努力することの大切さというのは、スピリチュアリティでも同じことが言えると思います。しかし、努力の矛先を間違えると詰まらない結果に終わってしまいます。体操の初心者がいきなり一番難しい技をやろうとして、死ぬ気で練習しても出来るようにはならないのではないでしょうか。基礎から一歩一歩積み上げて行く必要があるかと思います。瞑想をやるにしても、目をつぶって心を静める練習に始まって、次は体をリラックスさせる練習、それが出来たらヒプナゴジアと呼ばれる体は眠っていて心は目覚めている状態に止まる練習、それが出来たら今度は体の自発的な呼吸のリズムに統一する練習というように、一つ一つの段階に分けて理解する方が確実です。いきなりやれと言われて出来る人はほとんどいないのではないでしょうか。その瞑想も自分の実相が体ではないことを悟り切るための準備体操であって、その悟りも最終的に本心そのものを生きるための準備体操です。見当外れな努力だったらしない方がマシという訳で、指導者はその人その人の段階に合った手順を指し示せなければいけません。かと言って、段階を踏んで瞑想の道を進まなければいけないという決まりもないんですが、その人に合った契機というものがあることは確かです。教えであれ方法であれ、自分に合ったものにどうしたら出会えるのかと言ったら、結局、自分が人生で何を達成したいのかという意図がどこまで純粋であるかに懸かっていると思います。人によっては避けられない事情で遠回りする場合もありますが、そんなことは大した問題ではありません。