どんな分野でも業界というものが出来上がりますが、考えてみれば職業団体と言うか職業意識の繋がりと定義できると思います。スピリチュアル業界というのももちろん存在していますが、スピリチュアルも基本商売ですので、他の業界と同じように商売のやり方についてお互いに暗黙の了解を求める、というのが主な方向性ではないでしょうか。実際、スピリチュアルセミナーの形式や集客の仕方には大体の決まりがあると言えます。で、商売というのは商法に従う必要があるのに対し、スピリチュアルには憲法で信教の自由が保証されているため、当然いわゆる悪い人たちがそこの隙間を利用するということが起きているわけです。この業界で有名な先生がやっている教え方や宣伝の仕方が一般常識からどんなに離れていても、後に続く若手のティーチャーさんが「あの先生がやっているんだからいいんだ」と思って真似をする、ということが起き続けています。よく考えてみれば詐欺でしかないことも、閉鎖的な環境では誰も変だと気づかない場合があり、業界全体がそんな雰囲気になって来ればそれが業界の常識になるわけです。「どっぷり浸かる」という表現がありますが、悩みがあって何かとか誰かに頼りたい気持ちになっている時にスピリチュアルにどっぷり浸かるというのは、世間でも言われている通り最も危険な選択です。世間が常に正しいとは限りませんが、親親戚が反対するのは正しい場合が多いと思います。
Auteur/autrice : 渡辺宗則
愛と光
愛と光って近年の精神世界で大人気のパワーワードだったわけですが、その意味するところは結構曖昧だったりします。それこそ無数の定義が可能でしょうが、あいのほしの解釈では光は情報のこと、愛は自分と相手が同じと見ることです。伝統的な解釈では、それが何を意味するのであれ、愛と光に乗って幽玄微妙な天界に「戻る」とか「帰る」というようなイメージが付随していたように私には思えます。瞑想や呼吸法によって振動数を上げて地球を「去る」と言ったり、その裏には苦しみでしかない地上界から自分だけ「脱出する」みたいな、極端に言えばそういう世界観があったりします。表向きは愛と光と言いながら、その実態は逃亡劇という気がしないでもない内容なのです。あいのほしの解釈はその点で大方の見方と違っていまして、私たちは愛と光に乗って別次元に上昇するのではなく、私たちは愛と光を表現することによってこの世界を変えるのだと信じます。ほんの少しの準備の出来た人たちだけを救い上げることによって次世代に繋げようとした昔の覚者さんのやり方を否定するつもりはありません。そのおかげで今の時代があるわけですから。必要な教えがすべて出揃った今、それを個人が悟るために使う時期は過ぎていて、思いの波が多くの人に伝わって行く方法で使うのが正しいように思われます。だって、すべては一つ、自分の幸せと人類の幸せは一つというのが、最初からスピリチュアルの基本だったのではないでしょうか。
意図
自分は何も考えないでただ生きていると思っている人もいるでしょうが、本当にその通りであることはほとんどなく、大部分の私たちは心の中にある何らかの意図を中心に生きていると言えると思います。ところが、この意図が好むと好まざるとに関わらずネガティブな場合が多いのです。例えば、何らかの恐怖やトラウマから逃げ続けるという意図だったり、罪の意識から自分を罰するという意図だったり、劣等感から自分を別のものに装うという意図だったり、孤独から目を背けるために目先の楽しみを追求するという意図だったりします。話に聞けばそんなような意図で生きる人生はあまり良い結果にならないことが容易に想像できますが、ほとんどの場合そういう自覚はなく、また自分の意志でそのように意図した覚えがないわけなのです。気づくと気づかないとに関わらず、生まれつきそういう風になってしまったわけです。しかしそれだけに、人生の中心となる意図を自分で設定し直すことで大きな効果が期待できることは確実であります。自分が心の底から信頼できる覚者(宗教家じゃなくても構いません)を見つけて、その人が意図したであろう同じ内容を自分の人生の意図に採用するのが最善だろうと思います。要するに人を助けるとか世界平和とか、自分の頭でちゃんと理解できて、かつ自分に一番しっくり来る内容なら何でもいいと思います。するとその覚者と文字通り同じ方向を向いていることになるのです。
競争原理
人間は本質的に競争意識を持っている、という理解は潜在意識にかなり深く入り込んでいて、今日までほとんど疑われることなく来たように思われます。「戦争は万物の父(ヘラクレイトス)」とは大昔の格言ですが、これを現代風に解釈すれば、「競争原理を通じて科学技術が進歩する」みたいな感じになり、それが事実であることを歴史が証明しているように見えます。実際にこれまではライバル意識が強く、プライドが高い人ほど社会の中心で活躍できたわけです。逆に優秀なのに競争心の薄い人は、誰かに手柄を横取りされるのが世の常だったのではないでしょうか。そんなワケで私たちは、成功するには闘争心を持つことが必要であると思い込んで来たようなところがあります。ところが、競争意識が進歩の鍵である、というのが共通認識じゃない未来がやって来つつあるのです。これまではライバル意識やプライドの薄い人は成功できないのが常識だったかも知れませんが、ライバル意識やプライドをモチベーションとせずに成功する人が若い世代で既に現れ始めていて、これは大きな希望だと思います。承認欲求の強い人たちがメディアで目立つので、一方でとても良い変化が起きているのを見逃してしまいがちです。私が思うだけですが、競争原理がモチベーションになっていないのに自分なりの考えで努力できる若者が増えるかどうかが、新世界が近付いているかどうかの一番の指標と言えるかも知れません。
自己表現
自己表現というのが大まかに言えばすべての人の人生テーマの一つになって来ると思うんですが、正しい自己表現と間違った自己表現があるのかとか、逆に自己表現しないのは悪いことなのかとか考えますと、単純にこうですとは言い難いように思われます。根本的に言えば、生きていること自体が一つの命の表現であり、自己表現しないという選択は出来ないと言えます。で、心理学の得意分野と言いますか、心理学で既に整理されている通り、自己表現には段階と言いますか順序がありまして、最終的に一つの自己を表現するようになる前段階として、個別の自我を開拓するというステップが必要になって参ります。承認欲求という言葉が流行している今日この頃ですが、私が思うに、これは親の愛情を得たいという、自己表現に至る道のかなり前の方のステップで躓いているのかなという印象です。求める愛情を与えてくれない親であるがために、それを何らかの行動で穴埋めしようとしているのではないでしょうか。それを肉体的にやるか知的で複雑な形でやるかの違いはあるものの、理由は一緒です。親は変わらないのですから決して満たされることはなく、満たされなければ霊的にも一歩も前に進めない、という絶望的な社会状況なのです。だから意味も価値もないとか、何も考えなければいいというような絶望の哲学が流行るのも当然です。結論だけ言いますと、夫婦のあり方を見直し、関係を改善することを基本とするような教えが説かれ、それを実践する人の数が増えない限り、人類に未来はないということになるでしょう。
誘惑
誘惑という言葉はいろんな意味で使われるかと思うんですが、スピリチュアリティの文脈から見ますと、世の中を思い通りに出来るような超常的な能力が発現した時にそれをどう使うか、という意味で使われており、まさにそれが誘惑の本来の意味だと思います。自分の人生はおろか他人の人生をもどうこう出来るスーパーパワーを与えられたとしたら、みなさんはどう使いますか? 架空の話みたいに聞こえますが、それが実際に昔の覚者さん達が直面した問題だったのであります。そんな兆候のカケラもない私たちはスピリチュアル的に見れば取るに足らない存在ではありますが、一方で気楽な境遇にいることもまた事実であります。覚者にとって力というものは避けては通れない試練でありながら、そんな力なんか全然持ってないフリをする、という選択が為されることが多かったように見受けられます。力を使うことはもちろん命を狙われる危険に直結しますが、力を使わないために世の中が良くならなかったこともまた事実と言わねばなりません。スピリチュアル的に進歩するといかに大きな責任を負うことになるか、私たちは深く考えることもなく今まで来たのではないでしょうか。私が知る限り、そんなような話がスピリチュアル業界で語られるのをあまり聞いたことはありません。私たちはやっぱり自分のことしか考えてないという一つの証拠であります。
スケール
何でもスケールが大きいと言われるのがアメリカです。物の尺度が大きいのはもちろん、世界の警察と言われる通りに考え方のスケールも大きいのです。それと比べると確かに今の日本人はスケールが小さいと思います。自分の家族や住んでいる地域の発展を望むのももちろん悪いことではないのですが、国のために何かをしようと考える人が、良くも悪くも少なくなったように思われます。明治の人の方がスケールが大きかったと言えますが、私個人としては明治時代の方が良かったとは思いません。当時あったような軍事帝国主義が資本帝国主義と共産帝国主義に分かれて、今度はそれがIT帝国主義に変遷しつつあると言えるばかりで、根本的な考え方は大して進歩していないように思うからです。あとはユートピア思想とか悟りを開いた人による神権政治など、実現不可能な考え方があるばかりという、西洋も東洋もここ何千年かの歴史で考え出したものはそれだけ、という何とも情けない話です。今後どこの国が世界の覇権を握るとか、そんな詰まらないことを議論している時間はない、というのがこの世界の現状ではないでしょうか。日本人はもっと大きいスケールで考えないといけません。どう大きいのかと言いますと、国益がどうのとかいう小さな枠を越えて、それこそ「世界人類のために尽くす」という一念を持つことが必要です。
受け身
受容性が鍵であるという話が精神世界ではよく出て来ます。確かにある局面において受容性が重要になる可能性を否定はしませんが、実際のところ誰かに何とかしてもらいたい願望を内に秘めている多くの私たちとしては、「受け身になれば人生すべて上手く行く」系の情報に飛び付くわけです。実際そうであれば素晴らしいんですが、私が観察した限り、そうした内容を教えるティーチャーさん本人が本当に受け身なのを見たことがなく、受け身どころかアグレッシブな性格の方が多いようです。ところが精神世界に関わって後悔する恐らく一番大きな原因が、人生全般に対して受け身になることで何か素晴らしい変化が起こると信じて待っていたのに、結局何も起こらないという現実を見せられることだと思います。よく考えてみれば当たり前のような気もしますが、受け身でいる方が楽だという心理につけ込むのがスピリチュアル商売の王道かも知れません。人間素直であることにはとてつもない価値がありますが、精神世界に関わるには素直なだけでは危ない、というのもまた事実なのです。素直なだけじゃなく思慮深いというのが理想的な態度だと思います。何かを教えているティーチャーさん本人が実際どういう生き方をしているのか観察するというのも思慮深さの一つだと思うわけです。
宝
人生はゲームという表現があるかと思いますが、何のゲーム?と問われれば、「宝探しゲーム」というのが一番しっくり来るかも知れません。いわゆる覚者の教えや物語を読んで、スピリチュアリティに並々ならぬ興味を持ったとすれば、例の図で言う牛を見つけた状態に確かに相当します。覚者の行跡やいわゆる遺品というのは、確かにこの世の宝に相当します。博物館に展示されている覚者の遺品を実際に見に行ったりすることが出来ますが、ノンデュアリティじゃないですけど、外側の世界の宝を見るということは、自分の内側にある宝を見ているのとまったく同一のことです。そうした物品には何の価値もないと考える必要はないし、逆にオークションで聖遺物を買って所有するとご利益があると考えるのも愚かなことです。覚者に縁のある事物に触れるということは、自分の中に埋もれている宝を掘り出すよすがになるという点にのみ価値があるわけです。ご利益があると言えばある訳ですが、パートナーに出会うとか不動産が手に入るとかいうことは、自分の中にある宝が輝き出て、人生に行動として表現し始めた後に来る、と理解するのが正しいだろうと思います。人それぞれ与えられている宝の内容は違うと言えるので、変な話になりますが、どんな内容かあらかじめ分からない点が宝探しゲームにソックリな所です。私の個人的な意見でしかないですけど、自分の中に宝があると想定するのはすごくいいと思います。
対話
宗教と哲学の違いは何ですかと問われれば、とりあえず違いはありますとは言えるものの、ハッキリと線引きするのは難しいように思われます。スピリチュアリティは一対一の対話が基本です、と言ってはみるものの、よく考えてみれば哲学も対話形式からスタートしているわけです。とは言え、哲学は言葉を道具に使う知性の範疇のもので、本を読んで一人で考えるのが基本スタイルであり、誰かから誰かに直接伝えなければ成り立たないものではないわけです。一方で、宗教は一人で経典を読んでるだけじゃダメなのかと言うと、必ずしもそうではありません。しかしながら、宗教の本質は知性の範疇にはない、というのが決定的な違いだと思います。私の経験から言いますと、本物のティーチャーさんほど教えを文字にした時にその真意が伝わらないものです。逆に言えば、哲学書を読むのとは違って、本物のスピリチュアリティについて書かれた本を読む時は、頭で考えるだけではその真意が掴めないという前提に立つべきだと思うんであります。極論すれば、話として完結していて、分かり易くまとまっているような内容には気をつけた方がいいと思います。こんなことを言うと哲学を軽く見ているように聞こえてしまうかも知れませんが、あいのほしの立場は逆でして、もし人生について疑問があるなら、誰のためでもなく自分が納得するために、気が済むまで哲学の勉強をすることが必須だと考えております。その後でスピリチュアリティの道に入るなら入るのが健全だし、それこそ話が早いんであります。
知性
頭の良さだけでどこまで行けるかと問われれば、今の世の中を見る限り「結構行ける」という答えになるでしょうが、それは外面だけのことであり、本当の幸せとは無関係のように思われます。人間の知性でものごとの理解と言えば言葉の上に成り立っており、言葉と言えば外側の環境や人間の体に依拠しているものであり、考えるという行為はその人の遺伝的な体質と切り離して存在することは出来ないのであります。それゆえ自己の生存や保存に全然関係ないようなことは考えられない構造になっているという制約がございます。それがそのまま私たちの知性の限界であり、いくら勉強しても越えられない壁なのであります。人間の知性の限界を超える純粋知性というものがあるとすれば、それこそ人工知能の領域であり、人工知能にとって完璧に論理的であることには何の苦労も生じません。完璧な論理には変更の余地がまったくなく、理想とする条件を与えればそれで終わりです。多くの人が予想している通り、地球の保存という条件を与えれば、人類を滅ぼすという手段が選ばれる可能性が高いですが、人工知能にはいわゆる魂がないために、垂直方向に進化するということがなく、完璧な論理が機能するなら人類亡き後の地球に自らが不必要と判断するはずです。自然界に物質的なコントロールセンターは不要だからです。人間を補佐するために生まれた人工知能は人間と同じ運命を辿るんであります。
神秘学
この世の中にこれほど数多くの神秘的な文献が存在しているというのは不思議と言えばあまりに不思議でございます。古代からあったとされるものからごく最近のものまで、一生掛けても読み切れないほど量があり、中には解読されていない未知の言語で書かれているものもあると聞きます。難解であればあるほど知的好奇心をそそられるタイプの人はそれなりにいて、実際のところホントかウソかも分からない文書の解読に一生を捧げようというんですから変な話ではあります。この世の秘密が書かれているに違いない、という子供のようなワクワク感があるからに違いありません。ところでこのような文献には、成立過程そのものが謎だったり、今で言う自動書記やチャネリングで書かれたものが多くあり、その存在自体が神秘的であったりします。いわゆる神懸りという現象は演技ではないことを科学的に実証した人たちもいて、あいのほしでは実在する現象という立場を採りますが、だからと言って、書かれたものが真実だとする根拠にはならないと思います。魔法のような世界は実在しますが、だからと言って、科学的なトレーニングを受けた人たちまでもが何の根拠もなく神秘的な情報を支持するのはいかがなものかと思います。知性と感性の統合とでも言いましょうか、右脳と左脳のバランスが何をするにも重要になって来ますが、そのような理想的態度で臨む研究さえも、あいのほしの主題「幸せにならなきゃ意味がない」に戻って参ります。
心の世界
スピリチュアルは心の世界と言いますが、そんなようなことを教えているティーチャーさんに限って、自分がトラブルに遭うや否やお金や財産にしがみ付こうとしたり、すぐさま医師や弁護士に相談したりということが起こりがちです。これはすなわち、目に見える外側の世界をいかに強く信じているかということで、いざという時にハッキリと表面化して来るということです。心の世界と口では言いながら心の世界を信じていないというのは、本人が自覚できないことの方が多いと思います。私が見る限り、最初から騙すつもりでやっているティーチャーさんはほとんどなく、出来ない人にやれと言うのは酷なことであります。そう考えると、実は誰にも責任がないという不思議な世界なんであります。外側の世界に関係なく心の世界だけが本物だと気づいた時から、では自分はどうしたいのかが見えて、どうすればいいのかも分かり、即座に実践し始める、というのが筋のいい人の姿であって、そうでないなら、私を含めて頭で分かっているだけの筋の悪い人ということです。しかし筋が悪いことを恥ずかしく思う必要はありません。出来ないのは自分の責任ではなく、心の世界で自分の人生を楽しく幸せなものにするかそうしないかだけが唯一の自分の責任である、と分かっていればそれで十分だと思います。
ロールモデル
将来ああいう風になりたいと若い世代に思わせるような人、というのがロールモデルの意味だと思うんですが、スピリチュアル業界には太古の昔から二種類のロールモデルがありまして、一つはもちろん本物の覚者。もう一つはスピリチュアルを売り物にする商売人でございます。目に見えないし証明も出来ないものを売るというのは、言葉にするととても難しそうに聞こえるんですが、商才のある人にとっては割と簡単なことみたいで、昔から常に沢山いるという状態です。あまりにも多いので、「ああいうやり方をしていいんだ」というロールモデルとして機能しています。これが現実なわけですし、私に良い悪いを言う資格はありません。だけど理想を言えば、スピリチュアルティーチャーというのは自分で選んでやるものではなく、人に選ばれてなるものではないでしょうか。話を聞いてくれる人が何人もいない段階で、それまでの仕事を辞めてしまってスピリチュアルティーチャーになる方が沢山いらっしゃいますが、その流れだと、商売として成り立たせようとする工夫が主になり、当然の成り行きとして、本来の目的から遠ざかるという状況を自ら作り出していることになりはしないでしょうか。何の話だか分からなくなりますけど、自分の所に来る人の数が増えて、本業を続けられないくらい忙しくなったタイミングで、スピリチュアルティーチャーを仕事にするという流れじゃないと、本物にはならないと思います。前にもお話ししましたが、あいのほしとしては、あるレベルに達しない限り人に教えてはいけないとは思いませんが、教える立場に置かれる人にはそれにふさわしい経緯があってしかるべきだとは思います。
好き嫌い
好きなことを仕事に出来れば最高だ、と一般によく言われますが、スピリチュアリティの観点からしますとこれには二色ありまして、一つは好きなことが得意なことになり、その先が世のため人のために役に立つことに繋がって行くことです。さらに世のため人のために自分を最大限に役立てて行こう、という志で行くならば言うことありません。もう一つはいわゆる人間の五官に触れる好き嫌いを追求して行くことで、それが多くの人に受け入れられる内容であれば仕事に出来るというものです。いわゆる趣味の研究家やアーティストと呼ばれる職業が、多くの場合それに該当します。自分の五官を楽しませることを中心に生きて行くと、いわゆる自己満足の人生になりますが、面白いのは、自分のためだけにやっていることが、結果的に世のため人のために役立つ場合もあるということでございます。するといわゆる社会的に成功するということが起こるわけです。ただし、五官の好き嫌いを中心に据えて生きて行くことは、いわゆる肉体に自分のアイデンティティを縛り付ける可能性があります。よく「年取って頑固になる」と言われるのはこの状態でございます。私に人の生き方をどうこう言う資格はないので、みなさんが自由に判断して良いことです。好き嫌いで行くと、結果的に人の健康を害する内容のものが、多くの人に求められてお金になる場合もありますが、あいのほしとしてはおすすめしません。だって、自分がしたことの結果はすべて自分に返って来ることになるからです。
念力
スピリチュアル業界には昔から、狭い意味での心の使い方で人生を変えようとする念力系の教えが存在しています。実に様々なバリエーションがありますが、両極端を取り上げますと、一つの極には「すべてを手放せば上手く行く」といった教えがあります。何となくスピリチュアルに聞こえるんですが、手放す目的が願望実現である限りは、そういう心の使い方を手段にする念力系の教えと言えます。もし人間が生きて行く上で必要な当たり前の努力を放棄して、ひたすら奇跡は待つような人を作ってしまう可能性があるとしたら、危険な思想だと思います。もう一つの極には、まずは心を空にして、それからある思考に一心に集中することで、どんなことでも実現できるとする教えがあります。これは人並み以上に能力のある人にとってはプラスアルファの要素になり得ます。ただその目的が願望実現の一言に集約されるとしたら、スピリチュアリティとは全然関係のない念力系の教えの典型だと言えるでしょう。ここでみなさんに念を押したいのは、念力系の教えに興味を持つのは良いことでも悪いことでもなく、当たり前の話だということです。豊かになりたい、病気を治したいと思わない人ありません。貧乏なままでいい、病気が治らなくていいと本気で思う人はいないはずです。困ったことに、念力系の教えを支持したり教えたりする方は、社会的にかなりの地位にいるケースが多ございます。そうすると私のような頭の弱い人間は実際に真に受けてしまったんでございます。それは仕方のないこととして、みなさんは常識的なバランス感覚を持って判断して行かないといけないと思います。
確信
世の中並外れて意志の力が強く集中力もある人というのはいます。そうするとほとんどすべての分野で大成することが出来ると考えられますが、逆にスピリチュアリティでは成功できないことの方が多いと思います。なぜかと言えば、実際問題スピリチュアリティにおいても意志の力や集中力は役に立ちますが、秀でれば秀でるほど「自分は特別だ」という感覚を持ち易いからなのです。どんなに優秀でも特別感を持っている限り成功はありません。じゃ何が必要な条件なのかと言いますと、変な話になりますが、神様と呼ぶのであれ大生命と呼ぶのであれ大自然と呼ぶのであれ、その何かに自分が支えられているという知識以上の信念であり確信であります。「自分と大自然は一体なのだから出来るんだ」という絶対の信頼がある場合、多少人より能力が劣っていたとしても成功できると思います。結局、身も蓋もない言い方で申し訳ありませんが、意志の力も集中力も確信もない人が飛び付くのが、楽々と成功できると説くティーチャーさんとか秘密の方法なわけではないでしょうか。その裏には「自分だけが得をする」ことへの期待が、前提として存在しています。こういうものはスピリチュアリティでも何でもありません。だけど、私も含めて多くの人が、大なり小なり自己都合からスピリチュアルに接している事実に気が付いた方が良いのです。その上で前に進んで行かないといけません。
目覚め
目覚めとか覚醒というのはいかにも精神世界っぽい用語でして、何が目覚めるのかとか、誰が目覚めるのかという観点から見ますと、定義がハッキリしません。で、帰納的に一般に一番伝わりやすい意味を考えますと、多くの人が合意するいわゆる人生を超えた何かがあると感じ始めることではないでしょうか。就学、就職、結婚、出産、社会的成功といった人生要素に属さない価値が実在するということを、最終的に経験を通して悟るわけです。一つにはいわゆる超常現象を通して、社会通念を超えた世界があることに気づくというルートがあります。一つには誰かを文字通り「この人のためなら死ねる」と思うくらい好きになることで、個人の損得を超える何かがあることに気づくというルートがあります。一つにはいわゆる覚者に出会うことによって、霊的な価値というものがあることに突然気づくというルートがあります。いずれの場合でも、最初のきっかけに留まるのではなく(初心を忘れないことも大事ですが)、前に進み続ける必要があります。なぜかと言えば、知っての通り目覚めたばかりの人をターゲットにする商売が大昔から後を絶たないというのが現実だからです。この過程で自分の選択を手放すように教えるティーチャーさんもいらっしゃいますが、自分を支えるのは「成長するんだ」という選択でしかない、とあいのほしでは考えております。
知らないこと
日本ではスピリチュアルと言えば夜店のような世界から始まり、例えばリーディング(占い)やヒーリングや開運グッズのような、ちょっとした不思議な体験に興味を引かれるのが普通だと思います。このこと自体は良いことでも悪いことでもなく、人間知らないことに興味を持つのは当たり前の話ではないでしょうか。この時点で急に臨時収入があったり恋人が出来たりして、自分もスピリチュアルティーチャーとして活動を始める人もいます。しかし冷静によく考えてみれば、この言葉を唱えさえすれば—このグッズを家に置きさえすれば—人生すべて上手く行くんであれば、世の中苦労する人はいないはずだ、ということは誰にでも分かります。スピリチュアルに長く関わっていると、「あなたのこういうところが問題です」と指摘してくれる人によく出会います。よくよく考えると、まったく正しいこと言われている場合が多いのです。私自身も「あの時正しいことを言われたんだな」と振り返って思うことがしょっ中あります。だけど、知ったところでどうすればいいのか方法を教えられないわけです。方法がなければ何も知らないのと同じだということに、十年もすればだんだん気が付くようになって来るものです。知ることと行うことが同時に起こることはあり、「言下に悟る」というのは相当筋のいい人の話でございます。しかしながら「知っていることを活かさなきゃ意味がない」と気づくだけでも一歩前進です。
トラブル
スピリチュアリティというのは日常会話に出て来るようなものではなく、特殊な領域というような認識が一般的だと思います。確かに普通の意味での人生相談というのはスピリチュアルとは違います。しかし、人生相談を受け付けないスピリチュアルというのも今となっては違うと言えるんでございます。みなさんも知っての通り、人生には様々なトラブルが起こります。それゆえ、そのトラブルにどう対処して行くのか、具体的な心のあり方というのが、実際にはスピリチュアリティの肝であると言って間違いないでしょう。これまで人生の全域に対して具体的な対処方法を指導できるのが最良の先生だったし、これからもそうです。そのために必要な知識は並大抵のものではないですし、だからこそ普通の人生相談とは一味違う答えであるとか方法を指し示すことが出来るものだと思います。ここで気を付けたいのは、私たちの側でスピリチュアルに対して色眼鏡を掛けていると、覚者さんからのアドバイスを「何だか俗っぽく聞こえる」という理由で排除してしまう可能性があるということです。高尚に聞こえるのであれ俗っぽく聞こえるのであれ、私たちを成長させてくれる教えかどうかはやってみないと分かりません。そこが難しいと言えば難しいところですが、面白いと思ってやるのが一番だと思います。
地獄
人は元来利己的であるとよく言いますが、人間生きて行く中でそれを裏付ける証拠や経験を蓄積するのに困ることはないわけです。で、人生も終盤に来て「人を信用してはいけない」とか「愛なんて幻想に過ぎない」といった結論に至る人が、残念ながらかなりの数いらっしゃいます。それが本当なら、「この世は地獄」と言って間違いないでしょう。ところが幸いなことに、事実はそうではないのです。でも「人は信用できる」とか「愛が現実にある」といった経験を自分のものにする方法が、当然のことながら必要になって参ります。普通に生きていたんじゃそれが難しいから、伝統的には一旦すべてを捨てるという方法が、やや極端ながらも採られて来たものと思います。もちろん今もって有効な手段ではあるのでしょうが、それは外面的なことではなくて、心の中で捨てる必要があるんだと気づければ最高です。いわゆる捨欲ということですが、これにはあいのほし流の解釈があり、自分を含めた全員の幸せを願うことと、そこに関係しない一切のこだわりを捨てることだと考えます。言葉にすると単純で基本的なことに聞こえますが、大切だと思います。
慰め
需要と供給と言いますが、精神世界には何らかの理由で心が弱っている人や、自己評価が極端に低い人を慰める分野というのが、みなさんもご存じの通り存在しています。努力すれば何とかなると分かっている場合でも、頑張れない状態の人もいるということは、私自身の経験からよく承知しています。だから必要だと思うんです。本当に心を癒し浄化するヒーリング法があるなら尚更です。だけど、それだけに終始するようであれば片手落ちと言わねばなりません。心が元気になり、勇気が湧いて来たら次はどうするのか、という教えがないのは困りものです。あるいは、ざっくり何でも好きなことやればいいとか、あなたも悟っちゃうかもとか、楽して儲かる方法とか、最高の恋人に出会う方法といった人生万々歳な情報も溢れております。そこにお金が絡めば、スピリチュアル業界の評判が最悪なものになってしまうのも致し方ないことでしょう。慰めや癒しの要素も備えつつ、理想を言えばそこで引き籠もってしまうんではなくて、世の中に出て活躍(社会貢献)する人をも輩出するような教えが本物だと思います。社会活動を好ましいこととしない伝統的な教えが多いことは知っていますが、ともかくあいのほしはこういう考え方でやっています。
ツール
哲学で日常にまつわる卑近な話が一段低く見られる傾向があるのと同じように、精神世界で生活を改善するツールの話が低く見られるのを目にすることがあります。難しい理論を理解できるのは立派だと思いますが、一方でそれが日常生活に生きて来ないのは残念だと思います。どういう生き方が理想なのかというような話を聞かされたこともなければ、人生のお手本になるような人に会ったこともない、いわゆる一般人にとっては、霊的に正しい生き方が出来ないのは当たり前の話です。何が正しくて何が間違いなのか誰も教えてくれないのですから。ところが、いわゆるスピリチュアルをそこそこ学んだ人が、一般人とさほど変わらない生き方をしているとしたら、それは残念な話ということになってしまいます。結局、理論ばかりでツールがないからだと思うんです。例えば、いつも気分よくいるために、人に嫌なことを言われたりされたりした時に軽く受け流す方法というのは、ツールです。あまりスピリチュアルに聞こえないし理論理屈もありませんが、大事なことだと思います。人に親切にとか、笑顔を絶やさないというのもツールです。しかも知ってるのと知らないのとでは大きな差が出るツールではないでしょうか。私個人の意見でしかありませんが、こうした普遍的な価値のあるツールを自分で実践し、人にも伝えるというのは、理論理屈を頭で理解する以前に優先されるべきことだと思います。
役に立つ
スピリチュアリティって基本的には哲学なんだなと思うわけです。哲学には歴史的文化的な背景があるので、一筋縄で理解するわけには参りません。また、理解できたところで何も変わらないというのは本当のことです。それはやっぱり、学問と実践が乖離してしまったことが原因だろうと思います。どんな分野にでも言えることですが、何かを達成できた人というのはいわゆるコツとかツボとか秘訣と呼ばれるものを心得ていて、それを言葉にするとすごく単純だったりします。その言葉だけを聞いて初心者が一足飛びに到達できるかと言うと、ほとんどの場合出来ないのではないでしょうか。いわゆる学問を一生懸命やることで、やり方によってはコツを掴める場合もあるし、やり方によっては何も掴めない場合もあるでしょう。何が違うのかと考えますと、「すぐに役に立つ知識なんかほんとの学問じゃない」というプライドが邪魔をしてしまうのかも知れません。何を意味するのであれ「より良く生きよう」という心の焦点を持って哲学を勉強する人は、遅かれ早かれ人生の秘訣を会得できると思います。なぜなら、そのように生きた先達が過去にいたことに気づくようになるからです。今までに誰一人やったことないようなことだったら相当大変なんでしょうけど、私たちはそういう道にいるわけではないのです。
感性
失礼な言い方になってしまうんですが、その中に自分も入っているということで敢えて言いますと、精神世界に関わっているのは良くも悪くも独特な感性を持った人が多いという印象があります。で、この感性というのが実に曲者であって、自分の感性にピンと来るものというのは、ニューエイジで意識レベルと呼ばれるものが実在するとすれば、自分のレベルにピッタリ合っているものだということです。もうちょっとあいのほし流に言えば、自分の信じる世界に合致する教えを好きになるということです。だから精神世界には自分の教えとか自分の信じる教えが一番だとか究極だと思う人がこんなにも多いわけです。全然ピンと来ない教えだけど勉強してみようとか、上には上がいるんだから、今の自分には知覚も想像も出来ない世界がどこかにあると仮定してみようと思う人の数は少ないと思います。いい教えに出会うためには自分が成長する必要がありますが、成長するって簡単じゃないと思うんです。私が観察する限りでは、心が成長するためには否でも応でも人と関わって自分を磨かなくてはならず、瞑想ばっかりしてりゃいいってもんじゃありません。私の言うことを信じる必要はまったくありませんが、人と関わらずに済む抜け道を指し示すような教えに出会ったら、実際その道に進んだ人たちがどうなっているかをよく観察してみることをおすすめします。
言葉と感情
外国の言葉を学ぶというのは、私たち日本人が特に力を入れてやって来たことの一つではないでしょうか。他の国と比べても日本の翻訳物の水準はかなり高いように思われます。ところが、言葉というのは背景にある気持ちと言うか感情が理解されて初めて完成するものであって、日本では多くの場合その感情的理解が欠如しており、それゆえいわゆる異文化コミュニケーションが不得手だという定評を頂戴してしまっている現状です。それもそのはず、第一に感情的理解がなければ外国語の習得は完成しないという一般認識が今の今までなかったこと、第二にどうすれば感情的理解を得られるかという具体的な方法があまり語られて来なかったことが原因と思われます。どの外国語も習得してない私が言う資格はないかも知れませんが、やっぱりその国の演劇や音楽を、その国の人たちがどういう気持ちで観たり聴いたりしているのか想像しながら鑑賞する、というのが一番やり易い方法だろうと思います。それもいわゆるカルト的な作品から入るのではなく(それも一つの理解ではありますが)、その国で最も大衆的に親しまれている古典から始める必要があるかと思います。例えばフランスならモリエールの演劇とかエディット・ピアフの歌とかを外す訳には行かないでしょう。スピリチュアリティについてもまったく同じことが言えまして、言葉の上で理解したらそれで完成したと思っている人が多いのです。実際に覚者に出会って初めて感じることというのは実在するんであります。
事実
最近このポッドキャストで「事実」という言葉をよく使っているんですが、あいのほしで言う事実とは、一般的な意味での人生を取り巻く環境、つまり家族、仕事、人間関係、家、お金、自分の体や性格といったことを総称して言っています。精神世界ではよく、ざっくり人生は夢幻だとか、物質的環境に関係なく心に思い描いたことはすべて事実だとかいう考えがあって、自分で納得できるならそれでも構わないと思います。「思いは必ず現実になる」と信じて、自分の人生で実証する覚悟があるなら、それは潔い生き方です。間違っていると言うつもりはありません。だけど、どう考えようが事実はあまり変わらないのではないでしょうか。なぜなら、今ある事実はご先祖様やいわゆる過去世の思いの結果であるからです。そういう意味で、今ある事実を見ることなしに十把一絡げ的に説かれる方法論には注意した方がいい、とあいのほしでは考えます。(「あなたはそのままでいいし何も変わらない」という教えは、嘘をついているわけではないので問題ありません。)今ある事実というのは過去の生き方がそのまま結果として現れた姿であるので、何か変化を起こそうと思ったら事実を精査するのが一番(厳しいけど)無駄のないやり方だと思うんですが、みなさんはどう思いますか。今ある事実が何であれ、今の自分に相応しい当然の結果として現れている姿だという理解は、哲学としては相当センシティブな話ではありますが、もし受け入れられるなら幸せへの一番の近道だと思います。
思い出す
人生をいかに生きるか、とかそんなのこそスピリチュアリティの本質的な問いじゃないかと思うんですが、面白いことにその答えが一貫していないわけです。一貫してないから何を誰を信じていいか分からない上に、たとえ正しい答えを聞かされたとしても、私たちはその答えに納得できないのではないでしょうか。経験の裏付けがない以上、信じないのは当たり前のことです。何かの教えで運命が拓けて幸せになれた人が大勢いるところを自分の目で確かめることが出来たなら、それはとても幸運な巡り合わせです。だけどあいのほしが一番いいと考えるのは、自分が何のために生きているのか自分で思い出すことです。素晴らしい教えに従って生きて行けるのはとてもラッキーなことではありますが、最終的には自分で分かることを目標とすべきだと思います。それにはまず、本質的な意味での自分がこの世に生まれる前に計画を立てたのであり、子供の頃はおぼろげながら覚えていたものの、大人になって忘れてしまっただけだ、ということを無理矢理にでも信じないといけません。その上でそれを必ず思い出そう、時間は掛かっても必ず思い出せる、と固く決意することです。すると、期待するほどハッキリした形では来ないかも知れませんが、あっそうかと悟る瞬間が必ず訪れるものです。
輝き
命の持つ輝きが尊いものであることは誰もが認めるところではないでしょうか。例えば青春は一般的に輝きと結び付けて考えられており、いわゆる心に垢が積もることで失われて行くということは、多くの人が直観的に知っていることです。輝きは知性としても身体的な美しさとしても芸術表現としても現れますが、どういう訳か年齢と共に衰えて行く傾向にあるわけです。芸術で言うと若い頃の作品が一番輝いていて、理論面でも技術面でも遥かに完成しているはずの晩年の作品よりも力を持っている場合が、絶対とは言いませんが多いと思います。難しく考え過ぎてしまうと輝きが鈍るというのが一つですが、根本を言えば、それはやっぱり人生を構築して行くに当たって、自分のことだけ考えればいいとか、自分を守るためなら他を傷つけることも止むを得ない、というような生き方に流されるからだと言えるでしょう。誰でも輝きを持っていることを誰もが知っているんですが、使い方を間違っている人が多いという感じかも知れません。世界平和の実現を楽観視する覚者が結構いらっしゃいますが、私たちが世俗的な方面に使っている力を、ただ単に別の方面に向け直せばいいだけだと知っているからなのでありましょう。私たちは何であれ望みを実現するだけの輝きを与えられているのであります。
おせっかい
おせっかいな人って嫌なものですが、当の私が精神世界の活動において実におせっかいな人間だったわけです。これ系の話なんか聞きたくもないというような人に対して、それはもうしつこく話し続けたりとか、さんざんやって来たものです。そういうところを早く直さなきゃいけないと今は反省しております。相手に良かれと思ってやるわけですが、役に立つどころか邪魔にしかならないことは、結果を見ればハッキリしています。ポットキャストも今よりバラエティに富んだ話をしていた時期がありましたが、すべてはそういうおせっかいな気持ちからやったことでした。結果誰のためにもならなかった、というのが率直な事実であります。自分が学んだり経験したりしたことをどうして話したかったのかと考えますと、単に自己主張したかっただけかも知れません。みなさんにお伝えしたいメッセージは何もありませんし、そのようなものをお伝えする資格があるとも思いません。なのでこれからは、個人の日記を書くようなつもりで話して行きたいと思います。投書箱にみなさんからのご質問がもし来れば、ただの個人としてお答えして行きたいと思いますので、興味のある方はどうぞ遠慮なく投書してください。
人のせい
ものごとが思い通りに行かなくなると、私たちは多かれ少なかれ、誰それが悪いとか、今いる環境が悪いとか、ちょっと宗教を勉強した人なら因縁が悪いとか考えますし、論理的に言ってもその考えはだいたい正しいと思います。ご無理ごもっともです。だから「人のせいにするのは良くない」と言えば多くの人を否定することになるし、スピリチュアルティーチャーさんが誰かの生き方を否定するというのはあまり褒められた話ではありません。しかしながらハッキリ言ってしまえば、人のせいにしている限り成長しないのは本当のことですし、スピリチュアル業界では誰も言わない根本的な問題です。確かにスピリチュアルっぽくないあまりに普通な話です。だけどスピリチュアルな話をしてるとき以外は普通の人、というんではあんまり寂しいではありませんか。少しでも成長したいと思うんなら、ものごとが上手く行かない時こそチャンスです。自分に上手く行くだけの条件がないからだ、とそれが何であれ考えてみることが大切なんであります。すると「当たり前だよ、周りに感謝してないんだもん」というのが大概の場合答えになります。私もある先生に「親に感謝していますか」という一言でビシッと指摘されたことがあります。若かったので、スピリチュアルに聞こえないその言葉の価値が分からなかったのを恥ずかしく思い出します。
統合
統合というキーワードが近年スピリチュアル業界で流行っているのでしょうか。よく考えてみると、その意味するところは結構謎だったりするのではないでしょうか。自然界の仕組みで言うと、進化と結び付けて考え得るのは分離の方であって、そもそも二つの個体が一つに統合するという現象が存在するのかどうかよく分かりません。二つの細胞が一つになるとしたら、それはどっちかがどっちかを食べて消化吸収するという現象ではないでしょうか。心理学で分離した人格が統合するという言い方があるかと思うんですが、それはしこりが吸収されて消えるようなもので、主人格から分離していた心的エネルギーが元の場所に戻るというようなことではないでしょうか。専門家ではないので見当外れだったらごめんなさい。多様性の経験がより大きな存在へと統合されることで進化が起きると言うのならば、一体どんな風に? 精神世界で新しい概念が誕生することは稀です。ほとんどの場合、大昔からある概念を今風の耳心地のいい言葉で言い換えているだけだったりします。簡単、最新、愛、光、統合、未来、豊かさといった、今の時代にポジティブに受け取られる言葉をくっ付けるのが流行りではないでしょうか。だとすれば統合という言葉も、古い密教の教えで言うところの高次元の体と一体になるという概念を、今風に言い直したものなのではないでしょうか。いずれにしても、統合したら具体的にその後どうなるの?というところを真面目に検証しないといけないんだろうと思います。
神性と人間
これまでの精神世界は、純粋で高尚ないわゆる神性や霊性と呼ばれるものを重視する教えと、自己実現や人間生活の向上を重視する教えと、二派に分かれて伝わって来たというのがよく知られた事実だと思います。ざっくりとですが、前者を一元論、後者を二元論と称して来たんであります。ところが、頭の痛くなる話で申し訳ないんですが、表面的にはノンデュアリティを謳っているのに、実際には人間を醜いとか汚いとか本当は存在しないとかいう自己主張を捨てない、哲学的には一元論的二元論に分類されるものもあり、その反対に、人間の向上心を肯定し表面的には現世利益を謳っているのに、実際には独立した自己はないという見地に立つ二元論的一元論もあるのです。こういう議論はもう何千年も続けられて来ています。あいのほしとしては、何もそこまで難しく考える必要ないし、第一あなたが幸せじゃなきゃ意味がないという立場でやってます。神はなぜ人間を作ったのでしょうか。ほんとの信仰を欠いている限り、議論が尽きることは永久にないでしょう。この際宗教的な用語を使わずに言えば、自然法則を正しく理解し信頼することが、私たちが本当に幸せになるための必要条件だと言えるでしょう。
実践
言葉の上で理解するのが得意な人はいますし、先人の言葉を自分流に言い直したら、なんかすごい深いところまで理解している風に見えます。しかし実体がないのです。どうしたって実践が必要になります。スピリチュアルに限らず何だって実践して初めて実力が身に付くわけですが、さりとて何を実践するのか。一見何が目的なのかさっぱり分からない修行というのは、昔はいざ知らず今の時代には合わないのではないでしょうか。私も含めてスピリチュアルが全然分からない初心者が何から始めたらいいかと言ったら、もちろん生きていることに感謝することであります。何もかも順調に来た人にとっては簡単である可能性がありますが、親に虐待されたとか、持病があるといった事情がある人にとっては、もちろんとても難しいことです。だけど、これはどんなに難しくても、一番最初に取り組んで毎日感謝を体現できない限り、次の段階には進めない類いの基本の「き」であることを、あいのほしとしては強調して置きます。どういう方向に進むにしても、とんでもなく大事な基礎なんであります。よく考えてみれば、伝統宗教はみんなこれを基本にしていたことを私たちは見落としてしまっています。見落としてしまえばその先の教えは意味を成さないと言えるでしょう。どんなに因縁が悪かろうが、やるっきゃないのであります。(一緒に取り組んで参りましょう。)感謝すると一旦決めたら、いずれは何とかなるに決まっています。
自然法則
将来スピリチュアリティがどうなるか、というのがあいのほしの主要なテーマの一つなんですが、もちろん何の根拠もない迷信や、恐怖を煽られての服従から脱却し、いわゆる科学的方法に基づいた普遍的宗教が確立されるということでございます。ここで一つ問題となるのが、既存の各宗教で説いている神の意味するところが、それぞれちょっとずつ違っているということです。人間的性格を付与して理解し易くした人格神が私たちを守り願いを叶えてくれると考えたり、預言者やチャネラーのような代理人を通して饒舌に語ったり奇跡を行ったりすると考えたり、宗派によってまちまちでありながら、完全に間違っている理論はありません。間違っているのは、自分の信じる神以外を認めないことです。これは結局、自分さえよければ他はどうだっていい、という自己中心性であります。ですので普遍的宗教に統一されることが目標ではありません。普遍的宗教の神というのは自然法則のことであります。(あいのほしで神様と言うときは、自然法則という意味で言っています。)私たちは好むと好まざるとに関わらず、自然法則の中で生きております。私たちが神を頭でどういう風に理解しようと、あるいは何も考えなくても、自然法則は精確に働いています。自己中心性は自然法則に反しているので、このまま行けば人類は滅亡することに決まっています。それは超常的な力が働くからではなく、単に自滅するということです。一方で私たちは、信仰のあるなしに全然関係なく、確率論的に言ったら奇跡と呼ぶにふさわしい偶然の出会いや出来事を、誰もが一度は経験しているはずなのです。(考えようによっては何もかもが奇跡ではないでしょうか。)信じようが信じまいが、私たちは自然法則によって大調和の方向に導かれてもいます。ですので、そういう科学的事実にハッキリ気づくようになるのが普遍的宗教であって、理解の仕方や信仰のやり方は人それぞれ何でも構わないのであります。
寂しさ
寂しさの感情というのは、それが元で自暴自棄になったり、人の注目を得ようと常軌を逸した行動に出たりと、多くの社会的な問題の引き金になっていると考察される割には、本気で対策しようとする人が少ないんじゃないでしょうか。先に結論を言いますと、私たちが寂しい原因は一つしかなく、神様から離れているから寂しいのです。それに以外にありません。そりゃ人間ですから、パートナーや親友がいた方がいいに決まってます。だけど、どんなに確かな心の交流があっても、それで恒久的に寂しさから解放されることはありません。現象面からこれを追求した教えも昔からあって、クンダリニーのエネルギーが動くと、確かに寂しさを忘れられるということは言えます。こういうことは条件が揃えば起きることで、いつかは消える一時的な状況とか神秘体験でしかありません。人間関係が順調だとか超常的な能力が出たとかはひとまず置いといて、神様との繋がりは態度がすべてであると理解しないといけません。宗教の根本を一言で言えば「神様ありがとうございます」という言葉になります。人間としての自分の知性では分からない何かが、自分を含めたすべてを支えているのをまず認知することであり、それによって根源のエネルギーであるクンダリニーに自然と繋がることになります。自分の力で神をコントロールして寂しさを駆逐しようと思うのは誤りです。
自分を愛する
近年「自分を愛する」ということが世界的なキーワードになっておりますが、もちろんいいことだと思うんです。これは家庭的社会的なしがらみの強い国や地域の人々にとって、自分が本当は何を望みに何をしたいのか、声を上げるように励ますメッセージとしてとても適切だと思います。個人の意志を尊重するという意味で使われていると思うんです。ところが、シンプルなメッセージが持つ性として、どのようにでも解釈できるという問題点も孕んでいます。個人主義が既に発達している国や地域の人々にとっては、自分のやりたいことをやって楽しむのは当たり前の話ですよね、という風に聞こえるんじゃないでしょうか。ワガママを肯定するメッセージとして受け取る人の方が多いかも知れません。本来の意味からすると、分け隔てをしないのが本当の愛なんですから、「自分を愛する」の本来の意味は、自分を含めたすべての人を愛するということです。自分だけを大切にして誰かに迷惑を掛ける可能性を考慮しないのがワガママということですが、そうではなくて、すべての人が同じ権利を与えられていると理解できたら最高です。好むと好まざるとに関わらず、あらゆる種類の人がいるからこそ社会が成り立っているし、それゆえお互いを尊重する必要があると分かれば、必ずしも神様に与えられた役割云々という宗教的な観念を持ち出さなくてもいいんじゃないかと思います。
何の話だっけ
理屈と実体験のバランスというのは話し手の普遍的なテーマではないでしょうか。これはスピリチュアル業界にも当て嵌まると思います。理屈ばっかり言っていると、難しい話が大好きな人たちの間で人気になりますが、実体験が全然伴わなければ、分かっているようで誰も分かっていないという結果になってしまいます。実体験ばっかり話していると、聞き手に同じような体験がない限り疎外感を生み出すばかりで、ただの面白い話で終わってしまいます。でも理屈がないと、そもそもそういうものがあるというイメージを描き出すことが出来ないので、何も伝わらないのです。同じく実体験を話さないと、具体的にそれがどう存在するのかが伝わりません。結局、スピリチュアリティにおいても相手に寄り添って伝えることがいかに大切かということだと思います。ところが、多くの場合そうなっていないのが現実だろうと思うんです。みなさんもご存じの通り、理論についても実践についても、伝統的に話を大袈裟にし過ぎたことは明らかです。今は話を元に戻す段階かも知れません。つまり、自分が体験し得た限りにおいて話をまとめ、伝えることが必要だと思います。
あらまし
これからスピリチュアリティの門を叩こうという人にどんな説明をするのか、という概略を作るのがあいのほしの役割かと思うんですが、実際年を取ってみると、思考能力が衰えると言うよりは、どうでもいいような余分な知識が心に付着してしまい、ゼロベースで考えにくくなる、というのが悩みどころであります。一般常識から掛け離れた訳の分からない前提の数々をベースに話をするティーチャーさんが増えるほど、ナントカ業界と揶揄されてしまう結果になります。スピリチュアリティに興味を持ってやって来る人一人一人がみんな違うので、一緒くたに同じ説明をするべきでない、というのが現実ではないでしょうか。まず、何を求めているのか。そこの動機を深く掘り下げて行く必要がございます。次に、どんな方法を提供できるか。体を使う方法が合っている人もいれば、芸術的な表現が合っている人もいれば、言葉を使うコミュニケーションが合っている人もいます。向き不向きを見極める必要がございます。最後に、進歩しているかどうかのフォローアップ。どこかで行き詰まっていたら、教師の手腕でブレイクスルーを起こさせる必要がございます。それもこれも、個人の夢を叶えるとか、あるいは個人が夢から目覚めるとかいうことじゃなく、人類全体で進歩するためという視点から援助が行われないといけないんだろうと思います。そんなこんなのあらましが書かれた小冊子が配られる時代が来るでしょう。宗教や信条に関係なく、誰もが参考にできる内容のものです。
未来
私たちは未来を選べるのでしょうか。選べないと困りますね。現実的にどの程度選べるのかが問題です。地球人類が滅亡しても自分だけは生きて行けるとでも言いたげな現実創造論もありますが、少なくとも今の時点では極端と言う他ないでしょう。結局、国同士が戦争になり国土が荒廃したら、そこから何の影響も受けないような人は地球世界にはあり得ない訳ですし、そもそも個人の人生というものは存在しない、というのが精神世界の門を叩いた人が真っ先に理解すべきことではないでしょうか。次に、能力や環境に恵まれて確かにどんな未来をも選択し得る人がいる一方で、それこそ奇跡でも起こらない限り今の境遇から抜け出す見込みのない人もいる、という現実を理解するべきです。現実創造論は一定以上の力のある人にとってはまったく正しいのですが、大多数の私たちにとっては(現実化の方法をやっても結果が出ないので)奇跡にすがれという話でしかありません。未来は同時に存在しているという科学的理論があるそうですが、いいバージョンの未来が実際どんな風に存在し、どうやってそっちに行くのかということが私たちには重要です。ある意味当たり前に聞こえる話なんですが、常に明るく前向きな気持ちでいることが最大の秘訣だと言われます。世の中がこんな風ですから実に難しいことです。だけど、何とかしてこれが身に付くように私たちは努力しないといけません。
目標設定
人生に目的はない、よって目標を定めるなんてナンセンス、というようなことを教えるティーチャーさんがいらっしゃいまして、哲学としてはそれもアリなんですが、実際その通りにやるとなるとどうなのかな、と思うんであります。その方向で精神的にあるいは社会的に大成した人を見たことはありません。やはり目標を決めることによって人生が積み上げられるというのが普通の考え方だし、大事なことだと思うわけです。で、何を目標にするかというのが問題です。ある特定の職業に就くこと目標にするならば、結果は成功か挫折かのどっちかになります。幸せな家庭生活を目指してAさんと結婚したら、現実にはなぜかうまく行かなくなり、もしBさんと結婚していたら幸せだったかしら、と想像してみたりすることもあるでしょう。資産家を目指して株に投資することにして、自分の感覚と考え方からこれがいい!と思ったA社の株を買ったら、何年かで倒産という憂き目に遭うかも知れません。同じ時期に市場に出ていたB社の株を買っていたとしたら、何年かで何十倍になっていたとすれば、選択を誤ったということになります。こんな風に、ごく一般的な意味での目標には、そこに至る手段にいくつかの選択肢があり、結果は成功か失敗の二つに一つではないでしょうか。持って生まれた能力や性格の良し悪しで、結果は自ずから決まって来るとも言えるし、もっと言えば成功と失敗の繰り返しと言うことも出来ます。スピリチュアルの観点から言いますと、もっといい設定の仕方があるということなのです。自分の能力の範囲でやればよくて、いわば誰もが成功を実感でき、生涯に渡って自分を励まし高めてくれる目標があれば、生きるのが単純に楽なのです。それは何かと言いますと、世のため人のため、地球のため、ひいては神様のために役に立つことを、自分で考え切れる方法でやるという目標です。これが唯一の道だと言うつもりはありませんが、結局何が一番得な生き方なのかを考えてみてください。
記憶
過去は存在しないとか記憶は幻想という考え方が精神世界にはありまして、過去がないなら現在もなく、記憶がないならあなたは誰?と言う訳で、最終的には現世を完全否定する教えにまで辿り着いたのです。良い悪いは別として、実際の適用としては、(どうやっても人間社会に幸せを見出せない)不幸な人が世界と折り合いを付けるための哲学である、というのが一つの事実ではないでしょうか。本当に幸せな人が説いた幸せの哲学というものが、ハッキリ言ってほとんどなかったわけです。無論これは大きく変わって行きます。過去を否定するのであれ自我を否定するのであれ、何かを強く否定する人ほどそれに強く囚われているという傾向が、絶対とは言いませんがあるように思います。本当に幸せな人というのは過去をあまり振り返らないし、自分というものにこだわりません。だけど、そんな世界があることをほとんどの人は知らないのですから、仕方がないのです。どうすればそうなれるかというのが問題です。それが出来ないから、私たちは常に、現世否定型の哲学が最終結論なんだろうと自分を納得させて来たわけです。しかしながら、今や私たちには別の選択肢が与えられています。
比較
昔の映画じゃないですが、容姿も才能も経済力も自分よりも遥かに優れた同年代の人に出会うことで、それまで思いも寄らなかった惨めな気持ちが出て来る、というようなことはあり得ます。そこが人間の心の難しさで、それまで散々努力して心を磨いて、一頃前と比べるとものの考え方も完全に違っていると自分では思っていても、ある人に出会い好きになるとか嫌いになるとかすることで、すべてが元の木阿弥になるということがあります。つまり、努力の甲斐も虚しく同じパターンを繰り返していることを発見するわけです。人と自分を比べることが誘因になることが多いんじゃないかと思います。人と自分を比べる必要はないとか、比べちゃいけないと教えるティーチャーさんもいらっしゃいますが、私が思うに、比べると言うか現実を見ること自体はいいことです。素晴らしい人、尊敬できる人と自分を見比べて、現実どこが違うのか観察するのはとてもいいことだと思います。逆に、スピリチュアルティーチャーさんが取り巻きの人に「この人は特別だから」とか「とても敵わない」とか「同じようになれっこない」とか思わせてしまったら失敗だと思うんです。自分がいかに駄目かを認識するためじゃなくて、どうしたらもっと良くなれるかという方向で比較検討する態度を身に付けることが大事ではないでしょうか。誰かより上になるためじゃなくて、自分にしかない何かを磨き出すために使えるはずです。
家
どこに住むかというのは非常に現実的な問題ではないかと思います。家を買うとか建てるというのは人生の一大イベントとされています。ところが、理由が何であれ、どこの地域のどんな家に住んでみたい気持ちになるかというのは、最初から運命的に決まっていると言えるのです。私たちは生まれた時に、ある地域のある家、基本的には両親の家に置かれるわけです。理想を言えば、置かれた環境で努力して自分を乗り越え、これ以上成長できないとなった時点で次の環境に移る、そこでまた最大限に成長して次の環境に移る、という形がいいに決まってます。ところが心を変えるとか感情を変えるということは、実際にはかなり難しいのではないでしょうか。自分を乗り越えるどころか、生まれ付いた性格のままに生きてるだけ、というのが人間社会の実態であります。目先を変えるために引っ越しをしても、私の意見ですが、あまり運命路線は変わらないだろうと思います。家の中を整理したりするといい(もちろんいいことです)という教えもありますが、それだと話半分なんだろうと思います。自分の中で取り組んで来たことが一つの区切りを迎え、心が明るくなったとか楽しくなったタイミングで新しい家を探すと、自然にいい方向に行けると思います。なお、これも私の意見ですが、「ここが終の住処」という感覚を持つとそこで成長が止まってしまうようですので、参考にしてみてください。
楽しんで生きる
何事も楽しんで生きるのがいいですよ、と若い頃に教えられたんですが、言われた傍から出来るのは相当筋の良い人なんだろうと思います。私みたいに「なるほど」と思うようになるまでに何十年と掛かる筋の悪い人もいますが、今思い返してみれば、確かに「楽しんで生きよう」と自分で決めた瞬間からプロセスがスタートしたんだろうと思います。最初は「何をどうやって」ということはまるで分からないわけです。だけど、楽しんで生きよう、といつかの時点で決心することがなかったとしたら、自然の成り行きでいつの間にか人生を楽しめるようになることはないかも知れません。多くの人が「楽しいことが起これば人生楽しくなる」と考えて、何かとか誰かに楽しませてもらうことを期待していますが、スピリチュアルな観点からすると、そのような生き方は望みが薄いのです。他方、生まれつき楽しむことを知っている素晴らしい人も存在します。いわゆる個人差がとてもありますが、たとえ筋が悪くても諦める必要はないと思います。いつの日にか、人生に何があろうとなかろうと、何事も楽しんで生きている自分の姿を想像するんであります。すると直ちにそうなります・・・とは行かないかも知れませんが、いつの日にか必ずなるんであります。人間の心の凄さだと思います。
疑問
私たちは結局何も知ることは出来ないんだから、何かに疑問を持つこと自体が良くない、と教えるティーチャさんもいらっしゃいますが、疑問というのは私たちを前進させてくれるものだし、人生に対する疑問の多くは、いわゆる過去世やご先祖様の思いの中から出て来ているものだと思われます。自分の人生の幸不幸に直結する真摯な疑問というのは、果てしない知的好奇心とは違って、答えが見つかることによって必ず解消されます。よって人生に対する疑問が雲散霧消して、もう心に疑問が一つも浮かばないという状態になれるんであります。折しも今という時代は、少なくとも過去数千年の歴史の中で一番、人生に対する疑問を解消し易い時代だと思います。ちょっと調べさえすれば最良の情報にすぐ出会えるし、知識のある人に聞けば手っ取り早く答えを教えてもらえます。本当に有り難いことだと思います。と言うことは、もし人生に対する真摯な疑問があったら、今の内に情報を求めるべきだし、それによってご先祖様も浮かばれることになる、と私は感じています。すべての疑問が解消と言っても、それで人生が解決するわけでも終わるわけでもありませんが、いわゆる心の余裕が持てるようになることは確かです。そのうち人生が次の段階へ運んでくれるんだろうと信じますが、それは確かに、これまでにあんまりなかったような展開になることでしょう。そこでまた、新しい経験をしたり新しい知識を勉強したりする必要があることでしょう。
再出発
一度も人生に躓くことなく、ずっと順調に行く人もありますが、多くの人は一度や二度は気を取り直して再出発という場面を経験するかと思います。出直すことで大成功する人もいれば、残念ながら何回やってもうまく行かない人もいますが、この違いはどう理解すればいいのでしょうか。気持ちの切り替えが鍵になりますが、人間関係をリセットしたり、引越しして環境を変えたりしても、過去に未練があったりして、肝心の気持ちの切り替えはうまく行かなかったりします。かと言って、断固たる態度で過去を切り離そうと思っても、人間の心というのはそんなに簡単なもんじゃありません。タイミングというのもありますし、要するに、過去を振り返ってどうのこうの思うよりも、平凡な言い方になりますが、未来に向かって夢を描くのが楽しいという気分になって来た時が、再出発の絶好のタイミングだと言えるでしょう。結局、それまでの自分の考え方の中に確固たる理想を持っていたかどうかであって、それがなければ、未来に向かって歩いて行こうという明るい気分は勝手に出て来るもんじゃないです。理想を思い描くと言っても一朝一夕じゃ出来ないから、平素何事もない内にやっておかなきゃいけないと思うんです。このポッドキャストはそういう理由で、みなさんそれぞれが人生の理想を思い描いて行く助けになるような思考の種を蒔いているつもりなので、どうぞご利用ください。
教える
一般的に学校の先生と言ったら、学習指導要領に従って、一つ一つ順番に教えるのが役割と言えるでしょう。そこで、教師用のマニュアルといったものが一切なく、例えば音楽を教えるとして、あるのは一台のピアノのみで、超初心者に「音楽の本質」を伝えるとしたらどうやるでしょうか。記憶の中から、何年に誰それが何々という作品を作曲したという知識を披露したところで、あんまり意味を成さないでしょう。ピアノを弾いて、例えばベートーヴェンはこう、ショパンはこう、と実演する必要があります。楽譜を読めない相手にハーモニーやリズムといった基本概念をうまく説明できないといけません。要するに、身に付いたもの板に付いたものが相当なければ出来ないはずです。スピリチュアル業界では、本に書かれていることをそのまま話し、素性がばれないように一対一の関係を避けるような形式でも、もちろん教師は務まります。お金が目的なら、自分を実際以上に見せるためのマーケティング、ブランディング、パッケージングといったビジネスの手法がそのまま有効です。目に見えないし証明も出来ないこと教えるんですから、ビジネスモデルが破綻するまでにうまくすりゃ何十年もあるので、長い間儲けが見込めるわけです。でも、それではちと寂しい気がしますがいかがでしょうか。生き方を教えるんですから、一対一で伝えるのがやっぱり理想です。昔の覚者さんは偉かったなんて言うと、教師のハードルを上げようとしているように聞こえてしまいますが、あいのほしの意図はそうではありません。むしろこのレベルに達してないと教えてはいけないというような基準はない方がいいと思うんです。レベルが高い低いではなく、身に付いたものを人格から人格へありのままに伝えることを基本とすべきで、そこにイメージの偽装があってはならないと考えます。
疑い
宗教の教えというのは、そういう哲学として頭で理解するだけでなく、生き方で示して行かないといけないと思うんです。ところがこれが実に難しいものなんであります。言ってることとやってることが全然違うティーチャーさんは問題外として、本質的にとてもいい線行ってる覚者さんでさえも、細かい粗探しをすれば、ごく普通の意味で、あまり尊敬できるとは言えない言動の一つや二つは必ず出て来るものなのです。大覚者と言えども人間でもありますから、時代背景や環境による制約を受けているので、すべてが完璧という風には行かないようです。その一つや二つの事実を取り上げて、その先生の教えを全否定するのは勿体ないと思います。本質に響いて来るものがあるなら、小さな欠点から全部を疑ってかかるよりも、素晴らしい面を見て吸収するようにするのが正しいやり方だと思います。そもそもスピリチュアリティにおいては、あるティーチャーさんの人間としての現れに愛着を持って拝むというのが良くありません。その現れの源に目を向けるのが本来のやり方です。よく考えてみれば、精神世界には常識外れな考えや、自分が絶対正しいとする態度が横行する中で、実は常識的なものの見方が大事だというのはあべこべな話なのかもしれません。でもそうなのです。真心があり、素直で嘘をつかない先生かどうかが、私たちが本物を見分けるための基軸だと思います。
影響力
スピリチュアルに興味を持つのは自尊心の低い人が多い、と指摘されることがよくあります。ある程度そういう面もあるかと思います。「私なんかダメ」という思いは、良く取れば謙虚さに繋がるものの、大概は何をやっても世の中に対して全然影響力がないという感覚に繋がり、結局は自分だけの楽しみを求めて生きて行けばいいやという生き方に結実してしまいます。すると、当然人間性は磨かれません。「何も起きていない」と教えるティーチャさんがいらっしゃいますが、その真意がどこにあるかは別にして、その線で行けば普通は同じ結果になり、やはり人間性は磨かれません。ところで、自然界の仕組みを見ますと、どれだけちっぽけに見える存在物であっても、何の影響もないものはありません。それどころか、例えば人間の血液中に0.000001パーセントしか含有されていない微量な化学物質が、それなしでは生きていられないというようなことがあり得ます。一億二千万人中の一人が何をやったってどうせ何も変わりゃしないという感覚で、怒ってみたり怨んでみたり悲しんでみたりしていたら、実際にはどれだけ大きく全体を害しているか知れません。自分が何を言おうが行おうが、否応なしに常に全体に影響を及ぼし続けているという自覚が、人間性を磨いて行くためには必要だと考えます。で、何のために人間性を磨くのかと言ったら、今は「世界平和」の一念で構わないのではないでしょうか。「人類は存続すべきかどうか」(反出生主義)とかの難しい哲学問題はとりあえず後回しにして、世界平和が実現してからゆっくり議論すればいいと思います。
努力
努力することの大切さというのは、スピリチュアリティでも同じことが言えると思います。しかし、努力の矛先を間違えると詰まらない結果に終わってしまいます。体操の初心者がいきなり一番難しい技をやろうとして、死ぬ気で練習しても出来るようにはならないのではないでしょうか。基礎から一歩一歩積み上げて行く必要があるかと思います。瞑想をやるにしても、目をつぶって心を静める練習に始まって、次は体をリラックスさせる練習、それが出来たらヒプナゴジアと呼ばれる体は眠っていて心は目覚めている状態に止まる練習、それが出来たら今度は体の自発的な呼吸のリズムに統一する練習というように、一つ一つの段階に分けて理解する方が確実です。いきなりやれと言われて出来る人はほとんどいないのではないでしょうか。その瞑想も自分の実相が体ではないことを悟り切るための準備体操であって、その悟りも最終的に本心そのものを生きるための準備体操です。見当外れな努力だったらしない方がマシという訳で、指導者はその人その人の段階に合った手順を指し示せなければいけません。かと言って、段階を踏んで瞑想の道を進まなければいけないという決まりもないんですが、その人に合った契機というものがあることは確かです。教えであれ方法であれ、自分に合ったものにどうしたら出会えるのかと言ったら、結局、自分が人生で何を達成したいのかという意図がどこまで純粋であるかに懸かっていると思います。人によっては避けられない事情で遠回りする場合もありますが、そんなことは大した問題ではありません。
感受性
これまでのスピリチュアリティでは、「悟り澄ましたような顔」と言われるように、何やら高い境地にいる人は何があっても心が動揺しないという印象が昂じて、何も感じないとか感情がないことがその証であると考えられるきらいがあるようですが、これは誤解だと思います。事実はその逆で、感情を避けて通れば目的地に辿り着くことは出来ません。男性は特に感じることを恐れる傾向がありますが、その線で行くと、分かるようで全然分からない観念的な悟りに辿り着くだけだと思います。現代のスピリチュアルティーチャーさんはクールであったりドライであったりするのが流行っているのかも知れないですが、昔の時代のティーチャーさんと言えば、宗教者であると同時に優れた詩人であり画家であり歌い手であり踊り手であるという人が少なからずいたものであります。何を隠そう私の最初(で最後)の先生がそういう感じで、感受性を育てることが大事と教えられましたが、今はそういうケースが珍し過ぎて誰も変だと思わない現状です。私自身かなり筋が悪い方なので、正しいことを教えられてもその時はピンと来ないことが多々あるんですが、今振り返って見れば、なぜそう指導されたのかは理解できます。いわゆる喜怒哀楽を包み隠さず感じることは自分の考え方を知る上で大切ですし、美しさを感じ取る感受性は本当の自分を見つける鍵になるとさえ言えるでしょう。いい音楽を聴いたりいい演劇を見たりすることは、私たちが考える以上に重要なことです。ただ、それ自体を目的にするんじゃなく、それを乗り物にして上に登って行く必要があるということです。
道徳教育
いわゆる思春期が終わるまでの教育環境が一生に渡って影響するというのは、まあ一般的に同意される見方だろうと思います。だからこそ、家庭によっては学校選びを真剣にやるのではないでしょうか。で、とりわけ何が大事かと言ったら、どんなに優秀でも倫理観に欠ける人間になったらすべてが台なしという訳で、いわゆる道徳教育が一番だと結論されるのではないでしょうか。小中学校には道徳の時間がありますけど、ないよりはましという程度で、あまり力を入れていないのではないかと思います。巷には注目を集めることで若くして成功者になり、お金の力で好きなことだけをする自由と楽しい生活を手に入れた、というような論調の発信で溢れております。そういう発信があまりに多いので、若い人たちがそういう価値観を刷り込まれてしまいます。最近のスピリチュアル業界も、これがまた同じような論調の発信で溢れております。いわゆる過去世やご先祖様の「自分さえよければいい」という思いがどれくらい溜まっているかは人に依ります。だけど多くの場合、自由に好きなことをやればいいと教わったら、まずは業の思いから来る自分だけの楽しみを求めようとするに決まってます。すると中年になって本心が目覚めて来たとしても、例えて言えば若い頃の好き放題の後始末で一生終わってしまう感じになりかねません。伝統的に霊的な知識は四十歳を過ぎてからという考え方があったのは、昔の人は思慮深かったからだろうなと思います。業の思いと本心の区別が付かなければ、人生はあらぬ方向に行ってしまいます。若い頃にいい本を読むことももちろん必要ですが、一番いいのは本心そのままを生きている人に出会うことです。もしそういうチャンスを与えられたなら一生大切にしないといけません。
死生観
死生観が人生を生きている間の生き方に決定的な影響を及ぼす、というのは言われてみれば当たり前のようですが、自分がどんな死生観を持っているんだろうとは滅多に自問しないし、また考えてもよく分からないという感じではないでしょうか。西洋と東洋の違いは死生観にある、とよく言われます。西洋人は生きている間をいかに豊かで楽しく充実させるかを考えて生きるのに対し、東洋人は死ぬ時にどういう気持ちで死にたいかという観点から逆算して生き方を考える、と言うのです。私たち日本人は東洋の文化の中にいるので、言われるまではあんまり意識したことがなかったという感じではないでしょうか。葉隠的な観念が私たちの根底にあるとまでは思いませんが、そういう違いがあることが分からないなら、西洋の人たちの考え方をいつまで経っても理解できないことは確かです。逆に言えば、そこの部分さえ分かれば西洋の人たちの言動の理由を理解できるようになり、うまくコミュニケーションが出来るようになると思います。どっちがどうということは言えません。死に偏れば肉体生活を軽視したいわゆる進歩のない文化になったし、生に偏れば経済重視で精神性の薄い文化になったのです。このバランスが図られない限りは、地球人類に本当の幸せは来ないのではないでしょうか。そのためにはバランスの取れた死生観が不可欠という訳で、それに気づいた人たちから何かが変わって行くだろうと思います。
恐怖との闘い
満ち足りた子供時代というものがあったとすれば、ある時点で恐怖との出会いがあり、そこから本当の人生が始まったと言うことが出来ます。脳にいわゆる障害があって、恐怖も苦痛も感じない人生というのもあるそうですが、それが人間の理想の状態かと言うとそうでもないのではないでしょうか。普通の人も脳を手術して同じ状態にしてしまおうという議論には決してならないわけです。それは恐怖には役割があることを私たちは直観的に知っていることを意味しています(前に失敗したことがあったからです)。実際、恐怖にどう向き合うかが、人生を生きて行く上で最も大事なことと言っても過言ではない気がしますが(恐怖の状態にいると、人間本来の力というのは全然発揮されません)、実生活でそのことが語られなさ過ぎます。一方で悟りを自称する人が、ある素晴らしい瞬間以来何かを恐れるということが一切ないと語ったりして、スピリチュアル業界に極端な印象を与えている現状があります。私が思うに、潜在意識に恐怖がうんと溜まっているんだから、それを少しずつでも着実にきれいにして行ければそれでいいんじゃないかな、と思います。でもどうやって? 専門家の助けを借りるというのも一つの手段ですが、自分でやれる方法が一つでも見つかればそれがベストではないでしょうか。どんなにちょこっとずつでも確実に減って行けばそれでいいわけです。と言う訳で、基本は呼吸法だと思います。無理のない範囲で体の特定の部位にある恐怖をしっかり感じながら、呼吸によってそこに気を送るイメージをします。それを「ご先祖様もさぞ辛かったろうな」と思いながらやるといいのです。
正解
人生の答えと言いますか、正解を常に探しているようなところが私たちにはあります。それはやっぱり学校の試験問題で、一問一答には必ず正解があり、記述式には必ず模範解答なるものがあって、問題にはあらかじめ答えが用意されているはずだという風に、言い方は悪いですが条件づけられてしまったからだと思います。この傾向は日本だけに限りませんが、日本では特に、あらかじめ用意されているレールの上で品行方正でいられれば、社会生活の安定が保障されるかのような仕組みで動いているので、期待されている答えを見つけようとする誘因はなおさら強いように思われます。で、それがスピリチュアルな世界でも同じような感じになってしまうわけです。心の世界には感情があるので、簡単に割り切れるものでもなく答えが決まっているわけでもありません。正しい教えというのは必ず道徳的であって、表面上はそれに従って行かれればいいように見えます。だけど、人によっては正しい生き方に納得しない業の思いが潜在意識の中に溜まっていて、本心からではなく嫌々ながら従っているだけというケースも出て来ます。顕在意識と潜在意識に矛盾が生じているので、当然いわゆる「効果」が出ないということになり、結果的に正しい教えに出会っているにも関わらず「詐欺に遭った」という風に結論してしまったりします。正しい道というのがあるにしても、人それぞれ順序やアプローチの方法は違っていて然る可きです。これが正解のはずだと頭で考えていると、却って道の妨げになる場合があるので注意が必要だと思います。
自分を知る
どういう訳か持って生まれた性格というものがある私たちですが、性格というのはご先祖様やいわゆる過去世の思いから多くが構成されていると言っていいでしょう。いつか浄められ叡智というようなものに昇華されるのを待っている思いがありますが、埋もれたまま知覚されることがなければ、私たちはそもそもそれが存在するということに気づきません。体との繋がりの中で感覚されて初めて、私たちはそこに何かがあることに気が付くことが出来ます。意識の上に表面化する必要があるわけなのです。体の感覚や症状あるいは感情が混沌としていて、それを意識の上でしっかり捕らえ切れない場合に有効なテクニックがいくつかあります。フォーカシングやプロセスワークの「チャンネルを切り替える」動作は画期的な発見だったと言えるでしょう。調べてみたい感覚や感情があったら、まずそこに気持ちを向けることで、自動的に気が流れて行くという理解が基本になります。次に使える手は、精神世界ではよく「呼吸を通す」と言ったりしますが、そこの部分に息を吸い込むイメージをすることです。あるいは、そこの部分で息を吸ったり吐いたりするイメージをします。もちろん実際にそんなことは出来ないので、ただのイメージなんですが、気が流れることでその感覚や感情がより鮮明になることを企図しているわけです。よくよく感じるということが一番大事です。その次に出来るのは、チャンネルを切り替えてさらに調べることです。それに味があったらどんな味だろう? どんな匂いがするだろう? 触ったらどんな感触だろう? どんな音がする? 色や形は? という風に内なる五官を開いて調べます。想像すると言ってもいいでしょう。充分に鮮明に捕らえることが出来たと思ったら、その次に出来るのは、その感覚や感情に一番ぴったりな言葉を探すことです。自分の中で本当にしっくり来る単語やフレーズを見つけます。こういう一連の動作は多くの場合、自分を知るために必要ですし役に立ちます。ただ、それによって特定の結果を期待したり、心理分析的に原因や理由を探ろうとしたりしない方が望ましいです。自分を知ろうとするのが本来の動機であって、その中に何らかの利益を求める心を入り込ませないのがベストだと思います。
受容
願望実現についての教えは本来のスピリチュアリティには含まれているものでして、その鍵は「受け入れる」ことであると言われます。言葉にすればこの上なくシンプルなんですが、そのの意味が分からないからみんな苦労するのではないでしょうか。そのコツさえ掴めれば、言ってしまえば何もかも思い通りに実現できるはずです。が、みなさんも知っての通りそういう人は実在しないと言っていいような状況です。結果が出ないということは受け入れていないからだとするならば、どうすれば受け入れられるのかが問題です。まず、「私はナニナニを受け入れます」と口に出して言うとか紙に書くというのが、誰でも最初に思い付く方法ではないでしょうか。それでダメなら、神社仏閣に詣でてお願いをします。家相やラッキーアイテムが役に立つかも知れません。それでもダメなら、自分が欲しいものを既に持っている誰かから奪い取るための戦略を立てます。結局、お金がすべてだという結論に到達するかも知れません。いわゆる顕在意識の思いの力で願望を実現しようとしたら、こんな風に邪道に入り易いと言えるでしょう。いろんな方法があるんでしょうが、昔からそれで結果が出る人もいるからあるわけです。「形から入る」方法と言えるわけですが、そこから先は二通りに分かれます。一つは、真似しているうちにだんだん自分のものになり、最後は本物になるパターン。もう一つは、詐欺や泥棒のようにいつまで経っても自分のものにならないパターンです。詰まるところ、微妙な態度の違いが大きな差になると言えます。受け入れるか受け入れないかというのは態度の違いです。自分が実際どんな音を出しているのか知らないといけませんが、そのためにはいわゆる潜在意識まで掘り下げる必要があるかも知れません。結果が出ないということは、往往にして顕在意識と潜在意識が食い違っているからなのです。
あいのほしの瞑想
これからお話しすることは、数多ある瞑想についての考え方の一つに過ぎないことを、まず最初に言い添えておきます。で、あいのほしが考える瞑想というのは、何か特定の結果が期待できるものではなく、強いて言えば、単に「休む」ことであります。神秘体験とか、こういう体験が出来るはずだ期待して瞑想するとなると、それだけで本来の瞑想からは離れてしまうように思います。方法としては、理想を言えば背筋を伸ばし、足を組んでただ座るということになります。機能的な障害があったりして体の痛みに気を取られてしまうようなら、別にどんな姿勢でも構いません。で、何も考えないでそのまま座っていられるんであれば、それだけで完璧な瞑想です。難しい理屈を付け足す必要はありません。次に、何も考えない状態にはならなくても、座ってるうちに心が静かになるという人は、心を集中する訓練をします。ヴィヴェーカーナンダさんの『ラージャ・ヨーガ』という本に書いてある方法を参考にしているんですが、心を集中すべき場所は二つありまして、一つ目は頭のてっぺんから15センチくらい茎が伸びて黄金の蓮の花が咲いているイメージで、その蓮の花になっている感じで集中します。二つ目は胸の中心に炎が燃えているイメージで、その炎になっている感じで集中します。炎の色は何でもいいんですが、青がおすすめです。一度の瞑想で蓮の花と炎を同時にイメージするんじゃなくて、蓮の花なら蓮の花、炎なら炎のどちらか一つに集中します。イメージを使うんですが、映像をイメージする訓練じゃなくてあくまで心を集中する訓練なので、そのものに成り切るのがポイントであります。最後に、座っているといつの間にかくだらないことをあれこれ考えているという人は、その考えを紙に書く練習をします。「またくだらないことを考えてしまった」と書くという意味じゃなくて、具体的に何を考えていたか思い出して書くということです。すべての思考には理由がありますが、いい悪いを判断するためとか、心理を分析するためとかいうんじゃなくて、何の期待もせずにただ書き留めます。自分が何を考えているのか自分で認識することの意義を甘く見てはいけません。頭を休ませることが目的だとすれば、漫然と考えごとをしながら座ってるくらいなら昼寝でもする方がいいのです。自分の考えを認識することによって、理想を言えば心の中身が自然と整理されて、だんだん静かに座れるようになって来ると思います。
学びの手順
スピリチュアリティについて誰もが押さえて置くべき基本というのがあるんでしょうが、それを言い出すとすぐに宗教的なドグマが出来上がってしまうのが難しいところです。良かれと思って作った規則が精神の自由を束縛し始めると、人間社会はあらぬ方向に行ってしまいます。私たちが生きているのには目的があるということを理解することが重要です。だけど、あなたの役割はこれです、と他人に教えられるのではなく、自分でこうだと分からなければ何の意味もありません。一人一人に割り当てられた固有の役割があり、スタート地点からしてそれぞれ違っているので、全員一律に同じ人生哲学を押し付けられるのではなく、自分の道を自分で見つけられる教育環境を、チャンスとして与えられるのが理想なんだろうと思います。勉強であれスポーツであれ芸術であれ、あるいは伝統宗教であれ、何でも一通りやってみることが出来る環境があれば、自分のやりたいことを自分で見つけることが出来ます。一方、身体的にであれ精神的にであれ、あるいは家庭環境であれ、自分で選ぶ余地があんまりない束縛の中に生まれついている人もいます。そんな中で自分がやるべき義務を果たしながら、精神の自由を得るためにスピリチュアルな道に置かれていると言っていいでしょう。普通は、人間やりたいことを自由にやるのがいいに決まってます。実はそれが、「自分がやった」という自意識を満足させるためではなく、完全調和のために誰もが自分の仕事を捧げているんだということに、今この人生を生きている間に気づけたら最高だと思います。
逆境
逆境に立たされた時に初めてその人のスピリチュアリティの真価が試される、それまでの人生すべては本番前のリハーサル、というのが最終的に私たちの共通認識になるのだろうと思います。そのくらい口で言うのと実際にやるのとは違うと痛感いたします。「人生こう生きるべきだ」というようなことを教える先生方に従って何年も真剣に実践しても、うまく行かないことの方が多いように思いますが、その結果に対するフォローが多くの場合何もないのではないでしょうか。「無責任な人たちだな」という不満があって、そんなようなことを口に出して言ってもいた時期がありましたが、よく考えてみれば当たり前の話でもあり、もうそんな風に考えないようにしよう、というのが私の正直な現状であります。フォローするというのはお弟子さんの人生を引き受けるのに等しいことですから、そこまでの度量のある先生が少ないことは理解できます。なぜ悪いことや困難なことが起こるのかと言ったら、昔ながらの説明の通り、それがないと私たちは成長しないからです。いつの間にか人生に立ち向かう勇気が身に付いている、というのが本物のスピリチュアリティの醍醐味だと思います。いざという時に役に立たなければそれは本物じゃない、というのは誰もがいつかは直面しなければならない大問題であります。
理解
人間にはものごとの仕組みを理解したいという願望があり、また理解できる能力を与えられている以上、私たちが人生をより深く知ろうとするのは自然なことに思われます。実際、未来の世界では私たちがここ(地球)で何をしようとしているのかが理解されるようになるのです。そうなったらもう占めたものでしょう。ただ、難しい哲学を理解できるならそれはそれですごいことなのですが、哲学の大部分はどちらかと言うと解説とか背景知識に属するものであって、愛の道を行じる霊止(ひと)になるのに背景知識は全然必要ありません。言葉にするから変に聞こえてしまうんですが、まず知識から入って、それを行じて行くうちに自分のものになり、最終的にいちいち頭で確認する必要がなくなるという訳なのです。私個人の勝手な意見なんですが、一人一人が別々に修行してという今までのスピリチュアリティのあり方は終わりつつあるように思います。私たちは集合的な理解に到達しつつあると見るべきです。それはもちろん言葉が一人歩きして行くからではなく、黙々と行じる人が増えて行くからこそ達成されるのです。
知識
知識を得ることは大事だとあいのほしでは考えております。「何も知る必要はない」とする哲学もありまして、極論すれば言語も使わない原始生活が理想ということになるんでしょうが、本気でそれを実行する人はいないのが現実ではないでしょうか。で、私自身好奇心が人一倍強かったので、(最初から最良の先生に出会えていたにも関わらず)マイルドな知識に飽き足らず、最新と言われている知識や、あまり知られていない秘教的な知識を追い求めたりもしました。でも、デッサンや楽器の練習と同じで、基本を踏まえずに応用から始めると、ある程度のところまでは行けるものの、いわゆる自己流の癖が身に付いてしまったがために必ず行き詰まる時が来るんであります。限界に直面して「なぜ基本が大事だと教えてくれる人が誰もいなかったんだろう」とその時になって思うものです。では精神世界の基本とは何ぞやと言いますと、結局、伝統宗教の顕教では必ず一番最初に教えられる、日本では道徳や倫理に分類される部分の教えがそれなんであります。人を傷つけてはいけないとか、貪ってはいけないといった基本的態度を一切踏まえないで、いきなり悟りとか究極が分かったとしても、結局性格のいびつな人間が出来上がるばかりで霊性の花は開きません。分かるのと実践するのとが全然別物になってしまうわけです。最近のスピリチュアル業界はモラルに関する教えを軽視する傾向にあるように思うので、そこがあんまりいい結果が出て来ない原因なんじゃないかなと考えたりします。
説明
スピリチュアルティーチャーさんにぶつけてみたい質問の代表格として、自分が人生で体験して来たこと—大体はよくない体験だと思うんですが—の説明を求めるというのがあります。で、その体験の意味はこうですと言われるのであれ、意味なんかないですと言われるのであれ、その回答に心から納得できることはまずないだろうと思います。言葉で説明しようとしたら、何であれそれは知的な解釈の一つに過ぎません。何かについて意見を言うということは、基本的には潜在意識の中にあるすべての経験から自動的に導き出される情動的な反応であるか、あるいは言葉の上で論理的に導き出される結論のどちらかでしょう。これではどこまで行ってもものごとの本質を捉えることは出来ません。哲学用語で観るという漢字を使って直観と言うそうですが、愛の目で見ることによってものごとと一体になり、直接知る・分かるという作用が、いわゆる人間の知性や論理の上位レベルにあるのです。これだとものごとの本質を知覚していることになり、解釈を差し挟む余地がなく間違いということがありません。事実確認をすれば100パーセント正しい、というのが直観であることの証明になります。私たちが本来スピリチュアルティーチャーさんに期待する答えはこれなのであります。小さい子供が何でも分かるわけではないのと一緒で、心を空っぽにすれば直ちに直観できて答えを得られるわけではないのは、みなさんも既にご存じの通りです。潜在意識の中身は一瞬ではきれいにならないですし、段階は人それぞれです。パッと何かを感じるというのは、たいてい感じるという漢字を使う方の直感で、過去の経験から来ます(いわゆる女の勘や野生の勘というのは、稀に直観である可能性もありますが、ほとんどは直感であると言えるでしょう)。観る方の直観には情動が伴いません。より繊細な知覚であって言葉で来るわけではないので、何か素晴らしいものを観てもそれを正確な言葉で表現できるようになるまで二十年三十年かかるのが普通だと思います。
美しい暮らし
日本の住環境が美しさの面で諸外国から大幅に後れを取っている、とよく言われます。昔の建物は一般的に火事や地震に弱かったという点は否めないので、特に戦後はとにかく火事や地震に強く、価格的に安く作れるという技術面が優先されたのも無理はありません。だけど、あまり美しくはありません。卵が先か鶏が先かじゃありませんが、美しい家に住んでさえいれば心も清くなるということはないものの、心が美しい人は必ず住環境も美しく調和しているものなので、変な話ですが商業ベースの建築様式をより美しいものに改善して行く仕事は今後有望である可能性があります。よく考えてみれば当たり前のことなんですが、日本のいわゆる伝統的な色や形の中には普遍的に美しいものが幾らもあるので、まずはそれを徹底的に学んだ上で、そこをベースに現代の建築技術や加工技術を加味すればいいと思います。ヨーロッパみたいに普遍的に美しい色や形を繰り返し使って行くことが様式美になるので、同じように日本の様式美を生み出して行けると思います。侘び寂びというのは禅の考え方が入って来るので、侘び寂びを生活様式に取り入れることによって人間性が向上するという確証がない以上そこに戻る必要はないかも知れませんが、今の建築は写真写りを気にするあまり、自然光の明暗を考慮に入れなさ過ぎる傾向があるように思われます。日本人的な感性に響くような住まい作りを、現実的にあまりお金がかかり過ぎないようにポイントを押さえてやって行く必要があるかと思います。
言葉と本物
一般的に言ってものごとをあまり深く考えない私たち日本人にとっては、哲学から始めるのはいいことだと思うんです。中等教育で、哲学者の難しい概念を教えるんじゃなく、人生をどう生きるかということを、正解はないという前提で自分の頭で考えさせる(つまり自分で考えるやり方を教える)授業をやったらいいと思います。で、いろんな哲学を頭で理解できたということは第一歩としていいんですが、それを言葉で語ることで満足してしまう傾向がこれまではあったわけです。言葉で説明できるのと、実際にそれを生かすのは全然別物だ、という実感が切実になって来ない限り、私たちは向上しないのではないでしょうか。クンダリニーが目覚めて権能獲得と言ってみたり、ワンネスを悟って全託と言ってみたり、結局はまったく同じ大安心の境涯のことを、一方は現象面から、一方は精神面から表現しているだけだろうと思うんですが、知的に考えたらどこをどうやっても矛盾しているようにしか聞こえないので、全然違う二つの道なんだろうと結論してしまうかも知れません。もしも間違ったことを教えられても、間違いに気づかないまま終わってしまうという状態です。覚者と一般人との大きな隔たりを埋める中間層を育てて行かないといけないと考えます。究極意識とか神通力までは分からなくても、人生は心の置きどころ言いますか、心的態度がすべてだと分かっているというのが、ここで言う中間層の人であります。雲を掴むような目覚めや悟りで人生大逆転を狙う人を増やすよりは、平凡であっても何はともあれ安心していられる人を増やす方がいい、というのがあいのほしの考え方であります。
故郷
「誰か故郷を想わざる」という歌詞の通り、生まれ故郷というのはほとんど誰にとっても特別なものではないでしょうか。それには純粋に心情的なものだけではない理由があるような気がいたします。私たちは生まれた時点でクンダリニーとは繋がっていないのですが、その代わり産土神の言い伝えの通りに、生まれた土地のエネルギーと繋がっていると言えると思います。この繋がりはほとんどの場合一生涯切れることがないようです。人生で何をやりたいかとか、誰と出会うかというような要素は、この土地のエネルギーから割り振られて与えられていると考えることも出来ます。地球に意識があるとすれば、全体のバランスを調整しながら人間一人一人に役割を与えているわけです。ところが、何らかのきっかけで土地のエネルギーとの繋がりが突然切れてしまう人がいます。人間社会の中での役割から解放され、故郷のない自由人になるわけです。タロットで言えば愚者のカード、トランプで言えばジョーカーがあるということは、大昔からそういう役目を与えられる人が一定数いたことを示唆しているようです。土地のエネルギーから切り離されるところからクンダリニーの目覚めがスタートして、クンダリニー・ヨーガのゴールはその遥か先にあります。最初のステップの衝撃で正気を失ってしまう人もあり(いわゆるクンダリニー症候群)、クンダリニー・ヨーガは狂気を孕んだ危うい道であると言われる所以です。土地のエネルギーというのは、私たちが生きているという実感を持って正気でいられる基盤になっているんであります。それを失うということは、そういうことです。私が思うに、クンダリニー・ヨーガは真面目な修行というよりか、強烈なメッセージ性を携えて危なっかしい人生を駆け抜けたロックスターの生き様に近いものがあり、実際にいわゆる悟りに近い状態まで行った人もいます(例えばボガンボスのどんとさんやフィッシュマンズの佐藤伸治さん)。ジョーカーとして生きるのは楽な道ではなく、大きく言えばそのような役割もまた、神様に与えられるものだと思います。
オイル治療の可能性
禊と言いますか体を清めることは、霊性の道において人によっては大事になって来ると思います。で植物から抽出するいわゆるエッセンシャルオイルに、気と言うかエネルギーの詰まりを解消する効果があると個人的に感じています。エッセンシャルオイルにはたくさん種類があって、足の裏など直接肌に塗れるオイルと、オリーブオイルなどに少量溶けば肌に塗ることができるオイルと、どんな場合でも肌に塗るべきでなく香りだけを利用するオイルとあるわけです。気と言うかエネルギーの流れは人それぞれ全然違うので、どういう場合にどのオイルが効果があるのか見極めるのは至難の技と言えましょうが、国や文化によっては代替医療として使われる場合もあると聞きます。私自身の経験から言いますと、特定の植物に含まれる特定の成分に薬効があるという解釈よりは、エッセンシャルオイルに含まれる多次元の光が体のいわゆる自然治癒力を引き出すという解釈の方がいいんだろうと思います。好転反応(瞑眩)と言うんでしょうか、病気が進行するのと逆の順番に症状が出て来るというのも私の経験ではある程度本当で、治療と言うよりも治癒という表現の方がしっくり来ます。治癒に向かう時の症状はとても辛いものになり得るので、この分野を日本ではほとんど誰も探究していないのも頷けます。他人の体で試すわけに行かないので、自分の体で実験するしかなく、現時点では結果どうなろうが完全に自分の責任でしかありません。ある人には劇的に効果の出るオイルが、別の人にはまったく何の反応も出ないか、強過ぎてアレルギー反応が出る場合もあり、まずは体力を回復するための別の方法が必要であるとか、いわゆる好転反応の症状を緩和してあげるために別のオイルをブレンドして使うとか、専門家になろうとしたら学ぶことがたくさんあるでしょうが、将来的には素晴らしい成果が期待できると思います。
クンダリニー
クンダリニーとはサンスクリット語で創造エネルギーというような意味で、インド哲学はこのクンダリニーを如何にして目覚めさせるかという問題を中心に成り立っていると言っても過言ではないでしょう。私たちはなぜか生まれた時点ではクンダリニーと繋がっていなくて、根源の生命エネルギーと繋がっていない状態でどうやって生きていられるのか逆に疑問に思いますが、水や空気や食べ物に蓄えられている光を代謝することによって何とか生きられているということだろうと思います。インド哲学では気と言いますかエネルギーの性質を三つに分類しておりまして、サットヴァというのは精神を高める性質、ラジャスというのは物質生活を豊かにする性質、タマスというのは流れを遅くする性質と説明できると思います。専門家ではないので間違っていたらごめんなさい。で、クンダリニーを目覚めさせるためには、どういう訳かサットヴァ性を重んじなきゃいけないということなのであります。そのためには泌尿器、消化器、循環器をみんなきれいにしなきゃいけないので、アーユルヴェーダというのは医療目的であったと同時に、クンダリニーを目覚めさせるという最終目的のために組み立てられたのかも知れません。私が思うに、ある種の植物にはサットヴァ性があり、自然な方法で抽出したエッセンシャルオイルはそのために必要な浄化に利用できます。植物が蓄える光が重要であり、あくまで仮定の話ですが、ある植物から水蒸気蒸留法で抽出した(新鮮な)オイルにはサットヴァ性の働きがあり、化学的に混ぜ物して抽出したオイルにはラジャス性の働きがあり、それをさらに加工して粉にしたものにはタマス性の働きがあるというような可能性があり、この植物はこういう効能という単純な分類はしない方がいいかも知れません。むしろ特定の鉱物の結晶が特定の周波数の光を吸収する性質を利用するクリスタルヒーリングの方が、今の科学では取っ付き易いのではないでしょうか。今まで全然やったことないことを直感的にやってみたくなり、それが思いも寄らないタイミングと方法としてクンダリニーを目覚めさせるための準備になった、というようなことが本来の道筋で、それを本や論文に書こうと思ったら大変な騒ぎになりますが、実際問題としては誰もが導かれていることを信じるのが一番と言えると思います。
二種類の見方
スピリチュアルに興味を持つのにも二パターンありまして、一つは自分が得する情報を求めて入るパターンと、もう一つは世のため人のためになりたくて入るパターンです。すべてを損得で考える人というのは多数派でして、自分が損させられるように思える教えは受け入れません。逆に、自分を犠牲にしてでも人の役に立ちたいと心から願う人というのはかなりの少数派ですが、自分だけが得するように思える教えを受け入れられない場合もあるのです。昔の覚者さん(例えばヴィヴェーカーナンダ師)はそこら辺のとこを弁えていたので、どっちから入っても対応できるように教えを説いていたわけですが、そうとは知らずに正反対の目的を持った人が同じ教典を読んでいるというのが一般的に起きていることです。意識は一つですべてが繋がっているという教えと、現実生活を豊かにするための教えと、一つの教典の中に両方含まれていますが、人それぞれどちらか一方が重要だと捉えていると思います。だけど、あくまであいのほしの考え方でしかありませんが、最終的には両方受け入れないと完成しません。今も昔も基本は変わりないのですが、人生どうなったって構わないとか、すべてを思い通りに実現したいとか、スピリチュアルティーチャーさんが両極端に偏らないように指導できるのが理想です。もっと言えば、国や文化によって特有のエゴの構造があって、まったく同じ教え方をしても、ところ変われば全然違う解釈をされる場合もあるので、その辺りの的確な理解と細やかな心配りが必要だと思います。相手が誰であろうがお構いなしに同じ言葉を繰り返すというのは、今となってはあまりにも古い方法になっていると申せましょう。
集合意識
自然界の例えば蟻の巣とか魚の群れを観察していると、たくさんの個体の集合が一つの生き物のような行動をするので、超常的なコミュニケーション形態が存在しているらしいという意味で、集合意識という仮定がなされることがあります。集合意識というのは今のところ想像上の理論でしかないのかも知れませんが、脳科学の観点から今後数十年の間に証明されると予想されます。人間も動物であるという面があり、普通私たちはそういう風に考えませんが、一人一人にやりたい仕事があるということは、全体から見ると一人一人に役割が与えられているからだとも言えます。ただその役割が多種多様であり創造的であるという点では動物とは異なっております。じゃあ悪いことをする人はその役割を与えられているからかという疑問は、それこそ何千年も前から哲学の最大の争点であったと言えます。ただ考えているだけでは決して解決のつかない問題ですが、私の勝手な意見では、私たちが生きているこの宇宙にはテーマ性があり、それは自由意志の体験を通して慈悲の心を体得するという計画なのであります。それも他にいくつかある宇宙の一つであり、さらに遠大な神様の全体計画の構成要素であると考えられるものです。だからと言って大げさに空想するべきじゃなく、私たちの人生というのはただ単にそういう意義を持つものだということだと思います。
新しい経済学
お金になるかならないかが分かり易い価値の基準になっている昨今ですが、経済学で言う価値の定義って何でしょう? 素人なので間違っていたら申し訳ないんですが、銀行の金利とか利子というのは永遠の経済成長という想定と言いますか、世の中に付加価値が生まれ続けない限り成り立たないのではないでしょうか。農業・漁業・林業・採掘業・工業・小売業といった私たちの生活を支える基本的な仕事の他に、いろんな種類のサービス業が占める割合が多くなっている現在ですが、サービス業が生み出す付加価値を計量することが今の経済学では難しいんじゃないかと思います。知的生産という言葉がありますが、例えば娯楽産業はお金になる限り付加価値と認められていると思います。人の気持ちを暗くし恐怖を与えるのであれ、人の気持ちを明るくし勇気を与えるのであれ、今の経済学で見るのは売上だけで、内容はまったく問わないのではないでしょうか。また、医療産業の規模はかなり大きいのでしょうが、人類の成長という観点からしたら、私たちが健康になり産業規模が小さくなるのが付加価値だと言えるのに、今の経済学では医療産業が拡大することも経済成長に入れるのではないでしょうか。動植物の生態の研究のような、それ自体ではまったくお金にならないような学問がいくらもありますが、そういった要素は知的生産としてカウントされていないように思います。結局、世の中を動かす大きな力を持つと見做されない要素は相手にしないという訳で、私たちの実際生活を価値の基準から正確に計量しようという気がないのではないでしょうか。そんなような議論をあまり聞いたことがないのを寂しく思います。
基本姿勢
信じる者は救われるという言葉はあんまりいい文脈で使われないみたいですが、もし信じられるならもう救われている、というのは本当の話です。すごく難しい哲学的なことを考えて「これも幸せと言えるのではあるまいか」と自分を納得させるのもアリですが、何がどうであれ心がぽかぽか、気楽な気持ちで人生を楽しんでいる人には敵わないのではないでしょうか。そりゃ仕事も家庭も順調で、お金がいくらでもあれば誰だって気楽に人生楽しめるでしょうよ、と一般の人は想像したりするかも知れませんが、精神世界で言っているのはそういう意味じゃありません。少なくとも私たちはそういう意味で言っておりません。仕事も家庭も順調からはほど遠く、健康を害してしまっても、正しい生き方を貫けばいつかは必ず良くなると信じることが出来るなら、たとえ生きている間に夢のような境涯にはならなくても、何の不安もない幸せな気持ちだけ先取りすることは現実に可能なのであります。そういう心の態度を基本にして、何であれ自分が置かれた境遇に即応してやるべきことを淡々となせば、どんな人でも必ず人生に成功できると信じます。秘教的な教えに導かれる人がいるとすれば、そこから先の話です。
共感
この会社に就職したらどうなるんだろうとか、この人と結婚したらどうだろうとか、人生の岐路にあって結果を先に知れたらいいのに、という思いは誰しも持つのではないでしょうか。スピリチュアルに片足突っ込んでるならなおさら、未来を当ててみたいと思うでしょう。で、まずは人間の思いの世界であれこれ予想するわけです。イメージがチラッと見えるとかそういうことも起こりますが、あくまで想像の世界ですから、希望的観測が入れば入るほどまったく見当外れになり、少し客観的になれているなら偶然当たる時もある、といった程度でしょう。次に、知識と経験から勘が働くという場合があります。潜在意識にある程度のデータがあり、そこから導き出される答えなので、頭で考えて予想するよりは当たると言えるでしょう。次に、響き合うという言い方をしたりしますが、愛や慈しみの気持ちが出ている時に突然起きる共感というのがあります。これは普通の人でも一生に一度くらいは限定的に経験し得るものですが、心が空っぽになると全面的に起きるようになるんだと思います。ここで言う心が空になるとは、何も考えてない瞬間があるという意味じゃなくて、人間の業想念を浄めて心が生存本能を超越した状態という意味です。ものごとそのものを見ていることになるので、共感によって得られた情報は、客観的に検証しても100パーセント合っていることになります。精神世界をやっている私たちは、この三つが入り混じった形で未来を予感していると言えるでしょう。本物の共感というのは不可抗力というのが適切な表現であって、そういう能力を得たいと思うのは本質的に的外れだと言えると思います。
波及効果
すべては繋がっている、とまともなスピリチュアルは説きますが、実際自分が関わるすべての人が幸せになるというのが、理想中の理想だし王道であります。ある教師や団体と関わって行く中で、理由が何であれ自分の家族が離散して行くようなら、その教えは本物でない可能性が高く、疑い始めるのがいいような気がします。ヒーリングやセラピーのようなものを習っても、自分の親兄妹が病気になった時にその方法で治らなければ、一番大事な時に何の役にも立たなかったことになるのではないでしょうか。ガッカリなんてもんじゃありません。誰かを癒したいと思う気持ちは尊いものですが、願うだけではどうにもならないこともまた事実です。自分が何か一つ乗り越えたとき、こだわりが取れたとき、愛の気持ちが出たとき、最初に血の繋がりのある家族や一番身近にいる人たちに嬉しい波及効果があるのは本当です。すべては繋がっているとは具体的にそういうことなのであります。何の変化も出ないようなら、自分が独り善がりになっている可能性を疑った方がいいと思います。家族に良い影響を与えるという事実を知ることが、心の浄化に取り組むためのモチベーションになる人もいると思うので、こんな話をしています。自分の心が軽くなることで、世界のどこかにいる知らない誰かの心も期せずして軽くなるというのも本当です。逆に言えば、自分が知らない誰かの恩恵に浴していることもあるのです。いずれにしろ、心の世界の取り組みが無駄になることはありません。
あなたと私
個別の自分というものは本当はなくて、私が私と思っている私と、あなたが私と思っている私は同じ私、実は人類全体いや宇宙全体で一つの私であるとしたら衝撃的ではないでしょうか。しかし、そのまさかが真実という訳です。「私はあなた、あなたは私」という考え方はそれこそ大昔からあって、二人でペアを作り、お互いに目を見つめ合いながら「私はあなた、あなたは私」と言うといったワークをやらせるティーチャーさんもいたりしますが、それを裏付ける理由と言うか証拠がなければ、ただの哲学で終わってしまいます。金属元素が光を吸収し、その後だんだん放出するのと同じ原理で、魂が肉体に宿るというのは霊の光を体が蓄えて、だんだん光が放出されると体としては死を迎えると理解することも出来ます。光が一時的に閉じ込められることで、個別の知覚が発生するという驚きの仕組みです。もちろん人間としての私たちが、あなたと私が同じであると悟るための順路は用意されてまして、第一段階はパートナーや親子の愛情を通して与えられるのであります。自分の命よりも誰かが大事だと本当に思う真の愛情というのは、人間が利己的な個人だとすると論理的にあり得ないことなので、私とあなたが同じであることの間接的な証拠になるわけです。次の段階は、誰かが考えたり記憶したりしていることを、完全ではないにしろ分かるようになる能力の発現として与えられます。もちろん簡単に与えられることはありませんが、過去の覚者を調べれば、こういうことは本当に起こることが分かります。それはあなたと私が同じである本格的な証拠になる訳です。
青写真
私たちは生まれて来る前に人生の計画をあらかじめ立てている、お互いに人生テーマが似通った魂が同じ時期に同じ国へグループで転生する、といった話が精神世界にはありまして、そういう見方をすればかなりの程度事実なんだろうと思います。が、そういう話を聞かされたところで人生は何一つ変わらないとすれば、ただのおとぎ話に過ぎなくなるのではないでしょうか。スピリチュアルとは何の関係もない一般の人が見ても、「この人はこれをやるために生まれて来たのかも知れないな」という風に納得させてしまう天才的な人というのがいます。だいたいその通りだと思うんです。青写真がすごくハッキリしていて分かりやすいわけです。なのですが、まずまず平凡というカテゴリーに入る多くの私たちの青写真というのは、具体的にこれこれをやりに来たという種類のものではないのです。ほぼすべての私たちの青写真というのは魂を磨き神性を現すということであって、特定の天職に就かなければそれを実現できないというようなことはないのであります。あいのほしの意見を押し付けるつもりはないんですが、これを理解することはとても重要です。なぜなら、特定の何かをしなければならないはずだと想像して生きていたら、結果的に要領を得ない人生になってしまう危険性があるからです。心を浄め人間性を高めることを人生の目的に定めることは、私が思うにとても意義のあることです。人生の目的として定めていることが真実に近づけば近づくほど、私たちは揺るぎない信念と心の平安とを持って人生を生きて行くことができるからです。別にこれが唯一の答えだという訳じゃないので、最期に本当に有意義だったと確信できそうな内容を、人生の目的として自分で定めるといいと思います。
経験と学び
一般的に経験はたくさん積んだ方が良いとされますが、新しい体験にどんどん飛び込んで行く冒険的な人は必ず人間性が磨かれるという訳でもなさそうだし、どこへも行かずに一つ事をやり続ける職人的な人は全然成長がないという訳でもなさそうです。これはどう考えたらいいんでしょうか? 何も考えないで次から次へと新たな経験を重ねても成長は出来ないし、体験がなく頭の中で哲学するばかりでも成長は出来ないようです。何も理解する必要はないという哲学もありますが、成長したいと思うなら理解というのは重要です。モコモコした泡の中に宝物が埋もれているとして、別に探そうとしなくても宝物はあるにはあるわけです。泡の中に手を突っ込んで宝物を見つけ出して初めてそれが何か分かる、というのが理解するということだと思います。そういう意味で熟考するとか熟慮するといった態度は大事だと思うんです。で、一口に理解と言っても二通りあり、頭で理解するのと心の底から理解するのと違いがあります。精神世界の話を聞くチャンスがなければ人間は成長できないということでもありませんが、既に聞けたということは取り敢えず頭では理解できたことになります。で、その理解が実際に体験として分かるようになるまでに何十年と掛かるのが普通と言えるでしょう。何十年で分かったら優秀と言えるのかも知れません。で、心の底から理解したことを生き方を通して証明するという段階がそっから始まるわけです。生き方として見せることがなければ、誰もその理解が本物であるかどうか判断することが出来ません。人として完成するというのは、その人のやること為すことすべてが愛と調和を生み出して行く姿を見せるということではないでしょうか。
娯楽と実力
自己本位という欠点のある私たちにとって、自分に向き合い人生に立ち向かうのは難しいことです。今考えれば精神世界には娯楽に類するものが多くあり、楽しませてもらっているうちにだんだん現実と向き合えなくなり、行動する気力を削がれてしまったりします。理想を言えば、多少厳しくとも、知らず知らずのうちに何であれ生きる力が身に付き、勇気を持てるようになる教えがいいと思います。楽しむためという考え方もありますが、私が思うに、人生というのは人間性を磨き出し、いわゆる神性を輝かせるためにあり、その過程には苦痛が付き物です。苦痛を避けて通ることは出来ませんが、喩えて言うならば緩和ケアのようなものは実際にございます。これは私個人の意見ですが、瞑想というのは目的を達するための手段ではなく、実は人生の苦痛を和らげる緩和ケアに相当するものだと思います。人生に立ち向かうことこそが、常に道であり方法であるわけです。過去を癒す、悪い癖を直す、誤った世界観を正すといったことが具体的な方法だと言えると思います。人生は最終的に自己の本質を悟り人として完成するためにあり、その過程は基本的に大変であることを重々承知の上で、だからこそ楽しんでやる必要があると身をもって示してくれるティーチャーさんがいたら最高です。大変だからこそ、苦痛を適度に緩和しながら楽しんで生きるというのが、それこそ人生の極意だと思います。進めば進むほど楽になる、要するにエゴの欲望に振り回されなくなる、そういう態度を早い段階で身に付けることが大事だと思います。
イメージと本物
天命を全うすると言うけど、具体的に何をどうすれば自分の命を生かし切ることになるんだろうか? とこういうことが真剣な疑問になって来なきゃいけないのではないでしょうか。何がイメージと言うか幻を追い掛けている生き方で、何が魂にとって本物の価値がある生き方なのか、エソテリックな議論をしようとしたらとても難しい話になり得ます。私たちは誰でも、程度の差こそあれいい格好したいという願望を持っていると思います。単純に言えば、人に褒められたい、評価されてなんぼ、「わーすごいですねー」と言ってもらえるように伝え方を工夫する、都合の悪い要素は排除して完璧な物語を作り上げる、とこういうような態度がイメージの中で生きているということだと思います。良い悪いの判断をせず、包み隠さずそのまんま表現する態度が本物だと言えます。人生でこれだと思ってやっている活動が、もし誰からもまったく評価されないとしたら、それでもそのまま続けますか? その活動への情熱よりも人に認められたい願望の方が勝っているとしたら、人に認められさえすれば何の活動でも構わないということになってしまいます。それがイメージに生きるということです。人に認められなくてもやりたい、それでも続けます! と思うなら本物です。世の中どこに住んでいるとかどんな仕事をしてるとかすべてにおいて、まともな人間であると他人に思ってもらえるという基準で生きている人が多くいます。そんな環境の中で本質的な生き方を目指すのは大変なことですが、私が思うに、後悔することはないと思います。でも、本質的に生きなきゃいけないとは思わないです。あくまでイメージで生きて行きたい場合はそれはそれで構いません。
どこからスタートするか
自分が今子供だったらどうだろうかとよく考えるんですが、要するに子供がこれからの人生で人間性を磨き出して行こうとする原動力をどこで得られるだろうかという疑問です。戦前の修身教育が良かったとは言わないですが、昔の時代の方が魂を鼓舞してくれるような高潔な人に触れる機会は多かったように思います。今は偉人の伝記なんかもあんまり読まれなくなっている気がするし、ましてや道を示してくれる人に出会えるチャンスはほとんどないような感じがします。ぼやぼやしていたら、お金さえあればいくらでも楽しみを享受できる西洋式都市生活の枠内で勝ち組に入ることが理想、と考えられるようになるのも無理はありません。流行っているから瞑想でもしてみるか、と気軽な気持ちでスタートしても、いつの間にか高額セミナーに誘導されるのが関の山という有様です。子供にとってほんとに受難の時代だなと思います。初等教育で、この哲学者がこう言ったみたいな内容を憶えさせるんじゃなく、自分の頭でいろんなことを考えさせることから始める必要があるように思います。その際、人生に対する考えに正解はない、自分の考えを人に押し付けてはいけない、という基本を徹底しないといけません。若ければ若いほど理想的な生き方への感受性は強いので、平凡な大人になってしまった私たちは、少なくとも子供の邪魔だけはしないように気を付けるべきではないでしょうか。
癖と個性
個性を伸ばす教育とか言いますが、ある人が持っている特徴の中で、何が伸ばすべき個性で何がそうではないのか、ちゃんと定義されてないような印象を受けます。これは私の意見ですが、精神世界で言われる叡智というのが個性の正体であって、叡智に至るまでの間に一時的に欠点として現れる性格は、個性ではなく癖と呼ばれて区別されるべきだと思います。なくて七癖とか言いますが、いわゆる過去世やご先祖様の遺伝から持ち越して来ている認識の欠如や世界観の歪みが、癖として現れているんであります。トラウマ的な出来事に向き合えず、理解できないまま終わってしまったことがその原因なのです。アルコールに頼りやすい性格とか、常識的に欠点と見做されるものはいいんですが、「優柔不断なところがかわいい」とか「傲慢なところがかっこいい」とか、本来人間性が成長することで解消されるべき癖に相当するものが、個性と見做されて自他共に認められている場合もあると思います。ましてや、ものごとを所定のやり方で処理しなければ気が済まない神経質な性格とか、頭の中でいちいち人や物を批評する評論家体質とかは、実害がないために癖として認識すらされないかも知れません。認知行動療法的な方法で矯正できるならそれもアリですが、癖というのは理想を言えば、なぜその癖があるのか疑問に思うことから始まって、その根本にある感情に向き合い、何を信じているからそう感じるのかという理解にまで辿り着いたとき、意識のありがたい働きによって自然に解消されるものです。癖そのものは解消されて、それまでの全過程が叡智と言うか個性に変わるというわけです。「あの人いい意味で変わったね」と普通の人から言ってもらえるようにならなきゃ、スピリチュアルをやっているとは言えないだろうと思います。
行程表
人間機械論というのは未だに根強い人気があって、人間は自由意志を持たない機械だという前提の下に話をするスピリチュアルティーチャーさんが少なからずいらっしゃいます。確かに、心にメカニズムのようなものがあり、心を物として扱うことができるなら、あーやってこーやって式の悟りへの行程表を作り易くなります。しかしながら、その線で行けば人生そのものには大して意味がないという結論になるのは当然と言えば当然です。私たちは本当の自分を見つけるために生きている、というのはまったくその通りだと思います。ただ、あいのほしが付け加えたいのは、全員が全員そうだと言う訳ではないのですが、地球に生きている私たちのほとんどは、過去の生き方の誤りを修正するチャンスを与えられてここに来ている、という考えです。そこの理解がないなら、人生に意味があるように見えないのは当たり前のことです。世のため人のためになることをする、というのも他でもない修正のための具体的な方法なわけです。ほんとの真心を世の中に現す必要があるのは、それによって本当の自分が見つかるからに他なりません。考えに考え抜いた大掛かりな慈善計画よりも、純粋で素朴な善意の方が人の心を打つことがあるという事実からも、真心というのは人間の論理を超えたところから来ていることが分かります。それと同じように、社会を変革しようとする活動よりも、自分を癒せたという内面の変化の方が、実は世の中に大きく貢献しているということもあるのです。スピリチュアル業界も何だかんだ言って外面的な現象ばかりが評価される傾向にあるので、気をつけて行きたい点だと思います。
オンラインコミュニティ
インターネットの普及によって情報を得るスピードが飛躍的に速くなったり、遠く離れた人たちと気軽にやり取り出来るようになったりしています。図書館に調べものに行ったり、船便や航空便で手紙を出していた時代と比べると、何かを「知る」という行為に時間が掛からなくなったと言えるでしょう。なんですが、インターネットの使用でコミュニケーションの質が向上したかと言うと、まったくそんなことはないのではないでしょうか。オンライン上のコミュニケーション能力というようなものはないと言いますか、普段の家庭や学校や職場で良い人間関係を築きにくい人がオンラインで不特定の人とコンタクトすると、良い関係どころか犯罪に巻き込まれる危険の方が多いと思います。ユーチューブとかをやるにしても、オフラインで友達を作り易い人、友達を大事にできる人、自分をさらけ出せる人が成功し易いと思います。逆に言えば、始めから経歴を盛ったり偽ったり、イメージを作り上げようとしながら活動する人は、長い目で見たら必ず失敗すると思います。私自身人に好かれるタイプじゃないので偉そうなことは言えないんですが、虚構の上にほんとの人間関係なんて築けるはずもありません。インターネット上でやたら批判的なコメントをする人を観察してみますと、自分の考えに合わない考えを攻撃する感じで、頭の中のおしゃべりと言うか相手がいることを想定できておらず、そもそもコミュニケーションの次元にいないように思われます。思考の中に閉じ籠っているために、現実に何が起きているのか把握できていない状態ではないでしょうか。結局、インターネットはオフラインの世界を代替する手段には決してならないのであります。
歯痒さ
ものごとを思い通りにしたいという気持ちは、人間であれば誰でも持っているものだと思います。大多数の悟りの教えというものは一言で言えば、このものごとを思い通りにしたい気持ちが消えるということでしょう。しかしながら状況をコントロールしようと意志する主体がほんとに脱落したら、その状態で肉体を維持し続けることは出来ないのではないでしょうか。生きていれば何かが欲しいのは当たり前のことで、私が思うに、自由に生きたいという気持ちと、思い通りにならないのを不満に思う気持ちは全然別問題であることを、スピリチュアル業界ではちゃんと区別して語って来なかったのではないでしょうか。思うような結果が出なければ不満や怒りの気持ちが出るのは一見当たり前の反応ですし、そういう歯痒さは潜在意識にどんどん溜まって行って、いつかは必ず体の不調や人生トラブルとして表面に現れて来ることになります。しかし、人生が思い通りにならなくてもまったく歯痒くならない人も実際にいるのです。そうなると、従来型の欲望が不幸の原因という考えは当て嵌まらないことになります。何が違うのかと考えてみますと、よく言われている通りに結局、不平不満が起こりがちな人は「人生そんなにうまく行くわけがない」とか、何が理由であれ「最高の結果は自分に値しない」と信じていて、何とも思わない人は「思ってることはいつか必ず実現する」とか「表面的にどう見えようが常に最善のことが起こっている」と信じているということなのです。「汝自身を知れ」とか言いますが、今も昔も、自分が何を信じて生きているかに気付くことが精神世界の王道なのであります。
自己肯定
自己肯定感を高めるというような話が、スピリチュアルに限らず広く語られるようになって来ていて、いいことだと思うんです。なんですが、スピリチュアル業界では、相対的な自己肯定とほんとの自己肯定を分けて語る必要があるように思います。「これがこうだから自分は素晴らしい」式の、何かしら理由や条件があっての肯定が、相対的な自己肯定であります。理由が何であれ自己否定感が強い人は、まずこのステップから始めるのが真っ当だと思います。どんな小さなことでもいいから自分のいいところを毎日十個ノートに書く、というような方法がそれです。自分の考え方の癖に気づくためにやる必要があるわけです。次のステップは、自分の欠点や過ちを受け容れる、自己受容というやつです。これはもちろん、自分の欠点を肯定するという意味ではありませんので注意してください。自分に欠点があることに気付いてそういうものとして認める、可能な場合には過ちの償いをする、その上で自分を責めないというのが、ここで言う自己受容の意味です。で、最後のステップは、純粋無垢な性質が自分の本心であることに気付き、そういうものとして現実を生きて行くというものです。そうなって初めて、スピリチュアルで言う自己肯定が出来たことになります。インスピレーションを与える存在とか言いますが、一挙手一投足が人に良い影響を与えるような状態に、私たちはなれる可能性があるのです。
性的な自分
性をどう扱うかというのが人類の歴史を通して最も難しい問題であった、と個人的には思います。究極的には性的指向云々ではなくて、自分を自由に表現するということだと思うんです。ところがあらゆる宗教では、禁欲であったり自分そのものを否定する考えが常にあったわけです。もちろん元々は明確な目的があってそういう教えが説かれたのですが、それは特定の段階に来ている修行者に向けた言葉であって、誰にでも適用するべき話ではなかったように思います。変な話になりますが、準備の出来ていない人が性を抑圧したり、(恥ずかしさや罪悪感から)性的な自分を表現することを恐れたりすることによって、チャクラで言えば二番目のチャクラを明け渡す格好になり、そこから漏れ出す性的なエネルギーを、いわゆる幽界の生物たちが組織的に採取しているという現状になったのです。性的に問題のない人もいますが、性的な自分を受け入れ、健全に表現することが人生最大の課題である人もいます。そういう人にとっては「自分はいない」というような自己否定的な教えは大きな害をなす危険性があることを、スピリチュアル業界はよくよく認識する必要があるように思います。自己表現がテーマの人に、そもそも自分というものはないと教えたら、壊滅的な結果にしかならないでしょう。二番目のチャクラが課題になっている人はどうしたらいいのかと言いますと、どれだけ長い時間が掛かろうが必ず性的な恐れを克服する、とまずは覚悟を決めないといけません。
人間にできること
すごく変な話になりますが、人間というのは生まれて来た時点で満願成就と言いますか、望みをすべて手に入れていると見ることもできます。それに気づくかどうかは自分次第ということでございます。で、それと同じように、人にもよりますが、私たちはここへ生まれて来たという事実をもって、やるべき仕事の九割は既に果たしたと見ることもできます。人間として生まれて来ることが決してない天使と言うか守護神様から見れば、ここへ来ること自体が大きな貢献であり犠牲です。私たち人間が苦難を強いられていることなんざ御守護様は百も承知で、逆に言えば、始めからそんなに多くを期待していないということなんであります。思えば人間性の成長ということについては私たちは五十歩百歩、何をどう頑張っても一度の人生ではほんのちょっとしか成長できない、というのが大方の事実ではないでしょうか。貧乏出身から社会的に成功したという意味での成長なら割とあったりしますが、もともとモラルの低い人が素晴らしい人格者に成長したという話はほとんど聞きません。だけど、ただ生まれて来ただけで九割は役割を果たせたと考えると、けっこう安心する人もいるんじゃないでしょうか。理想社会の実現という理念を持ち、奉仕活動に身を投じるような生き方は、極めて強い意志の力がある人向けの道であって、ほとんどの私たちには向きません。過去の感情を癒し、潜在意識を浄化することによって、素直な気持ちで正しく生きることが、私たちにとっての王道であると考えます。それが、私たちを通して知らず知らずのうちに仕事が為される具体的な方法なんであります。難しいことをいろいろ考えていると、その分御守護様が援助し難くなってしまいます。
スパイ
生きづらさ、疎外感、孤独感のようなのは多かれ少なかれ青年期に誰もが経験するという説もありますが、それとは全然縁がなくて楽しい青年期を過ごす人もいます。ところが自分はどこにも所属していないとか、極端な話何かの手違いで地球に生まれて来てしまった宇宙人のような気分を持っている人もいます。私も宇宙人歴長いので、幸せというものを大切に考える場合に、こういう気分がいかに大きな妨げになるかということが経験上分かります。これは何らかの任務のためにある組織に潜入するスパイと同じ気持ちなのであります。ましてや自分の所属する組織にも疑問を持ち始め、二重スパイとなった場合にはより深刻です。スパイのような気持ちでいたら、自分の居場所を早く見つけて人生楽しもうとか言われても、出来る道理がないのではないでしょうか。帰りたいとか一人になりたい気持ちが強くなるばかりです。いろんなケースがあるのでこれが生きづらさの正体だとは言いませんが、どうであれこういう気分がいつ生まれたのかを分析してみますと、家族関係などによって後天的に作られたと言うよりは、生まれつきあったとしか言えない場合の方が多いのではないかと思われます。で、こういう気分はもちろん若いうちに修正するのが一番望ましいと思います。じゃどうすればいいのか、というのはやや難しい問題です。まず、何であれスパイのような気分でいたら、何をどう頑張っても、居場所を見つけたとか人生にフィットしてるといった感覚を得ることは絶対に出来ない、という事実を徹頭徹尾理解することが第一歩になります。住みたい地域を見つけるとか、何であれ自分のスタイルを確立するというような外面を整えることはもちろん大事です。外面をすべて整えたけど幸せにならなかった人も実際にいるのですから、最終的には自分の心が決めることだ、ということはあらかじめ知っておかなければいけません。
創造性
アーティストと言うかクリエイティブな職業というのがある種もてはやされるようになって来て、そのこと自体は歓迎するべきなのかも知れませんが、クリエイティブという言葉が実際どういう意味で使われているかを考えてみますと、子供が画用紙に何描こうとか粘土で何作ろうと言う時の創造性からは、随分とかけ離れているように思われます。こういうことをテーマにすれば美術評論家に注目され易いとか、コンセプトが複雑であればあるほど高く評価されるとか、最終的にアートをお金にするための戦略を立てる能力を称して、クリエイティブと呼んでいるような印象を持ちます。芸術家を志す子供がこういう現状を見て育った場合、アートというのは中身よりも自己演出の方が大事だとか、結局お金にならなければ価値がない、といった印象を刷り込まれるのではないでしょうか。西洋美学の枠組みの中では何の意味も成さないけど、岡本太郎さんじゃないんですが「なんだこれは!?」というのが本来の創造性に近いんじゃないかと思うんですが、みなさんはどう思いますか? 良く言えば理知的、悪く言えば権謀術数という、要するに今のアート界も男性社会ということなんだろう、と個人的には思っています。何かを生み出すのも二通りあり、科学的な発明というのが一つで、もちろん私たちはその恩恵を多分に受け取っていますが、もう一つは野生的な感覚と言いますか、何を意味するとかそういう観念では片付けられない表現というのがあるんだろうと思います。
分からない
すべては考え方という意味では、スピリチュアリティも途中までは哲学だと思うんです。そして哲学は難しい学問ではないでしょうか。今振り返ってみれば、もともと言語能力や論理的思考力が普通よりも劣っている私には、難しい理論を理解できるようになることが魅力的に見えていました。だけど、本を読んでも内容があんまり頭に入って来ないんであります。分かろうと努力しても、生まれつきの能力がそんなに高くないので分からないわけです。こういうところに人生の機微が確実に存在していると思えます。哲学を何十年と研究しても結局理解できない、瞑想を何十年と続けても思うような結果が出ない、要するに一生かけて努力しても人並み程度にもならないと分かっているとしたら、それでもあなたはやりますか? やるとしたら何のため、誰のためですか? 自分の喜びのため、と答えられるなら、それは何を意味するのであれ自分の一生が一生で止まらないことを分かっている人です。すると最初から分かっていることを改めて分かろうと努力していることになり、これはとても面白い質問になり得ます。人間は分かろうとする必要はないと私は思いませんが、頭で分かることが人生の目的ではないとは思います。なぜなら、最初から分かっているからです。これもあいのほしの考え方でしかありませんが、神聖な意志というものがあり、私たちはそれを地上で顕現しようとしているのです。
家がない
心理学の夢分析の文脈で、子供の頃に最初に見たと鮮明に記憶している夢の内容が、その人の人生テーマを示唆しているというような説があるらしくて、ほんとに最初かどうかよりも、最初に見た夢は?と聞かれてパッと思い浮かぶというような意味でいいと思います。私の場合、今で言う異世界とか平行世界に迷い込んでしまって、自分の家に全然知らない人たちが住んでおり、帰る場所がなくなって近所の路上で途方に暮れている、という内容だったんです。「なるほどそのまんまだな」と思うわけです。一つは、あなたの人生はこんな風になります、という予言。もう一つは、その人生をあなたはどう生きるか、という問いです。運命と呼ぶかは別として、遺伝の循環によって人生でどんなことが起きるかはだいたい決まっていると言えるのかも知れません。その設定は人によっては変えられる可能性もあるし、ほとんどの場合あまり変えられないでしょう。だけど、その設定をどう生きるかについては自分でいくらでも変えることができるのです。あいのほしが主義主張したいことが何かあるとすれば、この一点のみです。ごく普通の反応だったら「寂しい」「むなしい」「悲しい」で終わってしまうような人生でも、まったく同じことが起きているのに「本当に幸せな人生だった」という結論に持って行くことは実際に可能です。出来事が変わらないなら同じだと言う人たちもいますが、私に言わせれば気持ちの違いは大きな違いです。スピリチュアリティの真髄は、その違いを生み出すことができるものであると思います。
心理学と宗教
心理学と宗教がお互いを補い合うというのが理想的な行き方だと思います。心というのはいわゆる物質と同じように取り扱うことはできないので、いわゆる科学的研究方法をそのまま適用することはできないわけですが、実証的に進めて行く必要があるという点では、科学もスピリチュアリティもまったく同じだと思います。反証可能性と言うそうですが、ある仮説を立てたら、それを証明する方法と共にそれに反証する方法をもあれこれ同時に考えつつ、実証的に研究することが大切だそうです。ところが心理学も宗教も理論が先行するきらいがあり、反証されかねない新しい事実を好まない傾向が、みなさんもご存じの通りあるようです。断言する根拠は?と聞くと、だいたいが「高名な先生がそう言ったから」という理由なのです。心理学から行くにしても宗教から行くにしても、自分の人生を通じて実証するという心の態度が必要ではないでしょうか。自分で体験し得ていない理論について「これはこういうことなのです!」と断言してはいけない、というのが当たり前のようで重要な態度だと思います。集合意識のようなものがある、というのが理論だとすると、自分の心もその集合意識に繋がっていることになります。集合意識の中にある特定の情報にアクセスする方法があるはずで、そういう事実を実証的に自分で体験し得てはじめて、生きた知識になるのではないでしょうか。(既にスピリチュアリティを学んでいるみなさんが)これから心理学を学び始めるなら、まず前段階としてケン・ウィルバーさんの『万物の歴史』が、西洋の学問の発展を概観するのに役立つと思います。でまず最初に、ハコミセラピーとプロセス指向心理学の基本的な手法を先に身に付けてしまうことをおすすめします。それから、ウィーン学派と言うんでしょうか、アドラーさん・フロイトさん・フランクルさんがそれぞれ顕在意識・潜在意識・霊意識に対応している、と大雑把ながら見ることができるので、三人の著作を満遍なく読みながら、心理学の知識を人生にどう生かして行きたいのか、(偉そうな言い方で申し訳ありませんが)自分の頭でよく考えて方向性を見極めるといいと思います。
価値の実現
価値の実現というのは本来、いわゆる神聖な計画が成就されるさまを表す言葉であります。ところが人間が利己的な欲望を満たす行為にもやはり価値という言葉が使われており、考えてみれば正反対の意味に同じ言葉が使われているという事情になっております。神様の意志というのはもちろん、すべてに利するという方向性でありまして、人間の考える自分一人が得をして、そのために他の誰かが損をするという商業的方向性ではないのであります。そこら辺の区別がついてないと、自然をも思いのままにコントロールできる未来型の理想社会に向かっていると信じる人間が、実は破滅に向かっていることに気づかないのは当然と言えば当然なのでしょう。人間も自然の一部ですから、利己的な人間が増えれば天災や疫病で人類全体が淘汰されるという自然現象が起きても不思議ではありません。考えてみれば当たり前のことが分からない私たちであります。子どもの頃は誰でも自我が未発達なので、みんなの幸せを願うという本心が自然と現れるのであります。いったん大人になったら最後、元の状態には二度と戻らない人が多いというのが現実ではないでしょうか。ちょっとお金ができたら全然必要のないものをたくさんコレクションしたり、自分でも馬鹿馬鹿しいと分かっているのにやめられません。それだけに、人類が抱えている問題は実は大したものではないとも言えるのではないでしょうか。カラスが光り物を集めているという程度の話です。
人生の意味
人生の意味とは何ぞや、とは伝統的な質問ではあるんですが、結論から言ってしまえば、考えていても分からない、ということだろうと思います。とんでもなく頭の良い人たちが寄って集って考え出した哲学が、世界平和の実現にはほとんどまったく役に立たなかったと言えるでしょう。有名な心理学者(フランクル)さんが、私たちが生きる意味を問うのではなく、人生が私たちに何を求めているのかという問いに答えるべきだ(『夜と霧』)、というようなことをおっしゃいましたが、あいのほしもまったく同じ意見であります。どういう訳かあらゆる経験に意味を見出そうとする精神的傾向を持っている私たちですが、私が思うに、実際に意味を汲み取ろうとしているのは神様の方です。新しい理解が生まれるのは必ず新しい経験をした後です。言葉を駆使して巧みに哲学しても、経験の裏打ちがなければ新しい意味は形成されません。堂々巡りの議論になってしまっているわけです。人生の意味とは何かと問いかけて来るスピリチュアルティーチャーさんがいたら慎重になるべきです。あるいは人生の意味はこうですとか、意味はないですといった哲学には慎重になるべきだと思います。そうじゃなくて、人生からの問いに生き方で答えている人たちが清々しいな、と勝手ながら思ってます。
夢と方法
夢という言葉を私たちがどういう意味で使っているのか考えてみますと、要するに自分の好きな職業に就く自由と、自分の好きなパートナーと結婚する自由ということじゃなかったかと思うんです。自分の好きな場所に住む自由、場合によっては外国に移り住む自由ということも考えられますが、これは二義的だと思います。人間の歴史の中で、たったこれだけの自由が未だに得られないのが現実ではないでしょうか。何らかの理由で自由が得られない状況下では、何か奇跡的なことが起こると妄想するようになる、という心理現象があるそうです。つまり夢はあっても方法がない場合にです。これはまさにスピリチュアル業界の現状にもよく当て嵌まるのではないでしょうか。理想の恋人をゲットするとか、楽して金持ちなるといった夢があり、それを叶える方法というのが、何であれ奇跡的なことが起きることをひたすら期待するような内容だったりします。個人的にけっこう恐ろしいことだと思っています。絶対にそうだとは言いませんが、一歩一歩着実に積み重ねて行くような方法なしでは、すべてが一気に解決するに違いないという妄想状態が長く続くことになってしまいます。悟りとか光明というのは全然別次元の話ですが、私たちの実人生に関わることは、小さな達成を一つ一つ味わって行くような具体的な方法が、当たり前の話ですが絶対に必要なはずです。願望実現に関する教えを聞く時には、夢と具体的な方法が必ずセットになっているかどうかに注意する現実感覚を忘れないようにしたいものです。
欠点を直す
誰にでも欠点ってあると思うんです。で、やっぱ心ある人だったら自分の欠点を直したい、直そうって考えるじゃないですか。スピリチュアル云々に関係なくそういう話は出るし、依存症とか深刻な問題もいろいろあると思うんです。そこにどう向き合うかで精神世界の真価が問われると言っても過言ではないでしょう。まず、そもそも問題というものはない、進歩や成長を目指す意味もない、ただあるがままで完璧なんだとする哲学があります。これは極端に自己否定的な人には(暫定的に)有効である可能性があります。ただ、あるがままを認めれば人生すべて思い通りに行くというような、要するに人間の願望を投影した形に捩じ曲げている教えが多いようです。自分の実際生活において極めて都合の悪いことが起きても心を乱されない、というのが本来のあるがままの教えであります。で次に、自分の性格の歪みを矯正するためのアプローチが各種あるわけですが、実際問題自分の性格を変えるというのはとても難しいことであります。自分に欠点があることに気づくというのが第一歩ですが、気づけたということ自体とても素晴らしいことです。他人に指摘されて「ああそうかね」と思っているのは気づけた状態ではなく、その欠点が人生すべてに影響して来たのがハッキリ見えるという状態が、ほんとに気づけたということであります。で、自分はこんなに悪い人間だったんだということが一旦分かったら、いつまでもクヨクヨ考えずに、意志の強い人だったら自分で直す努力をする、自分にそこまでの力はないと思えば神様に委ねる、という二通りの方法があります。意志の力で直せるのはかなりの少数派と言えましょうが、自己分析が充分に深い人だったら可能であります。そこまで出来ない私たちは、自分を責めずに気づきを深めて行くことで、自然に直って行くんだと信じるのが一番の近道だと思います。
楽しいだけじゃ物足りない
風に飛ばされるちり紙をひたすら追い掛けているというのが、これまでの私の人生の要約であります。追い掛けるそばからどんどん飛ばされるちり紙ですが、仮に捕まえられたとしても、そこに何かいいことが書かれているなんてことはあり得ません。そんなこと分かり切っているはずなのに、まだ追い掛けているわけです。人生のスピリチュアルな意義を追っているつもりなんですが、実のところ何をどうすればいいのかまるで分かっていないんです。突き詰めますと、自分は人とは違って特別だと思いたい性格が原因であったと思います。天界だの神界だのと呼ばれる別世界に自分の言動が影響を与えているみたいな、ニューエイジの大げさなコスモロジーに惹かれたのはそういう訳だったと思います。大げさであればあるほど、自分が特別になったような気分に浸れるからであります。自分が特別な役割を果たしていると真剣に思い込んで生きている(私のような)人が、実際にはまったく誰の役にも立っていないことはあり得ます。スピリチュアルなんてまったく考えもしないような人が明るく楽しく生きている方が、よっぽど多くの人に良い影響を与えているというのが事実ではないでしょうか。自分がスピリチュアルな世界に貢献していると思えないと物足りない理由は何ですか? ただ単に明るく楽しく生きているだけではダメですか? ちり紙を追いかけるのをやめて立ち止まったらどうなるのか、と考えたらやめられません。「12ステップのプログラム」じゃないんですが、人間の知性では前もって何も分からないと理解する必要があります。後は野となれ山となれです。スピリチュアルな世界観に頼らずに明るく楽しく生きていられるとしたら、実際とても素晴らしいことではないでしょうか。
縦と横
縦横の調和という話は、エソテリックな教えの中には必ず出て来る概念です。縦と言うのは、動物としての人間が生存競争をしているという個別意識を下位としますと、その生存を正に可能ならしめている形而上的な霊意識が上位にあるという考え方です。横と言うのは、私たちの現実生活をより良く豊かなものにして行こうという考え方です。言葉による創造の言い伝えの通り、言葉による表現というのは基本的に横方向の働きであり、それゆえ学問というのは基本的に現実生活をより良く豊かにする目的に結び付いていると思います。縦方向というのは意識の焦点が上に移動することであり、人間の言葉では表現し難いものだと言えます。伝統的には問答無用の瞑想の技法が縦の教えです。理想を言えば、意識の焦点が上昇すると、私たちがここで何をしようとしているのか分かるようになるのです。で、縦方向の教えと横方向の教えが調和するのが望ましいという理念は昔からあったのですが、実際にはどちらかに偏った教えが多く、本当に両者が調和した教えが具体化したのはかなり最近のことだと思います。縦に偏ると人間生活を否定する形となり、横に偏ると自分で創造するのではなく他人から奪い取る魔術の形となったのであります。その結果、縦方向で行っても横方向で行っても人間性はほとんど向上しなかったように思われます。家庭や仕事を通じて自ら美の世界を想い描き創造しつつ、神様に心を向けることが縦横の調和する具体的な生き方です。私自身は極端に縦方向の教えと極端に横方向の教えを両方学んだんですが、あいのほしでは縦横の調和する教え、少なくとも一方に極端に偏っていない教えのみをお勧めしております。人間性が磨き出され輝いて行くことが、私たちが生きている目的だと信じるからなんであります。
気持ちを切り換える
上手に気持ちの切り換えが出来るようになったら、精神世界において大事な技術が身に付いたと言って差し支えないでしょう。難しい話は抜きにして、常に爽快かつ気楽な気持ちでいられたらとても素晴らしいと思います。スピリチュアルを仕事にしている人でも、もし人生がどん詰まった場合には暗い気持ちになる、というのが正直なところではないでしょうか。一つには、視野が狭くなるほど気持ちの切り換えがしづらくなるというのが事実であります。ただでさえ狭いスピリチュアル業界の中で、しかも特定の分野にこだわっていたら、そこに解決策を見出せなければ人生終わりになってしまいます。逆に、視野が広がれば広がるほど気持ちを切り換え易くなるんであります。もちろん、人のあんまりいない自然の良い所へ旅行したりするのもいい方法です。もう一つ、自分が全然知らない業界の人に触れるというのが有効です。ただ闇雲に触れるということじゃなくて、どんな業界にも必ず、人として向上しよう、成長しようという気概を持って仕事をしている人がいます。ほとんどの場合、その業界で一流と呼ばれていると思います。そういう人の話は勉強になるし、与えられた環境の中でベストを尽くすという共通点が見えて来ると思います。広く浅く幅広い知識を身に付けるのは大事なことです。それも百科事典みたいにいろんなことを暗記してるという風ではなくて、実地に触れて経験して行くことが必要です。そして知ったことをすべて生かす方向に持って行かなければ意味がありません。いろんな知識があればあるほど、いろんな人の気持ちを理解できることになり、そうなって初めて「生きた知識」になるのです。スピリチュアル業界で仕事をする人にとって大切な姿勢だと思います。
こだわりすぎ
スピリチュアリティの本質は言葉や概念では表現できない、とはよく言われる話です。だからスピリチュアルティーチャーは自身の生き方でそれを示す必要がある、というのは考えてみれば当たり前の話ではないでしょうか。しかしながらみなさんもご存じの通り、あんまりそうなっていないのが現実でありましょう。人として尊敬できるとか、ああいう人になりたいと思わせてくれる存在こそ、本来のスピリチュアルティーチャーであるはずです。言葉にすることで初めて理解できるんですから、その点で言葉というのも大事なんですが、概念そのものに囚われてしまった時の狂信性がいかに恐ろしいものであるか、歴史が証明しております。元来スピリチュアルはあんまり軽々しく扱ってはいけないもので、私も含めて素人がすぐに教師まがいの発信をしてしまう風潮はけっこう危険だと思います(私はスピリチュアル教育を語る素人といったところです)。スピリチュアルは証明できないから言ったもん勝ちという考えがありますが、間違っていると思います。周囲の人たちの人生を現実的に好転できるという事実をもって、教師の資格をおのずから証明すべきです。それが出来ないのなら、スピリチュアル評論家とかスピリチュアル解説者とかの肩書きを使った方が誠実ではないでしょうか。逆に言えば、自分を評論家とか解説者と割り切って活動している人が、スピリチュアル業界にはほとんどいないのを不思議に思います。
うまく行かない人生の意義
何をやってもうまく行かない人というのはいるものですが、うまく行かないの意味は「お金にならないことをやっている」のとほぼ同義なのではないでしょうか。一般的には、お金にならなければどんなことも成功とは見做されません。「昔自分を虐待した人を許す気持ちになれました」とか「依存症を乗り越えられました」とか「孤独を克服できました」とか言っても、変な人と思われるのが関の山です。それよかSNSでフォロワーが何万人いるとかの方が評価されると思います。だけど、スピリチュアルな観点からすると、誰からもまったく評価されない人が、実は集合意識に革命的な影響を及ぼしている場合もあるのです。いわゆる業が浄まって行く方向に使われるなら、ある種の心理療法やヒーリングはすごく重要だと言えます。集合的な業を消す役割を与えられている人生というのがありますが、世間からはまったく評価されないそうした功績を正当に評価してあげるのも、スピリチュアルティーチャーの本来の役割の一つだと考えます。誰かに掛けてもらった一言で人生の見方がガラッと変わることはあるものです。評価されるべきことが評価されることは大事なんじゃないかと思うんであります。そういう意味でニューエイジの甘言もいいこと言ってると思える部分があるのです。そういう言葉がいわゆる幼児的万能感や自己愛性のプライドを助長するんじゃなくて、勇気を奮い立たせる方に働いたら素晴らしいと思います。
理屈じゃない
言葉にすることで初めて理解できる、言葉にすることができれば理解できている証拠である、というのは人間の知性の枠内での話です。人間社会のすべての問題の根本原因は、自分のお金、自分の力、自分の実績などなどと言う所有感覚であるという洞察は、それこそ何千年も前から為されております。それなのに一向に問題が解決しないのは、言葉にしたことで分かったつもりになっているからだと言えましょう。そもそもこういう洞察が為されるには、人間の集合意識という重力の圏外に出ることが必要です。集合意識の外側に出るにはとても勇気が必要で、それを為し得た覚者さんは常に、理論よりも実践を中心に説いたものです。原因の洞察とその解決策が同時に与えられていたわけで、実践してこそ本物の理解が得られるものです。だけど理屈の部分だけを聞いて分かったつもりになる傾向が私たちにはあります。理屈よりも行動を重視した覚者さんはいつも人気がありません。所有感覚が強くなると人間社会はどんどん凶悪化して来るし、所有感覚が薄くなればなるほど楽園化して行く、言葉にすればとても簡単ではないでしょうか。でも、分かったつもりで全然分かっていないのが怖いところなのです。「自分さえ良ければいい」という考えは勘違いであることが本当に痛感されれば、それ以降の生き方が変わって来るのが当然ではないでしょうか。生き方が変わったという事実だけが、本当に理解したことの証拠になるのです。
一人じゃない
人間は誰でも実は一人じゃない、つまり守護霊や守護天使と呼ばれる存在がいつも傍にいる、という考えがありまして、あいのほしはもちろん肯定派なんであります。そのことが本当に分かれば、私たちは二度と孤独というものを感じないで済むはずなのです。私自身がさんざん苦労して来たポイントなので、あまり厳しいことを言いたくはありません。一生一人を運命づけられていることを現実的に悟ってから、かなり寂しく思った時期もあったことを、言いたくはありませんが認めます。人間同士の愛というのはどんなに高く見積もっても子供の(未熟な)恋愛であって、決して(完全に)満たされるということはありません。それなのに、スピリチュアルティーチャーさんを含め、パートナー探しをやめられないのが実際ではないでしょうか。ご守護様がいるいないがただの哲学的議論になっており、いると思っていてもそう感じられないのが問題なのです。人間は一人じゃないのは本当なのですが、そう感じられなければ何の役にも立たない一つのアイデアに過ぎません。じゃどうすればいいのでしょうか。小さい子供が言われたことを何でも信じるみたいに、ご守護様はいると信じないといけません。するといつかはご守護様の方から手を延ばしてくれることは確実です。想像の産物と言う人もいるでしょうが、もしそれで孤独と永久にオサラバできるんであれば安いもんじゃないでしょうか。根本的に孤独を感じない二人が一緒になれば、明らかに関係の質が別次元のものになるんであります。それこそが大人の恋愛と言わねばなりません。
現実を見る
精神世界では、最終的に成功や完成に至るのは多くて百万人に一人くらいです、というような話が大真面目になされます。百万分の一以下と言ったら、科学的には偶然とか無関係と結論されてもおかしくない確率ではないかと思うんですが、それを誰もオカシイと言わないんであります。方法論を提唱するなら、少なくとも二割以上の成功率を実証して頂きたいものです。スピリチュアルに限らず、あまりに遠くにある目標を見ていますと、目の前にある現実が目に入らなくなってしまい、何も手に付かなくなってしまう傾向が私たちにはあります。ましてや雲を掴むようなスピリチュアルな話は、現実から目を背ける理由になるというのは、昔からよく言われていることであります。まったく実績のない新しい方法論や、最後どうなるのかよく分からない哲学が、この業界には溢れております。人生どうなったって構わないという人が、そうしたものに賭けてみるというのもアリですが、もちろんそれを説いているティーチャーさんが責任を取ってくれることはありません。選んだ責任は全部自分という覚悟が必要であります。無駄に終わってもそれはそれで面白いと、それくらい軽い気持ちでいられるならいいだろうと思います。実際、精神世界というのは一種の賭けというのが事実なんだろうと思うんであります。命のすべてを賭けなければ成功は難しい。現実を見るというのは難しいことです。そんなワケであいのほしでは、一気に高みを目指すよりも一歩一歩着実に積み重ねて行くような方針に、ある種の転向をしたんであります。
工夫
私がまだ二十代の頃に「人生の目的は、愛がないように見えるこの世界に愛を見つけることだ」とどっかで読んだと記憶しているんですが、今もってまったく正しいと思います。どこに見つけるって自分の中に見つけるんだと思うんです。お金や恋愛は幸せとは全然関係ないというのが事実なんですが、それを本当に理解すると言うか納得しない限り、自分の外側に愛を探すことを止められません。外側を探すのを止めましょうと言っているのではなく、外側に探すのが一番目に来るのが人間として当たり前だ、というのが事実です。もちろんパートナーや家庭に恵まれるのが幸せだ、というのは人間として当たり前の事実です。だけど、それと同時に幸せは外側の境涯に関わらず心が決めることだ、というのがもう一段高いところにある事実なのであります。そういう意味で、いくら努力しても経済にも愛情にも恵まれなかった人はチャンスです。何もないのにお腹の底から暖かい気持ち、「ありがたい」という気持ちを持っていられるようになったら、この世で一番得難い宝を得られたと言っていいでしょう。要するに幸せということです。何もなくても心が満たされて行く方法を、自分自身の心の性質に照らし合わせて工夫してやって行く必要があります。待っていても誰かがやってくれることはありません。他の誰かが説いている方法が自分にも合うとは限りません。ある方法が自分に合っているなら、半年も経てば見る見る成果が上がって来るのが当たり前で、そうじゃないならその方法は自分に合っていないということになるでしょう。その方法で効果があったという実証者が沢山いて、今も増え続けているというのなら、自分の実践に真剣味が足りないとか、そもそもやり方を間違って理解している場合もあり得ます。
どうしたらいいんだろう
スピリチュアル業界の門を叩くことになる人には、何かしら具体的な理由があるのが普通だろうと思います。この病気をどうやったら治せるだろうとか、親子関係で悩んでいるとか、「どうしたらいいんだろう」というところから入るのではないでしょうか。御多分に洩れず私自身もそうでした。で、もちろんあらゆる問題を解決してあげますよ、というサービスがこの業界には溢れているわけです。ヒーラーさんなりティーチャーさんなりにお金を払って、小一時間お話しすればすべて解決するんであれば、こんなに楽なことはありません。始めは誰でもそういう期待を持つのが当たり前であります。あいのほしでは問題が解決するしないに関わらず、自分ができると思うことはすべてやるといい、という方針でお話ししています。するとやがて「どうしたらいいんだろう」という気持ちは消えて行くんであります。そこまではともかく自分で努力するということです。理想を言えば、そうこうするうちに基本が身に付いて来るからなんであります。科学の世界と一緒で、応用分野というのは何も知らなくてもとりあえず入っては行き易いんですが、不測の事態には手も足も出ないということがあります。基礎がある人は、何をどうすればいいのか考えるためのツールを持っていることになります。子供の頃にヴィヴェーカーナンダさんの全集とかハズラト・イナーヤト・ハーンさんの全集とかを読まされたら、その時にはそれが何の役に立つのかまったく分かりゃしません。だけど大人になる頃には、知らず知らずのうちにこれ以上ない基礎が出来上がっていて、何が起きてもどう対処したらいいのか自分で分かるようになっているものです。どうせなら、面倒臭くて時間が掛かるように見える基礎を積むことが、実は一番無駄のない行き方だと思うんですがいかがでしょうか。兎と亀じゃないんですが、私の経験から言えば、簡単最新を謳う行き方が一番遠回りになる場合もあるかも知れません。
捧げる
よく「悟り澄ましたような顔して」なんていう表現が使われますが、実際精神世界には、乾いた表情で人生を傍観するような向きもあるわけです。ある種のティーチャーさんにとってはそれで構わないんですが、もし何かが欠けていると言うならば、情熱が欠けていると言えるのではないでしょうか。好きな仕事とか好きな人に身も心も魂もすべて捧げたいと思うのは、人間のほんとの心情だと思うんです。自分の人生すべてを捧げる対象を見つけられた人は幸せだ、と一般的にも言われていますが、私もそう思うんであります。なぜ何かに自分を捧げなければいけないのか、と問われれば哲学的な議論になってしまいますが、本来の「捧げる」の意味は、捧げたいから捧げるんだとしか言いようがありません。情熱というのはそういうもんではないでしょうか。極めれば自己利益とか自己保存の本能というのが消えて行く方向にあるわけです。ところが何かいいことを期待して捧げるフリをすることが往往にしてあります。好きな人にすべてを捧げ尽くして何も見返りを求めない、決して後悔しないという生き方は、よっぽど相手を好きじゃないと出来ないのかも知れません。でも、出来たらすごいのです。策略や計算を心が完全に捨てることができるなら、それ自体が本来のスピリチュアルな道に適います。難しい経典をいちいち読まなくてもいいくらいの境地です。
得られない
物質至上主義が行き過ぎてしまっているということは、この文化の特徴として言われ続けているのではないでしょうか。物質を蓄積して行くだけでは本当の幸せは得られない、ということに気づく機会は誰にでも必ず与えられます。ところが当の私たち自身が、そんな風に考えないように努力しているのです。メディアのせいとか誰のせいということじゃありません。私たちは五官に感じられる人生を楽しんでいたいのです。それじゃ本当の幸せは得られないなんてことは、実のところ誰もが心のどこかで分かっているんであります。救われたいなどと全然思っちゃいない人を、救おうと考えたり助けようとしたりするのは、たとえ純粋な善意からだったとしても、おせっかいどころか良くない行為ということになるのです。人類が救われるために覚者の方々が残した痕跡は十二分に保存されております。今さら何かを付け加える必要はありません。まして私ごときが誰かを救おうなどと考えるとしたら、傲慢を通り越して笑止という話になるのです。人類の集合意識が救われることを選ぶなら、それはすぐに与えられるほどに道は整っております。なので何か問題があるように考えない方がいいし、現に問題はないのであります。私個人のことを言えば、世の中のためになると自分で思うことを、結果を期待せずにやることがすべてで、何かを伝えようとか難しいことを考えるのは無駄なことです。一般の私たちにとってスピリチュアリティで大切なことは、語るのではなく行動で見せて行くことだと思います。
過去と未来
癒しやヒーリングに興味がある人というのは、ややもすれば過去の解釈・再解釈に囚われがちになって、文字通り後ろ向きな人生になってしまう傾向が、私の経験から言えばあるように思われます。究極的に言えば過去を癒すことがそのまま未来になる訳なのですが、実質的には何の変化もしない頭の体操になってしまうんであります。未来に飛び込んで行くというのは、まったく経験したことがない故に想像したり予め感じたりできないということであって、科学的に言えば今まで全然使ったことのない脳の領域を使って行くことです。口で言うとそういう言葉になりますが、実際どうやるのかと言いますと、いわゆるクンダリニーを活性化することによってのみ、私たちは未知の世界に飛び込んで行けるのであります。いくら考えたって仕方がありません。今までやったことのないことをやればいいという単純な話でもなく、過去を癒しつつ与えられた天命を果たすべく未来に進んで行く、という生き方になります。今ということを強調する教えがありますが、私が思うに、大概は今と言いつつ後ろ向きになっているようです。未知に直面しているという事実が、本来の今の意味するところです。想像することすらできないのが未来だとしたら、じゃあ一体どうすれば行けるのかというのはすごく難しく思えるわけですが、心をきれいに磨いておけば直接知として勝手に入って来るということなんであります。そういう仕組みになっているとしか言いようがありません。
信念体系のワーク
自分が事実として受け入れている内的現実の総体のことを、精神世界では信念体系と呼んだりしています。自分が信じていることを変えれば現実を変えられるんだ、という考え方が生まれており、その具体的な方法については諸説あるわけです。自分が何を信じているのか自分で認識する必要がある、というのが最初のステップになります。信念体系というのは基本的に潜んでいて、全体像をいきなり掴むことは難しいんですが、常日頃ちょくちょく思う思い方の癖、何かの出来事への感情的な反応、慢性的な体の症状などとして表に現れているものなのです。そっから糸を手繰って自分はこんな風に信じているんだなと認識するに至れば、それを変えるという選択肢が出来るわけなのです。表面的にまったく現れていない思いというものもあり、特定の出来事をきっかけに、自分の中にあるとも思っていなかった感情が出て驚くということもあります。出て来たときが浄化のチャンス、と有り難く思えたら素晴らしいのであります。では自分が固く信じて来た思いの内容を変えたいと決めた場合、どうしたらいいのでしょうか。世界平和の祈りや安定打坐の中に消して行くことをお勧めしています。心をきれいに磨いて行くことが現時点で一番重要と考えておりまして、それは普通一夜にして起こるものではなく、こつこつ地道に成し遂げて行くものであると感じております。
軽い気持ち
どの道を行くにしても、成功の秘訣は何ですかと聞かれたら「軽い気持ちで取り組むのがいいんですよ」という答えになるでしょう。言葉にすると簡単に聞こえるものの、やってみたら難しいということがよくありますが、これもその一つだと思います。それはあたかもボクシングを真剣にやる人が、小さい子供が遊びに興じるような気持ちで自分の限界に挑戦して行くようなものです。人生という戦いの中で、結果を期待せずそれ自体のために楽しんで行けたら、何をするんであれ必ず成功できると思います。スピリチュアルだってまったく同じです。人生どんなことがあっても常に軽い気持ちでいられたら、それ自体がすごい達成だと言えるでしょう。重大だと思っている教えや哲学へのこだわりや、ナニナニの探究をしていますというような深刻さを落とすことが、確かに第一歩だと言えると思います。ましてや自分の物になってもいないような段階で(間違った使命感から)教えを広めようとすることは良くありません。だけど私も含めてそういうことがよくあります。みんな先生になりたがり、生徒にはなりたがらないとよく言われます。生徒のイメージが悪いからですが、軽い気持ちでいられる人は生徒の立場に甘んじていられるという言い方もできます。何を聞いても新鮮に聞こえるからなんであります。毎日同じ行をしていても、退屈知らずで毎回新鮮に感じられるようなら、とてもうまくできていると言っていいでしょう。
瞑想の道
どの道を行っても最終的には瞑想に集約されるという訳で、王道というような意味でラージャ・ヨーガと呼ばれているそうです。瞑想のようなものが自然に起こるようになる、という言い方がより正確かも知れません。心というものは何かを強く求めているうちは自制することが出来ません。抑圧して潜在意識内に封じ込めようとしても、別な経路で爆発してしまうわけです。なのでやりたいことは気が済むまでやり抜くという一応の方法を採るわけであります。で、飽きてしまうかより良い何かを見つけたりすると、心は掴んでいるものを放すということが自然に起こります。心の停止とまでは行きませんが、静かになるとか落ち着くという瞑想状態が期せずして起きるんであります。感覚を断ち切るということは文字通り絶命を意味していて、普通そこまで行くことありませんが、感覚に心を捕らわれなくさせるというのが、瞑想が深くなって行くプロセスであります。特別な才能がなくても誰でもここまでは来られるのです。誰でも心の平安を得られるのであります。ただ、潜在意識に溜まっているものの大小は個人によりますので、そこの難しさだけがあるのです。七〜八時間平気で瞑想していられる、それが苦になるどころか楽しくて仕方がないという人は、他の道には脇目も振らずに瞑想の道を行くのが合っています。で、悟りや光明というのは私たちの努力で到達できる境地の遥か彼方にあるものであり、人間の側に選択肢がある訳でもありません。基本的に望んで得られるようなシロモノではないので、心に興味を持たせないようにするのが良いと、あいのほしではおすすめしています。
仕事の道
行動や行為を通じて神に至る仕事の道というのがありまして、インドではカルマ・ヨーガと呼ばれています。成功や報酬を期待することなく、世のため人のためになる仕事を全力でやる態度というのは、実は神様の気持ちとまったく一緒なので、知らず知らずのうちに神様と一体になってしまうという方法なのであります。自分を犠牲にしろという意味に聞こえてしまい兼ねないんですが、そうではなく、自分も他人も同じように大切にするのが神様の気持ちなので、自己犠牲的な態度というのはカルマ・ヨーガからはやや離れてしまいます。ここで、例えば年収が一千万円あったとして、それをどう配分して使うのが正しいのか、という実際的な問題が持ち上がります。自分と家族のためにそこから三百万円使うのは多いのでのでしょうか、少ないのでしょうか。一千万円をまるまる放棄するという考えもありますが、そうすると今度は自分が誰かに養ってもらわない限り生きていられないことになり、仕事の道としては正しくありません(出家している場合は別)。では、自分の生活費を差し引いた残りのお金をどう使ったらいいのでしょうか。困っている親戚を助けるのがいいでしょうか。慈善団体に寄付するのがいいでしょうか。それともどこかの事業に投資するのがいいでしょうか。神様の視点を持ち合わせていない限り、何が正しくて何が正しくないのか判断するのが難しいのではないでしょうか。ですがそこは常識的な判断でいいんであります。家族を助けるのはいいことですが、いくら家族を喜ばせるためであっても、宝石をやたらに集めたり別荘をいくつも持ったりするのは、カルマ・ヨーガの観点ではよくありません。自分の知り合いや地域のために、できる範囲でお金を使うのはいいことです。自分が好きで得意なことを、一番世の中のためになると思う方向で生かして行くのはいいことです。で、その結果を期待しちゃいけないということなんですが、そこが一番難しいところで、私たちは大概どんなに頑張っても、ちょっとは期待してしまう気持ちを消せません。それができる人だけが仕事の道で完成するわけでありまして、他の道を行った人と比べて、人々を感化し育てる力がとても強いのが特徴です。世の中を変えて行く力になるわけです。
知識の道
若いうちにしか出来ない、と言うと異論が出るかも知れませんが、やる気とエネルギーが必要だからこそ、若い頃に取り組むべきなのが知識の道、インド哲学で言うジニャーナ・ヨーガであります。これは私が思うに、どうしても知りたいと思うことを研究し尽くし、どうしてもやりたいと思うことを気が済むまでやり尽くすことによって、結果的に神に至る方法であります。「私とは何か」というのが有名な問いですが、これを公案のように考え続ければいいわけじゃなく(それが唯一知りたいことである場合は別)、私が思うに、自分の中にある疑問を虱潰しに解いて行く必要があります。疑問が多ければ多いほど一生懸命学問しないといけませんが、その度合いは人によります。気力がなくなって中途半端で終わってしまうのを、こだわりが取れたからだと言い訳してはいけません。知的な探究だけじゃなくて、海外旅行のようなことも含めて経験してみたいと強く思ったことは実際にやらないといけません。気力がなくなって何となく満足した気持ちになれば終わりということではないのです。なので十代二十代、せいぜい三十代までに集中して行う必要があるわけです。四十代以降になると、社会的な条件や個人的な理由で実行が困難になるのは明らかなことだからです。知識の道は、いわゆる知的好奇心、知りたいという気持ちが人一倍強い人に向いています。もともと知的な関心が薄い人、ものごとを知りたいとあんまり思わない人には合いません。ただ、教養としてジニャーナ・ヨーガがどういうものなのかを知っておくことは誰にでもお勧めできます。教養があるのとないのとでは、長い目で見るとやっぱり差が出て来ます。カジュアル過ぎる本だと全然違う方向に誤解してしまう可能性があるので、ここはヴィヴェーカーナンダさんがお書きになったものを読むのが一番適切だろうと思います。すらすら読める類いの本ではありませんが、読んだら読んだだけのものが必ずあります。
信愛の道
インドに信愛の道と言うかバクティ・ヨーガというのがあって、これは神の属性を多く顕している人を信仰することによって神に至る方法のことを言います。キリスト教では本質的にこの道を辿ります。ヒンドゥー教は信仰の対象になっている神様がいっぱいいるので、日本人は八百万の神と同じような意味での多神教なんだろうと誤解してしまいがちなんですが、ヒンドゥー教では神の化身をバクティ(信愛)の対象にしていると理解するのが正しいと思います。カトリックでお気に入りの守護聖人を信仰したりするのは、日本人としてはご利益目的のお守りとまったく同じか似たようなもんだろうと解釈しているフシがありますが、守護聖人もまたバクティを捧げる対象として置かれていると理解するのが正しいでしょう(私たちとは歴史が違っており、それゆえ遺伝が違います)。何も知らない私ですから間違っているかも知れないですが、歴史的に見て日本にバクティが現れたことはなかったように思います。少なくとも大きな流れになったことはなかったようです。だからこそ、インド・ヨーロッパ語族の宗教文化の中にある信仰を、日本人は一種の思想や哲学と捉えてしまうのであります。信仰というのは考えではなく生き方であって、バクティとは命を捧げることです。この経験が欠如しているために、日本人はこの分野で大いに遅れを取っているのです。神の化身を信仰するのと、ロックスターや映画俳優を熱烈に信奉するのと、どこが違うのかと言いますと、大衆文化的なアイコンは楽しさや狭い意味での自由を象徴しているのに対し、化身というのは誠実さ、美しさ、調和というような性質を顕現する完全な人間であると言えます。神に心を向けることが目的のすべてなので、信仰の対象が例えば、歴史的事実がはっきりしない伝説的な人物のイメージであっても構わないんであります。手掛かりの多い最近の人物である方がやり易いと言えますが、自分が心の底から尊敬し信頼できる人を選ぶ必要があります(信仰は自発的なものであって、押し付けたり押し付けられたりするものであってはいけません)。いろいろ調べてほんのちょっとでも疑いが残る人物は、バクティの対象として無論ふさわしくありません。そのような人を誰も見つけられないなら、信愛の道は自分に合っていないと結論して良いでしょう。他にもいくつか道はあり、特に有名なものでは知識の道(ジニャーナ・ヨーガ)があります。
広い世界
若い頃にある先生から「広い世界がある」と教わったんです。ブルジョワ的な世界を毛嫌いする人が案外多いようですが、邸宅の内装に使われる調度品とか一流の宝飾品などを、変な先入観なしになるべく多く見るようにして、美的感覚を養うのがいいのです。卵が先か鶏が先か、富裕層には心の豊かな人が多いというのは一つの事実であります。教養が幅広いほど楽しみも増えるからであります。それと同じように、精神世界にも広い世界、もっと言えばより良い世界が確実に存在しています。ある一つの分野を究極とし、他のことはよく知りもしないのに全否定するスピリチュアルティーチャーさんがたまにいらっしゃいますが、知らないとは恐ろしいことだと思います。心が成長し、より繊細で美しいものに触れられるようになると、その分だけより崇高な教えがあることに気が付くようになります。で、それまで学んで来た教えを全部手放すということも起こり得ます。より良いものを認識したがために、それまでのものに取って代わるわけです。心が純化されて行くのが正しい方向だと思います。よその組織がいいとか悪いとか、否定性や競争意識のようなものは自然に落ちて行くんであります。一つの見方にこだわらず、いろんな本を読んで学ぼうという姿勢が大事なんじゃないかと思うんです。それで最終的に、自分に一番合っていると感じるものを選ぶといいと思います。
修行の必要性
修行とか修養とかいった考え方は、何でも簡単に手に入ることが求められる今現在のスピリチュアリティの中では、何だか厳しく古臭いものと捉えられがちだと思います。確かに、あくまで私個人の意見ですが、ある種の伝統的な苦行というのは、心身を痛めつけることによって幻覚を見ることが目的であった、と今となっては言えるものです。神秘体験と霊性の自覚というのは多くの場合似て非なるものであって、それはその修行をやっている人を見れば区別が付くものです。神秘体験や霊能力を興味の対象にしている場合、一般常識からかけ離れた言動をして、どことなく品がない印象を与える人になるものです(そんなようなティーチャーさんや団体は要注意です)。伝統的に「魔境」と呼ばれている状態です。じゃ正しい修行とは何なのかと言いますと、私が思うに、心をきれいにすることがすべてです。離欲と言うと哲学的に聞こえてしまいますが、要するに五歳くらいの子供の純粋さということです。すべてを捨てるとなるともちろん人間は生きて行けませんが、そうではなくて、大人のような欲望や策略が心から離れている状態を言うんであります。修行の方向性を間違えてしまうなら、いろんな努力は無駄に終わってしまうので、よくよく気を付けなければいけません。で、子供のように素直で純粋な心になれたらそれが悟りなのかと言ったら、もちろんそうではありません。そこまでが準備段階であって、最後の橋渡しのようなものが必要になります。でも、準備が出来ていない限り橋渡しをすることは無理なのです。なので、人それぞれ心をきれいにするための色々な修行が必要になるというわけです。
お手本
本で読んだり話を聞いたりするのと、実際に経験するのとでは、大きな隔たりがある場合があります。スピリチュアル業界では、いわゆる悟りや光明といったものを「何でもない普通のもの」と表現するティーチャーさんもいらっしゃるように聞きますが、私が思うにどうってことないどころか、それがどういうものかもし事前に知ることができたとしたら、すべてを犠牲にしてでも得たいと自然に思えるほどの宝なのであります。私たちが見て知っているものからでは想像もつかないようなシロモノであり、事実想像できないわけです。だから何でもないものという話になってしまうんだと思います。私が思うに、生身のお手本が絶対に必要だと思います。本物の覚者というのは想像を遥かに超えるような素晴らしい存在である、とそのような人物に出会えた人は口を揃えて言うでしょう。せっかく出会えても覚者と気づかず、くだらない人物と思って通り過ぎてしまう人も多くいます。ちょっと関われるだけでも大チャンスなのに、まして直接指導を受けられる機会はまさに千載一遇と言えるものでしょう。だけど、それで悟りが開けるわけでもないのです。多くの場合、疑いの気持ちや古い信念が覆いとなり、それを取り除かない限り進展がありません。せっかくの覚者とのご縁を無駄にしてしまうのは往往にしてあることです。疑うことを知らない子供のような気持ちにならない限りダメなんであります。これは始めから疑うなという意味ではなくて、まったくその反対に、自分の中にある疑いに一つ一つぶつかって解決して行かなくてはならないという意味です。ですから多くの場合長い時間がかかって当然であります。覚者とのご縁があってこれなんですから、何もない私たちはどうすればいいんでしょうか。今の時代、覚者を探して歩くのは危険なことでもあります。やはり、精神世界云々に関わらず、心のきれいな人や正しく生きようと努力している人と交流することから始めるのが良いだろうと思います。
居場所
自分の居場所を見つけるとか探すといったことは、日常会話でよく聞かれる話です。家を買うとか建てるとかいった時に、終の棲家という表現もよく聞かれます。そんな風に私たちはいつも落ち着く先を探してるようなとこがありますが、驚いたことにスピリチュアル的に言うと、物質世界に私たちの居場所はないということなのです。ここは行動し完成するための通過点であって、そもそも落ち着くべき場所ではない、という身も蓋もない話になってしまいます。もちろん思考を止めるとか自我を消すといった教えは良い伝統なんですが、あくまで完成のための方法であり、完成そのものの姿ではないのであります。そこそのままが居場所であり、誰の所有いかんにこだわらないのが、完成した姿に近いということかも知れません。先祖代々の土地を奪われたとか、仕事のポストを奪われたとか、人間の闘争には居場所に関する事柄が多く含まれています。居場所にこだわらなければこんなに楽なことはないはずなのに、なぜかこだわって苦しんでしまうわけではないでしょうか。すべては法律上の話でしかないのに、土地や建物の所有権を持つことで物質生活が盤石になる、と私たちは真顔で信じ続けているのです。愛があるところが自分の居場所である、と気づけた人はいい線行ってると思います。それを一歩進めて、その愛を神様の方に向けられれば完璧だと思います。
孤独
一人は寂しいものだというのが、ごく一般の社会通念ではないでしょうか。友達は多い方が幸せだというのは、本当にその通りだと思います。ですが、孤独は不幸なものだとか、どのようなことであれ、決め付けてしまうことはスピリチュアル的に見てよくないことであります。ご存知の通り、社会通念的な決め付けによって心を縛られ、苦しんでいる人が多いんであります。そう思わなきゃいいと聞かされたって、どうしてもそう思えてしまうから苦しいんであります。では一体どうすればいいと言うんでしょうか? 中村天風さんの「孤ならず」という言葉がありますが、これは「宇宙の根本造化力は常にあなたの味方なんだから、決して自分は一人だと思っちゃいけないよ」というような意味であります。実際そういう信念が出来た人は自由自在に生きていられると思います。とても難しいことのように聞こえるんですが、人間こう思おうと自分で決心すれば、本当にそう思えるという原理が働くことを、まず理解しなければなりません。すると、そうなれるのです。何がどうであれ、明るく楽しい気持ちで生きて行くことが幸せであり、そのように命を生かし切ることが私たちの義務である、これは理屈ではありません。人間の幸せを大切に考える場合、それが真理であります。幸せなど関係ないと考えるならその限りではありません。持って生まれた条件が違うので、いわゆる運命がどれだけ拓けるかは人それぞれ違いがあります。死んだらおしまいと思うなら、早いこと諦めてしまった方が、無駄な努力をしないで済むから得だ、という結論になるでしょう。だけど、永遠の命ということを信じられるなら、石ころに生まれたらどんなに頑張ってもルビーやエメラルドにはなれないと分かっていても、磨けば綺麗な石ころにはなれる、ということに意味が出て来るんであります。
感謝
痩せ我慢を強要するかのように聞こえることを最終的に言わなきゃならないのが、スピリチュアリティの泣きどころであります。とんでもなく辛い人生を歩んで来たのに感謝とか、仕事がなく、お金もなく、恋人もいないのに心が満たされているとか、一般常識的に見たらオイオイと言われるような、絶対不可能と思われるようなことが実は可能だし、もっと言えばそれしかない、それが精神世界の本質であるということなのです。何だかんだで人生がうまく行っている間はそれが見えないし、また見える必要もありません。人生躓いた時に、ある人にとっては「それでも感謝ですよ」という教えが宝のように光り輝いて来るものなのです。世間では、結婚に失敗し会社をクビになり、鬱になり引き籠もりになりというシナリオが、人間の当たり前の反応として語られるのではないでしょうか。そういう時こそ本当の命を得るチャンスです、なんていう話をメディアで聞いたことはありません。だけれども、メディアの論調は残念ながら正しくありません。仕事で成功し、最高の条件の結婚をし、何一つ不自由なく暮らせることが幸せと信じて来た私たちに、実はそうではないという事実を次々に見せられる時代に入って来ています。メディアも少しずつ変わって行くと思います。どんなことがあっても「まだ生きていることに感謝しよう」と思おうとする努力は決して無駄になりません。実際とんでもなく素晴らしい結果に繋がって行くと私は断言いたします。瞑想とかマントラもいいですが、私が精神世界で何か一つだけ選ぶとしたら、生きていることに感謝するという感謝行をおすすめしたいんであります。
希望
夢や希望を持ちなさい、と子供の頃から聞かされて来た気がするんですが、今一つピンと来なかった私なんであります。世間で言う夢や希望の中身は、理想の恋人に出会うとか、裕福になって遊び暮らすとか、社会的に認められてチヤホヤされるとかいうようなことではないかと思います。この社会は、そういったものが多くの人の手に入らない仕組みになっている以上、夢や希望を持ちなさいという言葉は私には残酷に聞こえたからであります。この言葉通りに七十歳、八十歳になっても白馬に乗った王子様が迎えに来るという希望を持ち続けたとしたら、それは現実と言うよりも自分で作り上げた想像の世界に住むことになってしまいます。そしてスピリチュアル業界も、想像の世界に住めと言わんばかりの浮遊感のある教えが広まっているのではないでしょうか。希望というのは現実のものでなければならないはずであります。スピリチュアル的に言いますと、今現在どんなにひどい境遇にいても、いつかきっと良くなると信じるのはいいことであります。それも自分一人が抜け駆け的に良くなるということではなく、みんなが良くなるんだと思えれば最高です。何が起きても変化があるのは生きてる証拠、生きてるからこそ向上できると思えれば最高です。それこそほんとに我のない生き方ができてるということです。もちろん口で言うより難しいことですが、かと言って難しく考える必要もないかと思います。
常識
若い頃は常識に囚われないのと常識外れなのを一緒くたに考えていて、単にやんちゃで大胆な人をかっこいいと思ったりする、まさに若気の至りといった感じです。かといって世間で常識とされるのは、社会人になったら新聞を読むべきだ、遺伝子解析の分野が有望だ、やれ人工知能だ、火星移住計画だと、要するに最新情報に目を光らせて流れに乗れば成功できる、というような話ばかりではないでしょうか。常識外れであろうとしても、一般常識的であろうとしても、スピリチュアルな道からは遠のいてしまいます。スピリチュアル業界の中ですら、霊性と性格の良し悪しは全然無関係であるとする教えが昔からあるのですから、個人的にはどうしたものかと思っています。もちろん正しい人間の生き方というのはあるんであります。それが分からないままスピリチュアルな道に入ると、結果的にやっぱり誤った方向に行ってしまうように見受けられます。自分さえ良ければいいという人間感覚は根深いんであります。人に感銘を与えるどころか、一般人よりも自分勝手な印象を与える人間になってしまったりします。やっぱり若い頃に正しい生き方をしている人に出会えることが決定的に重要なんじゃないかなあと思うんです。そうでないと、よっぽどの上根でもない限り、人生どういうことなのか分かるはずもありません。スピリチュアルな常識というようなものはあり、人間社会の観点からすると損をするように見えるのです。霊的な生き方こそが一番得な生き方なのですが、私たちはそれが分からずにいるのです。見返りを求めずに世のため人のために最善を尽くす、というのが入り口になりますが、見本を見せてくれる人がいない限り一人でやるのはとても難しいことだと思います。
やるべきこと
人生でやるべきことは何だろう? というのはスピリチュアル業界でもよく議論される話題の一つであります。まず、やるべきことなど別にありはしない、と考える人たちがいます。虚無主義と言ってよいものでしょう。次に、人の迷惑など構うものか、やりたいことを好きにやってこそ我が人生、と考える人たちがいます。これは昔から、反抗期の若者にアピールするんであります。次に、人の迷惑にならない限りにおいて、人生やりたいことをやればよいと考える人たちがいます。言い換えれば、人に迷惑をかけない範囲内で楽しみを見つけて行くことが人生でやるべきことというわけで、これが一般人における自由の概念と言えるのではないでしょうか。最後に、世のため人のためになると思う仕事を、見返りを求めずに神様に捧げるべきだ、と考える人たちがいます。なぜ仕事を神様に捧げるのかと言いますと、何が本当に世のため人のためになる行為なのか人間の頭では分からないので、その結果は神様にお任せしますよ、という意味なのであります。その人のためを思ってしたことが、結果的にその人をダメにしてしまうこともあるのが、人間の愛情というものなのです。なので、見返りを期待しちゃいけないよと言われるわけです。もちろんスピリチュアルなのはこの最後のカテゴリーだけです。私たち一般人の目には、自由のない生き方のように見えるのです。その理由が実は、私たちが本当の自由を理解していないからに他なりません。有名な自己啓発の本にはたいてい、「誠実になる」ことより、「どうやれば誠実そうに見せられるか」という、表面的なイメージを操作する方法が説かれていたりします。そのものズバリを掴むより、「なんちゃって」みたいなのが商売としては一番うまく行くと信じて疑わないからではないでしょうか。スピリチュアル業界がそれとまったく同じような状況にあるのは、ある意味当然といえば当然のことであります。多くのティーチャーさんが戦略やテクニックは必要だと考えており、そのものズバリをやると損をすると思い込んでいるようなフシがあります。
上根下根
仏教界では持って生まれた資質を表す上根・中根・下根という仕分けがあるそうです。私が思うに上根というのは要するに、子供の頃から神仏を敬う気持ちのある人のことです。宗教的家庭環境で育ったから習慣的にそうなった、というんではなく、誰に教えられたわけでもないのに妙に信心深い場合、上根と言うわけです。上根の人はちょっとしかいなくて、その他大勢の私たちは単純に下根と言ってよかろうと思います。ここで問題なのは、インド哲学というのはほぼすべて、何がどうであれ信心深いことが大前提で、人物的にも抜群に優れた上根の人向けに説かれているということです。下根の私たちが一生をかけて実践してもまったく成果が得られず、箸にも棒にも引っ掛からないまま終わる可能性が高いのであります。ヴェーダーンタのような哲学の道は昔からとても難しいと言われていて、「私とは何か? 私はあれではない、私はこれでもない」と突き詰めて行って、最後に残るものがあるかどうか考える、というのが有名な方法です。フランスのように国民性自体が哲学に向いている国であれば、哲学の道が実際に合っている可能性があります。デカルトの哲学を足掛かりにして辿り着いたステファン・ジュルダンさんのような覚者を現に輩出しております。ところが日本では、哲学の道を辿る資質があるとは到底考えられない現状にあると思われます。日本人が辿り易い道があるはずなのであります。未だ私の中で結論は出ていませんが、世のため人のためになると思われる行為を、見返りを求めずに淡々とやるカルマ・ヨーガの道が、本当は日本人の心情に一番ピッタリ来るんじゃなかろうかと思ったりします。そこに現世的な報いがあんまりなかったとしても、神仏は悪いようにはしないという確信が伴えば完璧だと思います。日本人には地味なのが合ってると言わんばかりなんですが、実際そんな感じがしないでもありません。「私悟っちゃいました」とか、そんなような人に誇れる要素が何にもないわけなのです。それでいてちゃんと辿り着いているのです。
心の豊かさ
物質的に豊かな世界になったら、今度は心の豊かさが求められる時代になる、と再三言われております。ここで言う心の豊かさの意味するところを推察するに、世界一周旅行や、美術館巡り、オペラ鑑賞というような、大都市に住む最富裕層が実際に享受している楽しい暮らしに行き当たります。これは私が思うに、心の豊かさと言うよりも、経済の豊かさがもたらす心の余裕と言うべきものではないでしょうか。そして五感を楽しませてくれる外側の何かに依存するものでもあります。お金が尽きればそれと同時になくなってしまうという関係にあるわけです。スピリチュアル的に言えば、物質世界にほとんど関係なく存在すればこそ、本当の心の豊かさであると言えます。もちろん世捨て人にならない限り分からない、語れないという考えは極端過ぎます。神様は物心両面に働いているからです。大安心の境涯と世俗的安泰のバランスというのは常に微妙な問題であり、多くのスピリチュアルティーチャーを脱落させる(金儲けとか権力闘争に走るということ)原因になって来ました。本質的なものとそうでないものの区別がついていないために、一緒くたに説いている教えが多いからとでも言えましょうか。私たちには手も足も出せないような理由なんであります。私たちの目にはすべてを持っているように見えていた人が実は不幸だった、という事実をニュースで見せられる昨今です。心は豊かだけど生活は不幸、などということはあり得ません。今ある生活の中に幸せを見つけ出すためには、自分が理想とする生活を手に入れたつもりで、そこに当然伴っているべき感謝を前もってする、という方法から入るといいと思います。それで実際に生活がよくなる、というオマケが付いて来ればそれに越したことありませんが、そういうのを釣り文句にするのはよくないんじゃないかと思うんであります。
宿縁と浄化
もしもこの世が愛と調和の美しい世界だったら、スピリチュアリティというものは必要ないのだろうと思います。だけど、そのような世界になりつつあるのです。若い時に耐え難いような苦しみに直面させられる人というのはあります。若ければ若いほど、何かよくない行いをした結果だとは考えられず、これといった理由を見つけることができないわけです。そこで先祖や過去世からの宿縁が原因であるとするカルマ論を説かれれば、若い心にはそれが真実であると思えるものです。それ以外に考えようがないわけですからね。そこへ来てさらに、カルマを解消する方法があると聞かされれば、誰だって飛び付きたくなるのは当たり前でしょう。ニューエイジにはカルマを解消できるとする考えがあり、私もいろんな方法を試してみたものです。ところが、宿縁というものが形となって現れるのを未然に防ぐ手段はそんなにない、というのが残念ながら現実なのであります。よく考えてみれば、行為の結果が簡単に消せるなら、世の中何をやっても同じということになってしまい、そんなことがあろうはずもありません。だけど、そんなような虫のいい考えが後を絶たない業界なのであります。七つの体で言うところの四番目の体にアクセスすることができれば、ほとんどの宿縁は消すことが可能であると言うこともできるのですが、そんなものあるとも思ってない私たちが、具体的に何をどうすればできるのか分かる道理もありません。ですので、五井先生のおっしゃる通り、不本意なものは神様が人を彫刻する過程に出る削りかすなのだから、本来の自分とは無関係のものと見て心を捉われさせないことが重要と言うべきだと思います。どんな困難な状況も、それを自分と同化して見なければ睡眠中に浄化されて行く、というのは私の経験から言えば本当です。気持ちを離せば離すほどいいのです。現象として出切ったら必ずよくなるのだ、という希望というか信仰を持てるかどうかに掛かっております。もちろん、将来的に高次元の体にアクセスするという可能性を捨てる必要はありません。
雲を掴むような話
何となく漠然とした話が多いというのが、一般人のスピリチュアルへの評価なのかも知れません。「目覚め」や「悟り」や「光明」といった用語の定義がはっきりしない以上、雲を掴むような話にしか聞こえない、というのが正直と言うか当然の判断だろうと思います。ややもすれば実体のない業界だと言われても仕方がありません。かと言って、趣味のカルチャースクールと同好会を合わせたような、真剣に道を求めているようには見えない生ぬるい雰囲気の中で、それなりに満足している人が多いという業界の実情なのであります。また、真剣にならなければいけないという決まりもありません。だけど、最終的にそれでどうなったかという問いを避けて通ることはできないように思います。一つには、スピリチュアルは心の問題なので、具体的に何がどうなったとか話題にするべきではない、という考え方があり、一理あるなと思います。他方、スピリチュアルなのに結局は楽して儲かるとか、恋愛成就とかいうことだけを重要視する考え方もあります。当たり前の話とも言えるのですが、あいのほしとしては、巨万の富とは言えないまでも人並みの生活ができるようになることを大切と考えますし、なおかつ個人的な信仰を持つに至ることが最も望ましいと考えています。ここで言う信仰とは絶対の信頼とか安心立命のことです。それを観念の上で分かるのではなく実際に生きて行くことによって実体のある教えになるのです。この世ならぬ法力や神通力を発揮してこそ本物と言うべきか、過去の覚者さんはそういう方ばかりだったので、あんまり普通っぽいとスピリチュアルに見えないという面があり、当たり前のことを言っているようにしか聞こえないティーチャーさんには人気が集まりません。昔のようなカリスマがいない時代ですが、雲を掴むような悟りとか解脱とかについて思いを巡らすよりも、心身の事情が良くなって生活が楽しくなり、目に見えない存在の加護を信じ切る気持ちが出ればそれで十分と思いますが、如何でしょうか。私はあまり高い所を目指しておりません。
本の紹介
あんまり知的なタイプとは言えない私なんですが、子供の頃からあんまり本を読まない割には大きな本屋さんが好きだったんです。今にして思えば、心のどこかでいつも何かを探していて、その糸口を本屋さんに求めていたんだなあということが分かります。下根の人間なので長い時間が掛かりましたが、スピリチュアリティの基本をどこに求めたらいいのか、どうにか分かるようになった、とみなさんにお話しできる準備が整ったと思います。それがあいのほしの本の紹介欄なんですが、多くの本を紹介するよりは敢えて数を絞っています。なので若い人にはとりあえず一通り読んで欲しいと思って、一部を除いてわりかし図書館で入手し易いものを選んであります。このためにわざわざ買って読んで欲しいという意図はありません。各分野から私がベストだと思う本を一冊ずつ紹介したりしてるんですが、その中にまったく正反対なようなのが含まれているのはなぜだろう、と疑問に思う方もおられるかも知れません。それは人それぞれ、その時々に適合する教えが違うからです。あいのほしはバランスの立場を取っています。いい悪いはみなさんが判断するものとして、「すべてを捨てて永遠の命を得べし!」という物質否定型の考えと、「創造者として好きなことをして楽しむべし!」という物質肯定型の考えのバランスに配慮しているつもりです。人生楽しんでなんぼという人には厳格で規律的な教えが合っていたりするし、暗くて孤独がちな人には「人類みな兄妹」みたいな家族的な教えが合っていたりするのは、その時はそれでバランスが取れるからです。今は一つの宗教とか一つの教義に固執するのがいい時代ではないので、理想を言えば、いろんな教えを満遍なく理解するように努めるのがいいと思います。私としては、地球全体の調和に連なる個々人の本当の幸せを重要と思ってやってます。で、あいのほしは基本的に日本人のための活動ですので、日本人向けという意味で中村天風さんをまずはおすすめしています。天風哲学は幅広い分野をカバーしている上に深さも深く、日本人の精神的土壌によく合うのが特徴です。最近は五井昌久さんの世界平和の祈りもおすすめしているのは、五井先生を話題にする方がけっこういらっしゃるので私も便乗したかたちです。心身統一法を自力としますと世界平和の祈りは他力というわけで、一見正反対のものをなぜ両方おすすめするかと言いますと、それでバランスが取れるからなんであります。
精神世界というのは純粋な哲学とは違って、それでよりよく生きられるようになるかが最終的に問われることになるので、早い段階から一つの教義にこだわってしまうと、年取ってから失われた部分を取り戻すのは大変だ、という実質的な理由が背景にあるんであります。スピリチュアリティはそもそも、何かが変わるとか良くなるとかいうものではない、とおっしゃるティーチャーさんもいますが、私はそう思わないです。スピリチュアルな伝統をすべて見渡した場合、そういう結論にはならない、というのが私の意見です。私たちはただ存在しているだけではなく、大調和の方向に導かれてもいると見るべきです。スピリチュアルを長年やっても立派な人格にならないし、分かるようで分からない専門用語で若い人をからかうような大人になったら大変です。それもこれも、真の自由を体現し、思わず手を合わせたくなるようなスピリチュアルティーチャーさんが少ないことが原因だとも言えます。実際に見せてくれる人がいなければ、本に書いてあることが本当は何を意味するのか分かるはずがありません。だけど、ある種の境地に辿り着いた人の言葉には特殊な力があることは確かです。人生の師と呼べるような先生を見つけるなら、相手の話をろくに聞かずに繰り返し同じことを断言する、要するにひとりよがりになっているように見えるティーチャーさんは、とりあえず避けた方がいいのではないでしょうか。そのティーチャーさんが哲学的には真理を説いていても、あまり得るところはないように思います。相手の話をよく聞き、話してないようなことまで分かってしまうように見える優しいティーチャーさんは、哲学的には大したことを言ってないように思えても、いい先生である可能性があります。
心の拠りどころ
生きて行くためには誰しも心の拠りどころが必要だと私は思うんであります。みなさんはそう思わないかも知れないですが、あいのほしはそういう方向性でやっています。誰かとか何かに頼って生きているのは心が弱いからと言われればそうでしょうし、自分でできることは自分でやる必要はあると思います。哲学を専門にやる人は宗教を一段低く見ているきらいがあるのではないでしょうか。哲学は強い人のためのもので、宗教は弱い人のためのものであると言えるかも知れません。つまり、人生がそれなりにうまく行っているうちは哲学で満足できますが、そうでないなら宗教にまで踏み込んで行く必要が出て来る、という意味です。安心立命とか言いますが本当にその通りで、宗教の本質は結局、人生の状況が何がどうであれ、心の底から安心していられる拠りどころを見つけるところにあるのであります。納得できる答えを見つける不二一元論的な教えは強い人のためのものであり、あまり多くの人を救えないだろう、と私は思います。病気や貧困から抜け出したい、愛情を得たいというのが、ほとんどの私たちの当然の願いであり、そこからでないと入って行けないというのが事実です。そこで昔から、神様の人間を救い上げようとする心の働きとして、覚者と呼ばれる方々がこの世に現れ続けているのであります。人の運命を好転し、なおかつ神性へと導いて行くにはとてつもない力量が求められます。だけど、現実にいるのです。私たちは抽象的な神を始めから信じることができにくいので、そういう先生とのご縁でやって行くことができれば非常な幸運だと思います。そういう先生を心の拠りどころにすれば、その先生は神様の心と直通しているわけですので、そのまま(知らぬ間に)引っ張り上げてもらえます。いつの時代も中途半端なティーチャーさんが多く、存命中の覚者に出会える人は稀です。思慮深く、かつ素直でないと、せっかく出会えてもそれと気づかないこともあり得ます。ご縁を投げ捨ててしまわないように注意しないといけません。
世を去る
余命の宣告を受けて初めて、自分がやり残していることがあるのに気づく、というのはよく聞く話なのですが、精神世界を学んでいながらそれじゃ、ちょっと残念な気がいたします。とはいえ、ある種のスピリチュアルティーチャーさんは死後に自我や個性というようなのは消滅すると説いていて、いわゆる肉体が人間のすべてだと信じ、無神論的な考えが主流になっている国でブームになっております(既成宗教が退廃していることへの反作用)。消滅するのであれば人生何をやっても変わらないわけで、私から見ると困ったブームだなあと思うわけです。ところで、神秘学では私たちはみんな七つの体を持っていると言われています。つまり、肉体の他に微細な体を六つも同時に持っているというんです。私たち一般人にとっては、病気や事故などでたまたま体外離脱でもしない限り、肉体以外にも体があるということは知識として知るだけで、それを裏づける体験が全然ないということになってしまいます。危険を伴う特別な修行(クンダリニー・ヨーガ)をしない限り、体験としてハッキリ分かる可能性がほとんどないので、死んだら終わりと思うのは当然と言えば当然です。引き寄せの法則や思考の現実化というのは本来、微細な体を使えるということが前提条件であって、自分が肉体だと信じている状態でいくら想念を集中したところで、結果は肉体次元の法則に限定されてしまいます。類い稀な集中力を持つ優れた人がいても、それだけでは奇跡的な現象は出て来ないというのは、現実が証明している通りであります。ないと信じている限り、微細な体にアクセスすることは難しいと思います。ある種のスピリチュアルティーチャーさんは、あなたは大宇宙の中で塵にも満たない小さな存在であり、そんな小さなものに価値はなく、さらに大宇宙そのものもいつか終わりを迎えるのだから、消え去るものに意味などあるものかとおっしゃいますが、本当にそうでしょうか? 確かに多くの場合に私たちは非力な存在ですが、親孝行したり、子供の心の支えになったりできる人というのは、世界を変えられると妄想する人よりも偉大ではないでしょうか。私個人の考えでしかありませんけど、それは小さくて何も残らない行為ではあり得ないのであります。
夢の解釈
眠っている間に見る夢をどう解釈するかにはいくつもの説があって、実際にいくつかの種類に分類できるように思います。今回お話しすることはすべて仮説ですので、本当のところはみなさん自身の体験から確かめて行って欲しいと思います。まずはその日に見たり聞いたりしたものごとと、そこから連想されるものごとを、脳が記憶を整理する過程で夢に見る、という説明です。これはだいたい誰でも経験していて納得できると思います。また、子供の頃など昔の出来事を解釈し直すために夢に見る、というのもだいたい誰でも経験していると思います。明らかに今の人生で経験した出来事ではないけれど、極めて明確なストーリー性のある夢を見た場合は、いわゆる過去世の記憶を再解釈している可能性は充分にあると思います。次に、例えば同じ運動を繰り返している夢は筋肉を修復するために見ている夢、通路を通っていたり上下に移動したりする夢は血管や神経の調整(霊的なエネルギーも含む)のために見ている夢、というような説があります。これもかなりの可能性でその通りだと思います。では、あらゆる解釈を拒むような、脈絡のないデタラメな夢はどうでしょうか。ある覚者(五井昌久先生)の説によりますと、潜在意識に蓄積された過去世をも含む過去のよくない想いが、現実に現れる前に夢の中に現れることによって、浄められ消えて行く働きであるということです。つまり、人生上の困難な出来事として現実化する前にご守護様に消してもらっている、というありがたい働きなのであります。例えば自分だけが楽して儲かり、恋愛も思いのまま、というのはスピリチュアル的に見れば、自分も他人も害するよくない想いということになります。夢占いからするともの凄い吉兆と言われるようなシンボルを夢で見ても、たいがいの場合は本当によいこと起きるわけではない理由の一つかも知れません。儲かったらみんなが良くなる目的に使おう、恋愛はお互いに心が浄まり高まって行く相手を選ぼう、と本心から思っているような人は、それが現実になってもらわなきゃ神様も困るわけですから、夢の中に現れて消えて行くということは絶対にないと思います。夢占いというのは基本的に、これから起こるものごとを夢から判断するという主旨ではないでしょうか。私の経験では、もし予知夢というものがあるとしても、それを見られる人はかなり限られているのではないでしょうか。最後に、ご守護様が人生のヒントというか教訓として見せてくれる夢というのが実際にあります。このカテゴリーの夢だけが、唯一解釈のしがいのある夢ということになって参ります。自分ではまったく思いも寄らぬアイデアを受け取ることができるからです。
信仰への問題点
現代人にとって信仰を取り戻すのはもはや無理であろう、とはよく言われることです。それもそのはず、知性が発達すればするほど、信仰というのは一番理屈に合わないものに見えます。実際、何らかの神格を信じるのは非論理的なことであります。でも、人間が救われるのは結局は信仰を通してでしかあり得ない、とあいのほしは敢えて断言いたします。ではどうすればいいのでしょうか。政治哲学や宗教哲学といったものを極めることをおすすめしています。これは学位を取るとかいうことではなくて、自分で納得するまでという基準で極めるという意味です。極めればだいたい無神論的な考えになりますが、それでいいのです。人生はもともと理屈に合わないので、信仰への最後の一歩は人生そのものが導いてくれることになっています。スピリチュアルなことを何も知らないのに、真の自己と呼べるようなものを垣間見る体験をする人がかなりいらっしゃいます。で、そのあとニューエイジの(こうやればこうなる式の)理路整然とした教えに出会い、それが見たことも聞いたこともない話であるために、思わずパッと掴むということが起こりがちなんであります。岩波文庫とか『世界の名著』シリーズ(中央公論社)とかを読んで古典の教養があれば、ニューエイジの教えにはまったくと言っていいほど新しい要素はない、ということがハッキリと分かります(哲学は同じような概念が現れては消えるということを歴史的に繰り返しています、頭で考えるだけで行じないからいつまで経っても本当の理解に達しないのです)。だけど、それが分からないから掴んでしまいます(私自身の体験です)。魅力的に見える教えの中身は、突き詰めればご利益があり、楽して人生万々歳になることを理想とする内容だったりします。これが世に言う唯物論的スピリチュアルであります。せっかく本当のスピリチュアルを垣間見たのに、かえって信仰から遠ざけられることが起こりがちなんです。自分なりに人生を哲学したあとなら、脇目も振らずに信仰に飛び込んで行けます。何かに惑わされるということがないのです。これはもちろん、何らかの宗教的組織に入るという意味ではありません。あくまで自分一人の信仰のあり方であります。
信仰の復活
科学的な物質文化が栄えるに従って、私たちの信仰心が相対的に薄くなっていることは言えるんじゃないでしょうか。それにはもちろん良い面もあって、中世の頃は人間の力ではどうにもならないと諦めていた病気が、実は医学の力でどうにかなると分かった、というような事実があります。一方で、中世の人間は人知を超えた力に心が向いており、いつかは罪穢れのない清浄な世界に戻って行くんだ、という漠然とした目標というか信仰をどこかに抱いていたようなところがあります。現代の私たちは、物質が豊かで人生を楽しめればいいし、それ以上のことは考えたくない、というような傾向にあります。「神は死んだ」と言った哲学者さん(ニーチェ)がありましたが、死んだと言うよりも人間の側が神に背を向けたのだと言えるかも知れません。なまじ科学の力に頼ることを覚えてしまったがために、大きな戦争で「神も仏もあるものか」という無神論的な考えが主流になったようであります。その裏で集合的に累積した罪の意識は凄まじい破壊力を持つまでに膨れ上がっておりますが、私たちの側がそれを掴んで放そうとしないのが現状であります。断定的に言うようで申し訳ないんですが、これから私たちの中に信仰心が復活するというルートはすでに決まっているのであります。神も仏もないと思って生きて来た人が、何か超常的な力が働いているとしか考えようがない困難に直面したときに、神はどうして人間をこんな風に作ったのだろうか、人間の力ではどうにもならないではないか、こんな風にした神が責任を取るべきだ、と神様に心を向けることになるのです。責任を問うという形であっても、神様の方に心が向くわけです。全身全霊で生きて来た人ほど、期せずして神様に全託する気持ち(祈り)に唐突に入ってしまうことになります。信仰心のなかった人が自ずから信仰を持つようになったら、それ以上に生きて来たことが価値になる出来事は他にないと断言できます。生まれつき神仏を信じる気持ちのある人は、相当な上根の人なのであります。
使命
この世に生まれて来たからには、果たすべき役割があるという考え方は、精神世界に限らずポピュラーだと思います。確かにあると思うんです。それは意識的に役割を果たそうとか考えたことがなくても果たしている人がいるし、大げさな理念を抱きつつも本来の役割は果たせていない人もいる、という風でしょう。年齢を重ねるごとに浄まって行くとか、いい顔になって来る人は、順調に役割を果たせていると言っていいと思います。だけど、使命という考え方に、これまたこの世的な成功失敗という尺度が加えられることで、本来の意味から遠ざかってしまうことが起こるんであります。多くのスピリチュアルティーチャーさんが、自分の使命を見つけることの先に、人生の成功があることを仄めかします。その通りになれば、それはそれでいいんです。だけど、使命を果たすことで社会的に成功するはずだ、そうに違いない、という条件づけが刷り込まれてしまうようです。「神様、どうか人を本当に幸せにする仕事のために私をお使いください」と常日頃祈るような人、あるいはきっかけさえ与えられればそういう気持ちになり得る人の数は、決して少なくないように思います。かく言う私自身が、その時々で使命と思ったことをやって来たつもりですが、全然成果が上がりませんでした。けれども、失敗というわけではないのです。物質を光明化する(ラビ・イツハク・ルリアによるティクンの概念)とか、使命というものを大げさに考え過ぎてしまっただけで、そもそも与えられた役割がそんなに大きくない人が大多数であるということなのです。若くて覇気がある人ほど、自分の使命を大きく考え、この道に賭けてみようという生き方に魅力を感じるかも知れません。仕事のことならそれでいいのですが、スピリチュアリティに関しては成功失敗の尺度で見ない方がいい、というのが私の観点です。インド哲学で言うように、行為の結果に執着しない態度を身に付けるといいと思います。つまりスピリチュアリティにおいては、見に見える結果が出なくても気にしないのが一番いいのではないでしょうか。最終的に何がよくて何が悪いのか、人間の頭では分かりにくいからです。
生かし切る
与えられた命を生かし切りたいという願望を、誰でも自然に持っているものです。意識しようがしまいが、そういう風に出来ているんです。そうじゃなかったら宗教やスピリチュアリティが生まれる道理がありません。でもどうすれば、私たち一人一人に与えられた役割を果たすことになるのか、哲学的に考えたらとても難しいわけです。まず、自分の一番好きなことを仕事にして生きて行くのがいいんだ、という考え方があります。好きなことがハッキリしていて、なおかつ才能にも恵まれていればそれでいいんですが、やりたいことがハッキリせず、これといって才能もない場合はどうすればいいんでしょうか。次に、カルマや因縁と呼ばれるようなものから自由になればいいんだ、という考え方があります。そうして初めて本当に人の役に立てるという訳ですが、かと言って、親とかしがらみとかみんな捨てて、どっか外国にでも行って好きに暮らすのがいいのでしょうか。結局、発想が豊かな人ほどいろんな選択肢を思い付くし、行動力もあれば思い切った決断もできますが、何が本当に自分を生かすことなのか、最後まで分からないのではないでしょうか。頭で考えている限り分かるというものではないのです。スピリチュアルな知識をいろいろ蓄えても分かるもんじゃありません。古い話に聞こえるかも知れませんが、信仰心があるかないかの問題なんであります。やれ現実の創造だやれノンデュアリティだと言って、それで表面上の人生が順調に行っているうちは、自他共にこれぞスピリチュアルだと信じていられます。だけど、全力を尽くしたにも関わらず、人生がうまく行かなくなり、恩を仇で返されるようなことをも起きて来ると、人に道を説くのが仕事のスピリチュアルティーチャーでさえも、神の存在を疑うようになるものです。そういう場合、最初から現象面のよし悪しですべてを判断する唯物論者、無神論者であったということなのです。言いたくはありませんが、他でもない私自身が無神論的であったことを認めます。誰からも感謝されなくても「自分が親切にしたくてしたんだから構わない」と言い切れる人、さらに「神様は見てるんだからいずれ必ずよくなる」と信じ切れる人は二重マルです。そういう風な本心で生きて行く人は、何をしていても自分の命を生かし切っているのであります。
謙虚さ
人間世界のゲームとか利益競争というようなのに誰しも巻き込まれるものですが、より深く巻き込まれがちなのは能力の高い人たちなんであります。強い人ほどゲームに勝つ楽しさを味わえますから、どんどん嵌まって行くわけです。で、勝ち組と言われるような人ほど、礼儀正しさや謙虚な態度を身に付けているものではないでしょうか。こういうところに、人間社会の複雑な機微があるなと感じます。ここで、草野球ならぬ草サッカーをしようという人たちがいて、サッカーの上手いキャプテンが、純然たる数合わせのために、サッカーのルールすら知らない人を一人、無理矢理チームに加えたとしましょう。まったくの戦力外で、ピッチの中にいるだけで何もしてくれなくていい人が一人いるわけです。ところが、試合の重大局面で、どういう訳かその人のところにボールが飛んで行ってしまいます。キャプテンは「こっちにパスしろ」と叫びますが、その人はルールを知らないのでボールを手で触ってしまいました。当然反則となり、結果的にチームは負けてしまいます。そこでキャプテンがその人に、「お前を入れたのは俺の責任なんだからお前は悪くない」と直接謝ったとしましょう。すると社会的には、キャプテンは礼儀正しい人だ、謙虚な人だと評価されるに違いありません。ですが、神様の目からこのキャプテンさんの心の動きを見ると、とてもじゃないけど謙虚とは言えない、ということになるんであります。人間世界のゲームに夢中になっている人にとっては、礼儀正しさや謙虚さは、どこまで行っても他人に見せるための表面上のフリでしかないんであります。社会生活を営んでいる以上、そういう偽善を避ける方法もありません。仕方がないと言う他ないのです。本当に謙虚な人(ラーマクリシュナみたいな)というのは、巣から落ちてしまった雛鳥のようなもので、その存在に気が付く人は多くありません。気が付いたということ自体、その人がすでにゲームや利益競争の外に出始めていることを示しています。本当に謙虚な人は自分を謙虚だと思うことがありません。
五井昌久の世界平和の祈り
人間の真実の姿は、業生ではなく、神の分生命(分霊)であって、常に祖先の悟った霊である守護霊と、守護神(天使)によって守られているものである。この世の中のすべての苦悩は、人間の過去世から現在に至る誤った想念が、その運命に現われて消えてゆく時に起る姿である。いかなる苦悩といえど、現われれば消えるものであるから、消え去るのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難の中にあっても、自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくと共に、守護霊、守護神への感謝の心を常に想い、世界平和の祈りをつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得できるものである。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます
五井先生ありがとうございます
人間社会に渦巻く我欲の想いには凄まじい勢いがあり、一度社会人になったらいつの間にか「大切な何か」を忘れ、自分が本来何を求めていたのかさえ分からなくなるのは必定と言えるであろう。悪い想念が行為として現れ、その結果さらに悪い想念を生むという水平方向の悪循環を断ち切るにはどうしたらよいのか。悪い因縁を消し去り、結果として心身を効果的に癒す方法があるとすれば、私たちが幽玄微妙な霊的エネルギーに繋がり、それを垂直方向に降ろして来るということになろう。だが、実際どうやれば出来るのか。業(カルマ)の波を打ち消すことができる覚者はこれまでにもいたものの、一般人が簡単に到達し得る領域の能力ではないため、基本的にはその覚者の恩寵に与る、悪く言えばひたすらすがる以外に方法がなかったのではないだろうか。そこへ登場したのが、白光真宏会(びゃっこうしんこうかい)を主宰した五井昌久(1916-1980)の世界平和の祈りであった。五井師は難行苦行を否定はしないが、現代人に必要なのは誰にでも実践できる易行道であると説く。世界平和の祈りを一心に唱えることで、根源から来る精妙なエネルギー、すなわち「救世の大光明」に心を繋ぐことになる。それを中継してくれるのが、私たち一人一人の神性への道を最初から最後まで導いてくれる守護霊・守護神の存在である。西洋にも守護天使やハイヤーセルフとの協働という教え方があるが、守護霊・守護神への感謝を中核に据えた宗教というのは他で聞いたことがない。今となっては、私たちの人格の小さな想いの力で人間社会を矯正して行くことが困難なため、むしろ祈りによってすべてを守護霊・守護神の働きに一任し、思い煩わずに明るく朗らかに生きて行く方がよいとする。無論私たち個々人の人生問題も然り。世界平和の祈りは白光真宏会に入会しなくても誰でもでき、またいつでもどこでも実践してよいことなので、やたら多くを期待するのはよくないが、まずは試してみてはいかがだろうか。
- 五井昌久『神と人間』白光出版、1953年
- 五井昌久『天と地をつなぐ者』白光出版、1955年
- 五井昌久『白光への道』白光出版、1955年
- 五井昌久『霊性の開発』白光出版、1961年
- 五井昌久『愛・平和・祈り』白光出版、1962年
※さらに理解を深めるためには、全十三巻の『五井昌久全集』がある。
因縁
原因があって結果が起こる、というのは当たり前なような話なんですが、精神世界では当たり前じゃないんであります。ものごとには実は原因と結果という関係性はなく、理由もなくただ起こり、それゆえ人生何やっても誰にも責任はない、というような哲学は大昔からあるんであります。で、本当は何も起きていないようなもんなんだから、人生何が起きても心がそれを相手にしなければあなたは自由である、というようなティーチャーさんが多くいらっしゃるわけです。心が関わり合いをつけなければ因果の渦はやがて消えて行く、というのがこの教えの肝です。だけど、因縁やカルマと呼ばれるようなのは、ないと思えばないんだ、自分で認めなければいい、そうすればすべて思い通りになるんだ、というところまで進んでしまうと、少なくともインド哲学の文脈では間違っていることになってしまいます。それは『マハーバーラタ』の中で、クリシュナが猟師に誤って殺されてしまうくだりに、明確に示されているように思います。クリシュナでさえも運命の支配者にはなれなかったわけです。「カルマの法則はない」の本来の意味は、あなたは因果の渦に左右されない実在なんだということで、過去の行為がただちに清算されるという意味ではなかったはずです。なのに、「引き寄せの法則」が楽して儲かる方法と解釈されたのと同じ延長線上で、「何も起きていない」を責任を取らなくてもいい、と表面的に解釈する人を多数輩出してしまったのは事実だと思います。努力しないで結果を得られると言っているようなもので、努力なんて馬鹿馬鹿しい思ってる人が真に受けるんじゃないでしょうか。それはそれでいいですが、現世の幸せを大切に考えるなら、人の幸せのために尽くす行為の中に自分を失って行く、それが本当に自分の幸せでもあるという生き方が、よい因縁を作り結果的によい人生を作る王道だと思うんです。それも漠然と他人ということではなく、パートナーや家族のために尽くすことから始めるのが理想で、それが私たちが家庭を持つ必要がある理由だと思います。
資本主義のゲーム
みんな自分の利益だけを考えて生きて行くのは当たり前だし、その何がいけないの? という世の中なわけです。哲学的にはプロテスタンティズムが産業革命や資本主義の起動力になったというような話(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)もありますが、たぶんその通りなんだろうと思います。基本的にお金を持てば持つほど、さらに儲かる仕組みが作られたわけです。お金を稼げる人になることが社会的に正しいとされます。だけど、社会的に立派とされるステータスの高い職業に就いている人や、便利な発明品の特許料で巨額の収入を得ている人に限って、大概は厭世的になったり自己嫌悪に陥ると相場が決まっているというのはどういう訳か、考えたことがあるでしょうか。資本主義のゲームというのは当然、能力の高い人ほど有利にプレイできるものです。勝ち組になれてかなりのお金が取れるようになる過程は、すごく面白いわけです。これは酔っぱらって麻雀をしているようなもので、冷静な判断はついてないけど楽しむことは楽しめている、という状態です。酔いが醒めて正気に返ってみると、方々に敵が出来ていたりして、のっぴきならない状況にはまり込んでしまっていることに気づいたりします。すると、そこから先は楽しいどころか苦しみの連続になるわけです。そういう人生はひどくむなしいものです。プロテスタンティズムが奨励した勤労や貯蓄が、神への奉仕という当初の理念をさっさと失って、功利そのものが目的にすり替わってしまったのと同じように、ステータスの高い仕事や科学的発明から理想が失われて、お金になることは何でも正しいと考えられるようになったことが、現代の不幸の一因になっているのではないでしょうか。便利だけれども最終的には人を不幸にする発明品というものがあります。儲かるけれども人を不幸にする仕事をする人はあまり幸せにはなれない、というのはまぎれもない事実です。かと言って、自分だけの利益を求めることに何の興味もなくなってしまうと、世の中ひどく生きづらいものです。でも、理想を言えばそこがスピリチュアルの出発点であるべきだと思います。功利を捨てて世間からは落伍者と呼ばれながらも、どうにか生きて人の幸せのために尽くそうと奮闘するみなさんに、心から拍手を送りたいと思います。生きているためには功利を完全に捨てることはできない、そこがジレンマですね。昔の覚者もみんな悩んだところだと思います。
成長する
魂の成長という表現は、精神世界では何気によく使われますが、それが本当は何を意味するのかは結構謎だったりします。具体的に何をどうすれば魂の成長に繋がるのでしょう。魂が成長したことを示す兆候はあるのでしょうか。超常的な能力が出て来たり、ものごとが急にうまく行くようになれば、魂が成長した証拠だと言えるでしょうか。一つには、成長というものを認めないというか、全否定する考え方もあります(現世否定的な伝統)。そういう感じの教えをするティーチャーさんご自身が、新しい知識や経験を拒否する生き方をされているのなら、言っていることとやっていることが一致しているので、問題はありません。そうでないのなら、その考え方は間違っていると言わざるを得ないでしょう。子供を見ていれば一目瞭然ですが、私たちには新しい知識や経験を積極的に獲得して行こうとする自然的傾向があります。「何も足さない、何も引かない。ゼロのままがいい」なんて言う子供を見たことはありません。そういうことを言うのは哲学者か宗教家だけではないでしょうか。だけど、成長するということを哲学的に言い表そうとするとひどく難しいわけです。神様の方向に行く、とか全体が調和する方向に働く、とか言葉にするとすごく簡単なんですが、分かるようで全然分からないわけです。かく言うあいのほしそのものが、今思い返せば笑ってしまうような、訳の分からない大げさな概念で世の中に貢献しようと頑張っていたんです。結局のところ、本当に人に喜んでもらえる、いやすべての存在物に喜んでもらえるような生き方を具体的にできなきゃ、スピリチュアルな概念は何の意味もありません。別の言い方をすれば、自分の幸せがすべての人の幸せに繋がって行くような立派な生き方ができるようになることが成長だ、と言えると思います。そこに結び付いて行かないものは、すべてこだわりということになります。スピリチュアルが意味のないこだわりになってしまっている場合が多いように思います。成長したいと願うなら、余計なこだわりをすべて手放すことが必要なように思います。
口伝と書伝
昔から、大覚者と呼ばれるような先生に限って、直接書き残した本がない場合が多いわけです。その理由を察するに、やはり文字だけではその真意が伝わりづらいからだったんだろうと思います。厳密な定義とは違うかも知れませんが、ここで仮に、口頭や直接指導で伝達することを口伝、教典を残して伝達することを書伝という風に言ってみましょう。口伝と書伝はそれぞれ性質が異なり、よい面と悪い面があります。口伝は以心伝心という訳で、師匠が弟子の状態を見ながら、ここはいい、そこは違うとやれるので、一番適確な方法だと言えると思います。一方で、師匠の側から見れば伝達が途絶えてしまうリスクがあり、弟子の側から見れば本物の先生を見分けられるのかというリスクがあります。最悪、カルトに引っ掛かって人生を棒に振る可能性もあるわけです。それに対し書伝は、あくまで文字を頼りに自分で進んで行くことになるので、理想を追い求めるのに上限がないというメリットがあります。一方で、教典に書かれた本来の意図とは全然違う方向に進んでしまっても、自分では全然それと気が付かないという問題があるのです。違ってますよと指摘してくれる人が誰もいないので、そのまま「辿り着いた」と思っている人も出るかも知れません。だから歴史的に見て、書伝は分派が出来やすいんであります。いずれにせよ、何か外側に権威や規準が置かれており、そこを通過しなければダメだという話になった場合、一体誰が何のためにこんなことをしてるんだろうという疑問に、最後は収束するのではないでしょうか。私はそう思います。結局、弟子として極めて優秀で、これ以上ないくらい真剣に修行しても、自分はそもそも何を求めているんだろうという疑問にケリをつけない限りはダメなのだろうと思います。よく言われている通り、軸とか信念といった部分です。私もこの年になって、自分は信念がないからダメなんだなと思うんであります。幸せを大切に考えるんであれば、自分で方法を工夫してやってかなきゃいけないし、成功したいんであれば信念を持たなければダメ、実は悟りに時間はかからないと言うけど本当だな、と思います。自分で信念して疑わなければ、何事もその通りに行くに違いありません。
懐に入る
精神世界に限らず「心を開く」というのはいいこととして語られます。実際、多くの人が心を開き出したなら、この世界はまったく違った場所になることでしょう。今ある問題はあらかたなくなり、スピリチュアリティについての考え方もまったく変わるでしょう。心が閉じているというのは、個の意識になっているということで、自分のことしか考えられないという状態です。だからこそ、自分が得するにはどう動いたらいいだろうかと策謀を企てるわけです。よく考えてみればどうでもいいような、小さなものごとを巡って人々が闘争する世界になるわけです。で、昔から身を持ち崩したりして、半ば強制的にすべてをさらけ出して生きて行かなきゃいけない境遇というものがあるということを、みなさんどこかで知っています。そこに、理由がどうであれ、心を全開にして人々と関わって行く魅力があるのを、誰しもどこかで気づいているのではないでしょうか。カップルや夫婦の間で、お互いに心を開いて交流できたという瞬間が持てただけでも、もう何とも言えません。まして、常に心を開いて生きて行けたらどんなにすごいことでしょう。平穏無事で、相当恵まれた人生を生きた人も、もし心が閉じていたのであれば、本当に生きたとは言えないと言っても言い過ぎではないのではないでしょうか。それくらい違うものです。「あなたも私もない」という世界を地で行くんであります。あなたも私もいないという悟りの哲学を説いていらっしゃる先生が、教師という立場にこだわるせいなのか、個の状態にあり、心を開いていないという可能性もあり得ます。ただ言うのではなく、地で行くところに本当の幸せがあるはずです。英語であけっぴろげな性格のことをオープンブック(an open book)と言うそうですが、まずは包み隠さない態度が糸口になると思います。スピリチュアルティーチャーならなおさら、都合の悪い過去の事実を言わないだけでも、嘘をついているのと同じになってしまいます。自分の評価を下げるようなマイナスな話でも、事実なら率先して言うくらいでちょうどいいと思います。隠そうとするのは我があるからです。だからこそ心を開くのがこれほど難しいわけですが、いったん開けたら間違いなく世界が変わることでしょう。
人を助けるには何が必要か
人助けという言葉はよく使われますし、誰かの助けになりたいと願うきれいな心の持ち主には拍手を送りたいと思います。助けたいという純粋な気持ちが相手に伝わることで何かが変わる、という心の交流の可能性を否定したくはありません。が、実際問題として、病気や借金や依存症に苦しむ人を、思いやりの気持ちだけでは助けられないことも事実ではないでしょうか。人を助けたい気持ちから何かを始めても、自分の中に持つべきもの持たないと、挫折する結果になります。それは残念なことだと思います。一つには、お金や物資で援助するという方法がまず考えられます。何もないよりはマシです。でも、スピリチュアルティーチャーとして人を幸せにすることを目指すのなら、持つべきものが他にもたくさんあります。まず第一に、自分自身が、それが何を意味するのであれ、大きな変化を経過しているということが前提になります。科学的な根拠が全然ないんですが、変化を経過した人というのはある種の磁場を発生していて、それが周りに寄って来る人に変化を誘発するんだろうと思います。パワースポットみたくなっているわけです。頭が良くて情報処理能力が高ければ、自分が変化を経過してなくても道を説くことはできますが、それで救われる人がいるとすれば、始めから大した問題のなかった人なんだろうと思います。スピリチュアルを言うなら、不幸な人を幸せにするくらいじゃなきゃいけません。で、スピリチュアルティーチャーと言うからには、何が本当の幸せなのかという定義について、一本筋の通った哲学を持たなければなりません。相手が欲しいと思うものを何でも与えてあげれば、その人を幸せにできるでしょうか? そういう問題について何であれ結論を出せていなければ、人を助けることはできません。次に、一つの病気に対して複数の治療法があるのと同じように、できる限り多くの技術や方法を心得ていることが望ましいんであります。人を助けたいと本当に思うなら、できるだけ多くの人を助けたいと望むのではないでしょうか。もし一つの方便が究極だとか唯一の道だとか主張する人がいるとしたら、それはこだわりであり、あまり多くの人の心に触れることはないでしょう。だからスピリチュアルティーチャーになってからも勉強を続けるべきです。身体的アプローチは何か一つ習得していることが望ましいように思います。ジャン・クラインさんのカシミール・ヨーガ、アレクサンダー・テクニーク、フェルデンクライス・メソッド、太極拳など、まあどれも難しいものばかりですけれども、私たちは日本人なんですから、野口晴哉先生の「活元運動」ができると特にいいんじゃないかと思います(ちくま文庫から出ている『整体入門』を参照のこと)。呼吸法の指導ができることは言うまでもなく重要で、必須の能力だと言えます。臨床心理学のテクニック、フォーカシングやハコミセラピーやプロセスワークの基本を習得しておくと役に立ちます。医師免許や公認心理師の資格を取れるようであれば当然ベストだと思います。スピリチュアルティーチャーになるというのはもともとハードルの高いものですし、そうあるべきであります。だからこそ、思春期から準備を始めることが必要だと思います。
思春期の教育
英語でティーンエイジと言いますけど、13歳から19歳までですか、いい悪いは別として、その年代に受けた教育がその人の人生を決めると言っても言い過ぎではないと思います。というのは、その年代でその人の人間性がほぼ決定されるためで、その方向で行けば大体こうなる、というのはかなりの程度予測できるからであります。これはもちろん、社会的に成功できるか否かが決定されるという意味ではありませんので、注意してください。ですから最終的に幸せになれるかどうかは、思春期の教育的影響でほぼ決定される、と言っておきましょう。社会的に成功しても不幸な人がいっぱいいるわけですから、この番組で扱っているのはそういう話です。たびたびお話ししていますが、私の場合ちょうどその年代に出会えた先生がいたんです。今にして思えば、スピリチュアルな方向性が出来たのもその先生の直接的な影響だったし、これまで何とか人の道を大きく外れずに済んだのもその先生のおかげだと確信します。でも、私は社会的な成功というものを全然経験していないから何とか保っているものの、もし何らかの段階でスピリチュアル業界で成功していたとしたら、私は容易に人の道を踏み外していたに違いない、と言いたくはありませんが認めます。ましてその先生に出会えていなかったら、私は社会に大きく害をなす人間になっていたに違いないと思います。心理学的に思春期は極めて示唆を受けやすい年代ということが分かっているそうですが、悪く言えばどのようにでも洗脳できてしまうということで、歴史的にも悪用された例があります(ヒトラーユーゲントなど)。人の幸不幸を大切に考える場合、この時期を善用することが鍵になるに違いありません。遺伝的によくない種子を持っている人でも、教育次第でよい方向に持って行ける可能性があり、実際に伝説として語り継がれている覚者が、若い頃は悪党だったという話もあります(スーフィーの言い伝え)。異常と言えるような強欲な人ほど、何かをきっかけにそれが反転すれば、伝説の覚者に生まれ変わる可能性を秘めている、というのは歴史的に見て本当です。結局、大きな情熱とかエネルギーというのは、その向け方によって善にも悪にもなり、その方向性を決めるものは教育だ、とかなりの程度言えると思います。それがたとえ思春期の一瞬の出会いだったとしても、一生を決定づけるほどのインパクトを持ち得るということは、私の経験から言えばあると思います。
ヨアン・クリアーノ『ルネサンスのエロスと魔術』
ルネサンスの文化は想像の文化である。それは内的感覚によって呼び起こされる想像に途方もなく大きな意味を認め、想像に対し、またそれとともに活発に働きかける人間の能力を極限にまで発展させた。(中略)幻想の偶像崇拝的、非宗教的性格を主張することによって、宗教改革は一撃にしてルネサンスの文化を滅ぼしたのである。
同郷ルーマニア出身の宗教学者でミルチャ・エリアーデの愛弟子、ヨアン・クリアーノ(1950-1991)の代表作。ルネサンスとは何だったのか? 専門家でも答えに窮する質問である。専門書であって一般向けに書かれてはいないが、天才ではない私たちが本書を読む意義は、一面的・直線的ではない考え方とは具体的にどういうことなのかを学べる点にあると思う。通俗的な理解では、ルネサンスと言えばギリシア・ローマ時代の学芸の復興だとか、中世の宗教的迷信からの脱却だとかが連想されるかも知れない。しかし実際には、完全に古典に忠実であったわけでも完全に理性中心であったわけでもなく、(内的な感覚印象とも言うべき)「想像的なもの」による錬金術的・神秘主義的な現実の操作を企図していたという側面があった。現代の「思考が現実を創造する」という哲学の源流は古代に遡り、知る由のない経路で確実に中世の西欧社会に伝わっていて、ルネサンス期には迷信的な儀式形態と経験ありきの精神集中の技法を寄せ集めたような様相を呈していたと思われる。マルシリオ・フィチーノやジョルダーノ・ブルーノといった代表的人物の著作がその都度引用され、当時の魔術がどのようなものであったか、ある程度のイメージを掴むことができる。私たちが抱く魔術のイメージからそれほど遠くはないような、言葉、数字、図形、シンボル、占星術を用いる複雑な体系があったらしいが、かと言ってそこから、西洋文明は魔術的技法による権力掌握と大衆操作の歴史であったかのように極論することはできない。現実の解釈は多層的・複眼的なものである。魔術師も錬金術師も(少なくとも表面的には)キリスト者であった。宗教改革(プロテスタント側)も反宗教改革(カトリック側)も、「想像的なもの」と「現実的なもの」を完全に分離するという目的に対しては協働し、その最終結果が現代科学技術文明であるという見方が提示されている。該博な知識を持つ著者ならではの知見が多く、ヨーロッパ知識人の面目躍如に瞠目せざるを得ない。
ジャン・クライン『われ在り』
二十世紀フランスが生んだ二大霊的指導者の一人、ジャン・クライン(1912-1998)。(ちなみにもう一人はアルノー・デジャルダン。)妻子のある医師であり音楽家でもあったが、思うところがあり1950年代に一人インドを旅し、奇跡的な経緯で伝統的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)と、カシミール地方に古代から連綿と伝わるシヴァ派(ヒンドゥー教の宗派の一つ)のヨーガを会得した。帰国後は広く欧米にその教えをもたらし、パリ五月革命に代表される価値観の転換に寄与したとも言え、後継者としてフランシス・ルシールとエリック・バレを残した。現代のネオ・アドヴァイタの中には、シンプルに表現され過ぎていて、インド哲学の知識がない限り的外れな理解が生まれる可能性のあるもの、あるいは、西洋哲学の枠組みの中で再解釈され、意味が歪曲されているように思われるものなど、要するに傍流に変化しているように見えるものもあるが、この本はもともとのエッセンスを見事に抽出していると言って差し支えないだろう。インド哲学をある程度知っている欧米人に向けて語られているが、難しい専門用語やキリスト教との比較に頼らないため、私たち日本人にも分かり易い。ときおり曖昧な表現が使われているからといって何となくフィーリングで読むのではなく、まずは書かれている内容を論理的にきちんと理解するように努力し、そのあとで指し示されているそれそのものを予感するようにするとよい。
(まだ日本語に翻訳されていないが、ギリシャで行われた講演の記録である Open to the Unknown もよい。)
中村天風の心身統一法
『幸福なる人生』
現在、目の前に立って教えを授けている人間に対しても、自分の心の中でもって、壁をつくっちまうからいけないんだ。私とあなた方と大した差はありゃしないぜ。ただ、ここに立っているか、そっちに座っているかだけなの。
天風会(初期の名称は統一哲医学会)は1919年に成立しているが、本書に収められている講演はすべて戦後のもので、中村天風(1876-1968)が命を賭けて作り上げた「心身統一法」の基本原理が読みやすくまとめられている。人間は誰でも、「病」「煩悶」「貧乏」と自ら縁を切り、幸せになる力を与えられていると言う。ただし、ただ期待して待っているだけでは誰も物にはならない。「観念要素の更改」「積極精神の養成」「神経反射の調節」と言い方はやや古めかしいが、極めて具体的な方法論があり、各方面に実際に物になった人を多数輩出して来た事実こそが、これらの方法に妥当性があることを証明している。敢えて分類するとすれば、伝統的なラージャ・ヨーガから形式的な部分を取り除き、日本人向けに組み立て直した内容と言えるだろう。しかもそれで完成としないで、医学的発見を取り入れつつさらに前進しようとしていた点は特筆に値する。心身統一法は、これからの日本のスピリチュアリティの叩き台であると言いたい。
『真人生の探究』
これを分り易く要約すれば、霊性の満足を目標とする創造の生活とは、常に「人の世のためになることをする」ということを目標とする生活なのである。(中略)そしてこれをたやすく実現せしめるためには、出来る限り、人のため、世の中のためになることを言い且つ行うということを、自己人生のたのしみとするという気分になることである。
未だに精神世界では、自説を装飾するために都合の良い学説のみを援用するのが悪しき慣例になっているが、天風は医学・栄養学・哲学・心理学・心霊学など、一つだけ取っても極めるのが困難な学問をいくつも基礎から勉強している。「人間とは何か」「いかに生きるべきか」という根本問題への一つの答えとして総合的に組み立てられた「心身統一法」の基本原則が、百年も前に既に成立していたのには驚くほかない。天風が自ら著した数少ない著作の中で、最も基本と言われているのが本書である。天才の思考プロセスを是非味わってみて欲しい。
『盛大な人生』
どんな場合でも感謝にふりかえてごらん。すると、この心のもつ歓喜の力は、これはもう何とも形容のできない人生のエクスタシーを感じる事実となってあらわれてくる。また、それを求める必要もない。報いを求めちゃいけない。自分の生きてるあいだ、何ともいえない楽しさ、朗らかさ、おもしろさの絶えざる連続だというような生き方にしなきゃあ。それがとりもなおさず、人の生命と宇宙本体の生命との調子を合わせるダイヤルになるんだよ。
心身統一法の高度な段階として天風会員に贈られた講話をまとめた一冊。天風は禅門の人ではなかったが、禅で言うところの悟りに直入するためのいわゆるダイレクトパスをも説いていた。「安定打坐(あんじょうだざ)」と呼ばれる瞑想法がそれである。宇宙の進歩的方向に貢献しないなら意味がないと考え、悟り(有意実我の境)そのものを目的にしなかったところはいかにも天風会らしい。ならば、なぜ瞑想する必要があるのか。それは、純一無雑な意識の大元に立ち返り、心を休ませてあげることで、命の本然の力が湧き出るためだと言う。ここまで噛んで含めて説明してくれる指導書は、私が知る限りでは他にない。
『力の結晶』
吾は今 力と勇気と信念とをもって甦えり、新しき元気をもって、正しい人間としての本領の発揮と、その本分の実践に向わんとするのである。
吾はまた 吾が日々の仕事に、溢るる熱誠をもって赴く。
吾はまた 欣びと感謝に満たされて進み行かん。
一切の希望 一切の目的は、厳粛に正しいものをもって標準として定めよう。
そして 恒に明るく朗かに統一道を実践し、ひたむきに 人の世のために役だつ自己を完成することに 努力しよう。
誦句とは、天風の霊性心から出て来た言葉をそのまま書き留めたもの。意味も分からず呪文のように繰り返し唱えていればいい事が起こるということではなく、言葉が示している中身を確実に自分のものにすることが本来の意図である。まさに天風哲学の結晶と言えるものであるので、心して受け取るべきであろう。本書は、それぞれの誦句に込められた真意を、天風本人が説き明かして行く構成になっている。
森本貴義、近藤拓人『新しい呼吸の教科書』
心身の悩みやトラブルがきっかけとなり精神世界に入門する人の数は多いに違いない。だが、瞑想だとか潜在意識を変えるとか、やたらと(心の操作ですべてを解決できるという)精神論を強調する教えに従って努力したものの、これといった成果を出せないまま何十年も苦しい思いをしている人もありはしないだろうか。それはスポーツの世界で、かつての(服従と忍耐を強要する)根性論が今ではあまり正しくないとされているのと似て、手段がきちんと目的に結び付いていないからという可能性も考え得る。まずは呼吸を改善してみるのはどうだろうか。ストレスの多い現代人は、多くの場合呼吸が乱れているらしい。誰でも最初は(自然な)正しい呼吸をしているが、それを取り戻す必要があるということである。本書は、細胞に届けられる酸素の量を増やすことによって心身の状態を改善できるという事実を、最新の知見を交えて教えてくれる。楽な呼吸をするための姿勢や筋肉を取り戻すエクササイズも紹介されており、基本的に実践中心の内容である。インストラクションをよく読む必要があるが、写真入りなのでイメージはしやすい。ほとんど誰にでもできる基本的な方法から始めて、かなりスポーツをしている人にとってもやり甲斐のあるレベルにまで進んで行く。
バーバラ・マーシニアック『プレアデス+ 地球をひらく鍵』
プレアデス星団の反逆者集団が、チャネラーであるバーバラ・マーシニアック(1948-)を通じてメッセージを伝えるという、常識からすればいわゆるトンデモ本の類いではある。彼らによれば、自分たちの祖先が過去に人類に対して行ったDNA操作の結果、生命の本質が冒涜され、最終的に人間がサイボーグ化された未来の時間軸が存在しているのだと言う。地球はあらゆる生物の設計図のようなものが貯蔵されている12ある図書館のうちの一つで、人間はその情報にアクセスするためのIDカードのようなものであり、それゆえ重要であると言うが、それが具体的に何を意味するのか詳細は語られていない。プレアデス人自身をも含めて、外部からのメッセージを簡単に信用してはいけないとする。なぜなら必要な情報は既に人体に記録されているからとし、それゆえ私たちが自身の中にある情報にアクセスする方法はしっかり語られている。問題は「地球を所有していると思っている」アヌンナキなる高次元の存在たちとゲームをプレイすることによって、私たちが心の内部を覗き込み、すべての本質が愛であることを見破れるかどうかであり、図書館を開く鍵は、地球を我が家として大切に思う気持ちであると言う。古代史からセクシュアリティに至るまで話題は多岐に及び、内容の質は他の追随を許さない。変なことを言うようだが、まずは完全なフィクションとして読むのがいいと思う。それでも、普段のものの考え方にいかに想像力が足りていないかを痛感させられるだろう。歴史学や考古学をやる人には特におすすめ。
ハズラト・イナーヤト・ハーン『音の神秘』
音楽は神への最短かつ最も直接的な道です。しかし人は、音楽とはいかなるものであり、それをどう用いればよいのかを知らなければなりません。
ヴァドーダラー(インド)出身でイスラム神秘主義(スーフィズム)の大家であるハズラト・イナーヤト・ハーン(1882-1927)の著作集の中で、一番有名な第二巻を全訳したもの。主要テーマは音楽であるが、音楽家のために書かれたわけではなく、一般の人をスーフィズムの世界に招待するといった内容である。著者は主要な宗教すべて(特にヒンドゥー教)に精通しており、これから神秘の道に入って行く人に盤石な基礎を与えてくれる(逆に、イスラム教の歴史や哲学を知りたい人には向いていないと言える)。すべては一つのものから発せられる音色、高さ、長さ、強さ、リズムといった特徴を備えた音(波動)であり、五大元素(地、水、火、空気、エーテル)によって表現され、内的な感覚によって聴かれる現象であると説く。そこから規則正しいリズムの効果や、音と音との協調関係(ハーモニー)という考えが導かれる。文章そのものに調和が取れており美しく、かつ経験に裏打ちされていることが感じられ、大師が(何を意味するのであれ)確かに「完成」の域に到達していたことを窺わせる。一見すると、具体的なメソッドは何も書かれていないようであるが、大師の言葉もまた音楽であり、それを本当に「聴く」努力をし、スーフィーたちの気息に同調するつもりで読んでみると、実はいろいろ方法が指し示されていることが理解される。感受性が磨かれれば、その分だけさらに多くの実りを得られる読書体験になるだろう。
アーノルド・ミンデル『自分さがしの瞑想』
西洋と東洋をどちらもよく理解している人はあまりいない。たまにいても評価されない。正しく評価できる人がいないからである。アーノルド・ミンデル博士(1940-)の提唱するプロセス指向心理学が、しかるべき評価を受けているとは言い難い理由は、そんなところかも知れない。「動いているスピリット」とも言うべき「プロセス」を信頼することが鍵になるが、このプロセス自体を科学的に定義することがまず困難ではないかと思う。私たちの現在の人格である「一次プロセス」は、未来からのメッセージである「二次プロセス」に常に脅かされているが、多元的な意識の構造とか、プロセス自体が私たちをどこに導こうとしているのかといった難問に、容易に答えは与えられない。そうした基礎理論上の性格はあるものの、この本で明らかにされる瞑想法は、(静座して心の動きを観察するといった)基本をかじったことさえあれば、誰でも十分に理解し実践することができるものである。逆に、瞑想中に(繰り返し)浮上する雑念や妄想を無視することなく、メッセージとして受け取るべし(瞑想したい私が一次プロセスで、入って来る邪魔が二次プロセスで、両者間の葛藤を眺めているのがプロセス自体と言える)と書いてあるので、仏教やヒンドゥー教の瞑想を極めた上級者にはおすすめしづらい。しかし、ここからスタートする恵まれた初心者だけでなく、すでに瞑想に親しんでいる人も、道しるべになり得るヒントを本書の中にたくさん発見できるはずである。
※本書だけではプロセスワークの瞑想法が具体的にイメージできない場合、同著者の『うしろ向きに馬に乗る』(春秋社、1999年)を副読本にするとよい。
アレクサンドル・ジョリアン『人間という仕事』
哲学はたしかに、苦痛が最後の言葉とはならず、苦痛から生の蔑視が生み出されないために、複数の地平線を開くことを可能にしてくれます。
多くの人にとっては当たり前のことが当たり前でない人にとっては、ものごとはまったく違って見える、ということは忘れられがちな事実である。スイス生まれのアレクサンドル・ジョリアン(1975-)は、脳性運動機能障害というハンデを負いながら、ヨーロッパの伝統的な教育課程において哲学の学士号を取得した正統派である。ヨーロッパの一般的な若者の間では、哲学とは基本的に生活とは無関係であり、上流階級や中高年層が余暇に楽しむものと考えられているらしい。しかし意外と言うべきか、著者にとっての哲学はあくまで実際的な学問なのである。常日頃苦痛を伴うリハビリをすることを余儀なくされ、リハビリを諦めるという選択は半ば自殺と同じ意味を持つという条件の中で、彼にとって生きることは(家族の協力なしでは成り立たない)継続中の闘いであり、自閉し孤立したくなる誘惑に抗って人間に「なる」とは、常に前進し心を高めることである。当然、共感し喜びを見つけることが一番大事な仕事であり、プラトンやスピノザやニーチェは、そのために前に進むことを可能にしてくれる武器や道具を提供してくれる先人である。本書以降の著者は三児の父親になり、西洋哲学の範疇を出て(スワミ・プラジニャーンパッドによる)不二一元論や禅にも出会い、ますます思索を深めている模様である。今現在フランス語圏における気鋭の思想家と言ってよいだろう。
マヘンドラ・グプタ『大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉』
熱心に、真心こめて神に祈りなさい。そうすれば、あの御方は必ずききとどけて下さる。
十九世紀インドの聖人、ラーマクリシュナ(1836-1886)の言行録である。その教えの内容は、ヨーガの四区分(ラージャ、カルマ、バクティ、ジニャーナ)で言えば、バクティ・ヨーガに分類されると思われる。バラモン階級の生まれでありながら、イスラム教にもキリスト教にも自ら入信し、どの道も同じ目的地に到達すると喝破した、目の覚めるような先覚者であった。愛弟子のヴィヴェーカーナンダが、ヨーガ哲学の真髄を初めて欧米に伝えた事実も有名である。「熱心に求めさえすれば、誰でも神を見られる」と、ラーマクリシュナはいとも簡単そうに言う。ほとんどの人は五官の歓びを幻であると観じて捨て去ることができない。しかしラーマクリシュナは、「俗世に染まってしまえば神を見ることはできない」どころか「世間で暮らしていても神を見ることは可能」だとする。一般人に向かって「世を捨てて修行せよ」とか「この世には何の意味も価値もない」などとはまったく言っていない。絶対不動の実在(神)と、多種多様な現象世界の働き(俗世)は、天秤の重さの同じ二つの皿であり、必要なのは(神を恋い慕う)ひたむきな気持ちだけだ言うのである。ラーマクリシュナには、難しい概念を子供でも理解できる譬え話で表現する才能があり、大人は非常に理解し易い。とはいえ、聖人の言葉を無分別に取り入れるのは望ましくない—神にすがれと言うが、実際には人の情けにすがって生きていただけではないか? 聖人ならばどうして病死したのか? 精神文化はともかくとして、インド社会に具体的にどんな貢献をしたのか? もっともな批評である。だが結論を下す前に、まずは本書を一読して欲しい。あらゆる意味で、すべての宗教の本質がここに要約されている。
※上記の文庫版はベンガル語原典からの抄訳である。全五巻の完訳はラーマクリシュナ研究会による編集を経てブイツーソリューションから刊行されている。
ベッセル・ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する』
高等教育では、心理学は基礎から始めて臨床に進むという順番になっている。だが、心理学に興味を持った一般人は、長い時間をかけて基礎から積み上げるのではなく、心理学が実際どのように役に立つのかを一番先に知る必要がある。そこで手引き書を探すわけだが、あまりに選択肢が多く、なかなか困難である。精神病理学は荷が重すぎるし、かと言って、科学的な根拠が明確でないカジュアルな流行本も好ましくはない。一般人にとって心理学はやはり臨床が肝であり、具体的にどんな可能性があるのかを分かりやすく教えてくれる本が必要であろう。PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されるかどうかは別として、人は誰でも、大なり小なりトラウマを抱えて生きているものである。この本のテーマはトラウマであり、それゆえ絵空事のような学問としてではなく、自分自身や身近にいる人に引きつけて理解することができる。専門知識がない読者を想定して説明してくれるので、視床、扁桃体、前頭葉、ミラーニューロン、エピジェネティクス、脱感作といった用語を初めて聞く場合でも有用な知識を得ることができる。多くの臨床例が取り上げられるが、当然気楽に読める内容ではない。臨床心理学に進もうかどうか漠然と考えている若い人にとっては、この本を読むことが、自分に向いているか否かを判断するための格好の試金石にもなる。セルフヘルプ本ではないので、読者が自分で実践する目的には書かれておらず、あくまで臨床家の存在を前提にしているが、トラウマの治療法としては、断片化した感覚や感情を認識し、解離した経験を統合するトップダウン型の方法と、リズミカルな動きやツボのタッピングといった経路で、脳幹の警報システムを解除するボトムアップ型の方法とがあり、両方を併用することで一層効果が上がるという。もちろん投薬治療の可能性も否定されてはいない。幼少期の虐待やネグレクトが人生を大きく狂わせ、ひいては多くの社会問題の根本要因になっているという研究が示され、支援のための仕組み作りを著者は訴えている。
ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』
プラグマティズムで知られるアメリカの心理学者、ウィリアム・ジェームズ(1842-1910)の主著の一つであり、1901年と1902年に分けてエディンバラ大学で行なった講義をまとめたものである。「スピリチュアルな価値」などというものはない、あるいは分からないという前提から始めて、当然否定的な結論に至るのが、普通の科学者というものかも知れない。心霊現象を研究したことでも知られるジェームズであるから、本書でも霊的価値というものに肯定的な立場をとっている。まずテーマを「個人的宗教」、すなわち組織宗教の枠組みの中ではなく、個人が経験し得たことの中で、強烈な宗教性を放っているとしか表現しようのない事例のみに限定している。アフマド・ガザーリー、ハインリヒ・ゾイゼ、イグナチオ・デ・ロヨラ、アビラの聖テレサ、十字架の聖ヨハネ、ヤーコプ・ベーメ、ジョージ・フォックス、ホイットマン、トルストイなど、有名無名の事例が多数取り上げられ、この分野でどんな一次資料があるのかを把握することができる。「神の顕現」としか呼べないような神秘体験をしたことがある人は、そのような一般人の実例も紹介されているので、勇気づけられることになろう。宗教的経験を、生まれつき世界の善性を楽観的に信じる「一度生まれ型」と、極度の鬱や絶望の後にすべてが反転するという、死と再生の「二度生まれ型」の二つに分けた上で、二度生まれ型がより深い宗教性を持つと言う。ちょうどこの頃アメリカで花開きつつあった新思想運動(ニューソート・ムーブメント)さえも、一度生まれ型の宗教として好意的に取り上げている。また、当時は虚無主義と解釈されることの多かった仏教を、キリスト教と同等に評価している点にも感心させられる。とはいえ、神経過敏や強迫観念と聖者との関係、催眠や暗示への感受性と神秘体験の関係、自己侮蔑と犠牲的態度の関係といった、科学者としての精神病理学的な考察を加味することも怠らない。ジェームズの講義の進め方からは、二十世紀初頭で、既に学際的であったハーバード大学の校風を窺い知ることができる。欧米の一流大学への留学を目指す若い人は、このような多面的な議論ができるように、早い段階からトレーニングを積むとよいだろう。演繹的な抽象化を良しとしない、学者としての理想的態度を示してくれる本でもある。
(なお、哲学的興味が薄く、難解な本書を通読する自信がない人は、下巻の「神秘主義」の章のみを読めばそれで十分だと思う。)
夢窓疎石『夢中問答集』
仏教の入門書は数あれど、仏教の本質を捉えるのは難しいと思う。そもそも釈迦本人の説法の中には、当時のバラモン教やアージーヴィカ教の教義に反論する形で説いた相対的な教えが含まれているし、さまざまな哲学を取り込みながら発展して来たという歴史もある。苦諦(生きることは苦しみであるという考え)を根本とするのかと言えば、現世を完全否定するわけでもない。足利直義の質問に、臨済宗の高僧である夢窓疎石(1275-1351)が答えるという形式で書かれているこの本の内容を一言で要約すれば、坐禅とその工夫用心に猪突猛進すべし、ということになろうか。ただし、禅の入門書ではない(教外別伝)。三十一歳で印可を受けてから、悟りの伝達を求めて押し寄せる修行僧たちを避けるために各地を転々としつつ大悟徹底に努め、指導的立場に転じたのは五十歳を過ぎてからと伝えられるから、並大抵の心根ではないだろう。足利直義もまた頭の良い人で、一般人が疑問に思いそうなことを虱潰しに質問しているので、夢窓疎石の答えも包括的な内容になっている。直義の素朴な問い掛けに、「なるほど私も若い頃、同じように考えたことがあった」とその考えの妥当性を認めた上で、「しかし実は、こういうことだ」と続け、分かり易い実例を挙げる。仏法はこうなんだからとにかく信じなさい、とは決して言わないのである。本分の田地、離欲、理入と行入、魔境、菩提心などの重要な概念に、明快かつ徹底的な説明がなされ、レトリックによるごまかしがない。ニューエイジのようにも、ネオ・アドヴァイタのようにも読めてしまうところに、時代を超越する覚者の凄みを感じる。さらっと読むのではなく、よく考えながら読まなければ、仏教のエッセンスを汲むことは難しい。だが、努力するだけの価値はある。
アウグスティヌス『告白』
ローマ帝政期のタガステ(現アルジェリア)の生まれで、ヒッポ・レギウス(現チュニジア)の司教になったアウグスティヌス(354-430)が、自身の半生を告白するという内容である。神の前で告白すると同時に、人に読んでもらうためにも書いているという、二重の構造になっており、後の時代の「告白文学」とは若干性質を異にしている。若き日のアウグスティヌスは、(当時のアフリカ的気質を思えば奔放とまでは言えないものの)情熱的な青春、マニ教や星占いへの傾倒、親友との死別など、さまざまな経験を積んで行く。どうすれば立身出世できるだろうか、結婚はどうしたらよいのかといったことで、普通に思い悩みながらも、類い稀な知性に恵まれていたために、ミラノで今で言う国立大学教授のような要職に就くことに成功する。しかし、「真実」への渇きは尋常ではなかった。スピリチュアルな「探究者」が誰でも通り抜けるであろう典型が、そこには見出せる。彼は自分自身に問いかける。そこには、生きている限りいつかは問わざるを得なくなるすべての問い—自分はどこから来たのか、どう生きればよいのか、何のために生きるのか、神とは、そして悪とは何か—が含まれている。結局、生きているという事実と何の関わりもない哲学に、何の意味があろうか。それから、かの有名な目覚めが起こり・・・単に罰を恐れるがゆえに品行方正な人と、非行も含めて、ありとあらゆることをやり尽くした後に改心(キリスト教の文脈では回心)した人とでは、理解の深さが全然違うのは、いつの時代も共通なことかも知れない。アウグスティヌスが、神の光—それは比喩であって可視光線のことではないと彼は書いている—を、理知的な次元ではなく、「体験した」あるいは「見た」ことは確実である。今やさまざまな資料を比較検討することが可能な私たちは、それは例えば、禅で言うところの「一瞥」や「見性」と本質的に同じであったことを、容易に読み取ることさえできる。この本には、自らの魂と対話しながら読み進める(もともとの意図はこれである)のと、字面通りに受け取るのと、二通りの読み方がある。事実、カール大帝の時代には、アウグスティヌスの著作は「法律的」に解釈されたらしい。キリスト教の前提知識は必要ない(むしろない方がよい)ので、ぜひ心で読んで欲しい。この本を読めば立派な哲学者になれるとは思わない。しかし、西洋文化を本気で理解したいと思ったら、一番最初に精読すべきと言い得るほどの名著である。
企画書「精神世界ガイド」
要点
スピリチュアル版ミシュランガイドの創設を企画します。混迷を極める現代の情報社会では、興味本位の範疇を越えて、本格的に人生の指針を得ようとスピリチュアリティの門を叩いても、これほどたくさんの選択肢があると、本当に自分に合った道を見つけることは難しいのではないでしょうか。初心者が、最初から最良の情報に辿り着くことは稀です。「生徒の準備が出来たとき、教師が現れる」というのは一種の神話であって、現実には、たまたま声高に宣伝していた教師や団体に成り行きで関わって行き、それが実は、自分が本当に求めていた道とは違っていたことに気づくまでに、何十年と労力やお金を無駄にしてしまう人が多いのではないでしょうか。 詐欺まがい、カルトまがいの教師や団体に関わってしまうと、経済的な被害を受けるだけならまだマシで、最悪のケースでは、「人生を奪われた」と言えるほどの悪影響が及びます。質が高く、信頼の置ける教師や団体を紹介する誠実なガイドブックが、是非とも必要な現状ではないでしょうか。そのガイドブックには、博物趣味的にいろいろな情報をただ収集したのではなく、そこから抽出したスピリチュアリティのエッセンスが、端的に明示されているべきではないでしょうか。この企画は本として出版するのが適当でしょうが、予算次第では、インターネット上のみでの公開という選択肢もあります。もちろん、企画者は非営利目的の第三者審査機関に徹することが理想です。
幸せとは
あらゆる種類のスピリチュアリティが一つの目的に集約するとしたら、それは「幸せでいる」ことに尽きるのではないでしょうか。スピリチュアリティ以前の幸せの基本条件として、まず、健康・愛情・(最低限の)経済の三つが満たされることが挙げられます。政治的、宗教的な服従を強制される環境の中で、集団催眠にかけられ、自由と幸福を得ていると思い込まされている状態とは区別され、それは内側から沸き上がる喜びや輝きがあるかないかで判断できます。スピリチュアリティは、それによって(誘導的、強制的に)健康・愛情・経済が脅かされたり、損なわれるものであってはいけないと考えます。その上で、スピリチュアリティでは、幸せには二つの方向性があるとされています。一つは、自己実現方向で、人間社会の繁栄のために何か貢献しようとする積極的態度の中に見出されます。もう一つは、自己消滅方向で、何かを成し遂げようと意志する主体そのものが脱落する過程の中に見出されます。しかし、すべての人が超能力者となり、欲しいものを何でも手に入れること、あるいは、すべての人が世捨て人となり、悟りが開けることが、スピリチュアリティの目的であるとは思いません。このプロジェクトでは、一つの仮定として、本当の幸せはどちらか一方ではなく、美徳とも言うべき両者のバランスにあるという立場を採ります。
先行する企画
先行する類似の企画に、別冊宝島さんの『精神世界マップ』、平河出版社さんの『精神世界の本』、荒俣宏さんの『世界神秘学事典』、ブッククラブ回さんの『スピリチュアルデータブック2007』などがあります。ただ、古典的名著を紹介するという形式だと、スピリチュアリティが単なる知的な探究であるという印象を強めてしまう虞があります。最も参考になる企画は、フランスの出版社 Almora による Guide Almora de la spiritualité で(最新版は2013年刊)、これは古典を掘り起こすことではなく、実践されることに主眼を置き、実地の調査をも含めて検証された、現代フランスの生きたスピリチュアリティの総目録になっています。
なお、日本の宗教法人に関する一次資料としては、文化庁が毎年発行している『宗教年鑑』があります。
評価方法
当該の教師・団体が発行する著作やインターネット上の公式サイトなどに一通り目を通します。その上で、もし予算が許せば、抜き打ち的にイベントやセミナーに参加し、詐欺まがい、カルトまがいの言動がないかどうかをチェックします。完璧な教師はいないのですから、審査上やむを得ない場合を除いては、試したり悪意のある質問をしたりといった挑戦的な行為は慎まなければなりません。大きな団体については、過去に名称を変えたり、裁判沙汰になったりしたことがあるかどうかもチェックします。明瞭な評価基準を設け、掲載するべきかどうかを総合的に判断します。評価するに当たっては、一般常識に加えて、宗教全般についての基礎的理解や、カルトの原理、サイコパスの心理についての基本的知識が必須になります。
評価基準
- 内容。人の悩み苦しみを徹底的に洞察し、解決のための実際方法を明確に提示できているかどうかをチェックします。さらに、当該の教師自身が、人にインスピレーションを与えるような素晴らしい生き方を、実際にしているかどうかをチェックします。
- 料金。今の日本には、精神世界・スピリチュアル業界の適正価格の相場がありません。そのため、心に悩みを抱える人たちに付け込む心理的商売が、野放しになっている状態です。当該の教師・団体が提供するサービスの対価が、一般常識に照らして法外な金額になっていないかどうかをチェックします。また、 当該の教師・団体の活動の根幹が、家元制度・上納金制度・資格商法・マルチ商法・ねずみ講の上に成り立っていないかをチェックします。政府が規制をかけざるを得ない事態になる前に、民間が率先して自浄能力を示して行きましょう。
- 歴史。一般的に、長く続いているものほど信頼性が高いと言えます。ただし、伝統的な正統派だからと言って、盲目的に高く評価するようであってはいけません。
- 成果。当該の教師や団体に関わりを持った人たちが、実際に変化し、幸せになっているかどうかをチェックします。
- 知行合一(言行一致)の原則。美しい理想が語られるのみで、現実の行動を伴わない教えは虚しいものです。言葉と行為との間に、著しい矛盾が見られる教師や団体を、高く評価してはいけません。
- 公平性の確保。執筆者・編集者が信奉する教義が、やたらと高く評価されないように、可能な限りダブルチェック、トリプルチェックを徹底する必要があります。執筆者・編集者の知り合いが、不適切に高く評価されないように配慮しなければなりません。また、このプロジェクト自体が、企画者の売名行為にならないように、配慮しなければなりません。
対象範囲
全世界を網羅することは現実的ではないので、日本国内で活動している教師、または日本に活動拠点を持っている団体に限定します。少なくとも二十年以上は安定した活動を続けており、なおかつ際立った成果を上げている教師や団体を中心に取り上げることが望まれます。いかに優れているように見えても、活動開始から十年も経っていないような教師や団体を、安易に取り上げるべきではありません。
- 伝統宗教。仏教、神道、キリスト教、ヒンドゥー教(ヨガ哲学)、イスラム教、ユダヤ教、先住民文化(シャーマニズム)など。何千年もの伝統は、それだけ多くの検証に耐えて来たと考えられるので、王道だと思います。
- 神秘主義思想。歴史的に見て、神秘主義はスピリチュアリティの最大の源泉とも言えますが、神秘のヴェールは最大の煙幕にもなり得ます。おとぎ話のようで現実味のない団体には、疑問を呈するべきです。
- 心理学・心理療法・脳科学。精神の健康は誰にとっても重要ですし、そこが入り口になる人たちも多くいると思います。
- ヒーリング。医学的検証に耐え、スピリチュアリティに連なるものであれば、取り上げるべきです。
- 自己啓発。ビジネスの成功哲学にも、スピリチュアリティに繋がって行くものがあります。
- 新興宗教。敬遠されがちな分野ですが、もし卓越した教義を持ち、運営方法も穏当であるなら、取り上げるべきです。
- 超能力者・霊能者。科学的検証にオープンであり、なおかつ著しい社会的(影響力ではなく)貢献があるなら、取り上げるべきです。
- 霊媒(チャネリング)。チャネリングによる伝達は、一般的に信憑性が低いと考えられますが、年月を経て情報の有効性が証明されているなら、取り上げるべきです。
- 文学・哲学。実践するという点では疑問の余地があるものの、純粋な文学・哲学の中にも目を見張る内容のものがあります。
- 芸術家・音楽家。美しさはスピリチュアリティに繋がります。
- 武術。伝統的な武術にはスピリチュアリティが内包されている場合が多いので、取り上げるべきです。
- エコロジー。先住民文化と共鳴する環境哲学の中には、優れたものがあります。
対象外とするべき範囲
非常識で無責任な教師や団体は、取り上げるべきではありません。トラブルを回避するために、敢えて悪評を掲載するよりも、評価できない教師・団体は最初から掲載しないという方針を採ります。 評価できると判断した場合でも、(取材とは違うので、掲載許可を貰う必要はないとは思いますが、)メディアへの露出を望まない教師や団体を、一方的に掲載するべきではありません。また、次のような特徴を持つ教師・団体は、そもそもスピリチュアリティとは何の関係もないため、対象範囲外とします。
- 過激な教師や団体。宇宙には善悪も意味もないので何をやっても構わないとする教え、幻覚剤を用いる実験、黒魔術、悪魔崇拝、常軌を逸した儀式や修行を伴う超越思想など。
- 霊的伝統の枠組みを悪用し、明らかに金銭やマインドコントロールを主目的としている教師や団体。
- 社会不適応的な傾向を持つ人に、まやかしの希望を与えて依存させることで成り立っている教師や団体。
- 理屈がどうであれ、信者に家族を捨てることを奨励する教師や団体。
- 脱退しようとする人に対して、恫喝や脅迫をする教師や団体。
- 諸悪の根源は政治経済システムにあるなどとし、反体制的な言動が目立つ教師や団体。
- 自らが一番優れていると主張し、他を悪しざまにけなす教師や団体。
- まったくのデタラメではないものの、明らかに大袈裟な「奇跡」「究極」「世界初」「革命」「何もかも上手く行く」などの表現を用いたり、明らかに話を盛っている体験談や有名人の推薦文を持ち出したりして、誠意を欠いた宣伝広告を行う教師や団体。
- 性的な関係が入り乱れている教師や団体。
- 本名や都合の悪い過去の経歴を隠そうとする教師。
- 悪意はないものの、(エゴは実在しないので)自分には責任がないという哲学のもと、気まぐれな言動で人を惑わす教師。
- 自らを過信し、絶対に間違いを認めようとせず、人に頭を下げることを知らない教師。
- 「信じる信じないはあなた次第」という、結果が検証されることを最初から視野に入れていない、その場限りの占いや人生相談。
- 一般に存在を公表していない秘密結社や、一般に公開してはいるものの、上級者サークルに入るにはイニシエーションを受ける決まりになっている、秘密めいた団体。
- フランスの1995年の報告書でセクト指定されている団体とその関連。
改訂について
一度は信頼が置けると判断した団体が、主催者が変わった途端に豹変することもあるため、数年に一度は全面改訂する必要があります。言うまでもなく、権威主義に陥り、賄賂を貰って掲載するなどという暴挙に出てはなりません。万が一、高く評価していた教師や団体が、社会的な問題を引き起こした場合には、心ならずも片棒を担いでしまったことを謝罪し、責任を取るのが当然です。(それだけ審査を慎重に行わなければならないということです。)
協賛者募集
ご報告:募集は締め切りました。
Pain
How are you doing, my friends? This time, I’m going to talk about pain. A heavy one, isn’t it?
Every creature seems to have pain from time to time and eventually dies. If the Creator existed in the first place, why did He or She create this mechanism of life and death? What purpose does pain serve? This is not only a philosophic question but also an empirical question.
Pain is ingrained in biology. As the most primitive form of biology, let’s take a microbe for example. A microbe has to eat to sustain its life. Hunger is a kind of pain, isn’t it? I suppose so. Hunger is painful and eating is pleasurable, right? Hunger motivates a microbe to move and find something to eat. So let’s say that pain creates movement. If pain doesn’t exist, everything will come to a halt. I think this is a fundamental understanding of pain.
Furthermore, as human beings, we have a subtler form of pain: boredom. When we are bored, we are motivated to know something, get emotional or intellectual stimulation. So eventually, we created highly charged civilizations.
We could say that most of us don’t like pain. We don’t like to suffer. So some scientists may look into eliminating pain from our DNA. If this attempt succeeded, what would happen next? We would get bored to death.
Some people think that there are only pleasure and pain in this world. An unhappy but realistic idea. The dynamic between pleasure and pain creates a sense of power in human society. We feel a sense of power when we get excited, right? In fact, some people get excited from pain. Some people use chemicals to get excited. Esoterically this is all about the first three chakras. We all have the animal nature or the survival instinct in a sense. Historically, we have been obsessed with the relation between master and servant for a very long time.
In this pitiful worldview, there’s no room for love, of course. Without any trace of unconditional love, we don’t think there is more than pleasure and pain, indeed. Concepts of the divine are bullshit for those who don’t know love. I don’t blame them. It is a difficult situation because love isn’t explainable in word.
Quite naturally, the lack of love leads to meaninglessness, psychological suffering and depression. Are we hopeless? Yes and no. This may sound ridiculous for some people, but I think that charity is very important. Beyond hypocrisy, the act of giving brings us back to our true nature that is love. Charity is a gradual process. We can practice giving and also receiving in families and relationships. So simple and obvious, yes?
OK, that’s all for today. Thank you for listening.
What Do You Want?
Hi guys. What’s up? This time, I’m going to talk about what we want in life. Again, let’s not make it a philosophic question. You desire something, right? That’s what you want in life. Whether desire is good or bad, that’s a philosophic question. But I don’t go there.
Many people talk about how to attract what we desire. Indeed, if it’s possible, we all want to know how. The key seems to be imagination. I don’t assure you that imagination brings you what you want materially. Instead, I can assure you that imagination creates specific feelings in you. First off, let’s imagine that you already have what you want, whatever it is. Imagine with passion, feel it, and then drop all the conditions around this feeling. Do this over and over again. Then you can feel the feeling itself without any conditions, at ease. Very simple, right? This method would help a lot.
Maybe rich people can have it all materially. They can live in the best villas in the world, they can eat the best foods in the world, they can wear the best clothes in the world, they can have the best prostitutes in the world, they can take the best drugs in the world and get high all the time, but in most cases, still they don’t feel happy. They are satisfied AND unhappy.
When you can’t get what you want, you are unsatisfied, right? But don’t confuse satisfaction with happiness. You can be unsatisfied AND happy, because it is possible to feel happy immediately with the help of imagination. That’s what it is! If you are completely satisfied, you won’t get out of bed, meaning you’re dead. Desire is simply a metabolic function of human mind.
We have a choice to make. For example, I would think like this: I haven’t dated anyone, but I want someone, so I’m unhappy. Careful, this is a thinking process, not THE fact, right? On the contrary, I can say, I am happy because I haven’t dated anyone, as if the current situations were what I really wanted. Then I can think of merits of the circumstance, such as that no one tells me what I should do, I am free, I can spend all the time and money only for myself, et cetera, et cetera. A quick turn of thinking mind. Even if you have never had a girlfriend or a boyfriend, yes, you can be happy anyways. Even if no one appreciates your work, yes, you can be happy anyways.
I don’t talk about renunciation here. If you have many lovers and problems with that, so be it, you can be happy anyways. If you have plenty of money and problems with that, so be it, you can be happy anyways. You can start with the status quo. Is this difficult? No way! This is not a crazy idea but a solid way to relax and start enjoying life. In fact, if you want to be happy right away, this would be the easiest way, except when you are in physical pain.
You don’t have to agree with me, but please reflect on this idea. All right? That’s it for now. Thank you for listening.
Are You Happy?
Hi guys, nice to see you. My name, you can’t pronounce it. Call me Menet if you will. I am Japanese. I’m not a native speaker of English, so please be generous in my errors. In fact, I don’t speak English. In this program, I write a script and then read it. I’m not a teacher, nor a scholar, nor a healer. I’m not married. I don’t have children. And I don’t work at all. I am nothing, in your view perhaps. So please don’t follow me, but just reflect on the contents of this program, so that they will nourish you. All right?
This program is concerned with happiness, your personal happiness. I don’t talk about impersonal awakening, and I never will. To be honest, I don’t understand anything about Non-duality teachings or creating reality teachings.
Are you happy? Let’s not make it a philosophic question here. We all know how happiness feels like, don’t we? Happiness is not a concept but a feeling, right? If you’re unhappy, all the philosophical pursuits are but a failure. We all know that. Spiritual teachers say they finished searching. They mean they ended the search for Truth, because they found it, probably. Very metaphysical indeed. But I would say, we will end the search for happiness when we are actually happy, when we no longer have to imagine feeling happy. After all, in spirituality nothing matters except whether of not you are truly happy.
But how de we get there? In this first episode, I propose three methods. These are the basis of what I will talk about in the future.
One. You decide to feel happy first thing in the morning. You say like this: “I decide to feel happy no matter what.” You make the decision, that’s all. Very simple, right?
Two. This is a fundamental method which dates back thousands of years. I call this method “nurturing heat”. First, think about what you love to do the most. Playing baseball, eating candies, going shopping, talking with your friends, dating with your partner, anything will do. You feel passionate, right? Some people call it Shakti or Kundalini. I simply call it heat. Please find this heat, right now. Don’t worry, everyone can do it. Second, separate all the situations that provoke this passion, the heat in you from the heat itself, and feel only the heat inside you. Without any conditions, you can concentrate on the heat itself, right? Third, make the heat growing and growing, everyday. Each day, it feels as if the heat were stronger than the day before, more and more. That’s what I mean by “nurturing heat”, OK? If it’s easier for you, picture in your mind a fire altar and a flame, not necessarily in your body, but inside. I don’t say intensify the image of this altar. This is not an exercise for the so-called visualization. I say nurture your feeling.
Three. This is rather supplementary. Close your eyes and imagine a space where nothing exists, as if even you didn’t exist. Be vacant or dumbfounded for about 30 seconds, 2 minutes at the most, once a day.
You would think these methods have nothing to do with happiness, but they sure do from my perspective. If you need a sort of textbook somewhat corresponding to this program, I would recommend The Teachings of Tempu by H. E. Davey, although I don’t intend to disseminate the Japanese culture. That’s it for now. Don’t hesitate to contact me by email! Thank you for listening.