資本主義とスピリチュアル

のちの時代になって今のスピリチュアル業界を振り返ると、いかにも資本主義的な内容が大部分を占めていたと評されるに違いありません。人間は霊的な存在であるというのがスピリチュアリティの大前提ですが、その教えは生身の人間が説くものであり、その人が生きている時代の色づけがなされることは至極当然と言えます。霊性の高さのみを語れば物質世界の存在意義はないことになり、この世での繁栄のみを語れば霊性はないことになります。この世を大調和世界に持って行くためには精神性と物質性の両方を理解する必要があるため、スピリチュアルティーチャーさんというものは本来的にダブルスタンダードで生きているように見えるのが当たり前なんであります。スピリチュアルな教えそのものは本質的に収入を得るための手段ではないのですが、スピリチュアルティーチャーさんも人間として生きて行かなければ活動が出来ません。が、往々にしてそれが行き過ぎてしまうようです。本格的な経済哲学が分からないのでごく初歩的な話になって申し訳ありませんが、資本主義社会の枠組みの中で勝ち組と言ったら、働かないであるいは自分の好きなことだけをして豊かで健康で文化的な生活を送れる人だと思うんです。(その生活を手に入れるためにしたかも知れない)権力闘争の話はここでは除外します。で、資本主義社会の中で成功しているように見える、要するに生活に余裕があるように見えるティーチャーさんというのが、今のスピリチュアル業界の一つのアイコンになっているようです。すると、楽して豊かな生活をしたいがためにその仕事をやっているように、終いには見えてしまう場合もあります。現実問題として、お金に困っているように見えるティーチャーさんの話なんか誰も聞きたがらないし信用しない、という理由もその背後にあります。いずれにせよ、この業界は(政治と同じくらい)本来の目的を簡単に見失ってしまいやすい環境にあると言えるでしょう。

新しい経済学

お金になるかならないかが分かり易い価値の基準になっている昨今ですが、経済学で言う価値の定義って何でしょう? 素人なので間違っていたら申し訳ないんですが、銀行の金利とか利子というのは永遠の経済成長という想定と言いますか、世の中に付加価値が生まれ続けない限り成り立たないのではないでしょうか。農業・漁業・林業・採掘業・工業・小売業といった私たちの生活を支える基本的な仕事の他に、いろんな種類のサービス業が占める割合が多くなっている現在ですが、サービス業が生み出す付加価値を計量することが今の経済学では難しいんじゃないかと思います。知的生産という言葉がありますが、例えば娯楽産業はお金になる限り付加価値と認められていると思います。人の気持ちを暗くし恐怖を与えるのであれ、人の気持ちを明るくし勇気を与えるのであれ、今の経済学で見るのは売上だけで、内容はまったく問わないのではないでしょうか。また、医療産業の規模はかなり大きいのでしょうが、人類の成長という観点からしたら、私たちが健康になり産業規模が小さくなるのが付加価値だと言えるのに、今の経済学では医療産業が拡大することも経済成長に入れるのではないでしょうか。動植物の生態の研究のような、それ自体ではまったくお金にならないような学問がいくらもありますが、そういった要素は知的生産としてカウントされていないように思います。結局、世の中を動かす大きな力を持つと見做されない要素は相手にしないという訳で、私たちの実際生活を価値の基準から正確に計量しようという気がないのではないでしょうか。そんなような議論をあまり聞いたことがないのを寂しく思います。

価値の実現

価値の実現というのは本来、いわゆる神聖な計画が成就されるさまを表す言葉であります。ところが人間が利己的な欲望を満たす行為にもやはり価値という言葉が使われており、考えてみれば正反対の意味に同じ言葉が使われているという事情になっております。神様の意志というのはもちろん、すべてに利するという方向性でありまして、人間の考える自分一人が得をして、そのために他の誰かが損をするという商業的方向性ではないのであります。そこら辺の区別がついてないと、自然をも思いのままにコントロールできる未来型の理想社会に向かっていると信じる人間が、実は破滅に向かっていることに気づかないのは当然と言えば当然なのでしょう。人間も自然の一部ですから、利己的な人間が増えれば天災や疫病で人類全体が淘汰されるという自然現象が起きても不思議ではありません。考えてみれば当たり前のことが分からない私たちであります。子どもの頃は誰でも自我が未発達なので、みんなの幸せを願うという本心が自然と現れるのであります。いったん大人になったら最後、元の状態には二度と戻らない人が多いというのが現実ではないでしょうか。ちょっとお金ができたら全然必要のないものをたくさんコレクションしたり、自分でも馬鹿馬鹿しいと分かっているのにやめられません。それだけに、人類が抱えている問題は実は大したものではないとも言えるのではないでしょうか。カラスが光り物を集めているという程度の話です。

資本主義のゲーム

みんな自分の利益だけを考えて生きて行くのは当たり前だし、その何がいけないの? という世の中なわけです。哲学的にはプロテスタンティズムが産業革命や資本主義の起動力になったというような話(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)もありますが、たぶんその通りなんだろうと思います。基本的にお金を持てば持つほど、さらに儲かる仕組みが作られたわけです。お金を稼げる人になることが社会的に正しいとされます。だけど、社会的に立派とされるステータスの高い職業に就いている人や、便利な発明品の特許料で巨額の収入を得ている人に限って、大概は厭世的になったり自己嫌悪に陥ると相場が決まっているというのはどういう訳か、考えたことがあるでしょうか。資本主義のゲームというのは当然、能力の高い人ほど有利にプレイできるものです。勝ち組になれてかなりのお金が取れるようになる過程は、すごく面白いわけです。これは酔っぱらって麻雀をしているようなもので、冷静な判断はついてないけど楽しむことは楽しめている、という状態です。酔いが醒めて正気に返ってみると、方々に敵が出来ていたりして、のっぴきならない状況にはまり込んでしまっていることに気づいたりします。すると、そこから先は楽しいどころか苦しみの連続になるわけです。そういう人生はひどくむなしいものです。プロテスタンティズムが奨励した勤労や貯蓄が、神への奉仕という当初の理念をさっさと失って、功利そのものが目的にすり替わってしまったのと同じように、ステータスの高い仕事や科学的発明から理想が失われて、お金になることは何でも正しいと考えられるようになったことが、現代の不幸の一因になっているのではないでしょうか。便利だけれども最終的には人を不幸にする発明品というものがあります。儲かるけれども人を不幸にする仕事をする人はあまり幸せにはなれない、というのはまぎれもない事実です。かと言って、自分だけの利益を求めることに何の興味もなくなってしまうと、世の中ひどく生きづらいものです。でも、理想を言えばそこがスピリチュアルの出発点であるべきだと思います。功利を捨てて世間からは落伍者と呼ばれながらも、どうにか生きて人の幸せのために尽くそうと奮闘するみなさんに、心から拍手を送りたいと思います。生きているためには功利を完全に捨てることはできない、そこがジレンマですね。昔の覚者もみんな悩んだところだと思います。