五井昌久の世界平和の祈り

人間の真実の姿は、業生ではなく、神の分生命(分霊)であって、常に祖先の悟った霊である守護霊と、守護神(天使)によって守られているものである。この世の中のすべての苦悩は、人間の過去世から現在に至る誤った想念が、その運命に現われて消えてゆく時に起る姿である。いかなる苦悩といえど、現われれば消えるものであるから、消え去るのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難の中にあっても、自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくと共に、守護霊、守護神への感謝の心を常に想い、世界平和の祈りをつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得できるものである。

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私達の天命が完うされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます

五井先生ありがとうございます

人間社会に渦巻く我欲の想いには凄まじい勢いがあり、一度社会人になったらいつの間にか「大切な何か」を忘れ、自分が本来何を求めていたのかさえ分からなくなるのは必定と言えるであろう。悪い想念が行為として現れ、その結果さらに悪い想念を生むという水平方向の悪循環を断ち切るにはどうしたらよいのか。悪い因縁を消し去り、結果として心身を効果的に癒す方法があるとすれば、私たちが幽玄微妙な霊的エネルギーに繋がり、それを垂直方向に降ろして来るということになろう。だが、実際どうやれば出来るのか。業(カルマ)の波を打ち消すことができる覚者はこれまでにもいたものの、一般人が簡単に到達し得る領域の能力ではないため、基本的にはその覚者の恩寵に与る、悪く言えばひたすらすがる以外に方法がなかったのではないだろうか。そこへ登場したのが、白光真宏会(びゃっこうしんこうかい)を主宰した五井昌久(1916-1980)の世界平和の祈りであった。五井師は難行苦行を否定はしないが、現代人に必要なのは誰にでも実践できる易行道であると説く。世界平和の祈りを一心に唱えることで、根源から来る精妙なエネルギー、すなわち「救世の大光明」に心を繋ぐことになる。それを中継してくれるのが、私たち一人一人の神性への道を最初から最後まで導いてくれる守護霊・守護神の存在である。西洋にも守護天使やハイヤーセルフとの協働という教え方があるが、守護霊・守護神への感謝を中核に据えた宗教というのは他で聞いたことがない。今となっては、私たちの人格の小さな想いの力で人間社会を矯正して行くことが困難なため、むしろ祈りによってすべてを守護霊・守護神の働きに一任し、思い煩わずに明るく朗らかに生きて行く方がよいとする。無論私たち個々人の人生問題も然り。世界平和の祈りは白光真宏会に入会しなくても誰でもでき、またいつでもどこでも実践してよいことなので、やたら多くを期待するのはよくないが、まずは試してみてはいかがだろうか。

※さらに理解を深めるためには、全十三巻の『五井昌久全集』がある。

因縁

原因があって結果が起こる、というのは当たり前なような話なんですが、精神世界では当たり前じゃないんであります。ものごとには実は原因と結果という関係性はなく、理由もなくただ起こり、それゆえ人生何やっても誰にも責任はない、というような哲学は大昔からあるんであります。で、本当は何も起きていないようなもんなんだから、人生何が起きても心がそれを相手にしなければあなたは自由である、というようなティーチャーさんが多くいらっしゃるわけです。心が関わり合いをつけなければ因果の渦はやがて消えて行く、というのがこの教えの肝です。だけど、因縁やカルマと呼ばれるようなのは、ないと思えばないんだ、自分で認めなければいい、そうすればすべて思い通りになるんだ、というところまで進んでしまうと、少なくともインド哲学の文脈では間違っていることになってしまいます。それは『マハーバーラタ』の中で、クリシュナが猟師に誤って殺されてしまうくだりに、明確に示されているように思います。クリシュナでさえも運命の支配者にはなれなかったわけです。「カルマの法則はない」の本来の意味は、あなたは因果の渦に左右されない実在なんだということで、過去の行為がただちに清算されるという意味ではなかったはずです。なのに、「引き寄せの法則」が楽して儲かる方法と解釈されたのと同じ延長線上で、「何も起きていない」を責任を取らなくてもいい、と表面的に解釈する人を多数輩出してしまったのは事実だと思います。努力しないで結果を得られると言っているようなもので、努力なんて馬鹿馬鹿しい思ってる人が真に受けるんじゃないでしょうか。それはそれでいいですが、現世の幸せを大切に考えるなら、人の幸せのために尽くす行為の中に自分を失って行く、それが本当に自分の幸せでもあるという生き方が、よい因縁を作り結果的によい人生を作る王道だと思うんです。それも漠然と他人ということではなく、パートナーや家族のために尽くすことから始めるのが理想で、それが私たちが家庭を持つ必要がある理由だと思います。

資本主義のゲーム

みんな自分の利益だけを考えて生きて行くのは当たり前だし、その何がいけないの? という世の中なわけです。哲学的にはプロテスタンティズムが産業革命や資本主義の起動力になったというような話(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)もありますが、たぶんその通りなんだろうと思います。基本的にお金を持てば持つほど、さらに儲かる仕組みが作られたわけです。お金を稼げる人になることが社会的に正しいとされます。だけど、社会的に立派とされるステータスの高い職業に就いている人や、便利な発明品の特許料で巨額の収入を得ている人に限って、大概は厭世的になったり自己嫌悪に陥ると相場が決まっているというのはどういう訳か、考えたことがあるでしょうか。資本主義のゲームというのは当然、能力の高い人ほど有利にプレイできるものです。勝ち組になれてかなりのお金が取れるようになる過程は、すごく面白いわけです。これは酔っぱらって麻雀をしているようなもので、冷静な判断はついてないけど楽しむことは楽しめている、という状態です。酔いが醒めて正気に返ってみると、方々に敵が出来ていたりして、のっぴきならない状況にはまり込んでしまっていることに気づいたりします。すると、そこから先は楽しいどころか苦しみの連続になるわけです。そういう人生はひどくむなしいものです。プロテスタンティズムが奨励した勤労や貯蓄が、神への奉仕という当初の理念をさっさと失って、功利そのものが目的にすり替わってしまったのと同じように、ステータスの高い仕事や科学的発明から理想が失われて、お金になることは何でも正しいと考えられるようになったことが、現代の不幸の一因になっているのではないでしょうか。便利だけれども最終的には人を不幸にする発明品というものがあります。儲かるけれども人を不幸にする仕事をする人はあまり幸せにはなれない、というのはまぎれもない事実です。かと言って、自分だけの利益を求めることに何の興味もなくなってしまうと、世の中ひどく生きづらいものです。でも、理想を言えばそこがスピリチュアルの出発点であるべきだと思います。功利を捨てて世間からは落伍者と呼ばれながらも、どうにか生きて人の幸せのために尽くそうと奮闘するみなさんに、心から拍手を送りたいと思います。生きているためには功利を完全に捨てることはできない、そこがジレンマですね。昔の覚者もみんな悩んだところだと思います。

成長する

魂の成長という表現は、精神世界では何気によく使われますが、それが本当は何を意味するのかは結構謎だったりします。具体的に何をどうすれば魂の成長に繋がるのでしょう。魂が成長したことを示す兆候はあるのでしょうか。超常的な能力が出て来たり、ものごとが急にうまく行くようになれば、魂が成長した証拠だと言えるでしょうか。一つには、成長というものを認めないというか、全否定する考え方もあります(現世否定的な伝統)。そういう感じの教えをするティーチャーさんご自身が、新しい知識や経験を拒否する生き方をされているのなら、言っていることとやっていることが一致しているので、問題はありません。そうでないのなら、その考え方は間違っていると言わざるを得ないでしょう。子供を見ていれば一目瞭然ですが、私たちには新しい知識や経験を積極的に獲得して行こうとする自然的傾向があります。「何も足さない、何も引かない。ゼロのままがいい」なんて言う子供を見たことはありません。そういうことを言うのは哲学者か宗教家だけではないでしょうか。だけど、成長するということを哲学的に言い表そうとするとひどく難しいわけです。神様の方向に行く、とか全体が調和する方向に働く、とか言葉にするとすごく簡単なんですが、分かるようで全然分からないわけです。かく言うあいのほしそのものが、今思い返せば笑ってしまうような、訳の分からない大げさな概念で世の中に貢献しようと頑張っていたんです。結局のところ、本当に人に喜んでもらえる、いやすべての存在物に喜んでもらえるような生き方を具体的にできなきゃ、スピリチュアルな概念は何の意味もありません。別の言い方をすれば、自分の幸せがすべての人の幸せに繋がって行くような立派な生き方ができるようになることが成長だ、と言えると思います。そこに結び付いて行かないものは、すべてこだわりということになります。スピリチュアルが意味のないこだわりになってしまっている場合が多いように思います。成長したいと願うなら、余計なこだわりをすべて手放すことが必要なように思います。

口伝と書伝

昔から、大覚者と呼ばれるような先生に限って、直接書き残した本がない場合が多いわけです。その理由を察するに、やはり文字だけではその真意が伝わりづらいからだったんだろうと思います。厳密な定義とは違うかも知れませんが、ここで仮に、口頭や直接指導で伝達することを口伝、教典を残して伝達することを書伝という風に言ってみましょう。口伝と書伝はそれぞれ性質が異なり、よい面と悪い面があります。口伝は以心伝心という訳で、師匠が弟子の状態を見ながら、ここはいい、そこは違うとやれるので、一番適確な方法だと言えると思います。一方で、師匠の側から見れば伝達が途絶えてしまうリスクがあり、弟子の側から見れば本物の先生を見分けられるのかというリスクがあります。最悪、カルトに引っ掛かって人生を棒に振る可能性もあるわけです。それに対し書伝は、あくまで文字を頼りに自分で進んで行くことになるので、理想を追い求めるのに上限がないというメリットがあります。一方で、教典に書かれた本来の意図とは全然違う方向に進んでしまっても、自分では全然それと気が付かないという問題があるのです。違ってますよと指摘してくれる人が誰もいないので、そのまま「辿り着いた」と思っている人も出るかも知れません。だから歴史的に見て、書伝は分派が出来やすいんであります。いずれにせよ、何か外側に権威や規準が置かれており、そこを通過しなければダメだという話になった場合、一体誰が何のためにこんなことをしてるんだろうという疑問に、最後は収束するのではないでしょうか。私はそう思います。結局、弟子として極めて優秀で、これ以上ないくらい真剣に修行しても、自分はそもそも何を求めているんだろうという疑問にケリをつけない限りはダメなのだろうと思います。よく言われている通り、軸とか信念といった部分です。私もこの年になって、自分は信念がないからダメなんだなと思うんであります。幸せを大切に考えるんであれば、自分で方法を工夫してやってかなきゃいけないし、成功したいんであれば信念を持たなければダメ、実は悟りに時間はかからないと言うけど本当だな、と思います。自分で信念して疑わなければ、何事もその通りに行くに違いありません。

懐に入る

精神世界に限らず「心を開く」というのはいいこととして語られます。実際、多くの人が心を開き出したなら、この世界はまったく違った場所になることでしょう。今ある問題はあらかたなくなり、スピリチュアリティについての考え方もまったく変わるでしょう。心が閉じているというのは、個の意識になっているということで、自分のことしか考えられないという状態です。だからこそ、自分が得するにはどう動いたらいいだろうかと策謀を企てるわけです。よく考えてみればどうでもいいような、小さなものごとを巡って人々が闘争する世界になるわけです。で、昔から身を持ち崩したりして、半ば強制的にすべてをさらけ出して生きて行かなきゃいけない境遇というものがあるということを、みなさんどこかで知っています。そこに、理由がどうであれ、心を全開にして人々と関わって行く魅力があるのを、誰しもどこかで気づいているのではないでしょうか。カップルや夫婦の間で、お互いに心を開いて交流できたという瞬間が持てただけでも、もう何とも言えません。まして、常に心を開いて生きて行けたらどんなにすごいことでしょう。平穏無事で、相当恵まれた人生を生きた人も、もし心が閉じていたのであれば、本当に生きたとは言えないと言っても言い過ぎではないのではないでしょうか。それくらい違うものです。「あなたも私もない」という世界を地で行くんであります。あなたも私もいないという悟りの哲学を説いていらっしゃる先生が、教師という立場にこだわるせいなのか、個の状態にあり、心を開いていないという可能性もあり得ます。ただ言うのではなく、地で行くところに本当の幸せがあるはずです。英語であけっぴろげな性格のことをオープンブック(an open book)と言うそうですが、まずは包み隠さない態度が糸口になると思います。スピリチュアルティーチャーならなおさら、都合の悪い過去の事実を言わないだけでも、嘘をついているのと同じになってしまいます。自分の評価を下げるようなマイナスな話でも、事実なら率先して言うくらいでちょうどいいと思います。隠そうとするのは我があるからです。だからこそ心を開くのがこれほど難しいわけですが、いったん開けたら間違いなく世界が変わることでしょう。

人を助けるには何が必要か

人助けという言葉はよく使われますし、誰かの助けになりたいと願うきれいな心の持ち主には拍手を送りたいと思います。助けたいという純粋な気持ちが相手に伝わることで何かが変わる、という心の交流の可能性を否定したくはありません。が、実際問題として、病気や借金や依存症に苦しむ人を、思いやりの気持ちだけでは助けられないことも事実ではないでしょうか。人を助けたい気持ちから何かを始めても、自分の中に持つべきもの持たないと、挫折する結果になります。それは残念なことだと思います。一つには、お金や物資で援助するという方法がまず考えられます。何もないよりはマシです。でも、スピリチュアルティーチャーとして人を幸せにすることを目指すのなら、持つべきものが他にもたくさんあります。まず第一に、自分自身が、それが何を意味するのであれ、大きな変化を経過しているということが前提になります。科学的な根拠が全然ないんですが、変化を経過した人というのはある種の磁場を発生していて、それが周りに寄って来る人に変化を誘発するんだろうと思います。パワースポットみたくなっているわけです。頭が良くて情報処理能力が高ければ、自分が変化を経過してなくても道を説くことはできますが、それで救われる人がいるとすれば、始めから大した問題のなかった人なんだろうと思います。スピリチュアルを言うなら、不幸な人を幸せにするくらいじゃなきゃいけません。で、スピリチュアルティーチャーと言うからには、何が本当の幸せなのかという定義について、一本筋の通った哲学を持たなければなりません。相手が欲しいと思うものを何でも与えてあげれば、その人を幸せにできるでしょうか? そういう問題について何であれ結論を出せていなければ、人を助けることはできません。次に、一つの病気に対して複数の治療法があるのと同じように、できる限り多くの技術や方法を心得ていることが望ましいんであります。人を助けたいと本当に思うなら、できるだけ多くの人を助けたいと望むのではないでしょうか。もし一つの方便が究極だとか唯一の道だとか主張する人がいるとしたら、それはこだわりであり、あまり多くの人の心に触れることはないでしょう。だからスピリチュアルティーチャーになってからも勉強を続けるべきです。身体的アプローチは何か一つ習得していることが望ましいように思います。ジャン・クラインさんのカシミール・ヨーガ、アレクサンダー・テクニーク、フェルデンクライス・メソッド、太極拳など、まあどれも難しいものばかりですけれども、私たちは日本人なんですから、野口晴哉先生の「活元運動」ができると特にいいんじゃないかと思います(ちくま文庫から出ている『整体入門』を参照のこと)。呼吸法の指導ができることは言うまでもなく重要で、必須の能力だと言えます。臨床心理学のテクニック、フォーカシングハコミセラピープロセスワークの基本を習得しておくと役に立ちます。医師免許や公認心理師の資格を取れるようであれば当然ベストだと思います。スピリチュアルティーチャーになるというのはもともとハードルの高いものですし、そうあるべきであります。だからこそ、思春期から準備を始めることが必要だと思います。

思春期の教育

英語でティーンエイジと言いますけど、13歳から19歳までですか、いい悪いは別として、その年代に受けた教育がその人の人生を決めると言っても言い過ぎではないと思います。というのは、その年代でその人の人間性がほぼ決定されるためで、その方向で行けば大体こうなる、というのはかなりの程度予測できるからであります。これはもちろん、社会的に成功できるか否かが決定されるという意味ではありませんので、注意してください。ですから最終的に幸せになれるかどうかは、思春期の教育的影響でほぼ決定される、と言っておきましょう。社会的に成功しても不幸な人がいっぱいいるわけですから、この番組で扱っているのはそういう話です。たびたびお話ししていますが、私の場合ちょうどその年代に出会えた先生がいたんです(八島義郎先生のこと)。今にして思えば、スピリチュアルな方向性が出来たのもその先生の直接的な影響だったし、これまで何とか人の道を大きく外れずに済んだのもその先生のおかげだと確信します。でも、私は社会的な成功というものを全然経験していないから何とか保っているものの、もし何らかの段階でスピリチュアル業界で成功していたとしたら、私は容易に人の道を踏み外していたに違いない、と言いたくはありませんが認めます。ましてその先生に出会えていなかったら、私は社会に大きく害をなす人間になっていたに違いないと思います。心理学的に思春期は極めて示唆を受けやすい年代ということが分かっているそうですが、悪く言えばどのようにでも洗脳できてしまうということで、歴史的にも悪用された例があります(ヒトラーユーゲントなど)。人の幸不幸を大切に考える場合、この時期を善用することが鍵になるに違いありません。遺伝的によくない種子を持っている人でも、教育次第でよい方向に持って行ける可能性があり、実際に伝説として語り継がれている覚者が、若い頃は悪党だったという話もあります(スーフィーの言い伝え)。異常と言えるような強欲な人ほど、何かをきっかけにそれが反転すれば、伝説の覚者に生まれ変わる可能性を秘めている、というのは歴史的に見て本当です。結局、大きな情熱とかエネルギーというのは、その向け方によって善にも悪にもなり、その方向性を決めるものは教育だ、とかなりの程度言えると思います。それがたとえ思春期の一瞬の出会いだったとしても、一生を決定づけるほどのインパクトを持ち得るということは、私の経験から言えばあると思います。

ヨアン・クリアーノ『ルネサンスのエロスと魔術』

ルネサンスの文化は想像の文化である。それは内的感覚によって呼び起こされる想像に途方もなく大きな意味を認め、想像に対し、またそれとともに活発に働きかける人間の能力を極限にまで発展させた。(中略)幻想の偶像崇拝的、非宗教的性格を主張することによって、宗教改革は一撃にしてルネサンスの文化を滅ぼしたのである。

同郷ルーマニア出身の宗教学者でミルチャ・エリアーデの愛弟子、ヨアン・クリアーノ(1950-1991)の代表作。ルネサンスとは何だったのか? 専門家でも答えに窮する質問である。専門書であって一般向けに書かれてはいないが、天才ではない私たちが本書を読む意義は、一面的・直線的ではない考え方とは具体的にどういうことなのかを学べる点にあると思う。通俗的な理解では、ルネサンスと言えばギリシア・ローマ時代の学芸の復興だとか、中世の宗教的迷信からの脱却だとかが連想されるかも知れない。しかし実際には、完全に古典に忠実であったわけでも完全に理性中心であったわけでもなく、(内的な感覚印象とも言うべき)「想像的なもの」による錬金術的・神秘主義的な現実の操作を企図していたという側面があった。現代の「思考が現実を創造する」という哲学の源流は古代に遡り、知る由のない経路で確実に中世の西欧社会に伝わっていて、ルネサンス期には迷信的な儀式形態と経験ありきの精神集中の技法を寄せ集めたような様相を呈していたと思われる。マルシリオ・フィチーノやジョルダーノ・ブルーノといった代表的人物の著作がその都度引用され、当時の魔術がどのようなものであったか、ある程度のイメージを掴むことができる。私たちが抱く魔術のイメージからそれほど遠くはないような、言葉、数字、図形、シンボル、占星術を用いる複雑な体系があったらしいが、かと言ってそこから、西洋文明は魔術的技法による権力掌握と大衆操作の歴史であったかのように極論することはできない。現実の解釈は多層的・複眼的なものである。魔術師も錬金術師も(少なくとも表面的には)キリスト者であった。宗教改革(プロテスタント側)も反宗教改革(カトリック側)も、「想像的なもの」と「現実的なもの」を完全に分離するという目的に対しては協働し、その最終結果が現代科学技術文明であるという見方が提示されている。該博な知識を持つ著者ならではの知見が多く、ヨーロッパ知識人の面目躍如に瞠目せざるを得ない。

ジャン・クライン『われ在り』

二十世紀フランスが生んだ二大霊的指導者の一人、ジャン・クライン(1912-1998)。(ちなみにもう一人はアルノー・デジャルダン。)妻子のある医師であり音楽家でもあったが、思うところがあり1950年代に一人インドを旅し、奇跡的な経緯で伝統的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)と、カシミール地方に古代から連綿と伝わるシヴァ派(ヒンドゥー教の宗派の一つ)のヨーガを会得した。帰国後は広く欧米にその教えをもたらし、パリ五月革命に代表される価値観の転換に寄与したとも言え、後継者としてフランシス・ルシールエリック・バレを残した。現代のネオ・アドヴァイタの中には、シンプルに表現され過ぎていて、インド哲学の知識がない限り的外れな理解が生まれる可能性のあるもの、あるいは、西洋哲学の枠組みの中で再解釈され、意味が歪曲されているように思われるものなど、要するに傍流に変化しているように見えるものもあるが、この本はもともとのエッセンスを見事に抽出していると言って差し支えないだろう。インド哲学をある程度知っている欧米人に向けて語られているが、難しい専門用語やキリスト教との比較に頼らないため、私たち日本人にも分かり易い。ときおり曖昧な表現が使われているからといって何となくフィーリングで読むのではなく、まずは書かれている内容を論理的にきちんと理解するように努力し、そのあとで指し示されているそれそのものを予感するようにするとよい。

(まだ日本語に翻訳されていないが、ギリシャで行われた講演の記録である Open to the Unknown もよい。)

中村天風の心身統一法

『幸福なる人生』

現在、目の前に立って教えを授けている人間に対しても、自分の心の中でもって、壁をつくっちまうからいけないんだ。私とあなた方と大した差はありゃしないぜ。ただ、ここに立っているか、そっちに座っているかだけなの。

天風会(初期の名称は統一哲医学会)は1919年に成立しているが、本書に収められている講演はすべて戦後のもので、中村天風(1876-1968)が命を賭けて作り上げた「心身統一法」の基本原理が読みやすくまとめられている。人間は誰でも、「病」「煩悶」「貧乏」と自ら縁を切り、幸せになる力を与えられていると言う。ただし、ただ期待して待っているだけでは誰も物にはならない。「観念要素の更改」「積極精神の養成」「神経反射の調節」と言い方はやや古めかしいが、極めて具体的な方法論があり、各方面に実際に物になった人を多数輩出して来た事実こそが、これらの方法に妥当性があることを証明している。敢えて分類するとすれば、伝統的なラージャ・ヨーガから形式的な部分を取り除き、日本人向けに組み立て直した内容と言えるだろう。しかもそれで完成としないで、医学的発見を取り入れつつさらに前進しようとしていた点は特筆に値する。心身統一法は、これからの日本のスピリチュアリティの叩き台であると言いたい。


『真人生の探究』

これを分り易く要約すれば、霊性の満足を目標とする創造の生活とは、常に「人の世のためになることをする」ということを目標とする生活なのである。(中略)そしてこれをたやすく実現せしめるためには、出来る限り、人のため、世の中のためになることを言い且つ行うということを、自己人生のたのしみとするという気分になることである。

未だに精神世界では、自説を装飾するために都合の良い学説のみを援用するのが悪しき慣例になっているが、天風は医学・栄養学・哲学・心理学・心霊学など、一つだけ取っても極めるのが困難な学問をいくつも基礎から勉強している。「人間とは何か」「いかに生きるべきか」という根本問題への一つの答えとして総合的に組み立てられた「心身統一法」の基本原則が、百年も前に既に成立していたのには驚くほかない。天風が自ら著した数少ない著作の中で、最も基本と言われているのが本書である。天才の思考プロセスを是非味わってみて欲しい。


『盛大な人生』

どんな場合でも感謝にふりかえてごらん。すると、この心のもつ歓喜の力は、これはもう何とも形容のできない人生のエクスタシーを感じる事実となってあらわれてくる。また、それを求める必要もない。報いを求めちゃいけない。自分の生きてるあいだ、何ともいえない楽しさ、朗らかさ、おもしろさの絶えざる連続だというような生き方にしなきゃあ。それがとりもなおさず、人の生命と宇宙本体の生命との調子を合わせるダイヤルになるんだよ。

心身統一法の高度な段階として天風会員に贈られた講話をまとめた一冊。天風は禅門の人ではなかったが、禅で言うところの悟りに直入するためのいわゆるダイレクトパスをも説いていた。「安定打坐(あんじょうだざ)」と呼ばれる瞑想法がそれである。宇宙の進歩的方向に貢献しないなら意味がないと考え、悟り(有意実我の境)そのものを目的にしなかったところはいかにも天風会らしい。ならば、なぜ瞑想する必要があるのか。それは、純一無雑な意識の大元に立ち返り、心を休ませてあげることで、命の本然の力が湧き出るためだと言う。ここまで噛んで含めて説明してくれる指導書は、私が知る限りでは他にない。


『力の結晶』

吾は今 力と勇気と信念とをもって甦えり、新しき元気をもって、正しい人間としての本領の発揮と、その本分の実践に向わんとするのである。

吾はまた 吾が日々の仕事に、溢るる熱誠をもって赴く。

吾はまた 欣びと感謝に満たされて進み行かん。

一切の希望 一切の目的は、厳粛に正しいものをもって標準として定めよう。

そして 恒に明るく朗かに統一道を実践し、ひたむきに 人の世のために役だつ自己を完成することに 努力しよう。

誦句とは、天風の霊性心から出て来た言葉をそのまま書き留めたもの。意味も分からず呪文のように繰り返し唱えていればいい事が起こるということではなく、言葉が示している中身を確実に自分のものにすることが本来の意図である。まさに天風哲学の結晶と言えるものであるので、心して受け取るべきであろう。本書は、それぞれの誦句に込められた真意を、天風本人が説き明かして行く構成になっている。

森本貴義、近藤拓人『新しい呼吸の教科書』

心身の悩みやトラブルがきっかけとなり精神世界に入門する人の数は多いに違いない。だが、瞑想だとか潜在意識を変えるとか、やたらと(心の操作ですべてを解決できるという)精神論を強調する教えに従って努力したものの、これといった成果を出せないまま何十年も苦しい思いをしている人もありはしないだろうか。それはスポーツの世界で、かつての(服従と忍耐を強要する)根性論が今ではあまり正しくないとされているのと似て、手段がきちんと目的に結び付いていないからという可能性も考え得る。まずは呼吸を改善してみるのはどうだろうか。ストレスの多い現代人は、多くの場合呼吸が乱れているらしい。誰でも最初は(自然な)正しい呼吸をしているが、それを取り戻す必要があるということである。本書は、細胞に届けられる酸素の量を増やすことによって心身の状態を改善できるという事実を、最新の知見を交えて教えてくれる。楽な呼吸をするための姿勢や筋肉を取り戻すエクササイズも紹介されており、基本的に実践中心の内容である。インストラクションをよく読む必要があるが、写真入りなのでイメージはしやすい。ほとんど誰にでもできる基本的な方法から始めて、かなりスポーツをしている人にとってもやり甲斐のあるレベルにまで進んで行く。

バーバラ・マーシニアック『プレアデス+ 地球をひらく鍵』

プレアデス星団の反逆者集団が、チャネラーであるバーバラ・マーシニアック(1948-)を通じてメッセージを伝えるという、常識からすればいわゆるトンデモ本の類いではある。彼らによれば、自分たちの祖先が過去に人類に対して行ったDNA操作の結果、生命の本質が冒涜され、最終的に人間がサイボーグ化された未来の時間軸が存在しているのだと言う。地球はあらゆる生物の設計図のようなものが貯蔵されている12ある図書館のうちの一つで、人間はその情報にアクセスするためのIDカードのようなものであり、それゆえ重要であると言うが、それが具体的に何を意味するのか詳細は語られていない。プレアデス人自身をも含めて、外部からのメッセージを簡単に信用してはいけないとする。なぜなら必要な情報は既に人体に記録されているからとし、それゆえ私たちが自身の中にある情報にアクセスする方法はしっかり語られている。問題は「地球を所有していると思っている」アヌンナキなる高次元の存在たちとゲームをプレイすることによって、私たちが心の内部を覗き込み、すべての本質が愛であることを見破れるかどうかであり、図書館を開く鍵は、地球を我が家として大切に思う気持ちであると言う。古代史からセクシュアリティに至るまで話題は多岐に及び、内容の質は他の追随を許さない。変なことを言うようだが、まずは完全なフィクションとして読むのがいいと思う。それでも、普段のものの考え方にいかに想像力が足りていないかを痛感させられるだろう。歴史学や考古学をやる人には特におすすめ。

ハズラト・イナーヤト・ハーン『音の神秘』

音楽は神への最短かつ最も直接的な道です。しかし人は、音楽とはいかなるものであり、それをどう用いればよいのかを知らなければなりません。

ヴァドーダラー(インド)出身でイスラム神秘主義(スーフィズム)の大家であるハズラト・イナーヤト・ハーン(1882-1927)の著作集の中で、一番有名な第二巻を全訳したもの。主要テーマは音楽であるが、音楽家のために書かれたわけではなく、一般の人をスーフィズムの世界に招待するといった内容である。著者は主要な宗教すべて(特にヒンドゥー教)に精通しており、これから神秘の道に入って行く人に盤石な基礎を与えてくれる(逆に、イスラム教の歴史や哲学を知りたい人には向いていないと言える)。すべては一つのものから発せられる音色、高さ、長さ、強さ、リズムといった特徴を備えた音(波動)であり、五大元素(地、水、火、空気、エーテル)によって表現され、内的な感覚によって聴かれる現象であると説く。そこから規則正しいリズムの効果や、音と音との協調関係(ハーモニー)という考えが導かれる。文章そのものに調和が取れており美しく、かつ経験に裏打ちされていることが感じられ、大師が(何を意味するのであれ)確かに「完成」の域に到達していたことを窺わせる。一見すると、具体的なメソッドは何も書かれていないようであるが、大師の言葉もまた音楽であり、それを本当に「聴く」努力をし、スーフィーたちの気息に同調するつもりで読んでみると、実はいろいろ方法が指し示されていることが理解される。感受性が磨かれれば、その分だけさらに多くの実りを得られる読書体験になるだろう。

アーノルド・ミンデル『自分さがしの瞑想』

西洋と東洋をどちらもよく理解している人はあまりいない。たまにいても評価されない。正しく評価できる人がいないからである。アーノルド・ミンデル博士(1940-)の提唱するプロセス指向心理学が、しかるべき評価を受けているとは言い難い理由は、そんなところかも知れない。「動いているスピリット」とも言うべき「プロセス」を信頼することが鍵になるが、このプロセス自体を科学的に定義することがまず困難ではないかと思う。私たちの現在の人格である「一次プロセス」は、未来からのメッセージである「二次プロセス」に常に脅かされているが、多元的な意識の構造とか、プロセス自体が私たちをどこに導こうとしているのかといった難問に、容易に答えは与えられない。そうした基礎理論上の性格はあるものの、この本で明らかにされる瞑想法は、(静座して心の動きを観察するといった)基本をかじったことさえあれば、誰でも十分に理解し実践することができるものである。逆に、瞑想中に(繰り返し)浮上する雑念や妄想を無視することなく、メッセージとして受け取るべし(瞑想したい私が一次プロセスで、入って来る邪魔が二次プロセスで、両者間の葛藤を眺めているのがプロセス自体と言える)と書いてあるので、仏教やヒンドゥー教の瞑想を極めた上級者にはおすすめしづらい。しかし、ここからスタートする恵まれた初心者だけでなく、すでに瞑想に親しんでいる人も、道しるべになり得るヒントを本書の中にたくさん発見できるはずである。

※本書だけではプロセスワークの瞑想法が具体的にイメージできない場合、同著者の『うしろ向きに馬に乗る』(春秋社、1999年)を副読本にするとよい。

アレクサンドル・ジョリアン『人間という仕事』

哲学はたしかに、苦痛が最後の言葉とはならず、苦痛から生の蔑視が生み出されないために、複数の地平線を開くことを可能にしてくれます。

多くの人にとっては当たり前のことが当たり前でない人にとっては、ものごとはまったく違って見える、ということは忘れられがちな事実である。スイス生まれのアレクサンドル・ジョリアン(1975-)は、脳性運動機能障害というハンデを負いながら、ヨーロッパの伝統的な教育課程において哲学の学士号を取得した正統派である。ヨーロッパの一般的な若者の間では、哲学とは基本的に生活とは無関係であり、上流階級や中高年層が余暇に楽しむものと考えられているらしい。しかし意外と言うべきか、著者にとっての哲学はあくまで実際的な学問なのである。常日頃苦痛を伴うリハビリをすることを余儀なくされ、リハビリを諦めるという選択は半ば自殺と同じ意味を持つという条件の中で、彼にとって生きることは(家族の協力なしでは成り立たない)継続中の闘いであり、自閉し孤立したくなる誘惑に抗って人間に「なる」とは、常に前進し心を高めることである。当然、共感し喜びを見つけることが一番大事な仕事であり、プラトンやスピノザやニーチェは、そのために前に進むことを可能にしてくれる武器や道具を提供してくれる先人である。本書以降の著者は三児の父親になり、西洋哲学の範疇を出て(スワミ・プラジニャーンパッドによる)不二一元論や禅にも出会い、ますます思索を深めている模様である。今現在フランス語圏における気鋭の思想家と言ってよいだろう。

マヘンドラ・グプタ『大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉』

熱心に、真心こめて神に祈りなさい。そうすれば、あの御方は必ずききとどけて下さる。

十九世紀インドの聖人、ラーマクリシュナ(1836-1886)の言行録である。その教えの内容は、ヨーガの四区分(ラージャ、カルマ、バクティ、ジニャーナ)で言えば、バクティ・ヨーガに分類されると思われる。バラモン階級の生まれでありながら、イスラム教にもキリスト教にも自ら入信し、どの道も同じ目的地に到達すると喝破した、目の覚めるような先覚者であった。愛弟子のヴィヴェーカーナンダが、ヨーガ哲学の真髄を初めて欧米に伝えた事実も有名である。「熱心に求めさえすれば、誰でも神を見られる」と、ラーマクリシュナはいとも簡単そうに言う。ほとんどの人は五官の歓びを幻であると観じて捨て去ることができない。しかしラーマクリシュナは、「俗世に染まってしまえば神を見ることはできない」どころか「世間で暮らしていても神を見ることは可能」だとする。一般人に向かって「世を捨てて修行せよ」とか「この世には何の意味も価値もない」などとはまったく言っていない。絶対不動の実在(神)と、多種多様な現象世界の働き(俗世)は、天秤の重さの同じ二つの皿であり、必要なのは(神を恋い慕う)ひたむきな気持ちだけだ言うのである。ラーマクリシュナには、難しい概念を子供でも理解できる譬え話で表現する才能があり、大人は非常に理解し易い。とはいえ、聖人の言葉を無分別に取り入れるのは望ましくない—神にすがれと言うが、実際には人の情けにすがって生きていただけではないか? 聖人ならばどうして病死したのか? 精神文化はともかくとして、インド社会に具体的にどんな貢献をしたのか? もっともな批評である。だが結論を下す前に、まずは本書を一読して欲しい。あらゆる意味で、すべての宗教の本質がここに要約されている。

※上記の文庫版はベンガル語原典からの抄訳である。全五巻の完訳はラーマクリシュナ研究会による編集を経てブイツーソリューションから刊行されている。

ベッセル・ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する』

高等教育では、心理学は基礎から始めて臨床に進むという順番になっている。だが、心理学に興味を持った一般人は、長い時間をかけて基礎から積み上げるのではなく、心理学が実際どのように役に立つのかを一番先に知る必要がある。そこで手引き書を探すわけだが、あまりに選択肢が多く、なかなか困難である。精神病理学は荷が重すぎるし、かと言って、科学的な根拠が明確でないカジュアルな流行本も好ましくはない。一般人にとって心理学はやはり臨床が肝であり、具体的にどんな可能性があるのかを分かりやすく教えてくれる本が必要であろう。PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されるかどうかは別として、人は誰でも、大なり小なりトラウマを抱えて生きているものである。この本のテーマはトラウマであり、それゆえ絵空事のような学問としてではなく、自分自身や身近にいる人に引きつけて理解することができる。専門知識がない読者を想定して説明してくれるので、視床、扁桃体、前頭葉、ミラーニューロン、エピジェネティクス、脱感作といった用語を初めて聞く場合でも有用な知識を得ることができる。多くの臨床例が取り上げられるが、当然気楽に読める内容ではない。臨床心理学に進もうかどうか漠然と考えている若い人にとっては、この本を読むことが、自分に向いているか否かを判断するための格好の試金石にもなる。セルフヘルプ本ではないので、読者が自分で実践する目的には書かれておらず、あくまで臨床家の存在を前提にしているが、トラウマの治療法としては、断片化した感覚や感情を認識し、解離した経験を統合するトップダウン型の方法と、リズミカルな動きやツボのタッピングといった経路で、脳幹の警報システムを解除するボトムアップ型の方法とがあり、両方を併用することで一層効果が上がるという。もちろん投薬治療の可能性も否定されてはいない。幼少期の虐待やネグレクトが人生を大きく狂わせ、ひいては多くの社会問題の根本要因になっているという研究が示され、支援のための仕組み作りを著者は訴えている。

ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』

プラグマティズムで知られるアメリカの心理学者、ウィリアム・ジェームズ(1842-1910)の主著の一つであり、1901年と1902年に分けてエディンバラ大学で行なった講義をまとめたものである。「スピリチュアルな価値」などというものはない、あるいは分からないという前提から始めて、当然否定的な結論に至るのが、普通の科学者というものかも知れない。心霊現象を研究したことでも知られるジェームズであるから、本書でも霊的価値というものに肯定的な立場をとっている。まずテーマを「個人的宗教」、すなわち組織宗教の枠組みの中ではなく、個人が経験し得たことの中で、強烈な宗教性を放っているとしか表現しようのない事例のみに限定している。アフマド・ガザーリー、ハインリヒ・ゾイゼ、イグナチオ・デ・ロヨラ、アビラの聖テレサ、十字架の聖ヨハネ、ヤーコプ・ベーメ、ジョージ・フォックス、ホイットマン、トルストイなど、有名無名の事例が多数取り上げられ、この分野でどんな一次資料があるのかを把握することができる。「神の顕現」としか呼べないような神秘体験をしたことがある人は、そのような一般人の実例も紹介されているので、勇気づけられることになろう。宗教的経験を、生まれつき世界の善性を楽観的に信じる「一度生まれ型」と、極度の鬱や絶望の後にすべてが反転するという、死と再生の「二度生まれ型」の二つに分けた上で、二度生まれ型がより深い宗教性を持つと言う。ちょうどこの頃アメリカで花開きつつあった新思想運動(ニューソート・ムーブメント)さえも、一度生まれ型の宗教として好意的に取り上げている。また、当時は虚無主義と解釈されることの多かった仏教を、キリスト教と同等に評価している点にも感心させられる。とはいえ、神経過敏や強迫観念と聖者との関係、催眠や暗示への感受性と神秘体験の関係、自己侮蔑と犠牲的態度の関係といった、科学者としての精神病理学的な考察を加味することも怠らない。ジェームズの講義の進め方からは、二十世紀初頭で、既に学際的であったハーバード大学の校風を窺い知ることができる。欧米の一流大学への留学を目指す若い人は、このような多面的な議論ができるように、早い段階からトレーニングを積むとよいだろう。演繹的な抽象化を良しとしない、学者としての理想的態度を示してくれる本でもある。

(なお、哲学的興味が薄く、難解な本書を通読する自信がない人は、下巻の「神秘主義」の章のみを読めばそれで十分だと思う。)

夢窓疎石『夢中問答集』

仏教の入門書は数あれど、仏教の本質を捉えるのは難しいと思う。そもそも釈迦本人の説法の中には、当時のバラモン教やアージーヴィカ教の教義に反論する形で説いた相対的な教えが含まれているし、さまざまな哲学を取り込みながら発展して来たという歴史もある。苦諦(生きることは苦しみであるという考え)を根本とするのかと言えば、現世を完全否定するわけでもない。足利直義の質問に、臨済宗の高僧である夢窓疎石(1275-1351)が答えるという形式で書かれているこの本の内容を一言で要約すれば、坐禅とその工夫用心に猪突猛進すべし、ということになろうか。ただし、禅の入門書ではない(教外別伝)。三十一歳で印可を受けてから、悟りの伝達を求めて押し寄せる修行僧たちを避けるために各地を転々としつつ大悟徹底に努め、指導的立場に転じたのは五十歳を過ぎてからと伝えられるから、並大抵の心根ではないだろう。足利直義もまた頭の良い人で、一般人が疑問に思いそうなことを虱潰しに質問しているので、夢窓疎石の答えも包括的な内容になっている。直義の素朴な問い掛けに、「なるほど私も若い頃、同じように考えたことがあった」とその考えの妥当性を認めた上で、「しかし実は、こういうことだ」と続け、分かり易い実例を挙げる。仏法はこうなんだからとにかく信じなさい、とは決して言わないのである。本分の田地、離欲、理入と行入、魔境、菩提心などの重要な概念に、明快かつ徹底的な説明がなされ、レトリックによるごまかしがない。ニューエイジのようにも、ネオ・アドヴァイタのようにも読めてしまうところに、時代を超越する覚者の凄みを感じる。さらっと読むのではなく、よく考えながら読まなければ、仏教のエッセンスを汲むことは難しい。だが、努力するだけの価値はある。

アウグスティヌス『告白』

ローマ帝政期のタガステ(現アルジェリア)の生まれで、ヒッポ・レギウス(現チュニジア)の司教になったアウグスティヌス(354-430)が、自身の半生を告白するという内容である。神の前で告白すると同時に、人に読んでもらうためにも書いているという、二重の構造になっており、後の時代の「告白文学」とは若干性質を異にしている。若き日のアウグスティヌスは、(当時のアフリカ的気質を思えば奔放とまでは言えないものの)情熱的な青春、マニ教や星占いへの傾倒、親友との死別など、さまざまな経験を積んで行く。どうすれば立身出世できるだろうか、結婚はどうしたらよいのかといったことで、普通に思い悩みながらも、類い稀な知性に恵まれていたために、ミラノで今で言う国立大学教授のような要職に就くことに成功する。しかし、「真実」への渇きは尋常ではなかった。スピリチュアルな「探究者」が誰でも通り抜けるであろう典型が、そこには見出せる。彼は自分自身に問いかける。そこには、生きている限りいつかは問わざるを得なくなるすべての問い—自分はどこから来たのか、どう生きればよいのか、何のために生きるのか、神とは、そして悪とは何か—が含まれている。結局、生きているという事実と何の関わりもない哲学に、何の意味があろうか。それから、かの有名な目覚めが起こり・・・単に罰を恐れるがゆえに品行方正な人と、非行も含めて、ありとあらゆることをやり尽くした後に改心(キリスト教の文脈では回心)した人とでは、理解の深さが全然違うのは、いつの時代も共通なことかも知れない。アウグスティヌスが、神の光—それは比喩であって可視光線のことではないと彼は書いている—を、理知的な次元ではなく、「体験した」あるいは「見た」ことは確実である。今やさまざまな資料を比較検討することが可能な私たちは、それは例えば、禅で言うところの「一瞥」や「見性」と本質的に同じであったことを、容易に読み取ることさえできる。この本には、自らの魂と対話しながら読み進める(もともとの意図はこれである)のと、字面通りに受け取るのと、二通りの読み方がある。事実、カール大帝の時代には、アウグスティヌスの著作は「法律的」に解釈されたらしい。キリスト教の前提知識は必要ない(むしろない方がよい)ので、ぜひ心で読んで欲しい。この本を読めば立派な哲学者になれるとは思わない。しかし、西洋文化を本気で理解したいと思ったら、一番最初に精読すべきと言い得るほどの名著である。

企画書「精神世界ガイド」

要点

スピリチュアル版ミシュランガイドの創設を企画します。混迷を極める現代の情報社会では、興味本位の範疇を越えて、本格的に人生の指針を得ようとスピリチュアリティの門を叩いても、これほどたくさんの選択肢があると、本当に自分に合った道を見つけることは難しいのではないでしょうか。初心者が、最初から最良の情報に辿り着くことは稀です。「生徒の準備が出来たとき、教師が現れる」というのは一種の神話であって、現実には、たまたま声高に宣伝していた教師や団体に成り行きで関わって行き、それが実は、自分が本当に求めていた道とは違っていたことに気づくまでに、何十年と労力やお金を無駄にしてしまう人が多いのではないでしょうか。 詐欺まがい、カルトまがいの教師や団体に関わってしまうと、経済的な被害を受けるだけならまだマシで、最悪のケースでは、「人生を奪われた」と言えるほどの悪影響が及びます。質が高く、信頼の置ける教師や団体を紹介する誠実なガイドブックが、是非とも必要な現状ではないでしょうか。そのガイドブックには、博物趣味的にいろいろな情報をただ収集したのではなく、そこから抽出したスピリチュアリティのエッセンスが、端的に明示されているべきではないでしょうか。この企画は本として出版するのが適当でしょうが、予算次第では、インターネット上のみでの公開という選択肢もあります。もちろん、企画者は非営利目的の第三者審査機関に徹することが理想です。

幸せとは

あらゆる種類のスピリチュアリティが一つの目的に集約するとしたら、それは「幸せでいる」ことに尽きるのではないでしょうか。スピリチュアリティ以前の幸せの基本条件として、まず、健康・愛情・(最低限の)経済の三つが満たされることが挙げられます。政治的、宗教的な服従を強制される環境の中で、集団催眠にかけられ、自由と幸福を得ていると思い込まされている状態とは区別され、それは内側から沸き上がる喜びや輝きがあるかないかで判断できます。スピリチュアリティは、それによって(誘導的、強制的に)健康・愛情・経済が脅かされたり、損なわれるものであってはいけないと考えます。その上で、スピリチュアリティでは、幸せには二つの方向性があるとされています。一つは、自己実現方向で、人間社会の繁栄のために何か貢献しようとする積極的態度の中に見出されます。もう一つは、自己消滅方向で、何かを成し遂げようと意志する主体そのものが脱落する過程の中に見出されます。しかし、すべての人が超能力者となり、欲しいものを何でも手に入れること、あるいは、すべての人が世捨て人となり、悟りが開けることが、スピリチュアリティの目的であるとは思いません。このプロジェクトでは、一つの仮定として、本当の幸せはどちらか一方ではなく、美徳とも言うべき両者のバランスにあるという立場を採ります。

先行する企画

先行する類似の企画に、別冊宝島さんの『精神世界マップ』、平河出版社さんの『精神世界の本』、荒俣宏さんの『世界神秘学事典』、ブッククラブ回さんの『スピリチュアルデータブック2007』などがあります。ただ、古典的名著を紹介するという形式だと、スピリチュアリティが単なる知的な探究であるという印象を強めてしまう虞があります。最も参考になる企画は、フランスの出版社 Almora による Guide Almora de la spiritualité で(最新版は2013年刊)、これは古典を掘り起こすことではなく、実践されることに主眼を置き、実地の調査をも含めて検証された、現代フランスの生きたスピリチュアリティの総目録になっています。

なお、日本の宗教法人に関する一次資料としては、文化庁が毎年発行している『宗教年鑑』があります。

評価方法

当該の教師・団体が発行する著作やインターネット上の公式サイトなどに一通り目を通します。その上で、もし予算が許せば、抜き打ち的にイベントやセミナーに参加し、詐欺まがい、カルトまがいの言動がないかどうかをチェックします。完璧な教師はいないのですから、審査上やむを得ない場合を除いては、試したり悪意のある質問をしたりといった挑戦的な行為は慎まなければなりません。大きな団体については、過去に名称を変えたり、裁判沙汰になったりしたことがあるかどうかもチェックします。明瞭な評価基準を設け、掲載するべきかどうかを総合的に判断します。評価するに当たっては、一般常識に加えて、宗教全般についての基礎的理解や、カルトの原理、サイコパスの心理についての基本的知識が必須になります。

評価基準

  • 内容。人の悩み苦しみを徹底的に洞察し、解決のための実際方法を明確に提示できているかどうかをチェックします。さらに、当該の教師自身が、人にインスピレーションを与えるような素晴らしい生き方を、実際にしているかどうかをチェックします。
  • 料金。今の日本には、精神世界・スピリチュアル業界の適正価格の相場がありません。そのため、心に悩みを抱える人たちに付け込む心理的商売が、野放しになっている状態です。当該の教師・団体が提供するサービスの対価が、一般常識に照らして法外な金額になっていないかどうかをチェックします。また、 当該の教師・団体の活動の根幹が、家元制度・上納金制度・資格商法・マルチ商法・ねずみ講の上に成り立っていないかをチェックします。政府が規制をかけざるを得ない事態になる前に、民間が率先して自浄能力を示して行きましょう。
  • 歴史。一般的に、長く続いているものほど信頼性が高いと言えます。ただし、伝統的な正統派だからと言って、盲目的に高く評価するようであってはいけません。
  • 成果。当該の教師や団体に関わりを持った人たちが、実際に変化し、幸せになっているかどうかをチェックします。
  • 知行合一(言行一致)の原則。美しい理想が語られるのみで、現実の行動を伴わない教えは虚しいものです。言葉と行為との間に、著しい矛盾が見られる教師や団体を、高く評価してはいけません。
  • 公平性の確保。執筆者・編集者が信奉する教義が、やたらと高く評価されないように、可能な限りダブルチェック、トリプルチェックを徹底する必要があります。執筆者・編集者の知り合いが、不適切に高く評価されないように配慮しなければなりません。また、このプロジェクト自体が、企画者の売名行為にならないように、配慮しなければなりません。

対象範囲

全世界を網羅することは現実的ではないので、日本国内で活動している教師、または日本に活動拠点を持っている団体に限定します。少なくとも二十年以上は安定した活動を続けており、なおかつ際立った成果を上げている教師や団体を中心に取り上げることが望まれます。いかに優れているように見えても、活動開始から十年も経っていないような教師や団体を、安易に取り上げるべきではありません。

  • 伝統宗教。仏教、神道、キリスト教、ヒンドゥー教(ヨガ哲学)、イスラム教、ユダヤ教、先住民文化(シャーマニズム)など。何千年もの伝統は、それだけ多くの検証に耐えて来たと考えられるので、王道だと思います。
  • 神秘主義思想。歴史的に見て、神秘主義はスピリチュアリティの最大の源泉とも言えますが、神秘のヴェールは最大の煙幕にもなり得ます。おとぎ話のようで現実味のない団体には、疑問を呈するべきです。
  • 心理学・心理療法・脳科学。精神の健康は誰にとっても重要ですし、そこが入り口になる人たちも多くいると思います。
  • ヒーリング。医学的検証に耐え、スピリチュアリティに連なるものであれば、取り上げるべきです。
  • 自己啓発。ビジネスの成功哲学にも、スピリチュアリティに繋がって行くものがあります。
  • 新興宗教。敬遠されがちな分野ですが、もし卓越した教義を持ち、運営方法も穏当であるなら、取り上げるべきです。
  • 超能力者・霊能者。科学的検証にオープンであり、なおかつ著しい社会的(影響力ではなく)貢献があるなら、取り上げるべきです。
  • 霊媒(チャネリング)。チャネリングによる伝達は、一般的に信憑性が低いと考えられますが、年月を経て情報の有効性が証明されているなら、取り上げるべきです。
  • 文学・哲学。実践するという点では疑問の余地があるものの、純粋な文学・哲学の中にも目を見張る内容のものがあります。
  • 芸術家・音楽家。美しさはスピリチュアリティに繋がります。
  • 武術。伝統的な武術にはスピリチュアリティが内包されている場合が多いので、取り上げるべきです。
  • エコロジー。先住民文化と共鳴する環境哲学の中には、優れたものがあります。

対象外とするべき範囲

非常識で無責任な教師や団体は、取り上げるべきではありません。トラブルを回避するために、敢えて悪評を掲載するよりも、評価できない教師・団体は最初から掲載しないという方針を採ります。 評価できると判断した場合でも、(取材とは違うので、掲載許可を貰う必要はないとは思いますが、)メディアへの露出を望まない教師や団体を、一方的に掲載するべきではありません。また、次のような特徴を持つ教師・団体は、そもそもスピリチュアリティとは何の関係もないため、対象範囲外とします。

  • 過激な教師や団体。宇宙には善悪も意味もないので何をやっても構わないとする教え、幻覚剤を用いる実験、黒魔術、悪魔崇拝、常軌を逸した儀式や修行を伴う超越思想など。
  • 霊的伝統の枠組みを悪用し、明らかに金銭やマインドコントロールを主目的としている教師や団体。
  • 社会不適応的な傾向を持つ人に、まやかしの希望を与えて依存させることで成り立っている教師や団体。
  • 理屈がどうであれ、信者に家族を捨てることを奨励する教師や団体。
  • 脱退しようとする人に対して、恫喝や脅迫をする教師や団体。
  • 諸悪の根源は政治経済システムにあるなどとし、反体制的な言動が目立つ教師や団体。
  • 自らが一番優れていると主張し、他を悪しざまにけなす教師や団体。
  • まったくのデタラメではないものの、明らかに大袈裟な「奇跡」「究極」「世界初」「革命」「何もかも上手く行く」などの表現を用いたり、明らかに話を盛っている体験談や有名人の推薦文を持ち出したりして、誠意を欠いた宣伝広告を行う教師や団体。
  • 性的な関係が入り乱れている教師や団体。
  • 本名や都合の悪い過去の経歴を隠そうとする教師。
  • 悪意はないものの、(エゴは実在しないので)自分には責任がないという哲学のもと、気まぐれな言動で人を惑わす教師。
  • 自らを過信し、絶対に間違いを認めようとせず、人に頭を下げることを知らない教師。
  • 「信じる信じないはあなた次第」という、結果が検証されることを最初から視野に入れていない、その場限りの占いや人生相談。
  • 一般に存在を公表していない秘密結社や、一般に公開してはいるものの、上級者サークルに入るにはイニシエーションを受ける決まりになっている、秘密めいた団体。
  • フランスの1995年の報告書でセクト指定されている団体とその関連。

改訂について

一度は信頼が置けると判断した団体が、主催者が変わった途端に豹変することもあるため、数年に一度は全面改訂する必要があります。言うまでもなく、権威主義に陥り、賄賂を貰って掲載するなどという暴挙に出てはなりません。万が一、高く評価していた教師や団体が、社会的な問題を引き起こした場合には、心ならずも片棒を担いでしまったことを謝罪し、責任を取るのが当然です。(それだけ審査を慎重に行わなければならないということです。)

協賛者募集

ご報告:募集は締め切りました。

Pain

How are you doing, my friends? This time, I’m going to talk about pain. A heavy one, isn’t it?

Every creature seems to have pain from time to time and eventually dies. If the Creator existed in the first place, why did He or She create this mechanism of life and death? What purpose does pain serve? This is not only a philosophic question but also an empirical question.

Pain is ingrained in biology. As the most primitive form of biology, let’s take a microbe for example. A microbe has to eat to sustain its life. Hunger is a kind of pain, isn’t it? I suppose so. Hunger is painful and eating is pleasurable, right? Hunger motivates a microbe to move and find something to eat. So let’s say that pain creates movement. If pain doesn’t exist, everything will come to a halt. I think this is a fundamental understanding of pain.

Furthermore, as human beings, we have a subtler form of pain: boredom. When we are bored, we are motivated to know something, get emotional or intellectual stimulation. So eventually, we created highly charged civilizations.

We could say that most of us don’t like pain. We don’t like to suffer. So some scientists may look into eliminating pain from our DNA. If this attempt succeeded, what would happen next? We would get bored to death.

Some people think that there are only pleasure and pain in this world. An unhappy but realistic idea. The dynamic between pleasure and pain creates a sense of power in human society. We feel a sense of power when we get excited, right? In fact, some people get excited from pain. Some people use chemicals to get excited. Esoterically this is all about the first three chakras. We all have the animal nature or the survival instinct in a sense. Historically, we have been obsessed with the relation between master and servant for a very long time.

In this pitiful worldview, there’s no room for love, of course. Without any trace of unconditional love, we don’t think there is more than pleasure and pain, indeed. Concepts of the divine are bullshit for those who don’t know love. I don’t blame them. It is a difficult situation because love isn’t explainable in word.

Quite naturally, the lack of love leads to meaninglessness, psychological suffering and depression. Are we hopeless? Yes and no. This may sound ridiculous for some people, but I think that charity is very important. Beyond hypocrisy, the act of giving brings us back to our true nature that is love. Charity is a gradual process. We can practice giving and also receiving in families and relationships. So simple and obvious, yes?

OK, that’s all for today. Thank you for listening.

What Do You Want?

Hi guys. What’s up? This time, I’m going to talk about what we want in life. Again, let’s not make it a philosophic question. You desire something, right? That’s what you want in life. Whether desire is good or bad, that’s a philosophic question. But I don’t go there.

Many people talk about how to attract what we desire. Indeed, if it’s possible, we all want to know how. The key seems to be imagination. I don’t assure you that imagination brings you what you want materially. Instead, I can assure you that imagination creates specific feelings in you. First off, let’s imagine that you already have what you want, whatever it is. Imagine with passion, feel it, and then drop all the conditions around this feeling. Do this over and over again. Then you can feel the feeling itself without any conditions, at ease. Very simple, right? This method would help a lot.

Maybe rich people can have it all materially. They can live in the best villas in the world, they can eat the best foods in the world, they can wear the best clothes in the world, they can have the best prostitutes in the world, they can take the best drugs in the world and get high all the time, but in most cases, still they don’t feel happy. They are satisfied AND unhappy.

When you can’t get what you want, you are unsatisfied, right? But don’t confuse satisfaction with happiness. You can be unsatisfied AND happy, because it is possible to feel happy immediately with the help of imagination. That’s what it is! If you are completely satisfied, you won’t get out of bed, meaning you’re dead. Desire is simply a metabolic function of human mind.

We have a choice to make. For example, I would think like this: I haven’t dated anyone, but I want someone, so I’m unhappy. Careful, this is a thinking process, not THE fact, right? On the contrary, I can say, I am happy because I haven’t dated anyone, as if the current situations were what I really wanted. Then I can think of merits of the circumstance, such as that no one tells me what I should do, I am free, I can spend all the time and money only for myself, et cetera, et cetera. A quick turn of thinking mind. Even if you have never had a girlfriend or a boyfriend, yes, you can be happy anyways. Even if no one appreciates your work, yes, you can be happy anyways.

I don’t talk about renunciation here. If you have many lovers and problems with that, so be it, you can be happy anyways. If you have plenty of money and problems with that, so be it, you can be happy anyways. You can start with the status quo. Is this difficult? No way! This is not a crazy idea but a solid way to relax and start enjoying life. In fact, if you want to be happy right away, this would be the easiest way, except when you are in physical pain.

You don’t have to agree with me, but please reflect on this idea. All right? That’s it for now. Thank you for listening.

Are You Happy?

Hi guys, nice to see you. My name, you can’t pronounce it. Call me Menet if you will. I am Japanese. I’m not a native speaker of English, so please be generous in my errors. In fact, I don’t speak English. In this program, I write a script and then read it. I’m not a teacher, nor a scholar, nor a healer. I’m not married. I don’t have children. And I don’t work at all. I am nothing, in your view perhaps. So please don’t follow me, but just reflect on the contents of this program, so that they will nourish you. All right?

This program is concerned with happiness, your personal happiness. I don’t talk about impersonal awakening, and I never will. To be honest, I don’t understand anything about Non-duality teachings or creating reality teachings.

Are you happy? Let’s not make it a philosophic question here. We all know how happiness feels like, don’t we? Happiness is not a concept but a feeling, right? If you’re unhappy, all the philosophical pursuits are but a failure. We all know that. Spiritual teachers say they finished searching. They mean they ended the search for Truth, because they found it, probably. Very metaphysical indeed. But I would say, we will end the search for happiness when we are actually happy, when we no longer have to imagine feeling happy. After all, in spirituality nothing matters except whether of not you are truly happy.

But how de we get there? In this first episode, I propose three methods. These are the basis of what I will talk about in the future.

One. You decide to feel happy first thing in the morning. You say like this: “I decide to feel happy no matter what.” You make the decision, that’s all. Very simple, right?

Two. This is a fundamental method which dates back thousands of years. I call this method “nurturing heat”. First, think about what you love to do the most. Playing baseball, eating candies, going shopping, talking with your friends, dating with your partner, anything will do. You feel passionate, right? Some people call it Shakti or Kundalini. I simply call it heat. Please find this heat, right now. Don’t worry, everyone can do it. Second, separate all the situations that provoke this passion, the heat in you from the heat itself, and feel only the heat inside you. Without any conditions, you can concentrate on the heat itself, right? Third, make the heat growing and growing, everyday. Each day, it feels as if the heat were stronger than the day before, more and more. That’s what I mean by “nurturing heat”, OK? If it’s easier for you, picture in your mind a fire altar and a flame, not necessarily in your body, but inside. I don’t say intensify the image of this altar. This is not an exercise for the so-called visualization. I say nurture your feeling.

Three. This is rather supplementary. Close your eyes and imagine a space where nothing exists, as if even you didn’t exist. Be vacant or dumbfounded for about 30 seconds, 2 minutes at the most, once a day.

You would think these methods have nothing to do with happiness, but they sure do from my perspective. If you need a sort of textbook somewhat corresponding to this program, I would recommend The Teachings of Tempu by H. E. Davey, although I don’t intend to disseminate the Japanese culture. That’s it for now. Don’t hesitate to contact me by email! Thank you for listening.