スピリチュアルの学び方

そもそもスピリチュアリティを「学ぶ」という姿勢で始める人は少ないかも知れません。生まれつき深い信仰心がある人は、スピリチュアリティの本質を最初から分かっているので、誰に教えられなくても自分に一番合う道を見つけて突き進んで行くものです。それなら何の問題もないのですが、そういうケースは稀であって、ほとんどの場合、自分の興味と必要性に合致する教えに自然と引き寄せられるものだと思います。例えば普通は見えないものが見え聞こえないものが聞こえる人は、霊能や超能力開発の方向に行くのが当たり前ですし、特殊な感性を持ちいわゆる変わり者扱いをされて生き辛さを感じている人は、「そんなあなたにも価値がある」と認めてくれる教えに安心したりもしますし、社会的に成功体験をしている人は、願望実現的な教えが「自分の成功をうまく説明してくれている」と感じ満足したりもします。それの何が問題だと思うのかと言いますと、結局何が目的なのかがハッキリしないまま年月が過ぎ去ってゆき、周囲の人間から「あの人はすごく変わった、立派になった」と評されることもないまま「スピリチュアルが趣味」の人生で終わってしまうきらいがある点であります。一般的な大学の教育課程では、出来る限り幅広い分野を概観した上で、だんだんと自分の専門を狭めて行くのが良いとされていると思います。いきなり専門だけやると、良い研究に必要な視野が得られないからではないでしょうか。スピリチュアリティでも同じようなことは言えまして、伝統宗教や成功法則やヒーリングなど幅広い分野を選り好みせずにちょこっとずつ学ぶことによって、理想を言えば「スピリチュアリティの目的はこういうことなんじゃないか」というのが自分なりに見えて来ると思います。そうなれば自分に合う道を自分で判断できるようになるんじゃないでしょうか。

あらまし

これからスピリチュアリティの門を叩こうという人にどんな説明をするのか、という概略を作るのがあいのほしの役割かと思うんですが、実際年を取ってみると、思考能力が衰えると言うよりは、どうでもいいような余分な知識が心に付着してしまい、ゼロベースで考えにくくなる、というのが悩みどころであります。一般常識から掛け離れた訳の分からない前提の数々をベースに話をするティーチャーさんが増えるほど、ナントカ業界と揶揄されてしまう結果になります。スピリチュアリティに興味を持ってやって来る人一人一人がみんな違うので、一緒くたに同じ説明をするべきでない、というのが現実ではないでしょうか。まず、何を求めているのか。そこの動機を深く掘り下げて行く必要がございます。次に、どんな方法を提供できるか。体を使う方法が合っている人もいれば、芸術的な表現が合っている人もいれば、言葉を使うコミュニケーションが合っている人もいます。向き不向きを見極める必要がございます。最後に、進歩しているかどうかのフォローアップ。どこかで行き詰まっていたら、教師の手腕でブレイクスルーを起こさせる必要がございます。それもこれも、個人の夢を叶えるとか、あるいは個人が夢から目覚めるとかいうことじゃなく、人類全体で進歩するためという視点から援助が行われないといけないんだろうと思います。そんなこんなのあらましが書かれた小冊子が配られる時代が来るでしょう。宗教や信条に関係なく、誰もが参考にできる内容のものです。

教える

一般的に学校の先生と言ったら、学習指導要領に従って、一つ一つ順番に教えるのが役割と言えるでしょう。そこで、教師用のマニュアルといったものが一切なく、例えば音楽を教えるとして、あるのは一台のピアノのみで、超初心者に「音楽の本質」を伝えるとしたらどうやるでしょうか。記憶の中から、何年に誰それが何々という作品を作曲したという知識を披露したところで、あんまり意味を成さないでしょう。ピアノを弾いて、例えばベートーヴェンはこう、ショパンはこう、と実演する必要があります。楽譜を読めない相手にハーモニーやリズムといった基本概念をうまく説明できないといけません。要するに、身に付いたもの板に付いたものが相当なければ出来ないはずです。スピリチュアル業界では、本に書かれていることをそのまま話し、素性がばれないように一対一の関係を避けるような形式でも、もちろん教師は務まります。お金が目的なら、自分を実際以上に見せるためのマーケティング、ブランディング、パッケージングといったビジネスの手法がそのまま有効です。目に見えないし証明も出来ないこと教えるんですから、ビジネスモデルが破綻するまでにうまくすりゃ何十年もあるので、長い間儲けが見込めるわけです。でも、それではちと寂しい気がしますがいかがでしょうか。生き方を教えるんですから、一対一で伝えるのがやっぱり理想です。昔の覚者さんは偉かったなんて言うと、教師のハードルを上げようとしているように聞こえてしまいますが、あいのほしの意図はそうではありません。むしろこのレベルに達してないと教えてはいけないというような基準はない方がいいと思うんです。レベルが高い低いではなく、身に付いたものを人格から人格へありのままに伝えることを基本とすべきで、そこにイメージの偽装があってはならないと考えます。

道徳教育

いわゆる思春期が終わるまでの教育環境が一生に渡って影響するというのは、まあ一般的に同意される見方だろうと思います。だからこそ、家庭によっては学校選びを真剣にやるのではないでしょうか。で、とりわけ何が大事かと言ったら、どんなに優秀でも倫理観に欠ける人間になったらすべてが台なしという訳で、いわゆる道徳教育が一番だと結論されるのではないでしょうか。小中学校には道徳の時間がありますけど、ないよりはましという程度で、あまり力を入れていないのではないかと思います。巷には注目を集めることで若くして成功者になり、お金の力で好きなことだけをする自由と楽しい生活を手に入れた、というような論調の発信で溢れております。そういう発信があまりに多いので、若い人たちがそういう価値観を刷り込まれてしまいます。最近のスピリチュアル業界も、これがまた同じような論調の発信で溢れております。いわゆる過去世やご先祖様の「自分さえよければいい」という思いがどれくらい溜まっているかは人に依ります。だけど多くの場合、自由に好きなことをやればいいと教わったら、まずは業の思いから来る自分だけの楽しみを求めようとするに決まってます。すると中年になって本心が目覚めて来たとしても、例えて言えば若い頃の好き放題の後始末で一生終わってしまう感じになりかねません。伝統的に霊的な知識は四十歳を過ぎてからという考え方があったのは、昔の人は思慮深かったからだろうなと思います。業の思いと本心の区別が付かなければ、人生はあらぬ方向に行ってしまいます。若い頃にいい本を読むことももちろん必要ですが、一番いいのは本心そのままを生きている人に出会うことです。もしそういうチャンスを与えられたなら一生大切にしないといけません。

学びの手順

スピリチュアリティについて誰もが押さえて置くべき基本というのがあるんでしょうが、それを言い出すとすぐに宗教的なドグマが出来上がってしまうのが難しいところです。良かれと思って作った規則が精神の自由を束縛し始めると、人間社会はあらぬ方向に行ってしまいます。私たちが生きているのには目的があるということを理解することが重要です。だけど、あなたの役割はこれです、と他人に教えられるのではなく、自分でこうだと分からなければ何の意味もありません。一人一人に割り当てられた固有の役割があり、スタート地点からしてそれぞれ違っているので、全員一律に同じ人生哲学を押し付けられるのではなく、自分の道を自分で見つけられる教育環境を、チャンスとして与えられるのが理想なんだろうと思います。勉強であれスポーツであれ芸術であれ、あるいは伝統宗教であれ、何でも一通りやってみることが出来る環境があれば、自分のやりたいことを自分で見つけることが出来ます。一方、身体的にであれ精神的にであれ、あるいは家庭環境であれ、自分で選ぶ余地があんまりない束縛の中に生まれついている人もいます。そんな中で自分がやるべき義務を果たしながら、精神の自由を得るためにスピリチュアルな道に置かれていると言っていいでしょう。普通は、人間やりたいことを自由にやるのがいいに決まってます。実はそれが、「自分がやった」という自意識を満足させるためではなく、完全調和のために誰もが自分の仕事を捧げているんだということに、今この人生を生きている間に気づけたら最高だと思います。

知識

知識を得ることは大事だとあいのほしでは考えております。「何も知る必要はない」とする哲学もありまして、極論すれば言語も使わない原始生活が理想ということになるんでしょうが、本気でそれを実行する人はいないのが現実ではないでしょうか。で、私自身好奇心が人一倍強かったので、(最初から最良の先生に出会えていたにも関わらず)マイルドな知識に飽き足らず、最新と言われている知識や、あまり知られていない秘教的な知識を追い求めたりもしました。でも、デッサンや楽器の練習と同じで、基本を踏まえずに応用から始めると、ある程度のところまでは行けるものの、いわゆる自己流の癖が身に付いてしまったがために必ず行き詰まる時が来るんであります。限界に直面して「なぜ基本が大事だと教えてくれる人が誰もいなかったんだろう」とその時になって思うものです。では精神世界の基本とは何ぞやと言いますと、結局、伝統宗教の顕教では必ず一番最初に教えられる、日本では道徳や倫理に分類される部分の教えがそれなんであります。人を傷つけてはいけないとか、貪ってはいけないといった基本的態度を一切踏まえないで、いきなり悟りとか究極が分かったとしても、結局性格のいびつな人間が出来上がるばかりで霊性の花は開きません。分かるのと実践するのとが全然別物になってしまうわけです。最近のスピリチュアル業界はモラルに関する教えを軽視する傾向にあるように思うので、そこがあんまりいい結果が出て来ない原因なんじゃないかなと考えたりします。

人を助けるには何が必要か

人助けという言葉はよく使われますし、誰かの助けになりたいと願うきれいな心の持ち主には拍手を送りたいと思います。助けたいという純粋な気持ちが相手に伝わることで何かが変わる、という心の交流の可能性を否定したくはありません。が、実際問題として、病気や借金や依存症に苦しむ人を、思いやりの気持ちだけでは助けられないことも事実ではないでしょうか。人を助けたい気持ちから何かを始めても、自分の中に持つべきもの持たないと、挫折する結果になります。それは残念なことだと思います。一つには、お金や物資で援助するという方法がまず考えられます。何もないよりはマシです。でも、スピリチュアルティーチャーとして人を幸せにすることを目指すのなら、持つべきものが他にもたくさんあります。まず第一に、自分自身が、それが何を意味するのであれ、大きな変化を経過しているということが前提になります。科学的な根拠が全然ないんですが、変化を経過した人というのはある種の磁場を発生していて、それが周りに寄って来る人に変化を誘発するんだろうと思います。パワースポットみたくなっているわけです。頭が良くて情報処理能力が高ければ、自分が変化を経過してなくても道を説くことはできますが、それで救われる人がいるとすれば、始めから大した問題のなかった人なんだろうと思います。スピリチュアルを言うなら、不幸な人を幸せにするくらいじゃなきゃいけません。で、スピリチュアルティーチャーと言うからには、何が本当の幸せなのかという定義について、一本筋の通った哲学を持たなければなりません。相手が欲しいと思うものを何でも与えてあげれば、その人を幸せにできるでしょうか? そういう問題について何であれ結論を出せていなければ、人を助けることはできません。次に、一つの病気に対して複数の治療法があるのと同じように、できる限り多くの技術や方法を心得ていることが望ましいんであります。人を助けたいと本当に思うなら、できるだけ多くの人を助けたいと望むのではないでしょうか。もし一つの方便が究極だとか唯一の道だとか主張する人がいるとしたら、それはこだわりであり、あまり多くの人の心に触れることはないでしょう。だからスピリチュアルティーチャーになってからも勉強を続けるべきです。身体的アプローチは何か一つ習得していることが望ましいように思います。ジャン・クラインさんのカシミール・ヨーガ、アレクサンダー・テクニーク、フェルデンクライス・メソッド、太極拳など、まあどれも難しいものばかりですけれども、私たちは日本人なんですから、野口晴哉先生の「活元運動」ができると特にいいんじゃないかと思います(ちくま文庫から出ている『整体入門』を参照のこと)。呼吸法の指導ができることは言うまでもなく重要で、必須の能力だと言えます。臨床心理学のテクニック、フォーカシングハコミセラピープロセスワークの基本を習得しておくと役に立ちます。医師免許や公認心理師の資格を取れるようであれば当然ベストだと思います。スピリチュアルティーチャーになるというのはもともとハードルの高いものですし、そうあるべきであります。だからこそ、思春期から準備を始めることが必要だと思います。

思春期の教育

英語でティーンエイジと言いますけど、13歳から19歳までですか、いい悪いは別として、その年代に受けた教育がその人の人生を決めると言っても言い過ぎではないと思います。というのは、その年代でその人の人間性がほぼ決定されるためで、その方向で行けば大体こうなる、というのはかなりの程度予測できるからであります。これはもちろん、社会的に成功できるか否かが決定されるという意味ではありませんので、注意してください。ですから最終的に幸せになれるかどうかは、思春期の教育的影響でほぼ決定される、と言っておきましょう。社会的に成功しても不幸な人がいっぱいいるわけですから、この番組で扱っているのはそういう話です。たびたびお話ししていますが、私の場合ちょうどその年代に出会えた先生がいたんです(八島義郎先生のこと)。今にして思えば、スピリチュアルな方向性が出来たのもその先生の直接的な影響だったし、これまで何とか人の道を大きく外れずに済んだのもその先生のおかげだと確信します。でも、私は社会的な成功というものを全然経験していないから何とか保っているものの、もし何らかの段階でスピリチュアル業界で成功していたとしたら、私は容易に人の道を踏み外していたに違いない、と言いたくはありませんが認めます。ましてその先生に出会えていなかったら、私は社会に大きく害をなす人間になっていたに違いないと思います。心理学的に思春期は極めて示唆を受けやすい年代ということが分かっているそうですが、悪く言えばどのようにでも洗脳できてしまうということで、歴史的にも悪用された例があります(ヒトラーユーゲントなど)。人の幸不幸を大切に考える場合、この時期を善用することが鍵になるに違いありません。遺伝的によくない種子を持っている人でも、教育次第でよい方向に持って行ける可能性があり、実際に伝説として語り継がれている覚者が、若い頃は悪党だったという話もあります(スーフィーの言い伝え)。異常と言えるような強欲な人ほど、何かをきっかけにそれが反転すれば、伝説の覚者に生まれ変わる可能性を秘めている、というのは歴史的に見て本当です。結局、大きな情熱とかエネルギーというのは、その向け方によって善にも悪にもなり、その方向性を決めるものは教育だ、とかなりの程度言えると思います。それがたとえ思春期の一瞬の出会いだったとしても、一生を決定づけるほどのインパクトを持ち得るということは、私の経験から言えばあると思います。