも致し方ないことでしょう。慰めや癒しの要素も備えつつ、理想を言えばそこで引き籠もってしまうんではなくて、世の中に出て活躍(社会貢献)する人をも輩出するような教えが本物だと思います。社会活動を好ましいこととしない伝統的な教えが多いことは知っていますが、ともかくあいのほしはこういう考え方でやっています。

ツール

哲学で日常にまつわる卑近な話が一段低く見られる傾向があるのと同じように、精神世界で生活を改善するツールの話が低く見られるのを目にすることがあります。難しい理論を理解できるのは立派だと思いますが、一方でそれが日常生活に生きて来ないのは残念だと思います。どういう生き方が理想なのかというような話を聞かされたこともなければ、人生のお手本になるような人に会ったこともない、いわゆる一般人にとっては、霊的に正しい生き方が出来ないのは当たり前の話です。何が正しくて何が間違いなのか誰も教えてくれないのですから。ところが、いわゆるスピリチュアルをそこそこ学んだ人が、一般人とさほど変わらない生き方をしているとしたら、それは残念な話ということになってしまいます。結局、理論ばかりでツールがないからだと思うんです。例えば、いつも気分よくいるために、人に嫌なことを言われたりされたりした時に軽く受け流す方法というのは、ツールです。あまりスピリチュアルに聞こえないし理論理屈もありませんが、大事なことだと思います。人に親切にとか、笑顔を絶やさないというのもツールです。しかも知ってるのと知らないのとでは大きな差が出るツールではないでしょうか。私個人の意見でしかありませんが、こうした普遍的な価値のあるツールを自分で実践し、人にも伝えるというのは、理論理屈を頭で理解する以前に優先されるべきことだと思います。

役に立つ

スピリチュアリティって基本的には哲学なんだなと思うわけです。哲学には歴史的文化的な背景があるので、一筋縄で理解するわけには参りません。また、理解できたところで何も変わらないというのは本当のことです。それはやっぱり、学問と実践が乖離してしまったことが原因だろうと思います。どんな分野にでも言えることですが、何かを達成できた人というのはいわゆるコツとかツボとか秘訣と呼ばれるものを心得ていて、それを言葉にするとすごく単純だったりします。その言葉だけを聞いて初心者が一足飛びに到達できるかと言うと、ほとんどの場合出来ないのではないでしょうか。いわゆる学問を一生懸命やることで、やり方によってはコツを掴める場合もあるし、やり方によっては何も掴めない場合もあるでしょう。何が違うのかと考えますと、「すぐに役に立つ知識なんかほんとの学問じゃない」というプライドが邪魔をしてしまうのかも知れません。何を意味するのであれ「より良く生きよう」という心の焦点を持って哲学を勉強する人は、遅かれ早かれ人生の秘訣を会得できると思います。なぜなら、そのように生きた先達が過去にいたことに気づくようになるからです。今までに誰一人やったことないようなことだったら相当大変なんでしょうけど、私たちはそういう道にいるわけではないのです。

感性

失礼な言い方になってしまうんですが、その中に自分も入っているということで敢えて言いますと、精神世界に関わっているのは良くも悪くも独特な感性を持った人が多いという印象があります。で、この感性というのが実に曲者であって、自分の感性にピンと来るものというのは、ニューエイジで意識レベルと呼ばれるものが実在するとすれば、自分のレベルにピッタリ合っているものだということです。もうちょっとあいのほし流に言えば、自分の信じる世界に合致する教えを好きになるということです。だから精神世界には自分の教えとか自分の信じる教えが一番だとか究極だと思う人がこんなにも多いわけです。全然ピンと来ない教えだけど勉強してみようとか、上には上がいるんだから、今の自分には知覚も想像も出来ない世界がどこかにあると仮定してみようと思う人の数は少ないと思います。いい教えに出会うためには自分が成長する必要がありますが、成長するって簡単じゃないと思うんです。私が観察する限りでは、心が成長するためには否でも応でも人と関わって自分を磨かなくてはならず、瞑想ばっかりしてりゃいいってもんじゃありません。私の言うことを信じる必要はまったくありませんが、人と関わらずに済む抜け道を指し示すような教えに出会ったら、実際その道に進んだ人たちがどうなっているかをよく観察してみることをおすすめします。

言葉と感情

外国の言葉を学ぶというのは、私たち日本人が特に力を入れてやって来たことの一つではないでしょうか。他の国と比べても日本の翻訳物の水準はかなり高いように思われます。ところが、言葉というのは背景にある気持ちと言うか感情が理解されて初めて完成するものであって、日本では多くの場合その感情的理解が欠如しており、それゆえいわゆる異文化コミュニケーションが不得手だという定評を頂戴してしまっている現状です。それもそのはず、第一に感情的理解がなければ外国語の習得は完成しないという一般認識が今の今までなかったこと、第二にどうすれば感情的理解を得られるかという具体的な方法があまり語られて来なかったことが原因と思われます。どの外国語も習得してない私が言う資格はないかも知れませんが、やっぱりその国の演劇や音楽を、その国の人たちがどういう気持ちで観たり聴いたりしているのか想像しながら鑑賞する、というのが一番やり易い方法だろうと思います。それもいわゆるカルト的な作品から入るのではなく(それも一つの理解ではありますが)、その国で最も大衆的に親しまれている古典から始める必要があるかと思います。例えばフランスならモリエールの演劇とかエディット・ピアフの歌とかを外す訳には行かないでしょう。スピリチュアリティについてもまったく同じことが言えまして、言葉の上で理解したらそれで完成したと思っている人が多いのです。実際に覚者に出会って初めて感じることというのは実在するんであります。

事実

最近このポッドキャストで「事実」という言葉をよく使っているんですが、あいのほしで言う事実とは、一般的な意味での人生を取り巻く環境、つまり家族、仕事、人間関係、家、お金、自分の体や性格といったことを総称して言っています。精神世界ではよく、ざっくり人生は夢幻だとか、物質的環境に関係なく心に思い描いたことはすべて事実だとかいう考えがあって、自分で納得できるならそれでも構わないと思います。「思いは必ず現実になる」と信じて、自分の人生で実証する覚悟があるなら、それは潔い生き方です。間違っていると言うつもりはありません。だけど、どう考えようが事実はあまり変わらないのではないでしょうか。なぜなら、今ある事実はご先祖様やいわゆる過去世の思いの結果であるからです。そういう意味で、今ある事実を見ることなしに十把一絡げ的に説かれる方法論には注意した方がいい、とあいのほしでは考えます。(「あなたはそのままでいいし何も変わらない」という教えは、嘘をついているわけではないので問題ありません。)今ある事実というのは過去の生き方がそのまま結果として現れた姿であるので、何か変化を起こそうと思ったら事実を精査するのが一番(厳しいけど)無駄のないやり方だと思うんですが、みなさんはどう思いますか。今ある事実が何であれ、今の自分に相応しい当然の結果として現れている姿だという理解は、哲学としては相当センシティブな話ではありますが、もし受け入れられるなら幸せへの一番の近道だと思います。

思い出す

人生をいかに生きるか、とかそんなのこそスピリチュアリティの本質的な問いじゃないかと思うんですが、面白いことにその答えが一貫していないわけです。一貫してないから何を誰を信じていいか分からない上に、たとえ正しい答えを聞かされたとしても、私たちはその答えに納得できないのではないでしょうか。経験の裏付けがない以上、信じないのは当たり前のことです。何かの教えで運命が拓けて幸せになれた人が大勢いるところを自分の目で確かめることが出来たなら、それはとても幸運な巡り合わせです。だけどあいのほしが一番いいと考えるのは、自分が何のために生きているのか自分で思い出すことです。素晴らしい教えに従って生きて行けるのはとてもラッキーなことではありますが、最終的には自分で分かることを目標とすべきだと思います。それにはまず、本質的な意味での自分がこの世に生まれる前に計画を立てたのであり、子供の頃はおぼろげながら覚えていたものの、大人になって忘れてしまっただけだ、ということを無理矢理にでも信じないといけません。その上でそれを必ず思い出そう、時間は掛かっても必ず思い出せる、と固く決意することです。すると、期待するほどハッキリした形では来ないかも知れませんが、あっそうかと悟る瞬間が必ず訪れるものです。

輝き

命の持つ輝きが尊いものであることは誰もが認めるところではないでしょうか。例えば青春は一般的に輝きと結び付けて考えられており、いわゆる心に垢が積もることで失われて行くということは、多くの人が直観的に知っていることです。輝きは知性としても身体的な美しさとしても芸術表現としても現れますが、どういう訳か年齢と共に衰えて行く傾向にあるわけです。芸術で言うと若い頃の作品が一番輝いていて、理論面でも技術面でも遥かに完成しているはずの晩年の作品よりも力を持っている場合が、絶対とは言いませんが多いと思います。難しく考え過ぎてしまうと輝きが鈍るというのが一つですが、根本を言えば、それはやっぱり人生を構築して行くに当たって、自分のことだけ考えればいいとか、自分を守るためなら他を傷つけることも止むを得ない、というような生き方に流されるからだと言えるでしょう。誰でも輝きを持っていることを誰もが知っているんですが、使い方を間違っている人が多いという感じかも知れません。世界平和の実現を楽観視する覚者が結構いらっしゃいますが、私たちが世俗的な方面に使っている力を、ただ単に別の方面に向け直せばいいだけだと知っているからなのでありましょう。私たちは何であれ望みを実現するだけの輝きを与えられているのであります。

おせっかい

おせっかいな人って嫌なものですが、当の私が精神世界の活動において実におせっかいな人間だったわけです。これ系の話なんか聞きたくもないというような人に対して、それはもうしつこく話し続けたりとか、さんざんやって来たものです。そういうところを早く直さなきゃいけないと今は反省しております。相手に良かれと思ってやるわけですが、役に立つどころか邪魔にしかならないことは、結果を見ればハッキリしています。ポットキャストも今よりバラエティに富んだ話をしていた時期がありましたが、すべてはそういうおせっかいな気持ちからやったことでした。結果誰のためにもならなかった、というのが率直な事実であります。自分が学んだり経験したりしたことをどうして話したかったのかと考えますと、単に自己主張したかっただけかも知れません。みなさんにお伝えしたいメッセージは何もありませんし、そのようなものをお伝えする資格があるとも思いません。なのでこれからは、個人の日記を書くようなつもりで話して行きたいと思います。投書箱にみなさんからのご質問がもし来れば、ただの個人としてお答えして行きたいと思いますので、興味のある方はどうぞ遠慮なく投書してください。

人のせい

ものごとが思い通りに行かなくなると、私たちは多かれ少なかれ、誰それが悪いとか、今いる環境が悪いとか、ちょっと宗教を勉強した人なら因縁が悪いとか考えますし、論理的に言ってもその考えはだいたい正しいと思います。ご無理ごもっともです。だから「人のせいにするのは良くない」と言えば多くの人を否定することになるし、スピリチュアルティーチャーさんが誰かの生き方を否定するというのはあまり褒められた話ではありません。しかしながらハッキリ言ってしまえば、人のせいにしている限り成長しないのは本当のことですし、スピリチュアル業界では誰も言わない根本的な問題です。確かにスピリチュアルっぽくないあまりに普通な話です。だけどスピリチュアルな話をしてるとき以外は普通の人、というんではあんまり寂しいではありませんか。少しでも成長したいと思うんなら、ものごとが上手く行かない時こそチャンスです。自分に上手く行くだけの条件がないからだ、とそれが何であれ考えてみることが大切なんであります。すると「当たり前だよ、周りに感謝してないんだもん」というのが大概の場合答えになります。私もある先生に「親に感謝していますか」という一言でビシッと指摘されたことがあります。若かったので、スピリチュアルに聞こえないその言葉の価値が分からなかったのを恥ずかしく思い出します。

統合

統合というキーワードが近年スピリチュアル業界で流行っているのでしょうか。よく考えてみると、その意味するところは結構謎だったりするのではないでしょうか。自然界の仕組みで言うと、進化と結び付けて考え得るのは分離の方であって、そもそも二つの個体が一つに統合するという現象が存在するのかどうかよく分かりません。二つの細胞が一つになるとしたら、それはどっちかがどっちかを食べて消化吸収するという現象ではないでしょうか。心理学で分離した人格が統合するという言い方があるかと思うんですが、それはしこりが吸収されて消えるようなもので、主人格から分離していた心的エネルギーが元の場所に戻るというようなことではないでしょうか。専門家ではないので見当外れだったらごめんなさい。多様性の経験がより大きな存在へと統合されることで進化が起きると言うのならば、一体どんな風に? 精神世界で新しい概念が誕生することは稀です。ほとんどの場合、大昔からある概念を今風の耳心地のいい言葉で言い換えているだけだったりします。簡単、最新、愛、光、統合、未来、豊かさといった、今の時代にポジティブに受け取られる言葉をくっ付けるのが流行りではないでしょうか。だとすれば統合という言葉も、古い密教の教えで言うところの高次元の体と一体になるという概念を、今風に言い直したものなのではないでしょうか。いずれにしても、統合したら具体的にその後どうなるの?というところを真面目に検証しないといけないんだろうと思います。

神性と人間

これまでの精神世界は、純粋で高尚ないわゆる神性や霊性と呼ばれるものを重視する教えと、自己実現や人間生活の向上を重視する教えと、二派に分かれて伝わって来たというのがよく知られた事実だと思います。ざっくりとですが、前者を一元論、後者を二元論と称して来たんであります。ところが、頭の痛くなる話で申し訳ないんですが、表面的にはノンデュアリティを謳っているのに、実際には人間を醜いとか汚いとか本当は存在しないとかいう自己主張を捨てない、哲学的には一元論的二元論に分類されるものもあり、その反対に、人間の向上心を肯定し表面的には現世利益を謳っているのに、実際には独立した自己はないという見地に立つ二元論的一元論もあるのです。こういう議論はもう何千年も続けられて来ています。あいのほしとしては、何もそこまで難しく考える必要ないし、第一あなたが幸せじゃなきゃ意味がないという立場でやってます。神はなぜ人間を作ったのでしょうか。ほんとの信仰を欠いている限り、議論が尽きることは永久にないでしょう。この際宗教的な用語を使わずに言えば、自然法則を正しく理解し信頼することが、私たちが本当に幸せになるための必要条件だと言えるでしょう。

実践

言葉の上で理解するのが得意な人はいますし、先人の言葉を自分流に言い直したら、なんかすごい深いところまで理解している風に見えます。しかし実体がないのです。どうしたって実践が必要になります。スピリチュアルに限らず何だって実践して初めて実力が身に付くわけですが、さりとて何を実践するのか。一見何が目的なのかさっぱり分からない修行というのは、昔はいざ知らず今の時代には合わないのではないでしょうか。私も含めてスピリチュアルが全然分からない初心者が何から始めたらいいかと言ったら、もちろん生きていることに感謝することであります。何もかも順調に来た人にとっては簡単である可能性がありますが、親に虐待されたとか、持病があるといった事情がある人にとっては、もちろんとても難しいことです。だけど、これはどんなに難しくても、一番最初に取り組んで毎日感謝を体現できない限り、次の段階には進めない類いの基本の「き」であることを、あいのほしとしては強調して置きます。どういう方向に進むにしても、とんでもなく大事な基礎なんであります。よく考えてみれば、伝統宗教はみんなこれを基本にしていたことを私たちは見落としてしまっています。見落としてしまえばその先の教えは意味を成さないと言えるでしょう。どんなに因縁が悪かろうが、やるっきゃないのであります。(一緒に取り組んで参りましょう。)感謝すると一旦決めたら、いずれは何とかなるに決まっています。

自然法則

将来スピリチュアリティがどうなるか、というのがあいのほしの主要なテーマの一つなんですが、もちろん何の根拠もない迷信や、恐怖を煽られての服従から脱却し、いわゆる科学的方法に基づいた普遍的宗教が確立されるということでございます。ここで一つ問題となるのが、既存の各宗教で説いている神の意味するところが、それぞれちょっとずつ違っているということです。人間的性格を付与して理解し易くした人格神が私たちを守り願いを叶えてくれると考えたり、預言者やチャネラーのような代理人を通して饒舌に語ったり奇跡を行ったりすると考えたり、宗派によってまちまちでありながら、完全に間違っている理論はありません。間違っているのは、自分の信じる神以外を認めないことです。これは結局、自分さえよければ他はどうだっていい、という自己中心性であります。ですので普遍的宗教に統一されることが目標ではありません。普遍的宗教の神というのは自然法則のことであります。(あいのほしで神様と言うときは、自然法則という意味で言っています。)私たちは好むと好まざるとに関わらず、自然法則の中で生きております。私たちが神を頭でどういう風に理解しようと、あるいは何も考えなくても、自然法則は精確に働いています。自己中心性は自然法則に反しているので、このまま行けば人類は滅亡することに決まっています。それは超常的な力が働くからではなく、単に自滅するということです。一方で私たちは、信仰のあるなしに全然関係なく、確率論的に言ったら奇跡と呼ぶにふさわしい偶然の出会いや出来事を、誰もが一度は経験しているはずなのです。(考えようによっては何もかもが奇跡ではないでしょうか。)信じようが信じまいが、私たちは自然法則によって大調和の方向に導かれてもいます。ですので、そういう科学的事実にハッキリ気づくようになるのが普遍的宗教であって、理解の仕方や信仰のやり方は人それぞれ何でも構わないのであります。

寂しさ

寂しさの感情というのは、それが元で自暴自棄になったり、人の注目を得ようと常軌を逸した行動に出たりと、多くの社会的な問題の引き金になっていると考察される割には、本気で対策しようとする人が少ないんじゃないでしょうか。先に結論を言いますと、私たちが寂しい原因は一つしかなく、神様から離れているから寂しいのです。それに以外にありません。そりゃ人間ですから、パートナーや親友がいた方がいいに決まってます。だけど、どんなに確かな心の交流があっても、それで恒久的に寂しさから解放されることはありません。現象面からこれを追求した教えも昔からあって、クンダリニーのエネルギーが動くと、確かに寂しさを忘れられるということは言えます。こういうことは条件が揃えば起きることで、いつかは消える一時的な状況とか神秘体験でしかありません。人間関係が順調だとか超常的な能力が出たとかはひとまず置いといて、神様との繋がりは態度がすべてであると理解しないといけません。宗教の根本を一言で言えば「神様ありがとうございます」という言葉になります。人間としての自分の知性では分からない何かが、自分を含めたすべてを支えているのをまず認知することであり、それによって根源のエネルギーであるクンダリニーに自然と繋がることになります。自分の力で神をコントロールして寂しさを駆逐しようと思うのは誤りです。

自分を愛する

近年「自分を愛する」ということが世界的なキーワードになっておりますが、もちろんいいことだと思うんです。これは家庭的社会的なしがらみの強い国や地域の人々にとって、自分が本当は何を望みに何をしたいのか、声を上げるように励ますメッセージとしてとても適切だと思います。個人の意志を尊重するという意味で使われていると思うんです。ところが、シンプルなメッセージが持つ性として、どのようにでも解釈できるという問題点も孕んでいます。個人主義が既に発達している国や地域の人々にとっては、自分のやりたいことをやって楽しむのは当たり前の話ですよね、という風に聞こえるんじゃないでしょうか。ワガママを肯定するメッセージとして受け取る人の方が多いかも知れません。本来の意味からすると、分け隔てをしないのが本当の愛なんですから、「自分を愛する」の本来の意味は、自分を含めたすべての人を愛するということです。自分だけを大切にして誰かに迷惑を掛ける可能性を考慮しないのがワガママということですが、そうではなくて、すべての人が同じ権利を与えられていると理解できたら最高です。好むと好まざるとに関わらず、あらゆる種類の人がいるからこそ社会が成り立っているし、それゆえお互いを尊重する必要があると分かれば、必ずしも神様に与えられた役割云々という宗教的な観念を持ち出さなくてもいいんじゃないかと思います。

何の話だっけ

理屈と実体験のバランスというのは話し手の普遍的なテーマではないでしょうか。これはスピリチュアル業界にも当て嵌まると思います。理屈ばっかり言っていると、難しい話が大好きな人たちの間で人気になりますが、実体験が全然伴わなければ、分かっているようで誰も分かっていないという結果になってしまいます。実体験ばっかり話していると、聞き手に同じような体験がない限り疎外感を生み出すばかりで、ただの面白い話で終わってしまいます。でも理屈がないと、そもそもそういうものがあるというイメージを描き出すことが出来ないので、何も伝わらないのです。同じく実体験を話さないと、具体的にそれがどう存在するのかが伝わりません。結局、スピリチュアリティにおいても相手に寄り添って伝えることがいかに大切かということだと思います。ところが、多くの場合そうなっていないのが現実だろうと思うんです。みなさんもご存じの通り、理論についても実践についても、伝統的に話を大袈裟にし過ぎたことは明らかです。今は話を元に戻す段階かも知れません。つまり、自分が体験し得た限りにおいて話をまとめ、伝えることが必要だと思います。

あらまし

これからスピリチュアリティの門を叩こうという人にどんな説明をするのか、という概略を作るのがあいのほしの役割かと思うんですが、実際年を取ってみると、思考能力が衰えると言うよりは、どうでもいいような余分な知識が心に付着してしまい、ゼロベースで考えにくくなる、というのが悩みどころであります。一般常識から掛け離れた訳の分からない前提の数々をベースに話をするティーチャーさんが増えるほど、ナントカ業界と揶揄されてしまう結果になります。スピリチュアリティに興味を持ってやって来る人一人一人がみんな違うので、一緒くたに同じ説明をするべきでない、というのが現実ではないでしょうか。まず、何を求めているのか。そこの動機を深く掘り下げて行く必要がございます。次に、どんな方法を提供できるか。体を使う方法が合っている人もいれば、芸術的な表現が合っている人もいれば、言葉を使うコミュニケーションが合っている人もいます。向き不向きを見極める必要がございます。最後に、進歩しているかどうかのフォローアップ。どこかで行き詰まっていたら、教師の手腕でブレイクスルーを起こさせる必要がございます。それもこれも、個人の夢を叶えるとか、あるいは個人が夢から目覚めるとかいうことじゃなく、人類全体で進歩するためという視点から援助が行われないといけないんだろうと思います。そんなこんなのあらましが書かれた小冊子が配られる時代が来るでしょう。宗教や信条に関係なく、誰もが参考にできる内容のものです。

未来

私たちは未来を選べるのでしょうか。選べないと困りますね。現実的にどの程度選べるのかが問題です。地球人類が滅亡しても自分だけは生きて行けるとでも言いたげな現実創造論もありますが、少なくとも今の時点では極端と言う他ないでしょう。結局、国同士が戦争になり国土が荒廃したら、そこから何の影響も受けないような人は地球世界にはあり得ない訳ですし、そもそも個人の人生というものは存在しない、というのが精神世界の門を叩いた人が真っ先に理解すべきことではないでしょうか。次に、能力や環境に恵まれて確かにどんな未来をも選択し得る人がいる一方で、それこそ奇跡でも起こらない限り今の境遇から抜け出す見込みのない人もいる、という現実を理解するべきです。現実創造論は一定以上の力のある人にとってはまったく正しいのですが、大多数の私たちにとっては(現実化の方法をやっても結果が出ないので)奇跡にすがれという話でしかありません。未来は同時に存在しているという科学的理論があるそうですが、いいバージョンの未来が実際どんな風に存在し、どうやってそっちに行くのかということが私たちには重要です。ある意味当たり前に聞こえる話なんですが、常に明るく前向きな気持ちでいることが最大の秘訣だと言われます。世の中がこんな風ですから実に難しいことです。だけど、何とかしてこれが身に付くように私たちは努力しないといけません。

目標設定

人生に目的はない、よって目標を定めるなんてナンセンス、というようなことを教えるティーチャーさんがいらっしゃいまして、哲学としてはそれもアリなんですが、実際その通りにやるとなるとどうなのかな、と思うんであります。その方向で精神的にあるいは社会的に大成した人を見たことはありません。やはり目標を決めることによって人生が積み上げられるというのが普通の考え方だし、大事なことだと思うわけです。で、何を目標にするかというのが問題です。ある特定の職業に就くこと目標にするならば、結果は成功か挫折かのどっちかになります。幸せな家庭生活を目指してAさんと結婚したら、現実にはなぜかうまく行かなくなり、もしBさんと結婚していたら幸せだったかしら、と想像してみたりすることもあるでしょう。資産家を目指して株に投資することにして、自分の感覚と考え方からこれがいい!と思ったA社の株を買ったら、何年かで倒産という憂き目に遭うかも知れません。同じ時期に市場に出ていたB社の株を買っていたとしたら、何年かで何十倍になっていたとすれば、選択を誤ったということになります。こんな風に、ごく一般的な意味での目標には、そこに至る手段にいくつかの選択肢があり、結果は成功か失敗の二つに一つではないでしょうか。持って生まれた能力や性格の良し悪しで、結果は自ずから決まって来るとも言えるし、もっと言えば成功と失敗の繰り返しと言うことも出来ます。スピリチュアルの観点から言いますと、もっといい設定の仕方があるということなのです。自分の能力の範囲でやればよくて、いわば誰もが成功を実感でき、生涯に渡って自分を励まし高めてくれる目標があれば、生きるのが単純に楽なのです。それは何かと言いますと、世のため人のため、地球のため、ひいては神様のために役に立つことを、自分で考え切れる方法でやるという目標です。これが唯一の道だと言うつもりはありませんが、結局何が一番得な生き方なのかを考えてみてください。

記憶

過去は存在しないとか記憶は幻想という考え方が精神世界にはありまして、過去がないなら現在もなく、記憶がないならあなたは誰?と言う訳で、最終的には現世を完全否定する教えにまで辿り着いたのです。良い悪いは別として、実際の適用としては、(どうやっても人間社会に幸せを見出せない)不幸な人が世界と折り合いを付けるための哲学である、というのが一つの事実ではないでしょうか。本当に幸せな人が説いた幸せの哲学というものが、ハッキリ言ってほとんどなかったわけです。無論これは大きく変わって行きます。過去を否定するのであれ自我を否定するのであれ、何かを強く否定する人ほどそれに強く囚われているという傾向が、絶対とは言いませんがあるように思います。本当に幸せな人というのは過去をあまり振り返らないし、自分というものにこだわりません。だけど、そんな世界があることをほとんどの人は知らないのですから、仕方がないのです。どうすればそうなれるかというのが問題です。それが出来ないから、私たちは常に、現世否定型の哲学が最終結論なんだろうと自分を納得させて来たわけです。しかしながら、今や私たちには別の選択肢が与えられています。

比較

昔の映画じゃないですが、容姿も才能も経済力も自分よりも遥かに優れた同年代の人に出会うことで、それまで思いも寄らなかった惨めな気持ちが出て来る、というようなことはあり得ます。そこが人間の心の難しさで、それまで散々努力して心を磨いて、一頃前と比べるとものの考え方も完全に違っていると自分では思っていても、ある人に出会い好きになるとか嫌いになるとかすることで、すべてが元の木阿弥になるということがあります。つまり、努力の甲斐も虚しく同じパターンを繰り返していることを発見するわけです。人と自分を比べることが誘因になることが多いんじゃないかと思います。人と自分を比べる必要はないとか、比べちゃいけないと教えるティーチャーさんもいらっしゃいますが、私が思うに、比べると言うか現実を見ること自体はいいことです。素晴らしい人、尊敬できる人と自分を見比べて、現実どこが違うのか観察するのはとてもいいことだと思います。逆に、スピリチュアルティーチャーさんが取り巻きの人に「この人は特別だから」とか「とても敵わない」とか「同じようになれっこない」とか思わせてしまったら失敗だと思うんです。自分がいかに駄目かを認識するためじゃなくて、どうしたらもっと良くなれるかという方向で比較検討する態度を身に付けることが大事ではないでしょうか。誰かより上になるためじゃなくて、自分にしかない何かを磨き出すために使えるはずです。

どこに住むかというのは非常に現実的な問題ではないかと思います。家を買うとか建てるというのは人生の一大イベントとされています。ところが、理由が何であれ、どこの地域のどんな家に住んでみたい気持ちになるかというのは、最初から運命的に決まっていると言えるのです。私たちは生まれた時に、ある地域のある家、基本的には両親の家に置かれるわけです。理想を言えば、置かれた環境で努力して自分を乗り越え、これ以上成長できないとなった時点で次の環境に移る、そこでまた最大限に成長して次の環境に移る、という形がいいに決まってます。ところが心を変えるとか感情を変えるということは、実際にはかなり難しいのではないでしょうか。自分を乗り越えるどころか、生まれ付いた性格のままに生きてるだけ、というのが人間社会の実態であります。目先を変えるために引っ越しをしても、私の意見ですが、あまり運命路線は変わらないだろうと思います。家の中を整理したりするといい(もちろんいいことです)という教えもありますが、それだと話半分なんだろうと思います。自分の中で取り組んで来たことが一つの区切りを迎え、心が明るくなったとか楽しくなったタイミングで新しい家を探すと、自然にいい方向に行けると思います。なお、これも私の意見ですが、「ここが終の住処」という感覚を持つとそこで成長が止まってしまうようですので、参考にしてみてください。

楽しんで生きる

何事も楽しんで生きるのがいいですよ、と若い頃に教えられたんですが、言われた傍から出来るのは相当筋の良い人なんだろうと思います。私みたいに「なるほど」と思うようになるまでに何十年と掛かる筋の悪い人もいますが、今思い返してみれば、確かに「楽しんで生きよう」と自分で決めた瞬間からプロセスがスタートしたんだろうと思います。最初は「何をどうやって」ということはまるで分からないわけです。だけど、楽しんで生きよう、といつかの時点で決心することがなかったとしたら、自然の成り行きでいつの間にか人生を楽しめるようになることはないかも知れません。多くの人が「楽しいことが起これば人生楽しくなる」と考えて、何かとか誰かに楽しませてもらうことを期待していますが、スピリチュアルな観点からすると、そのような生き方は望みが薄いのです。他方、生まれつき楽しむことを知っている素晴らしい人も存在します。いわゆる個人差がとてもありますが、たとえ筋が悪くても諦める必要はないと思います。いつの日にか、人生に何があろうとなかろうと、何事も楽しんで生きている自分の姿を想像するんであります。すると直ちにそうなります・・・とは行かないかも知れませんが、いつの日にか必ずなるんであります。人間の心の凄さだと思います。

疑問

私たちは結局何も知ることは出来ないんだから、何かに疑問を持つこと自体が良くない、と教えるティーチャさんもいらっしゃいますが、疑問というのは私たちを前進させてくれるものだし、人生に対する疑問の多くは、いわゆる過去世やご先祖様の思いの中から出て来ているものだと思われます。自分の人生の幸不幸に直結する真摯な疑問というのは、果てしない知的好奇心とは違って、答えが見つかることによって必ず解消されます。よって人生に対する疑問が雲散霧消して、もう心に疑問が一つも浮かばないという状態になれるんであります。折しも今という時代は、少なくとも過去数千年の歴史の中で一番、人生に対する疑問を解消し易い時代だと思います。ちょっと調べさえすれば最良の情報にすぐ出会えるし、知識のある人に聞けば手っ取り早く答えを教えてもらえます。本当に有り難いことだと思います。と言うことは、もし人生に対する真摯な疑問があったら、今の内に情報を求めるべきだし、それによってご先祖様も浮かばれることになる、と私は感じています。すべての疑問が解消と言っても、それで人生が解決するわけでも終わるわけでもありませんが、いわゆる心の余裕が持てるようになることは確かです。そのうち人生が次の段階へ運んでくれるんだろうと信じますが、それは確かに、これまでにあんまりなかったような展開になることでしょう。そこでまた、新しい経験をしたり新しい知識を勉強したりする必要があることでしょう。

再出発

一度も人生に躓くことなく、ずっと順調に行く人もありますが、多くの人は一度や二度は気を取り直して再出発という場面を経験するかと思います。出直すことで大成功する人もいれば、残念ながら何回やってもうまく行かない人もいますが、この違いはどう理解すればいいのでしょうか。気持ちの切り替えが鍵になりますが、人間関係をリセットしたり、引越しして環境を変えたりしても、過去に未練があったりして、肝心の気持ちの切り替えはうまく行かなかったりします。かと言って、断固たる態度で過去を切り離そうと思っても、人間の心というのはそんなに簡単なもんじゃありません。タイミングというのもありますし、要するに、過去を振り返ってどうのこうの思うよりも、平凡な言い方になりますが、未来に向かって夢を描くのが楽しいという気分になって来た時が、再出発の絶好のタイミングだと言えるでしょう。結局、それまでの自分の考え方の中に確固たる理想を持っていたかどうかであって、それがなければ、未来に向かって歩いて行こうという明るい気分は勝手に出て来るもんじゃないです。理想を思い描くと言っても一朝一夕じゃ出来ないから、平素何事もない内にやっておかなきゃいけないと思うんです。このポッドキャストはそういう理由で、みなさんそれぞれが人生の理想を思い描いて行く助けになるような思考の種を蒔いているつもりなので、どうぞご利用ください。

教える

一般的に学校の先生と言ったら、学習指導要領に従って、一つ一つ順番に教えるのが役割と言えるでしょう。そこで、教師用のマニュアルといったものが一切なく、例えば音楽を教えるとして、あるのは一台のピアノのみで、超初心者に「音楽の本質」を伝えるとしたらどうやるでしょうか。記憶の中から、何年に誰それが何々という作品を作曲したという知識を披露したところで、あんまり意味を成さないでしょう。ピアノを弾いて、例えばベートーヴェンはこう、ショパンはこう、と実演する必要があります。楽譜を読めない相手にハーモニーやリズムといった基本概念をうまく説明できないといけません。要するに、身に付いたもの板に付いたものが相当なければ出来ないはずです。スピリチュアル業界では、本に書かれていることをそのまま話し、素性がばれないように一対一の関係を避けるような形式でも、もちろん教師は務まります。お金が目的なら、自分を実際以上に見せるためのマーケティング、ブランディング、パッケージングといったビジネスの手法がそのまま有効です。目に見えないし証明も出来ないこと教えるんですから、ビジネスモデルが破綻するまでにうまくすりゃ何十年もあるので、長い間儲けが見込めるわけです。でも、それではちと寂しい気がしますがいかがでしょうか。生き方を教えるんですから、一対一で伝えるのがやっぱり理想です。昔の覚者さんは偉かったなんて言うと、教師のハードルを上げようとしているように聞こえてしまいますが、あいのほしの意図はそうではありません。むしろこのレベルに達してないと教えてはいけないというような基準はない方がいいと思うんです。レベルが高い低いではなく、身に付いたものを人格から人格へありのままに伝えることを基本とすべきで、そこにイメージの偽装があってはならないと考えます。

疑い

宗教の教えというのは、そういう哲学として頭で理解するだけでなく、生き方で示して行かないといけないと思うんです。ところがこれが実に難しいものなんであります。言ってることとやってることが全然違うティーチャーさんは問題外として、本質的にとてもいい線行ってる覚者さんでさえも、細かい粗探しをすれば、ごく普通の意味で、あまり尊敬できるとは言えない言動の一つや二つは必ず出て来るものなのです。大覚者と言えども人間でもありますから、時代背景や環境による制約を受けているので、すべてが完璧という風には行かないようです。その一つや二つの事実を取り上げて、その先生の教えを全否定するのは勿体ないと思います。本質に響いて来るものがあるなら、小さな欠点から全部を疑ってかかるよりも、素晴らしい面を見て吸収するようにするのが正しいやり方だと思います。そもそもスピリチュアリティにおいては、あるティーチャーさんの人間としての現れに愛着を持って拝むというのが良くありません。その現れの源に目を向けるのが本来のやり方です。よく考えてみれば、精神世界には常識外れな考えや、自分が絶対正しいとする態度が横行する中で、実は常識的なものの見方が大事だというのはあべこべな話なのかもしれません。でもそうなのです。真心があり、素直で嘘をつかない先生かどうかが、私たちが本物を見分けるための基軸だと思います。

影響力

スピリチュアルに興味を持つのは自尊心の低い人が多い、と指摘されることがよくあります。ある程度そういう面もあるかと思います。「私なんかダメ」という思いは、良く取れば謙虚さに繋がるものの、大概は何をやっても世の中に対して全然影響力がないという感覚に繋がり、結局は自分だけの楽しみを求めて生きて行けばいいやという生き方に結実してしまいます。すると、当然人間性は磨かれません。「何も起きていない」と教えるティーチャさんがいらっしゃいますが、その真意がどこにあるかは別にして、その線で行けば普通は同じ結果になり、やはり人間性は磨かれません。ところで、自然界の仕組みを見ますと、どれだけちっぽけに見える存在物であっても、何の影響もないものはありません。それどころか、例えば人間の血液中に0.000001パーセントしか含有されていない微量な化学物質が、それなしでは生きていられないというようなことがあり得ます。一億二千万人中の一人が何をやったってどうせ何も変わりゃしないという感覚で、怒ってみたり怨んでみたり悲しんでみたりしていたら、実際にはどれだけ大きく全体を害しているか知れません。自分が何を言おうが行おうが、否応なしに常に全体に影響を及ぼし続けているという自覚が、人間性を磨いて行くためには必要だと考えます。で、何のために人間性を磨くのかと言ったら、今は「世界平和」の一念で構わないのではないでしょうか。「人類は存続すべきかどうか」(反出生主義)とかの難しい哲学問題はとりあえず後回しにして、世界平和が実現してからゆっくり議論すればいいと思います。

努力

努力することの大切さというのは、スピリチュアリティでも同じことが言えると思います。しかし、努力の矛先を間違えると詰まらない結果に終わってしまいます。体操の初心者がいきなり一番難しい技をやろうとして、死ぬ気で練習しても出来るようにはならないのではないでしょうか。基礎から一歩一歩積み上げて行く必要があるかと思います。瞑想をやるにしても、目をつぶって心を静める練習に始まって、次は体をリラックスさせる練習、それが出来たらヒプナゴジアと呼ばれる体は眠っていて心は目覚めている状態に止まる練習、それが出来たら今度は体の自発的な呼吸のリズムに統一する練習というように、一つ一つの段階に分けて理解する方が確実です。いきなりやれと言われて出来る人はほとんどいないのではないでしょうか。その瞑想も自分の実相が体ではないことを悟り切るための準備体操であって、その悟りも最終的に本心そのものを生きるための準備体操です。見当外れな努力だったらしない方がマシという訳で、指導者はその人その人の段階に合った手順を指し示せなければいけません。かと言って、段階を踏んで瞑想の道を進まなければいけないという決まりもないんですが、その人に合った契機というものがあることは確かです。教えであれ方法であれ、自分に合ったものにどうしたら出会えるのかと言ったら、結局、自分が人生で何を達成したいのかという意図がどこまで純粋であるかに懸かっていると思います。人によっては避けられない事情で遠回りする場合もありますが、そんなことは大した問題ではありません。

感受性

これまでのスピリチュアリティでは、「悟り澄ましたような顔」と言われるように、何やら高い境地にいる人は何があっても心が動揺しないという印象が昂じて、何も感じないとか感情がないことがその証であると考えられるきらいがあるようですが、これは誤解だと思います。事実はその逆で、感情を避けて通れば目的地に辿り着くことは出来ません。男性は特に感じることを恐れる傾向がありますが、その線で行くと、分かるようで全然分からない観念的な悟りに辿り着くだけだと思います。現代のスピリチュアルティーチャーさんはクールであったりドライであったりするのが流行っているのかも知れないですが、昔の時代のティーチャーさんと言えば、宗教者であると同時に優れた詩人であり画家であり歌い手であり踊り手であるという人が少なからずいたものであります。何を隠そう私の最初(で最後)の先生がそういう感じで、感受性を育てることが大事と教えられましたが、今はそういうケースが珍し過ぎて誰も変だと思わない現状です。私自身かなり筋が悪い方なので、正しいことを教えられてもその時はピンと来ないことが多々あるんですが、今振り返って見れば、なぜそう指導されたのかは理解できます。いわゆる喜怒哀楽を包み隠さず感じることは自分の考え方を知る上で大切ですし、美しさを感じ取る感受性は本当の自分を見つける鍵になるとさえ言えるでしょう。いい音楽を聴いたりいい演劇を見たりすることは、私たちが考える以上に重要なことです。ただ、それ自体を目的にするんじゃなく、それを乗り物にして上に登って行く必要があるということです。

道徳教育

いわゆる思春期が終わるまでの教育環境が一生に渡って影響するというのは、まあ一般的に同意される見方だろうと思います。だからこそ、家庭によっては学校選びを真剣にやるのではないでしょうか。で、とりわけ何が大事かと言ったら、どんなに優秀でも倫理観に欠ける人間になったらすべてが台なしという訳で、いわゆる道徳教育が一番だと結論されるのではないでしょうか。小中学校には道徳の時間がありますけど、ないよりはましという程度で、あまり力を入れていないのではないかと思います。巷には注目を集めることで若くして成功者になり、お金の力で好きなことだけをする自由と楽しい生活を手に入れた、というような論調の発信で溢れております。そういう発信があまりに多いので、若い人たちがそういう価値観を刷り込まれてしまいます。最近のスピリチュアル業界も、これがまた同じような論調の発信で溢れております。いわゆる過去世やご先祖様の「自分さえよければいい」という思いがどれくらい溜まっているかは人に依ります。だけど多くの場合、自由に好きなことをやればいいと教わったら、まずは業の思いから来る自分だけの楽しみを求めようとするに決まってます。すると中年になって本心が目覚めて来たとしても、例えて言えば若い頃の好き放題の後始末で一生終わってしまう感じになりかねません。伝統的に霊的な知識は四十歳を過ぎてからという考え方があったのは、昔の人は思慮深かったからだろうなと思います。業の思いと本心の区別が付かなければ、人生はあらぬ方向に行ってしまいます。若い頃にいい本を読むことももちろん必要ですが、一番いいのは本心そのままを生きている人に出会うことです。もしそういうチャンスを与えられたなら一生大切にしないといけません。

死生観

死生観が人生を生きている間の生き方に決定的な影響を及ぼす、というのは言われてみれば当たり前のようですが、自分がどんな死生観を持っているんだろうとは滅多に自問しないし、また考えてもよく分からないという感じではないでしょうか。西洋と東洋の違いは死生観にある、とよく言われます。西洋人は生きている間をいかに豊かで楽しく充実させるかを考えて生きるのに対し、東洋人は死ぬ時にどういう気持ちで死にたいかという観点から逆算して生き方を考える、と言うのです。私たち日本人は東洋の文化の中にいるので、言われるまではあんまり意識したことがなかったという感じではないでしょうか。葉隠的な観念が私たちの根底にあるとまでは思いませんが、そういう違いがあることが分からないなら、西洋の人たちの考え方をいつまで経っても理解できないことは確かです。逆に言えば、そこの部分さえ分かれば西洋の人たちの言動の理由を理解できるようになり、うまくコミュニケーションが出来るようになると思います。どっちがどうということは言えません。死に偏れば肉体生活を軽視したいわゆる進歩のない文化になったし、生に偏れば経済重視で精神性の薄い文化になったのです。このバランスが図られない限りは、地球人類に本当の幸せは来ないのではないでしょうか。そのためにはバランスの取れた死生観が不可欠という訳で、それに気づいた人たちから何かが変わって行くだろうと思います。

恐怖との闘い

満ち足りた子供時代というものがあったとすれば、ある時点で恐怖との出会いがあり、そこから本当の人生が始まったと言うことが出来ます。脳にいわゆる障害があって、恐怖も苦痛も感じない人生というのもあるそうですが、それが人間の理想の状態かと言うとそうでもないのではないでしょうか。普通の人も脳を手術して同じ状態にしてしまおうという議論には決してならないわけです。それは恐怖には役割があることを私たちは直観的に知っていることを意味しています(前に失敗したことがあったからです)。実際、恐怖にどう向き合うかが、人生を生きて行く上で最も大事なことと言っても過言ではない気がしますが(恐怖の状態にいると、人間本来の力というのは全然発揮されません)、実生活でそのことが語られなさ過ぎます。一方で悟りを自称する人が、ある素晴らしい瞬間以来何かを恐れるということが一切ないと語ったりして、スピリチュアル業界に極端な印象を与えている現状があります。私が思うに、潜在意識に恐怖がうんと溜まっているんだから、それを少しずつでも着実にきれいにして行ければそれでいいんじゃないかな、と思います。でもどうやって? 専門家の助けを借りるというのも一つの手段ですが、自分でやれる方法が一つでも見つかればそれがベストではないでしょうか。どんなにちょこっとずつでも確実に減って行けばそれでいいわけです。と言う訳で、基本は呼吸法だと思います。無理のない範囲で体の特定の部位にある恐怖をしっかり感じながら、呼吸によってそこに気を送るイメージをします。それを「ご先祖様もさぞ辛かったろうな」と思いながらやるといいのです。

正解

人生の答えと言いますか、正解を常に探しているようなところが私たちにはあります。それはやっぱり学校の試験問題で、一問一答には必ず正解があり、記述式には必ず模範解答なるものがあって、問題にはあらかじめ答えが用意されているはずだという風に、言い方は悪いですが条件づけられてしまったからだと思います。この傾向は日本だけに限りませんが、日本では特に、あらかじめ用意されているレールの上で品行方正でいられれば、社会生活の安定が保障されるかのような仕組みで動いているので、期待されている答えを見つけようとする誘因はなおさら強いように思われます。で、それがスピリチュアルな世界でも同じような感じになってしまうわけです。心の世界には感情があるので、簡単に割り切れるものでもなく答えが決まっているわけでもありません。正しい教えというのは必ず道徳的であって、表面上はそれに従って行かれればいいように見えます。だけど、人によっては正しい生き方に納得しない業の思いが潜在意識の中に溜まっていて、本心からではなく嫌々ながら従っているだけというケースも出て来ます。顕在意識と潜在意識に矛盾が生じているので、当然いわゆる「効果」が出ないということになり、結果的に正しい教えに出会っているにも関わらず「詐欺に遭った」という風に結論してしまったりします。正しい道というのがあるにしても、人それぞれ順序やアプローチの方法は違っていて然る可きです。これが正解のはずだと頭で考えていると、却って道の妨げになる場合があるので注意が必要だと思います。

自分を知る

どういう訳か持って生まれた性格というものがある私たちですが、性格というのはご先祖様やいわゆる過去世の思いから多くが構成されていると言っていいでしょう。いつか浄められ叡智というようなものに昇華されるのを待っている思いがありますが、埋もれたまま知覚されることがなければ、私たちはそもそもそれが存在するということに気づきません。体との繋がりの中で感覚されて初めて、私たちはそこに何かがあることに気が付くことが出来ます。意識の上に表面化する必要があるわけなのです。体の感覚や症状あるいは感情が混沌としていて、それを意識の上でしっかり捕らえ切れない場合に有効なテクニックがいくつかあります。フォーカシングやプロセスワークの「チャンネルを切り替える」動作は画期的な発見だったと言えるでしょう。調べてみたい感覚や感情があったら、まずそこに気持ちを向けることで、自動的に気が流れて行くという理解が基本になります。次に使える手は、精神世界ではよく「呼吸を通す」と言ったりしますが、そこの部分に息を吸い込むイメージをすることです。あるいは、そこの部分で息を吸ったり吐いたりするイメージをします。もちろん実際にそんなことは出来ないので、ただのイメージなんですが、気が流れることでその感覚や感情がより鮮明になることを企図しているわけです。よくよく感じるということが一番大事です。その次に出来るのは、チャンネルを切り替えてさらに調べることです。それに味があったらどんな味だろう? どんな匂いがするだろう? 触ったらどんな感触だろう? どんな音がする? 色や形は? という風に内なる五官を開いて調べます。想像すると言ってもいいでしょう。充分に鮮明に捕らえることが出来たと思ったら、その次に出来るのは、その感覚や感情に一番ぴったりな言葉を探すことです。自分の中で本当にしっくり来る単語やフレーズを見つけます。こういう一連の動作は多くの場合、自分を知るために必要ですし役に立ちます。ただ、それによって特定の結果を期待したり、心理分析的に原因や理由を探ろうとしたりしない方が望ましいです。自分を知ろうとするのが本来の動機であって、その中に何らかの利益を求める心を入り込ませないのがベストだと思います。

受容

願望実現についての教えは本来のスピリチュアリティには含まれているものでして、その鍵は「受け入れる」ことであると言われます。言葉にすればこの上なくシンプルなんですが、そのの意味が分からないからみんな苦労するのではないでしょうか。そのコツさえ掴めれば、言ってしまえば何もかも思い通りに実現できるはずです。が、みなさんも知っての通りそういう人は実在しないと言っていいような状況です。結果が出ないということは受け入れていないからだとするならば、どうすれば受け入れられるのかが問題です。まず、「私はナニナニを受け入れます」と口に出して言うとか紙に書くというのが、誰でも最初に思い付く方法ではないでしょうか。それでダメなら、神社仏閣に詣でてお願いをします。家相やラッキーアイテムが役に立つかも知れません。それでもダメなら、自分が欲しいものを既に持っている誰かから奪い取るための戦略を立てます。結局、お金がすべてだという結論に到達するかも知れません。いわゆる顕在意識の思いの力で願望を実現しようとしたら、こんな風に邪道に入り易いと言えるでしょう。いろんな方法があるんでしょうが、昔からそれで結果が出る人もいるからあるわけです。「形から入る」方法と言えるわけですが、そこから先は二通りに分かれます。一つは、真似しているうちにだんだん自分のものになり、最後は本物になるパターン。もう一つは、詐欺や泥棒のようにいつまで経っても自分のものにならないパターンです。詰まるところ、微妙な態度の違いが大きな差になると言えます。受け入れるか受け入れないかというのは態度の違いです。自分が実際どんな音を出しているのか知らないといけませんが、そのためにはいわゆる潜在意識まで掘り下げる必要があるかも知れません。結果が出ないということは、往往にして顕在意識と潜在意識が食い違っているからなのです。

あいのほしの瞑想

これからお話しすることは、数多ある瞑想についての考え方の一つに過ぎないことを、まず最初に言い添えておきます。で、あいのほしが考える瞑想というのは、何か特定の結果が期待できるものではなく、強いて言えば、単に「休む」ことであります。神秘体験とか、こういう体験が出来るはずだ期待して瞑想するとなると、それだけで本来の瞑想からは離れてしまうように思います。方法としては、理想を言えば背筋を伸ばし、足を組んでただ座るということになります。機能的な障害があったりして体の痛みに気を取られてしまうようなら、別にどんな姿勢でも構いません。で、何も考えないでそのまま座っていられるんであれば、それだけで完璧な瞑想です。難しい理屈を付け足す必要はありません。次に、何も考えない状態にはならなくても、座ってるうちに心が静かになるという人は、心を集中する訓練をします。ヴィヴェーカーナンダさんの『ラージャ・ヨーガ』という本に書いてある方法を参考にしているんですが、心を集中すべき場所は二つありまして、一つ目は頭のてっぺんから15センチくらい茎が伸びて黄金の蓮の花が咲いているイメージで、その蓮の花になっている感じで集中します。二つ目は胸の中心に炎が燃えているイメージで、その炎になっている感じで集中します。炎の色は何でもいいんですが、青がおすすめです。一度の瞑想で蓮の花と炎を同時にイメージするんじゃなくて、蓮の花なら蓮の花、炎なら炎のどちらか一つに集中します。イメージを使うんですが、映像をイメージする訓練じゃなくてあくまで心を集中する訓練なので、そのものに成り切るのがポイントであります。最後に、座っているといつの間にかくだらないことをあれこれ考えているという人は、その考えを紙に書く練習をします。「またくだらないことを考えてしまった」と書くという意味じゃなくて、具体的に何を考えていたか思い出して書くということです。すべての思考には理由がありますが、いい悪いを判断するためとか、心理を分析するためとかいうんじゃなくて、何の期待もせずにただ書き留めます。自分が何を考えているのか自分で認識することの意義を甘く見てはいけません。頭を休ませることが目的だとすれば、漫然と考えごとをしながら座ってるくらいなら昼寝でもする方がいいのです。自分の考えを認識することによって、理想を言えば心の中身が自然と整理されて、だんだん静かに座れるようになって来ると思います。

学びの手順

スピリチュアリティについて誰もが押さえて置くべき基本というのがあるんでしょうが、それを言い出すとすぐに宗教的なドグマが出来上がってしまうのが難しいところです。良かれと思って作った規則が精神の自由を束縛し始めると、人間社会はあらぬ方向に行ってしまいます。私たちが生きているのには目的があるということを理解することが重要です。だけど、あなたの役割はこれです、と他人に教えられるのではなく、自分でこうだと分からなければ何の意味もありません。一人一人に割り当てられた固有の役割があり、スタート地点からしてそれぞれ違っているので、全員一律に同じ人生哲学を押し付けられるのではなく、自分の道を自分で見つけられる教育環境を、チャンスとして与えられるのが理想なんだろうと思います。勉強であれスポーツであれ芸術であれ、あるいは伝統宗教であれ、何でも一通りやってみることが出来る環境があれば、自分のやりたいことを自分で見つけることが出来ます。一方、身体的にであれ精神的にであれ、あるいは家庭環境であれ、自分で選ぶ余地があんまりない束縛の中に生まれついている人もいます。そんな中で自分がやるべき義務を果たしながら、精神の自由を得るためにスピリチュアルな道に置かれていると言っていいでしょう。普通は、人間やりたいことを自由にやるのがいいに決まってます。実はそれが、「自分がやった」という自意識を満足させるためではなく、完全調和のために誰もが自分の仕事を捧げているんだということに、今この人生を生きている間に気づけたら最高だと思います。

逆境

逆境に立たされた時に初めてその人のスピリチュアリティの真価が試される、それまでの人生すべては本番前のリハーサル、というのが最終的に私たちの共通認識になるのだろうと思います。そのくらい口で言うのと実際にやるのとは違うと痛感いたします。「人生こう生きるべきだ」というようなことを教える先生方に従って何年も真剣に実践しても、うまく行かないことの方が多いように思いますが、その結果に対するフォローが多くの場合何もないのではないでしょうか。「無責任な人たちだな」という不満があって、そんなようなことを口に出して言ってもいた時期がありましたが、よく考えてみれば当たり前の話でもあり、もうそんな風に考えないようにしよう、というのが私の正直な現状であります。フォローするというのはお弟子さんの人生を引き受けるのに等しいことですから、そこまでの度量のある先生が少ないことは理解できます。なぜ悪いことや困難なことが起こるのかと言ったら、昔ながらの説明の通り、それがないと私たちは成長しないからです。いつの間にか人生に立ち向かう勇気が身に付いている、というのが本物のスピリチュアリティの醍醐味だと思います。いざという時に役に立たなければそれは本物じゃない、というのは誰もがいつかは直面しなければならない大問題であります。

理解

人間にはものごとの仕組みを理解したいという願望があり、また理解できる能力を与えられている以上、私たちが人生をより深く知ろうとするのは自然なことに思われます。実際、未来の世界では私たちがここ(地球)で何をしようとしているのかが理解されるようになるのです。そうなったらもう占めたものでしょう。ただ、難しい哲学を理解できるならそれはそれですごいことなのですが、哲学の大部分はどちらかと言うと解説とか背景知識に属するものであって、愛の道を行じる霊止(ひと)になるのに背景知識は全然必要ありません。言葉にするから変に聞こえてしまうんですが、まず知識から入って、それを行じて行くうちに自分のものになり、最終的にいちいち頭で確認する必要がなくなるという訳なのです。私個人の勝手な意見なんですが、一人一人が別々に修行してという今までのスピリチュアリティのあり方は終わりつつあるように思います。私たちは集合的な理解に到達しつつあると見るべきです。それはもちろん言葉が一人歩きして行くからではなく、黙々と行じる人が増えて行くからこそ達成されるのです。

知識

知識を得ることは大事だとあいのほしでは考えております。「何も知る必要はない」とする哲学もありまして、極論すれば言語も使わない原始生活が理想ということになるんでしょうが、本気でそれを実行する人はいないのが現実ではないでしょうか。で、私自身好奇心が人一倍強かったので、(最初から最良の先生に出会えていたにも関わらず)マイルドな知識に飽き足らず、最新と言われている知識や、あまり知られていない秘教的な知識を追い求めたりもしました。でも、デッサンや楽器の練習と同じで、基本を踏まえずに応用から始めると、ある程度のところまでは行けるものの、いわゆる自己流の癖が身に付いてしまったがために必ず行き詰まる時が来るんであります。限界に直面して「なぜ基本が大事だと教えてくれる人が誰もいなかったんだろう」とその時になって思うものです。では精神世界の基本とは何ぞやと言いますと、結局、伝統宗教の顕教では必ず一番最初に教えられる、日本では道徳や倫理に分類される部分の教えがそれなんであります。人を傷つけてはいけないとか、貪ってはいけないといった基本的態度を一切踏まえないで、いきなり悟りとか究極が分かったとしても、結局性格のいびつな人間が出来上がるばかりで霊性の花は開きません。分かるのと実践するのとが全然別物になってしまうわけです。最近のスピリチュアル業界はモラルに関する教えを軽視する傾向にあるように思うので、そこがあんまりいい結果が出て来ない原因なんじゃないかなと考えたりします。