疑い

宗教の教えというのは、そういう哲学として頭で理解するだけでなく、生き方で示して行かないといけないと思うんです。ところがこれが実に難しいものなんであります。言ってることとやってることが全然違うティーチャーさんは問題外として、本質的にとてもいい線行ってる覚者さんでさえも、細かい粗探しをすれば、ごく普通の意味で、あまり尊敬できるとは言えない言動の一つや二つは必ず出て来るものなのです。大覚者と言えども人間でもありますから、時代背景や環境による制約を受けているので、すべてが完璧という風には行かないようです。その一つや二つの事実を取り上げて、その先生の教えを全否定するのは勿体ないと思います。本質に響いて来るものがあるなら、小さな欠点から全部を疑ってかかるよりも、素晴らしい面を見て吸収するようにするのが正しいやり方だと思います。そもそもスピリチュアリティにおいては、あるティーチャーさんの人間としての現れに愛着を持って拝むというのが良くありません。その現れの源に目を向けるのが本来のやり方です。よく考えてみれば、精神世界には常識外れな考えや、自分が絶対正しいとする態度が横行する中で、実は常識的なものの見方が大事だというのはあべこべな話なのかもしれません。でもそうなのです。真心があり、素直で嘘をつかない先生かどうかが、私たちが本物を見分けるための基軸だと思います。