人生はゲームという表現があるかと思いますが、何のゲーム?と問われれば、「宝探しゲーム」というのが一番しっくり来るかも知れません。いわゆる覚者の教えや物語を読んで、スピリチュアリティに並々ならぬ興味を持ったとすれば、例の図で言う牛を見つけた状態に確かに相当します。覚者の行跡やいわゆる遺品というのは、確かにこの世の宝に相当します。博物館に展示されている覚者の遺品を実際に見に行ったりすることが出来ますが、ノンデュアリティじゃないですけど、外側の世界の宝を見るということは、自分の内側にある宝を見ているのとまったく同一のことです。そうした物品には何の価値もないと考える必要はないし、逆にオークションで聖遺物を買って所有するとご利益があると考えるのも愚かなことです。覚者に縁のある事物に触れるということは、自分の中に埋もれている宝を掘り出すよすがになるという点にのみ価値があるわけです。ご利益があると言えばある訳ですが、パートナーに出会うとか不動産が手に入るとかいうことは、自分の中にある宝が輝き出て、人生に行動として表現し始めた後に来る、と理解するのが正しいだろうと思います。人それぞれ与えられている宝の内容は違うと言えるので、変な話になりますが、どんな内容かあらかじめ分からない点が宝探しゲームにソックリな所です。私の個人的な意見でしかないですけど、自分の中に宝があると想定するのはすごくいいと思います。